桜が玉屋に来てから五年が経った。
遊女たちに愛され、桜はすっかり玉屋に溶け込んでいた。
十にも満たない子どもが売られてくる吉原で、年の近い者も少しずつ増え、桜もあと二、三年すれば禿になるのだろうと多くの遊女は思っていた。
「桜は本当に可愛いから、絶対太夫になるわね」
遊女は長机で朝ご飯を食べながら、横に座る桜を見た。
「たゆう……?」
桜は首を傾げる。
「見世の売れっ妓……一番の人気者ってことよ!」
「人気者……」
桜は遊女を見つめる。
「人気者に……なった方がいいの?」
「え……」
遊女は言葉を詰まらせた。
「えっと……人気者になった方が幸せになれると思うから……そうね……」
桜は目を丸くする。
「人気者になったら幸せになれるの?」
桜の目は輝いていた。
「え? え……っと……」
遊女は助けを求めるように、向かい側でご飯を食べていた遊女を見つめた。
「ねぇ……、その方が幸せ……よね?」
「え!?」
向かい側に座りぼんやりと二人の会話を聞いていた遊女は、突然話しを振られ困惑した表情を浮かべた。
桜のキラキラした目が、向かい側の遊女に向けられる。
「う…………。えっと……そうね。嫌な客は断れるようになるし、自由がきくっていう意味では……幸せ……かな」
「そうだったんだ……」
桜は納得したように何度も頷いた。
「じゃあ、私がみんなを人気者にしてあげる!」
桜は眩しいほどの笑顔で言った。
「うん??」
遊女たちは顔を見合わせた。
「どういうこと?」
「私がみんなを人気者にしたら、みんな幸せになれるんでしょう? だから、私が人気者にしてあげる!」
桜は真っすぐな目で遊女を見つめると、嬉しそうに笑った。
遊女たちは目を見開く。
「桜……」
遊女の目に涙が浮かんだ。
「私たちはね……あんたがいてくれるだけで十分幸せなんだよ。だから、あんたが人気者になって、幸せになってくれたら、それでいいんだ」
遊女が微笑むと溢れた涙が頬を伝う。
桜はよくわからないという表情で、首を傾げた。
「何の話?」
後ろから聞こえた声に、桜は振り返った。
「あ、霞姐さん」
桜の声に、隣の遊女も涙を拭って振り返る。
「ああ、霞姐さん! いいところに! 桜が嬉しいこと言ってくれてさ……って、姐さんなんか顔色……悪くない?」
後ろに立っていた霞は、土気色の顔をしていた。
「大丈夫なの……?」
霞は困ったように微笑んだ。
「まぁ、よくはないけど……休むほどではないし……。まだ働けるわよ……」
遊女たちは顔を見合わせる。
「無理しないでね」
桜も心配そうな顔で、霞を見つめていた。
「ありがとう……。それより……」
霞はそう言いかけたが、こみ上げるものを堪えるように口元に手を当ててうずくまった。
「霞姐さん!?」
隣にいた遊女が思わず立ち上がる。
霞は背中を丸めて、激しく咳き込んだ。
呼吸さえうまくできていないその様子に、遊女は慌てて背中をさする。
「霞姐さん!? 大丈夫!?」
遊女の声が聞こえているのかどうかもわからないほど、霞は咳き込み続けていた。
ようやく咳が落ち着き、霞はゆっくりと口元から手を離した。
その瞬間、霞は目を見開く。
手のひらは血で真っ赤に染まっていた。
「!? 姐さん……!」
背中をさすっていた遊女は目を見開き、弾かれたように顔を上げた。
「霞姐さん、大丈夫なの……?」
霞の手元までは見えていなかった桜は、立ち上がり霞の背中をさすろうと手を伸ばす。
桜の動きに気づいた霞は、慌てて口元を手で覆うと、振り返らずに口を開いた。
「ダ、ダメ……!」
桜は伸ばしていた手を止めた。
「どうして……?」
桜は悲しげな顔で言った。
霞は桜から距離を取るため這うように移動し、少し離れたところでよろけながら立ち上がった。
悲しそうな桜を見て、霞は手で口元を覆ったまま小さく微笑んだ。
「今……私……ちょっと汚れてるからさ……。ごめんね……、桜」
霞はそれだけ言うと、三人に背中を向けた。
