「花魁、信様がいらっしゃいました」
襖の向こうから緑の声が聞こえた。
咲耶が返事をすると、襖がゆっくりと開き、緑とその後ろにいる信の姿が見えた。
咲耶は信を見つめる。
信の手や足は、指の先まで白い布が巻き付けられていて、火傷の酷さを物語っているようだった。
咲耶は思わず目を伏せる。
信はいつも通り何も言わず、部屋に入ると咲耶の前に腰を下ろした。
「……体は大丈夫か?」
珍しく信が先に口を開く。
咲耶は思わず微笑んだ。
「私は問題ない。おまえのおかげだ。信は……大丈夫ではなさそうだが……」
咲耶は信の手を見つめる。
指が曲げられるように白い布が巻かれていない関節部分は、赤黒く爛れた皮膚が見えていた。
咲耶の視線に気づいた信は、さりげなく着物の袖で指先を隠す。
「たいしたことはない」
信は淡々と言った。
咲耶は真っすぐに信を見つめる。
聞きたいことはたくさんあったが、咲耶はうまく言葉にすることができなかった。
「助けてくれて……ありがとう」
咲耶はなんとかそれだけ口にした。
信は目を伏せる。
「礼を言われることじゃない。俺のせいだから」
信は淡々とした声で言った。
「……おまえのせいじゃない」
咲耶は真っすぐに信を見たが、信は目を伏せたまま何も答えなかった。
咲耶は少しだけ信に近づくと、袖で隠れた信の手を取った。
信の瞳がわずかに揺れる。
「おまえのせいじゃない!」
咲耶はもう一度信の目を真っすぐに見て言った。
信はわずかに目を見張ったが、すぐに咲耶から視線をそらす。
「俺は……、もうここには来ない」
信はそっと手を引くと、静かに口を開いた。
「これ以上、迷惑はかけられない」
咲耶は目を見開く。
信の口からそんな言葉が出るとは、咲耶はまったく想像していなかった。
(もう来ない……? 私とはもう会わないということか……?)
咲耶は急速に喉元が苦しくなっていくのを感じた。
(これが……最後……?)
体が一気に重くなった。
「…………嫌だ……」
咲耶は自分の口からこぼれた言葉に驚き、慌てて口元に手を当てた。
信に視線を向けると、信が珍しく戸惑っているのがわかった。
咲耶の顔が一気に赤くなる。
「違う……! その……月に一度ここに顔を出すのは、最初からの約束だっただろう……? それに、私もおまえに頼みたいことがあるし……。だから、その……」
(私は何を言っているんだ……!)
咲耶は早口で言いながら、自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。
信は戸惑ったように咲耶を見ていたが、やがてゆっくりと目を伏せた。
「いや、しかし……」
続く言葉を聞きたくなかった咲耶は、思わず立ち上がった。
「だ、だから……『しかし』じゃない! 嫌だと言っているだろう!!」
自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
(あ、しまった……)
咲耶はハッと我に返り、こわごわ信を見下ろす。
初めて見る咲耶の様子に、信は明らかに呆気にとられていた。
咲耶の顔から血の気が引いていく。
(私は一体何を…………)
咲耶は泣き出したい気持ちになった。
信はうつむくと、静かに口を開く。
「わかった……。これからもここに来る……」
信の声は淡々としていたが、ひどく戸惑っているように感じられた。
「あ、ち、違う……。私は怒っているわけではなくて……」
咲耶は慌てて座り直すと、信の顔をのぞき込んだ。
「その……、弥吉も戻ってきていないと聞いたし、心配なんだ……。頼むから、月に一度は来てくれ……」
薄茶色の瞳が、一瞬だけ咲耶に向けられる。
「……わかった」
信は静かに目を伏せた。
二人のあいだに、重苦しい沈黙が訪れる。
「……今日はもう帰る。まだ顔色が悪いから、ゆっくり休んだ方がいい」
信は咲耶を見てそれだけ言うと、静かに立ち上がった。
「あ、いや……、体調はもういいんだが……。わ、わかった……。またな……」
咲耶は目を泳がせながら言った。
「ああ、……また」
信はそう言うと足早に咲耶の部屋を後にした。
(ああああああ!)
