紫苑が江戸に旅立って数日が経ったある日、宗助は紫苑の父親に呼び出された。
御前様である紫苑の父親に会うのは、初めてのことだった。
「お呼びでしょうか」
部屋に入った宗助は、膝をつき頭を下げた。
「ああ、宗助だな。そうかしこまらず、顔を上げてくれ」
紫苑の父親は貫禄の中に優しさのある声で言った。
宗助はゆっくりと顔を上げる。
紫苑の父親は、顔こそ紫苑には似ていなかったが、どこか紫苑を思わせる凛とした空気を持っていた。
宗助は思わず目を伏せる。
「娘が……世話になったな……」
少しかすれた声を聞き、宗助は紫苑の父親を見つめた。
遠くからしか見たことはなかったが、今目の前にいる御前様はひどく顔色が悪いように見えた。
「いえ、私は何も……」
宗助は短く答える。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
紫苑の父親が宗助を見て聞いた。
(御前様の方が……とは言えないよな……)
宗助はここ数日まともに寝ることができずにいたが、様子を見る限り紫苑の父親も同じなのだろうと、宗助は思った。
「いえ、問題ありません」
宗助は淡々と答えた。
「そうか……」
紫苑の父親はそっと息を吐いた。
「忙しいところ申し訳ないが、少しだけ、私の話に付き合ってもらえないか?」
「……はい、もちろんです」
宗助は戸惑いながら、静かに一礼した。
「ありがとう」
紫苑の父親は目元を緩める。
その笑い方は少しだけ紫苑に似ていて、宗助の胸はずきりと痛んだ。
「あいつ……紫苑の母親は、もともと体が弱かったんだ。……子を生むことで、命が危うくなるとわかったとき、私は生むのを反対した。世継ぎなどどうでもよかった。ただ、あいつと共に生きていきたかったんだ」
紫苑の父親は苦笑した。
「笑えるだろう? 私は大名の家に生まれたというだけで、本当に器の小さい人間なんだ。周りのことなどどうでもいい、自分だけ良ければいいというどうしようもない男なんだよ」
「いえ、そんなことは……」
宗助は首を横に振る。
今の宗助にはその気持ちが痛いほどわかった。
「だが、あいつは生むと言ってきかなかった……。あいつは、私の血を分けた子をどうしても生みたいと言った。私の父と母はそのときすでに他界していたから、私に家族をつくりたいと、そう言ったんだ。そして、紫苑を生んでしばらくして、あいつが死んだ」
紫苑の父親は片手で顔を覆った。
その手はかすかに震えていた。
「私を殴ってもいいぞ……。私はそのとき思ったんだ。……この子さえ生まれなければ、と……」
宗助は目を伏せた。
掛ける言葉が見つからなかった。
「そう思ったのは一瞬だけだったが、確かにあのとき私はそう思ったんだ……。それから、私は……紫苑の顔が見られなくなった。遠目にも日に日にあいつに似ていく紫苑を見ると、余計にな……」
紫苑の父親の声がかすれる。
「私は……本当にどうしようもない人間なんだ……」
絞り出すような声に、宗助は思わずうつむく。
息が苦しく、胸が詰まった。
「紫苑を奥にと言われたとき……、それだけはなんとしても阻止しなければと思った。紫苑がこの地を愛しているのは知っていたし……、おまえのことを想っていることも……知っていたんだ……」
宗助は弾かれたように顔を上げた。
紫苑の父親は顔を覆っていた手を下ろすと、悲しげに微笑む。
「すまないな……。紫苑のことは逐一報告をもらっていた。気を悪くしないでくれ……」
「いえ、そのようなことは……」
宗助は目を伏せた。
紫苑の父親は少しだけ微笑むと、目を伏せた。
「結局、奥の話を拒むことはできなかった。だから……紫苑には逃げてもいいと言った……」
「……え?」
宗助は顔を上げた。
「紫苑が逃げたいと言うなら、娘は死んだと報告し、この屋敷から逃すつもりだった……」
「そんなことをしては、御前様は……」
宗助の声は震えていた。
「なんとかするつもりだった」
紫苑の父親は目を伏せたまま微笑むと、苦しげに目を閉じた。
「それくらいしか、私が紫苑にしてやれることはないからな……」
宗助は目の前が暗くなっていくのを感じた。
(逃げてもいいと言われていた……? 自分の気持ちを優先するなら、きっと逃げ出したかっただろう……。俺の言葉が、その道を閉ざしたのか……? 俺が……みんな不幸になるなんて言ったから……)