「私……このまま行燈部屋に入る……。絶対誰にも移したくないから……。楼主様にこのこと伝えてくれる? それで、誰も部屋に近づけないで……」
霞は少しだけ遊女の方を振り返って言った。
「姐さん……」
遊女たちの目に涙が浮かぶ。
霞は遊女たちを見て少しだけ微笑むと、そのまま振り返ることなく去っていった。
「ねぇ……、霞姐さんどうしたの……?」
桜は遊女を見上げた。
二人の遊女は思わず目を伏せる。
二人は最後まで何も答えることができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
霞が行燈部屋に入ってから七日が過ぎた。
桜は、ほかの遊女たちが寝静まるのを待って、部屋を抜け出し行燈部屋の前にやってきた。
遊女たちも宗助も、桜が行燈部屋に近づくことを許さなかったため、桜は気づかれないように来るしかなかった。
桜は行燈部屋の戸を軽く叩く。
「霞姐さん……、起きてる? ……大丈夫?」
桜は声を掛けると、静かに返事を待った。
行燈部屋からは物音ひとつしなかった。
「霞姐さん……、起きてる? ねぇ、入っていい?」
桜はそう言うと戸に手を掛けた。
「ダ、ダメ……!!」
行燈部屋の中からかすれた声とともに、バタバタと走る音が聞こえた。
戸が開かないように、霞が行燈部屋の中から戸を押さえたのがわかった。
「どうして……?」
桜は戸に額をつけてうなだれた。
「私……病気なの……。聞いたでしょ? 移る病だからあんたは近づいちゃダメなのよ」
「どうして……? 病気は移ったってお医者様が治してくれるんでしょ? ちょっと苦しいくらい大丈夫。霞姐さんのそばにいる」
扉の向こうで、霞が息を飲む。
「そうね……。治るかもしれないわね……。でもね……、私が嫌なのよ……。桜には少しも苦しんでほしくないの……」
霞の声は涙でかすれていた。
「霞姐さん……、泣いてるの? ひとりで寂しいの?」
桜の言葉に、霞は少しだけ笑った。
「私はね……、あんたが見世に来てから、一度だって……寂しかったことはないのよ。あんたはね……私の光なんだ……」
「光……?」
「あんたが初めて笑った日……、初めて立った日、ひとりで歩いた日……初めて名前を呼んでくれた日……。全部覚えてる……。全部が……キラキラ輝いてるの……。嫌な客が来た日も、この仕事で桜に美味しいものを食べさせてあげられると思えば……何もツラくなかった……。あんたが来た日から、私はずっと幸せよ……!」
霞は言葉を切ると、激しく咳き込んだ。
「霞姐さん……!」
「だ、大丈夫よ……。誰からも愛されなくても、みんなから忘れられても……、愛せたから……! あんたの成長する姿が……見られないことは少し……心残りだけど……。それは、欲張り過ぎだからね……」
「……どうして見られないの? ねぇ……、霞姐さん……」
桜はそう言うと戸に手を掛けた。
「桜!?」
そのとき、桜の後ろで宗助の声が響く。
「おまえ……ここで何してるんだ……!」
宗助は桜の手を掴んだ。
「ここには来ちゃダメだと言っただろう? 部屋に戻りなさい……」
桜は宗助を見上げた。
「でも! 霞姐さんが! ……ねぇ、姐さんはお医者様が治してくれるんでしょ? 早く治してもらって! 霞姐さん苦しそうなの!」
宗助は目を見張った後、苦しげに目を伏せた。
「そう……だな……」
「ねぇ、早くして! 霞姐さん、泣いてるの!」
桜は宗助の着物を引っ張った。
「桜……」
宗助は言葉を詰まらせた。
「……桜」
扉の向こうから、霞の声が響く。
「私はね、悲しくて泣いたんじゃないのよ……。桜が来てくれて……嬉しくて泣いたの……。早く元気になれるように頑張るから……。もう部屋に戻りな」
霞の声は優しく包み込むように温かだった。
「霞姐さん……」
桜はそっと戸に触れる。
「楼主様……、後のこと……頼みます」
霞は震える声でそれだけ口にした。
宗助は唇を噛んだ後、ゆっくりと口を動かした。
「ああ……、わかった」
桜は宗助に連れられて部屋に戻った。
その七日後、霞は行燈部屋で静かに息を引き取った。
