(とうとう江戸まで来たか……)
 宗助は、賑わう町を見ながら目を伏せた。
(この仕事が終わったら、江戸は離れよう……)
 宗助にとって活気に溢れたこの町は、どこか居心地が悪かった。

 紫苑が江戸へと旅立ってすぐ、宗助は奉公人の仕事を辞めた。
 紫苑の父親をはじめ一緒に働いてきた奉公人たちは皆、宗助を必死で止めたが、宗助の気持ちは変わらなかった。

 屋敷を出てすぐ出会った行商人から商売について学び、宗助は行商人として都市を渡り歩いた。
 生きることは、宗助が思うよりずっと簡単だった。
 漫然と生きる中で、宗助は何を見ても何をしても心が動かなくなっていった。
 生家に仕送りだけは続けていたが、もう二度と帰るつもりはなかった。
 大名屋敷も、生家のそばに咲く紫苑の花も、宗助はまともに見られる自信がなかった。

(さっさと終わらせて、大坂あたりにまた戻るか……)
 宗助は木の箱を背負い直し、歩き出した。

 しばらく歩いていると、見知らぬ年配の男が宗助の横を並んで歩き始めたことに気がついた。
 宗助はそっと男を見つめる。
 男は宗助の視線に気づくと、人の好さそうな笑顔を浮かべた。
「よう! あんた、どこから来たんだい? 見たところ行商人だろ?」

 宗助は商売用の笑顔を浮かべた。
「ええ、大坂の方から来たんです。ちょっと江戸で売らないといけないものがあって」
「へ~、大坂かぁ。最近、物は船で運ぶのが主流になってるから、あんたみたいに遠くから売りに来る背負商人は久々に見たよ」
「はは、時代遅れですかね。あなたも商人なんですか?」
 宗助は微笑んだ。
「ああ、俺の場合は店を構えて商売してるんだけどな。江戸では、行商っていうと桶に商品を吊り下げて近場で売る振売(ふりうり)が主流だから」
「そうなんですね。私も商売の仕方を考えないといけませんね」
 宗助は苦笑した。

 男は宗助の顔をじっと見つめる。
「? 私の顔に何かついてますか?」
 宗助は男を見て、首を傾げた。
「いや、なんでもねぇよ。いい男だから見惚れてたのさ」
 男はそう言うとニカッと笑った。
「それは、お世辞でも嬉しいですね」
 宗助は男に合わせて明るく笑った。

「これから仕事だろ? よかったら仕事終わりに、一緒に酒でも飲まねぇか?」
 男は人の好さそうな笑顔で言った。
「江戸での商売の仕方ってやつを教えてやるよ」

 宗助はそっと男を見つめた。
(悪い人間ではなさそうだな……)
 宗助は笑顔で頷いた。
「それはぜひお願いします。ついでに、美味しいお店を教えていただけると嬉しいですね。江戸に来たのは初めてで右も左もわからない状態なので」

「ああ、それなら、あそこの蕎麦屋にするか」
 男は少し先にある店を指さした。
「あそこは蕎麦も酒も絶品だからな」
「蕎麦ですか、いいですね。では、夕方ぐらいにあの店で待ち合わせでいいですか?」
「ああ。じゃあ、また夕方にな」
 男はそう言うと、軽く片手を上げて去っていった。
「ええ、また後で」
 宗助は軽く頭を下げると、目的地に向かって足を速めた。

(さっさと売って、さっさと江戸は離れよう……)
 宗助は目を閉じた。
 江戸に誰がいるのか、宗助はなるべく考えないようにした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 男の言ったとおり、店の蕎麦は確かに絶品だった。
 宗助は蕎麦の美味しさに目を丸くした。
 隣にいる男がドヤ顔で宗助を見る。

「すごく美味しいですね」
「だろ?」
 男は満足げに頷く。

「あ、ところで今日の商売はどうだった?」
 男は宗助を見て聞いた。
「ああ、おかげ様で、予定より早く売り切ることができました」
 宗助は箸を止めて微笑んだ。
「そうか! そりゃあ、よかったな! やっぱり顔がいいってのは得だな」
「顔ですか? 顔は関係なく物が良かったんですよ」
 宗助は笑う。