「しかし、ここを立つ日の朝、紫苑は私のところに来て言ったんだ。『奥に行く』と……。『私がこの家を守るから。何も心配しなくていい』と……笑ったんだ……」
紫苑の父親の目から涙がこぼれ落ちる。
「私は恨まれても仕方ないようなことをし続けたのに……。守るどころか、守られて……。私は本当に情けない人間だ……」
宗助は拳を握りしめた。
(情けないのは……俺だ……)
宗助の震える拳の上に、目からこぼれた雫が落ちる。
「ああ、君のことも言っていた。有能だから、よろしく頼むと」
紫苑の父親はそこで少しだけ微笑んだ。
「まるで自分のことのように、君のことを誇らしげに語っていて笑ってしまったが……。君のことを頼むと言っていた」
宗助は何も答えることができなかった。
こみ上げるものでうまく呼吸ができなかった。
目に溢れたもので、宗助の視界が霞む。
「紫苑の気持ちはわかっていたが……、ここ数日、君の様子を見て、君の気持ちもよくわかった……」
紫苑の父親はかすれた声でそう言うと頭を下げた。
「本当にすまない……! 私が不甲斐ないばかりに……こんなことに……」
「いえ……」
宗助はうつむいたまま絞り出すように言った。
「すべては、俺が……。俺のせいで……」
「君は何も悪くない」
紫苑の父親は、優しい声で言った。
「紫苑のそばに君がいてくれてよかったと、私は心から思っている。……ありがとう」
宗助はうつむいたまま、首を横に振った。
(すべては俺のせいなんだ……。俺が…………)
二人はそれ以上何も口にすることができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
部屋を後にした宗助は、茫然と廊下を歩いていた。
(俺があんなことを言わなければ……)
宗助は唇を噛みしめた。
(守ると約束したのに……。守りきる自信がないと……紫苑にすべて背負わせた……。俺は……守ろうとさえしなかったんだ……)
宗助は拳を握りしめた。
「……けさん、……宗助さん!」
宗助は背後から肩を叩かれ、振り返る。
奉公人の男が心配そうに宗助を見ていた。
「何度も呼んだんですよ……? 大丈夫ですか?」
男の言葉に、宗助は目を伏せた。
「……大丈夫です。心配をかけてすみません……」
「あまり無理はしないでくださいね」
男は、宗助の肩を軽く叩いた。
「まぁ、姫様がいなくなってから、灯りが消えたようにみんな元気はありませんけどね……」
男は寂しげにそっと息を吐いた。
「屋敷の者だけでなく、ここに魚を届けてくれている者や漁師たちまで元気がないんですから……。姫様の人気は凄かったのだと実感しています……」
「漁師まで……ですか……」
「ええ、姫様のために気合いを入れて魚を獲っていましたからね。ほら、姫様、お刺身が好きだったでしょう?」
「…………え?」
宗助は虚ろな目で男を見つめた。
「あれ、宗助さんは姫様と一緒にお食事していたから、ご存じですよね? この地で獲れる魚が一番美味しいと好んで召し上がっていたでしょう?」
宗助は目を見開いた。
「……ああ、……そういうことか……」
宗助は片手で顔を覆った。
「宗助さん、……大丈夫ですか?」
男は宗助の顔をのぞき込むように聞いた。
「……大丈夫です。ただ、少し眩暈がしたので先に行ってください……」
「わ、わかりました……。無理しないでくださいね……」
男はそう言うと、宗助を何度か振り返りながら、廊下の向こうへ去っていった。
宗助はその場にしゃがみ込む。
『ほら、これもやる。嫌いなんだ』
にっこりと笑いながら、刺身の皿を差し出した紫苑の顔が浮かぶ。
「そういう嘘は……やめてくれよ……」
ようやく止まったはずの涙が溢れ出す。
「どうしてわかったんだ……。俺、刺身が好きなんて言ってなかっただろ……?」
宗助は絞り出すように呟いた。
「おまえの嘘は……どうしてそんなに優しいんだ……」
胸の痛みで、叫び出してしまいたかった。
『守ります、必ず』
かつて紫苑に言った自分の言葉が、胸をえぐる。
「それにひきかえ……、俺の嘘は……。何が守れる力だ……、何が武士だ……。守ろうとさえしなかった俺は…………ただのクズだ……」
宗助は胸の痛みに耐え切れず、うずくまった。
「俺は……ここにいていい人間じゃない……」
