宗助の隣で、桜は見世の入口を見つめていた。
 宗助はそっと桜の横顔を見る。
 八つになった桜は背丈や髪が伸び、可憐な少女へと成長していた。
(ますます紫苑に似てきたな……)
 宗助がそんなことを考えていると、桜が静かに宗助を見上げた。

「どうした? 桜」
 宗助は桜の横にしゃがみ込むと桜の口元に耳を寄せた。

 桜はひとりの客に視線を向ける。
「あの人……たぶん病気。顔色が悪いし、さっき変な咳もしてた」
 桜の言葉に、宗助は目を丸くした。
「……え?」
「見世に上げるの? 初めての人でしょ? 上げるにしても今日だけで切った方がいいと思う。それからあっちの人は……」
 客を見ながら淡々と話す桜を、宗助は呆然と見つめた。

「ねぇ、聞いてるの?」
 桜は眉を寄せて、宗助を見た。

「え、あ……そうだな……。あの客、今日は顔合わせだけだから、様子を見て病気だとはっきりすれば切ることにするよ……」

「ありがとう。それで、あっちの人は良い着物は着てるけど、お金がなさそう。草履はボロボロだし、肌に艶がないからあまり十分な食事がとれていないのかも……。悪い人ではなさそうだけど、無理はさせない方がいいと思う。それから……」
「ちょ、ちょっと待て、桜」
 宗助は思わず桜の言葉を遮った。
「何?」
 桜は不思議そうに首を傾げた。

「何……じゃない。おまえ……急にどうした?」
 宗助は桜の両肩に手を置くと、桜を正面から見つめた。

「急にじゃないよ。ずっと見てきたんだから……」
 桜は不満げな顔で言った。
「確かに見てはいたが……」
 宗助は桜を見つめる。

 霞が亡くなってから、桜は見世が始まるとずっと入口の近くに立ち、入ってくる客を出迎えるようになった。
 一人ひとりの客に笑顔で挨拶をしていたため、遊女の真似事をするのが楽しいのかと宗助は微笑ましく見ていたが、桜の考えは宗助が思っていたものとまったく違うようだった。

(何のために出迎えをしているのか聞いたことはなかったが、ずっと客を一人ずつ観察していたのか……)
 宗助は信じられない想いで桜を見つめた。
(まだ八つだっていうのに……)

 宗助がずっと見つめていると、桜は少しだけ目を伏せた。
「できる限りのことはしたいんだ……」
「え?」
「病気になった人は、私には助けられないけど……、病気にならないように手を打つことはできると思うから……」

 桜の言葉に、宗助は目を見開いた。
(こんな幼い子が、自分のできることを必死でやろうとしているのに……、俺は……)
 宗助は思わず顔を伏せた。


「それに、私ももうすぐ禿になるから、いろいろ勉強しないと……」
 桜の言葉に、宗助は弾かれたように顔を上げる。
「え!?」
 宗助の驚いた顔に、今度は桜が目を丸くする。
「え? なんでそんなに驚くの……? そろそろ禿として見世で働き始める頃でしょ?」
 宗助は慌てて首を横に振る。
「いやいやいや、おまえは売られてきたわけじゃないんだから、見世で働く必要はないんだ。おまえはここで暮らしているが、自由に生きていいんだよ」

「え!?」
 桜は目を丸くする。
「いや、いくら拾われたといっても見世で働くのが普通なんでしょ? 姐さんたちもみんな私が遊女になると思っているし……」

「楼主に拾われた人間なんてほとんどいないんだから、決まりはないさ。それに、おまえが自由に生きられると知れば、むしろ遊女たちは喜ぶはずだから……」

 宗助の言葉に、桜はしばらく戸惑っていたが、やがて何を思ったのか少しだけ笑った。
「それでも、私は遊女になるよ」
「なんでだ!? おまえはここしか知らないから、遊女になるしかないと思っているだけだ。もっと外の世界を知って、もっと自由に生きていいんだ」
 宗助は桜の両肩を揺する勢いで、両手に力を込めた。

 宗助の必死な顔に、桜は眉をひそめる。
「どうして、そんなに自由にこだわるの……? 自由って言葉で縛ろうとしているのは楼主様でしょ? 私がなんて言えば満足なの?」
 桜はじっと宗助を見つめた。
「そ、それは……」
 宗助は言葉を詰まらせた。

「外のことはみんなから教えてもらって知っているから大丈夫。私は自由に選んだ上で遊女になりたいの!」

「…………どうして遊女なんだ?」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。
 遊女が決してラクな仕事ではないことは、そばで見ている桜が一番わかっているはずだった。

 宗助の言葉に桜は微笑む。
「ここを守りたいから。みんなが笑っていられるように、私は力を手に入れるの」
 宗助は目を見開いた。
「力……?」
「そう、私は人気者になるの。売れっ妓だっけ? 私は吉原一の遊女になるの。ここでの力ってそういうことでしょ? 姐さんたちが嫌な客や病気の客を切っても問題にならないくらい、私が吉原一稼げばいい。この見世は私が守るから、みんなは安心して幸せになればいい」
 桜はそう言うと胸を張った。


『この家は私が守るから。幸せになれ、宗助』
 宗助の頭の中で懐かしい声が響く。
 目の前の桜とあの日の紫苑がゆっくりと重なっていく。

 宗助の見開いた目に涙が溢れた。
「え!? 何!? ど、どうしたの……?」
 宗助の涙を見て、桜が慌てて聞いた。

 宗助は桜の肩から手を離し、片手で顔を覆った。
 宗助はうなだれると、そっと息を吐く。
「血って怖いな……」
 宗助の呟きは小さく、桜の耳には届かなかった。

「え? ……何? なんて言ったの?」
 桜が宗助の口元に耳を寄せる。

 宗助は急いで涙を拭うと、顔を上げて桜を見た。
「いや……、なんでもない……。ありがとう、桜。……俺ももっとしっかりしないとな」
「ああ、それは確かにね!」
 桜はうんうんと何度も頷いた。
 宗助は苦笑する。
(俺は……八つの子どもに頼りないと思われているのか……)


「あ、そうだ……。禿になるなら、桜も源氏名がいるな……」
 宗助は桜を見つめた。
 出生が出生だけに、桜の名でそのまま見世に出ることはできれば避けたかった。

「『咲耶』にでもするか」
「『咲耶』?」
 桜はなぜか少し嫌そうな顔をした。
「ああ、桜の語源になった美しい女神の名前だよ。『木花咲耶姫(このはなさくやひめ)』の『咲耶』」
「あ……うん。知ってはいるけど……」
「嫌か? 元の名前に近いから呼ばれても違和感がないだろうし、見世を守る女神って感じでいいと思ったんだが……」
 宗助は少し残念そうな顔をした。

「ああ……」
 桜は何か考えているようだったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……わかった」
「じゃあ、これからは咲耶と呼ぶようにするよ。みんなにもそう伝えておいてくれ」
「あ、……うん」
 桜はどこか暗い表情で頷いた。

 桜は名前が『桜』ということもあり、遊女たちに教えられてその神話を知っていた。
 それに対して、宗助は『咲耶』について桜の語源の女神ということしか知らなかった。

「はぁ、なんでそんな縁起の悪い名前に……」
 咲耶は宗助に気づかれないように、こっそりと小さなため息をついた。