遊女たちに愛され、桜はすっかり玉屋に溶け込んでいた。
十にも満たない子どもが売られてくる吉原で、年の近い者も少しずつ増え、桜もあと二、三年すれば禿になるのだろうと多くの遊女は思っていた。
「桜は本当に可愛いから、絶対太夫になるわね」
遊女は長机で朝ご飯を食べながら、横に座る桜を見た。
「たゆう……?」
桜は首を傾げる。
「見世の売れっ妓……一番の人気者ってことよ!」
「人気者……」
桜は遊女を見つめる。
「人気者に……なった方がいいの?」
「え……」
遊女は言葉を詰まらせた。
「えっと……人気者になった方が幸せになれると思うから……そうね……」
桜は目を丸くする。
「人気者になったら幸せになれるの?」
桜の目は輝いていた。
「え? え……っと……」
遊女は助けを求めるように、向かい側でご飯を食べていた遊女を見つめた。
「ねぇ……、その方が幸せ……よね?」
「え!?」
向かい側に座りぼんやりと二人の会話を聞いていた遊女は、突然話しを振られ困惑した表情を浮かべた。
桜のキラキラした目が、向かい側の遊女に向けられる。
「う…………。えっと……そうね。嫌な客は断れるようになるし、自由がきくっていう意味では……幸せ……かな」
「そうだったんだ……」
桜は納得したように何度も頷いた。
「じゃあ、私がみんなを人気者にしてあげる!」
桜は眩しいほどの笑顔で言った。
「うん??」
遊女たちは顔を見合わせた。
「どういうこと?」
「私がみんなを人気者にしたら、みんな幸せになれるんでしょう? だから、私が人気者にしてあげる!」
桜は真っすぐな目で遊女を見つめると、嬉しそうに笑った。
遊女たちは目を見開く。
「桜……」
遊女の目に涙が浮かんだ。
「私たちはね……あんたがいてくれるだけで十分幸せなんだよ。だから、あんたが人気者になって、幸せになってくれたら、それでいいんだ」
遊女が微笑むと溢れた涙が頬を伝う。
桜はよくわからないという表情で、首を傾げた。
「何の話?」
後ろから聞こえた声に、桜は振り返った。
「あ、霞姐さん」
桜の声に、隣の遊女も涙を拭って振り返る。
「ああ、霞姐さん! いいところに! 桜が嬉しいこと言ってくれてさ……って、姐さんなんか顔色……悪くない?」
後ろに立っていた霞は、土気色の顔をしていた。
「大丈夫なの……?」
霞は困ったように微笑んだ。
「まぁ、よくはないけど……休むほどではないし……。まだ働けるわよ……」
遊女たちは顔を見合わせる。
「無理しないでね」
桜も心配そうな顔で、霞を見つめていた。
「ありがとう……。それより……」
霞はそう言いかけたが、こみ上げるものを堪えるように口元に手を当ててうずくまった。
「霞姐さん!?」
隣にいた遊女が思わず立ち上がる。
霞は背中を丸めて、激しく咳き込んだ。
呼吸さえうまくできていないその様子に、遊女は慌てて背中をさする。
「霞姐さん!? 大丈夫!?」
遊女の声が聞こえているのかどうかもわからないほど、霞は咳き込み続けていた。
ようやく咳が落ち着き、霞はゆっくりと口元から手を離した。
その瞬間、霞は目を見開く。
手のひらは血で真っ赤に染まっていた。
「!? 姐さん……!」
背中をさすっていた遊女は目を見開き、弾かれたように顔を上げた。
「霞姐さん、大丈夫なの……?」
霞の手元までは見えていなかった桜は、立ち上がり霞の背中をさすろうと手を伸ばす。
桜の動きに気づいた霞は、慌てて口元を手で覆うと、振り返らずに口を開いた。
「ダ、ダメ……!」
桜は伸ばしていた手を止めた。
「どうして……?」
桜は悲しげな顔で言った。
霞は桜から距離を取るため這うように移動し、少し離れたところでよろけながら立ち上がった。
悲しそうな桜を見て、霞は手で口元を覆ったまま小さく微笑んだ。
「今……私……ちょっと汚れてるからさ……。ごめんね……、桜」
霞はそれだけ言うと、三人に背中を向けた。
「私……このまま行燈部屋に入る……。絶対誰にも移したくないから……。楼主様にこのこと伝えてくれる? それで、誰も部屋に近づけないで……」