とめどなくこぼれる涙が、小さな音を立てて廊下に落ちた。
御前様である紫苑の父親に会うのは、初めてのことだった。
「お呼びでしょうか」
部屋に入った宗助は、膝をつき頭を下げた。
「ああ、宗助だな。そうかしこまらず、顔を上げてくれ」
紫苑の父親は貫禄の中に優しさのある声で言った。
宗助はゆっくりと顔を上げる。
紫苑の父親は、顔こそ紫苑には似ていなかったが、どこか紫苑を思わせる凛とした空気を持っていた。
宗助は思わず目を伏せる。
「娘が……世話になったな……」
少しかすれた声を聞き、宗助は紫苑の父親を見つめた。
遠くからしか見たことはなかったが、今目の前にいる御前様はひどく顔色が悪いように見えた。
「いえ、私は何も……」
宗助は短く答える。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
紫苑の父親が宗助を見て聞いた。
(御前様の方が……とは言えないよな……)
宗助はここ数日まともに寝ることができずにいたが、様子を見る限り紫苑の父親も同じなのだろうと、宗助は思った。
「いえ、問題ありません」
宗助は淡々と答えた。
「そうか……」
紫苑の父親はそっと息を吐いた。
「忙しいところ申し訳ないが、少しだけ、私の話に付き合ってもらえないか?」
「……はい、もちろんです」
宗助は戸惑いながら、静かに一礼した。
「ありがとう」
紫苑の父親は目元を緩める。
その笑い方は少しだけ紫苑に似ていて、宗助の胸はずきりと痛んだ。
「あいつ……紫苑の母親は、もともと体が弱かったんだ。……子を生むことで、命が危うくなるとわかったとき、私は生むのを反対した。世継ぎなどどうでもよかった。ただ、あいつと共に生きていきたかったんだ」
紫苑の父親は苦笑した。
「笑えるだろう? 私は大名の家に生まれたというだけで、本当に器の小さい人間なんだ。周りのことなどどうでもいい、自分だけ良ければいいというどうしようもない男なんだよ」
「いえ、そんなことは……」
宗助は首を横に振る。
今の宗助にはその気持ちが痛いほどわかった。
「だが、あいつは生むと言ってきかなかった……。あいつは、私の血を分けた子をどうしても生みたいと言った。私の父と母はそのときすでに他界していたから、私に家族をつくりたいと、そう言ったんだ。そして、紫苑を生んでしばらくして、あいつが死んだ」
紫苑の父親は片手で顔を覆った。
その手はかすかに震えていた。
「私を殴ってもいいぞ……。私はそのとき思ったんだ。……この子さえ生まれなければ、と……」
宗助は目を伏せた。
掛ける言葉が見つからなかった。
「そう思ったのは一瞬だけだったが、確かにあのとき私はそう思ったんだ……。それから、私は……紫苑の顔が見られなくなった。遠目にも日に日にあいつに似ていく紫苑を見ると、余計にな……」
紫苑の父親の声がかすれる。
「私は……本当にどうしようもない人間なんだ……」
絞り出すような声に、宗助は思わずうつむく。
息が苦しく、胸が詰まった。
「紫苑を奥にと言われたとき……、それだけはなんとしても阻止しなければと思った。紫苑がこの地を愛しているのは知っていたし……、おまえのことを想っていることも……知っていたんだ……」
宗助は弾かれたように顔を上げた。
紫苑の父親は顔を覆っていた手を下ろすと、悲しげに微笑む。
「すまないな……。紫苑のことは逐一報告をもらっていた。気を悪くしないでくれ……」
「いえ、そのようなことは……」
宗助は目を伏せた。
紫苑の父親は少しだけ微笑むと、目を伏せた。
「結局、奥の話を拒むことはできなかった。だから……紫苑には逃げてもいいと言った……」
「……え?」
宗助は顔を上げた。
「紫苑が逃げたいと言うなら、娘は死んだと報告し、この屋敷から逃すつもりだった……」
「そんなことをしては、御前様は……」
宗助の声は震えていた。
「なんとかするつもりだった」
紫苑の父親は目を伏せたまま微笑むと、苦しげに目を閉じた。
「それくらいしか、私が紫苑にしてやれることはないからな……」
宗助は目の前が暗くなっていくのを感じた。
(逃げてもいいと言われていた……? 自分の気持ちを優先するなら、きっと逃げ出したかっただろう……。俺の言葉が、その道を閉ざしたのか……? 俺が……みんな不幸になるなんて言ったから……)
