宗助は、桜を抱きかかえて玉屋の中に戻った。
(……よく考えたら、赤子ってどうやって育てるんだ……?)
 宗助は急速に現実に引き戻されていくのを感じた。
 弟の世話はしていたが、さすがに赤子の頃から世話はしていなかった。
(どうしたら……)
 宗助は入口に立ったまま、桜を見つめて途方に暮れた。

 そのとき、階段が軋む音がした。
 誰かが二階から下りてきたようだった。

「楼主様……?」

 階段を下りた遊女は、入口で立ち尽くしている宗助を見て眉をひそめた。
「こんな時間にどうされたのですか?」
 遊女は眠そうに目をこすりながら、宗助に近づいた。
「その抱えていらっしゃる荷物は一体…………」
 遊女はそう言いながら、宗助の抱えていたものをのぞき込み、息を飲んだ。

「あ、赤子!?」
 遊女は目を丸くすると、赤子と宗助の顔を交互に何度も見た。

(あ、俺の子どもだと思われているのか……!)
 宗助は慌てて首を横に振る。
「あ、この子は……その……見世の前に……捨てられていて……」
「え!?」
 遊女は驚愕の表情で宗助を見た。
「こ、こんな赤子をですか!? し、信じられない……! こんな、まだ自分で何もできない子を置いていくなんて……!」
 遊女の声は明らかに怒りを含んでいる。

 宗助は少し意外に思った。
 いつも虚ろな目で笑顔を貼り付けていた遊女が、こんなにも感情を露わにするところを、宗助は初めて見た気がした。

 そのとき、宗助の腕の中で眠っていた桜が目を覚ました。
 ぼんやりとしていた桜はゆっくりと宗助に目を向ける。
 見知らぬ男の顔を見たせいか、桜の顔はみるみるうちに歪んでいく。
(あ、マズい! 泣く!)
 次の瞬間、桜の泣き声が見世に響いた。
(ど、どうしたらいいんだ……!)
 宗助がたどたどしく桜の背中をポンポンと叩いたが、桜は一向に泣き止む気配がなかった。

「楼主様、何をしているんですか。ほら、赤子をこちらに」
 遊女は宗助にそう言うと、少し強引に宗助の腕から桜を奪い、そっと腕に抱いた。
 遊女は慣れた手つきで体を揺らしながら、桜の背中を優しくポンポンと叩く。
 包み込まれるような抱き方に安心したのか、桜は泣くのを止めて、再びウトウトとした表情を見せた。

「す、すごいな……」
 宗助は思わず、遊女を見つめた。
「ここに来る前は、小さな妹や弟の子守りをずっとしていましたからね」
 遊女は宗助を見るとふふっと笑った。
「それにしても……。楼主様の慌てっぷりたら……。おろおろしているところなんて初めて見ました。楼主様も人間だったんですね」
 遊女は楽しそうに笑った。

 貼り付けたような笑顔とは全く違う、本当に笑った遊女の顔を、宗助は初めて見た。

「それは……。そんなに笑うな」
 宗助は少し顔を赤くしながら言った。

 反論しようと宗助が口を開きかけたとき、宗助は二階がざわざわしていることに気がついた。
 客をとっていなかった遊女たちが泣き声を聞き、一斉に一階に下りてきていた。

「今の泣き声はなんですか……?」
「あれ、楼主様……。そんなところで何を……?」
「え、あんたが抱いてるの、赤子かい!?」
「え!? なんで赤子がここに!? 誰の子!?」
「え、可愛い……。なんでこんなところに……」

 桜は一気に遊女たちに取り囲まれた。
 宗助に代わって遊女が事情を説明すると、みんな驚愕の表情を浮かべた。

「こんな小さい子を捨てるなんて、鬼畜すぎる……」
「これからここで育てるってことかい?」
「ここで育てられる……?」
「だいたいこの子いくつなんだろ……」
「一つになる前じゃないか?」
「それくらいの時期だと歯もないんじゃない? 何か食べられる?」
「さっき見たら、この子歯は四本あったんだ。だから、柔らかいご飯とか細かくした野菜とかは食べられるよ、きっと」
「へ~、そうなのか。あんた詳しいね」
「まぁ、小さい子の面倒は慣れてるから」
「じゃあ、この子が起きたときのために、早めに飯炊きに伝えてくるよ!」
「ああ、頼むよ」

 宗助は遊女たちのやりとりを遠巻きに見ながら、ただただ呆気に取られていた。

「布でおむつを作ってやらないとね」
「ああ、そうね。どうせもう眠れそうにないし、今から作るか」
「そうだね。すぐ必要になるし、たくさんいるだろうから」
「それなら私も手伝うよ。作り方教えてくれるかい?」
「私もお願い」

 遊女たちの声で目を覚ましたのか、二階からまた誰かが下りてくる気配がした。

「あ、太夫! すみません、起こしてしまいましたか?」
 遊女のひとりが声を上げた。

「大丈夫。気になって下りてきただけだから」
 太夫はにっこりと微笑むと、遊女たちの中心にいる桜の元に歩いていった。

「可愛い子ね……」
 太夫はそっと、桜の頬を撫でる。
「抱かれたままでは落ち着かないだろうから、とりあえず布団に寝かせてあげましょうか。今、私は座敷にいるし、私の部屋の方は使っていないから、よければそこに寝かせてあげて。あそこが一番広いでしょう?」

「そうですね! 寝かせにいきましょう」
「私も一緒に行っていい?」
「私も!」
「いいけど、起こさないように静かにね」

 遊女たちは笑い合いながら、二階へと上がっていった。

 宗助は呆気に取られたまま、桜と遊女たちを見送る。
 一階には太夫と宗助だけが残された。

「楼主様」
 太夫は宗助に微笑んだ。
「あの子……何か訳ありですか?」

「……え?」
 宗助はぎこちなく視線をそらした。

 太夫はフッと笑う。
「あの子が包まれていた布はすごく安物でしたけど、あの子の肌に直接触れる着物は、質素で少し汚してありましたが最高級のものでした。何か事情がある子のようですね……」

 宗助の顔がサッと青ざめる。
 太夫は目を伏せた。
「特に詮索する気はありません。それより……こんなに活き活きしたみんなの顔……初めて見ました」
 太夫は目を細めた。
「あ、ああ。それは俺も……初めて見た」

 太夫はにっこりと微笑んだ。
「楼主様も含めてですけどね」
 太夫は小さく呟いた。

「ねぇ、楼主様。……たとえ光が見えなくても、守るべきものがあれば人は強く生きられるものなんですよ。見えなくても自分自身のここに光が宿るのです……」
 太夫は自分の胸に手を当てた。
「みんなのこの光が消えないように、あの子を大切に育てていきましょう。……ここの、みんなで」
 太夫はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

 宗助は少しだけ目を見張った後、静かに目を伏せた。
「ああ、そうだな……。ありがとう……」

 太夫と宗助は少しだけ視線を交わすと二階を見つめる。
 玉屋に明るい光が差し込み始めていた。
 宗助が気がつき振り返ったときには、もうすでに夜はすっかり明けていた。