ひとりになった部屋で咲耶は頭を抱えた。
(私は何をやっているんだ……!)
咲耶は顔から火が出そうだった。
落ち着こうと、咲耶はゆっくりと深呼吸をする。
(私はなんであんなことを……!)
しばらくして、咲耶は落ち着きを取り戻したが、なぜあんなことを言ってしまったのかは最後までわからないままだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
信が玉屋の階段を降りようとすると、一階で手すりに寄りかかるように立っている楼主が見えた。
信は階段を降りると楼主に会釈だけして、楼主の横を通りすぎる。
「……ありがとう」
信の背中に、楼主は言った。
「咲耶を助けてくれて」
信は足を止める。
「いや、あれは俺の……」
「それでも」
楼主は信の言葉を遮った。
「感謝している」
信はわずかに振り返ったが、そのまま何も言わず玉屋を後にした。
楼主はゆっくりと息を吐いた。
(いいやつ……ではあるんだろうな……)
楼主は腕組みをしながら、目を閉じる。
信を助けたときから、楼主にはわかっていた。
体中にある傷跡、毒に耐性はあるが薬も効きにくい体、異国の血を感じる薄茶色の髪と瞳。
この男には関わらない方がいい、と。
楼主は深いため息をついた。
「まぁ、忠告したところで、どうせ関わるんだろうしな……」
『私の幸せを、おまえが語るなよ……』
楼主の頭の中で、懐かしい声が響く。
「わかってるよ、紫苑」
楼主はゆっくりと目を開けた。
「咲耶にまで同じことは言われたくないからな……。俺はせいぜい見守ることに徹するさ……」
楼主はそれだけ呟くと、身を翻し自分の部屋に戻っていった。
襖の向こうから緑の声が聞こえた。
咲耶が返事をすると、襖がゆっくりと開き、緑とその後ろにいる信の姿が見えた。
咲耶は信を見つめる。
信の手や足は、指の先まで白い布が巻き付けられていて、火傷の酷さを物語っているようだった。
咲耶は思わず目を伏せる。
信はいつも通り何も言わず、部屋に入ると咲耶の前に腰を下ろした。
「……体は大丈夫か?」
珍しく信が先に口を開く。
咲耶は思わず微笑んだ。
「私は問題ない。おまえのおかげだ。信は……大丈夫ではなさそうだが……」
咲耶は信の手を見つめる。
指が曲げられるように白い布が巻かれていない関節部分は、赤黒く爛れた皮膚が見えていた。
咲耶の視線に気づいた信は、さりげなく着物の袖で指先を隠す。
「たいしたことはない」
信は淡々と言った。
咲耶は真っすぐに信を見つめる。
聞きたいことはたくさんあったが、咲耶はうまく言葉にすることができなかった。
「助けてくれて……ありがとう」
咲耶はなんとかそれだけ口にした。
信は目を伏せる。
「礼を言われることじゃない。俺のせいだから」
信は淡々とした声で言った。
「……おまえのせいじゃない」
咲耶は真っすぐに信を見たが、信は目を伏せたまま何も答えなかった。
咲耶は少しだけ信に近づくと、袖で隠れた信の手を取った。
信の瞳がわずかに揺れる。
「おまえのせいじゃない!」
咲耶はもう一度信の目を真っすぐに見て言った。
信はわずかに目を見張ったが、すぐに咲耶から視線をそらす。
「俺は……、もうここには来ない」
信はそっと手を引くと、静かに口を開いた。
「これ以上、迷惑はかけられない」
咲耶は目を見開く。
信の口からそんな言葉が出るとは、咲耶はまったく想像していなかった。
(もう来ない……? 私とはもう会わないということか……?)