「しかし、ここを立つ日の朝、紫苑は私のところに来て言ったんだ。『奥に行く』と……。『私がこの家を守るから。何も心配しなくていい』と……笑ったんだ……」
紫苑の父親の目から涙がこぼれ落ちる。
「私は恨まれても仕方ないようなことをし続けたのに……。守るどころか、守られて……。私は本当に情けない人間だ……」
宗助は拳を握りしめた。
(情けないのは……俺だ……)
宗助の震える拳の上に、目からこぼれた雫が落ちる。
「ああ、君のことも言っていた。有能だから、よろしく頼むと」
紫苑の父親はそこで少しだけ微笑んだ。
「まるで自分のことのように、君のことを誇らしげに語っていて笑ってしまったが……。君のことを頼むと言っていた」
宗助は何も答えることができなかった。
こみ上げるものでうまく呼吸ができなかった。
目に溢れたもので、宗助の視界が霞む。
「紫苑の気持ちはわかっていたが……、ここ数日、君の様子を見て、君の気持ちもよくわかった……」
紫苑の父親はかすれた声でそう言うと頭を下げた。
「本当にすまない……! 私が不甲斐ないばかりに……こんなことに……」
「いえ……」
宗助はうつむいたまま絞り出すように言った。
「すべては、俺が……。俺のせいで……」
「君は何も悪くない」
紫苑の父親は、優しい声で言った。
「紫苑のそばに君がいてくれてよかったと、私は心から思っている。……ありがとう」
宗助はうつむいたまま、首を横に振った。
(すべては俺のせいなんだ……。俺が…………)
二人はそれ以上何も口にすることができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
部屋を後にした宗助は、茫然と廊下を歩いていた。
(俺があんなことを言わなければ……)
宗助は唇を噛みしめた。
(守ると約束したのに……。守りきる自信がないと……紫苑にすべて背負わせた……。俺は……守ろうとさえしなかったんだ……)
宗助は拳を握りしめた。
「……けさん、……宗助さん!」
宗助は背後から肩を叩かれ、振り返る。
奉公人の男が心配そうに宗助を見ていた。
「何度も呼んだんですよ……? 大丈夫ですか?」
男の言葉に、宗助は目を伏せた。
「……大丈夫です。心配をかけてすみません……」
「あまり無理はしないでくださいね」
男は、宗助の肩を軽く叩いた。
「まぁ、姫様がいなくなってから、灯りが消えたようにみんな元気はありませんけどね……」
男は寂しげにそっと息を吐いた。
「屋敷の者だけでなく、ここに魚を届けてくれている者や漁師たちまで元気がないんですから……。姫様の人気は凄かったのだと実感しています……」
「漁師まで……ですか……」
「ええ、姫様のために気合いを入れて魚を獲っていましたからね。ほら、姫様、お刺身が好きだったでしょう?」
「…………え?」
宗助は虚ろな目で男を見つめた。
「あれ、宗助さんは姫様と一緒にお食事していたから、ご存じですよね? この地で獲れる魚が一番美味しいと好んで召し上がっていたでしょう?」
宗助は目を見開いた。
「……ああ、……そういうことか……」
宗助は片手で顔を覆った。
「宗助さん、……大丈夫ですか?」
男は宗助の顔をのぞき込むように聞いた。
「……大丈夫です。ただ、少し眩暈がしたので先に行ってください……」
「わ、わかりました……。無理しないでくださいね……」
男はそう言うと、宗助を何度か振り返りながら、廊下の向こうへ去っていった。
宗助はその場にしゃがみ込む。
『ほら、これもやる。嫌いなんだ』
にっこりと笑いながら、刺身の皿を差し出した紫苑の顔が浮かぶ。
「そういう嘘は……やめてくれよ……」
ようやく止まったはずの涙が溢れ出す。
「どうしてわかったんだ……。俺、刺身が好きなんて言ってなかっただろ……?」
宗助は絞り出すように呟いた。
「おまえの嘘は……どうしてそんなに優しいんだ……」
胸の痛みで、叫び出してしまいたかった。
『守ります、必ず』
かつて紫苑に言った自分の言葉が、胸をえぐる。
「それにひきかえ……、俺の嘘は……。何が守れる力だ……、何が武士だ……。守ろうとさえしなかった俺は…………ただのクズだ……」
宗助は胸の痛みに耐え切れず、うずくまった。
「俺は……ここにいていい人間じゃない……」
とめどなくこぼれる涙が、小さな音を立てて廊下に落ちた。