霞は少しだけ遊女の方を振り返って言った。
「姐さん……」
遊女たちの目に涙が浮かぶ。
霞は遊女たちを見て少しだけ微笑むと、そのまま振り返ることなく去っていった。
「ねぇ……、霞姐さんどうしたの……?」
桜は遊女を見上げた。
二人の遊女は思わず目を伏せる。
二人は最後まで何も答えることができなかった。
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霞が行燈部屋に入ってから七日が過ぎた。
桜は、ほかの遊女たちが寝静まるのを待って、部屋を抜け出し行燈部屋の前にやってきた。
遊女たちも宗助も、桜が行燈部屋に近づくことを許さなかったため、桜は気づかれないように来るしかなかった。
桜は行燈部屋の戸を軽く叩く。
「霞姐さん……、起きてる? ……大丈夫?」
桜は声を掛けると、静かに返事を待った。
行燈部屋からは物音ひとつしなかった。
「霞姐さん……、起きてる? ねぇ、入っていい?」
桜はそう言うと戸に手を掛けた。
「ダ、ダメ……!!」
行燈部屋の中からかすれた声とともに、バタバタと走る音が聞こえた。
戸が開かないように、霞が行燈部屋の中から戸を押さえたのがわかった。
「どうして……?」
桜は戸に額をつけてうなだれた。
「私……病気なの……。聞いたでしょ? 移る病だからあんたは近づいちゃダメなのよ」
「どうして……? 病気は移ったってお医者様が治してくれるんでしょ? ちょっと苦しいくらい大丈夫。霞姐さんのそばにいる」
扉の向こうで、霞が息を飲む。
「そうね……。治るかもしれないわね……。でもね……、私が嫌なのよ……。桜には少しも苦しんでほしくないの……」
霞の声は涙でかすれていた。
「霞姐さん……、泣いてるの? ひとりで寂しいの?」
桜の言葉に、霞は少しだけ笑った。
「私はね……、あんたが見世に来てから、一度だって……寂しかったことはないのよ。あんたはね……私の光なんだ……」
「光……?」
「あんたが初めて笑った日……、初めて立った日、ひとりで歩いた日……初めて名前を呼んでくれた日……。全部覚えてる……。全部が……キラキラ輝いてるの……。嫌な客が来た日も、この仕事で桜に美味しいものを食べさせてあげられると思えば……何もツラくなかった……。あんたが来た日から、私はずっと幸せよ……!」
霞は言葉を切ると、激しく咳き込んだ。
「霞姐さん……!」
「だ、大丈夫よ……。誰からも愛されなくても、みんなから忘れられても……、愛せたから……! あんたの成長する姿が……見られないことは少し……心残りだけど……。それは、欲張り過ぎだからね……」
「……どうして見られないの? ねぇ……、霞姐さん……」
桜はそう言うと戸に手を掛けた。
「桜!?」
そのとき、桜の後ろで宗助の声が響く。
「おまえ……ここで何してるんだ……!」
宗助は桜の手を掴んだ。
「ここには来ちゃダメだと言っただろう? 部屋に戻りなさい……」
桜は宗助を見上げた。
「でも! 霞姐さんが! ……ねぇ、姐さんはお医者様が治してくれるんでしょ? 早く治してもらって! 霞姐さん苦しそうなの!」
宗助は目を見張った後、苦しげに目を伏せた。
「そう……だな……」
「ねぇ、早くして! 霞姐さん、泣いてるの!」
桜は宗助の着物を引っ張った。
「桜……」
宗助は言葉を詰まらせた。
「……桜」
扉の向こうから、霞の声が響く。
「私はね、悲しくて泣いたんじゃないのよ……。桜が来てくれて……嬉しくて泣いたの……。早く元気になれるように頑張るから……。もう部屋に戻りな」
霞の声は優しく包み込むように温かだった。
「霞姐さん……」
桜はそっと戸に触れる。
「楼主様……、後のこと……頼みます」
霞は震える声でそれだけ口にした。
宗助は唇を噛んだ後、ゆっくりと口を動かした。
「ああ……、わかった」
桜は宗助に連れられて部屋に戻った。
その七日後、霞は行燈部屋で静かに息を引き取った。