咲耶は急速に喉元が苦しくなっていくのを感じた。
(これが……最後……?)
体が一気に重くなった。
「…………嫌だ……」
咲耶は自分の口からこぼれた言葉に驚き、慌てて口元に手を当てた。
信に視線を向けると、信が珍しく戸惑っているのがわかった。
咲耶の顔が一気に赤くなる。
「違う……! その……月に一度ここに顔を出すのは、最初からの約束だっただろう……? それに、私もおまえに頼みたいことがあるし……。だから、その……」
(私は何を言っているんだ……!)
咲耶は早口で言いながら、自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。
信は戸惑ったように咲耶を見ていたが、やがてゆっくりと目を伏せた。
「いや、しかし……」
続く言葉を聞きたくなかった咲耶は、思わず立ち上がった。
「だ、だから……『しかし』じゃない! 嫌だと言っているだろう!!」
自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
(あ、しまった……)
咲耶はハッと我に返り、こわごわ信を見下ろす。
初めて見る咲耶の様子に、信は明らかに呆気にとられていた。
咲耶の顔から血の気が引いていく。
(私は一体何を…………)
咲耶は泣き出したい気持ちになった。
信はうつむくと、静かに口を開く。
「わかった……。これからもここに来る……」
信の声は淡々としていたが、ひどく戸惑っているように感じられた。
「あ、ち、違う……。私は怒っているわけではなくて……」
咲耶は慌てて座り直すと、信の顔をのぞき込んだ。
「その……、弥吉も戻ってきていないと聞いたし、心配なんだ……。頼むから、月に一度は来てくれ……」
薄茶色の瞳が、一瞬だけ咲耶に向けられる。
「……わかった」
信は静かに目を伏せた。
二人のあいだに、重苦しい沈黙が訪れる。
「……今日はもう帰る。まだ顔色が悪いから、ゆっくり休んだ方がいい」
信は咲耶を見てそれだけ言うと、静かに立ち上がった。
「あ、いや……、体調はもういいんだが……。わ、わかった……。またな……」
咲耶は目を泳がせながら言った。
「ああ、……また」
信はそう言うと足早に咲耶の部屋を後にした。
(ああああああ!)
ひとりになった部屋で咲耶は頭を抱えた。
(私は何をやっているんだ……!)
咲耶は顔から火が出そうだった。
落ち着こうと、咲耶はゆっくりと深呼吸をする。
(私はなんであんなことを……!)
しばらくして、咲耶は落ち着きを取り戻したが、なぜあんなことを言ってしまったのかは最後までわからないままだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
信が玉屋の階段を降りようとすると、一階で手すりに寄りかかるように立っている楼主が見えた。
信は階段を降りると楼主に会釈だけして、楼主の横を通りすぎる。
「……ありがとう」
信の背中に、楼主は言った。
「咲耶を助けてくれて」
信は足を止める。
「いや、あれは俺の……」
「それでも」
楼主は信の言葉を遮った。
「感謝している」
信はわずかに振り返ったが、そのまま何も言わず玉屋を後にした。
楼主はゆっくりと息を吐いた。
(いいやつ……ではあるんだろうな……)
楼主は腕組みをしながら、目を閉じる。
信を助けたときから、楼主にはわかっていた。
体中にある傷跡、毒に耐性はあるが薬も効きにくい体、異国の血を感じる薄茶色の髪と瞳。
この男には関わらない方がいい、と。
楼主は深いため息をついた。
「まぁ、忠告したところで、どうせ関わるんだろうしな……」
『私の幸せを、おまえが語るなよ……』
楼主の頭の中で、懐かしい声が響く。
「わかってるよ、紫苑」
楼主はゆっくりと目を開けた。
「咲耶にまで同じことは言われたくないからな……。俺はせいぜい見守ることに徹するさ……」
楼主はそれだけ呟くと、身を翻し自分の部屋に戻っていった。