「まぁ、そういうことにしておいてやるよ」
 男はそう言って笑うと、ふいに真剣な顔で宗助を見た。
「ところで、おまえ……。これから先はどうするつもりなんだ?」
 蕎麦をすすっていた宗助は男を見る。

「これから先……ですか? そうですね、とりあえず大坂の方まで行って、商売しようとは思っていますが……」
「大坂かぁ……。どうして大坂なんだ?」
 男は首を傾げる。
 宗助は思わず目を伏せた。
 大坂がいいわけではなかった。江戸でなければどこでもいいというのが宗助の正直な想いだった。

「おまえ、大坂の生まれってわけじゃないんだろ?」
 男は宗助の顔をのぞき込むように言った。
 宗助は少し強張った顔で男を見返す。

「あ、勘違いするなよ?」
 男は慌てた様子で首を横に振った。
「詮索するつもりはないんだ。ただ、少し……昔の自分を見てるような気持ちになってさ……」

「昔の自分ですか……?」
 宗助は眉をひそめた。

「言っておくが、昔の俺は結構いい男だったんだぞ! そんな嫌そうな顔するんじゃねぇよ! 失礼だろうが」
 男はムッとした顔で言った。
 宗助は思わず吹き出す。
「嫌そうな顔なんてしてませんよ」

 男は宗助の顔を見てフッと微笑んだ。
「そうやってちゃんと笑った方がいいぞ。嘘くさい笑顔でもいい男だが、今の顔の方がずっといい」
 宗助は男を見つめる。
(この人は何の目的で俺に近づいてきたんだ……?)

 男は宗助の心を読んだように、フッと笑った。
「ただ、心配だっただけだ。嘘くさい笑顔貼り付けて、根無し草みたいにふわふわしててさ。目的地も帰る場所もないって感じだったから」
 男の言葉に、宗助は目を伏せた。

「当たらずとも遠からずって感じだろ? 俺も昔そうだったからな」
 男は頭を掻いた。
「で、ここからが本題だ。おまえ遊郭に興味ないか?」

「……は?」
 宗助はポカンとした顔で男を見つめた。
(真面目な話かと思えば、何の話だ……?)

「あ、勘違いするなよ。遊郭の楼主になる気はないかって話だ」

「遊郭の楼主??」
 宗助は眉をひそめた。

「実はさ、玉屋って遊郭をやってる爺さんが今死にかけてるんだよ。楼主がいなくなったら、そこにいる遊女たちが路頭に迷うだろう? だから、爺さんは今楼主をやってくれる人間を探してるんだ」
 男の言葉に宗助は首を傾げる。
「なんで俺にそんなことを話すんですか?」

 男は笑った。
「まぁ、まずは地に足をつけて、どこかに根付いてみたらどうかって提案だ。帰る場所っていうのはやっぱりあった方がいいと思うからな」
「遊郭に根付くんですか……?」
 宗助は首を捻る。
「そうそう」
 男は明るい声で言った。
「遊郭なんてのは裏も表も腹の探り合いだからさ、おまえみたいに嘘くさい笑顔で、テキトーに受け流す能力があるやつには打ってつけなんだよ」

 宗助は呆気にとられた顔で男を見る。

「楼主はさぁ、別名忘八(ぼうはち)って言われてるんだ。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目、すべてを失った者って。まぁ、失ってないとできない仕事ってことだ。おまえ、大半は失ってそうだったからな。それで声をかけたんだ」
 男が二カッと笑った。

 宗助は唖然とした顔で男を見つめていたが、しばらくしてフッと笑った。
「こんな失礼な口説き文句は初めてです。いろんな意味でグッときました。さすが商売人ですね」
「だろ?」
 男は楽しそうに微笑んだ。
「確かに、今の俺には打ってつけの仕事かもしれません……」
 宗助は目を伏せた。
「考えてみます……」

「おう、考えてみてくれ」
 男は嬉しそうに笑った後、ふと寂しそうな顔で言った。
「忘八だって、人と関わるうちにいつか何か取り戻せるかもしれないからさ」

 宗助はすっかり冷めて伸びてしまった蕎麦を見つめた。
「どうでしょうね。失ったものは……もう二度と戻りませんから……」
 宗助はそっと息を吐いた。
 蕎麦の汁に、泣き出しそうな宗助の顔が浮かび、静かに揺れた。