翌日になると、紫苑はまるで前日のことが嘘のように落ち着きを取り戻していた。
 不自然なほどに普段通りの紫苑に、奉公人たちは戸惑いながらも何事もなかったように接した。
 宗助もほかの奉公人と同じように、ただ紫苑を見守ることしかできなかった。

 いつも通りの日々が続き、誰も何も触れないまま、紫苑が旅立つ前日となった。
 裏では紫苑が江戸に向かう準備が着々と進んでいたが、表立っては何の変化もない、いつもと変わらない日だった。

 紫苑に掛ける言葉が見つからないまま、日が暮れて夜になり、すべての仕事を終えた宗助は重い足取りで自分の部屋に戻った。
(明日には紫苑が……)
 宗助はその場にしゃがみ込んだ。
(俺は……一体何がしたいんだ……。)
 薄暗い部屋の中で灯りも点けず、宗助はただ畳を見つめていた。
(俺は…………)

 そのとき、襖を叩く音がした。
 宗助は顔を上げて襖を見る。
(誰だ……? こんな時間に……)
「……はい」
 宗助の返事とともに、襖がゆっくりと開く。

「な!?」
 襖の向こうに立っていたのは紫苑だった。
 薄暗く顔はよく見えなかったが、長い髪を後ろでひとつに束ねた髪型も、薄っすらと見える着物の柄も紫苑のもので間違いなかった。

「おまえ……どうしてこんなところに……」
 宗助は目を見開く。
 紫苑が宗助の部屋を訪ねてきたことは、今までに一度もなかった。
 そもそも屋敷の姫様が奉公人の部屋まで出向くことなど、どんなに急ぎの用だとしてもありえないことだった。

 宗助の問いに答えることなく、紫苑は部屋に入ると宗助の前まで足を進める。
「……紫苑?」
 宗助は呟くように言った。
 紫苑は何も言わず、宗助の前に膝をつく。

 手の届く距離まで来たことで、宗助はようやく紫苑の顔を見ることができた。
 紫苑はどこか不安げな表情を浮かべ、ためらいがちに宗助を見つめた。

「どう……したんだ……?」
 宗助はかすれた声で聞いた。
「何か……あったのか……?」

 紫苑は何も答えなかった。

「……紫苑?」
 宗助がそう口にした瞬間、ふわりと甘い香りが宗助を包んだ。

(…………え?)

 視界が暗くなり、柔らかいものが唇に触れる。
 宗助は目を見開いた。
 触れたものが紫苑の唇だと気づいたのは、紫苑の唇が離れ、顔にかすかな吐息がかかった瞬間だった。

 紫苑の涙に濡れた瞳が、真っすぐ宗助に向けられる。
 紫苑の唇はかすかに震えていた。
「私と一緒に…………逃げてくれないか……? 私とともに……」
 紫苑はそこまで言うと目を伏せた。
 長い睫毛が顔により暗い影を落とす。

「一緒に……逃げる……?」
 宗助はかすれた声で呟いた。

 紫苑の伏せられた睫毛がわずかに揺れる。

(一緒に……逃げる……)
 宗助の見開いた瞳が揺れ動く。
(ああ、そうだ……。逃がすことができるのなら、逃がしてやりたい……そう思っていた……)

 宗助は紫苑の細い肩を抱きしめようと手を伸ばした。
(大丈夫だと言ってやりたかった……。俺が守ってやると言いたかった……)

 その瞬間、宗助の脳裏に悲惨な光景が浮かぶ。

 投獄され裁きを受ける紫苑の父親、罪の問われ故郷を追われる奉公人たち、打ち首になる宗助の家族……。そして、捕らえられ殺される紫苑の姿。

 宗助は息が苦しくなり、思わず伸ばしかけた手で胸を押さえた。

(逃げきることなんてできるのか……? 俺は……本当に紫苑を守りきることができるのか? 周りをすべて犠牲にして……紫苑さえも不幸にすることにならないか……?)

 宗助の手がゆっくりと畳に落ちる。
 息が苦しかった。

(大奥に行けば、少なくとも追われて死ぬことはないはずだ……)

 宗助は震える唇を動かす。

「紫苑……、ダメだ……。……みんな……不幸になる……」
 口にした瞬間、宗助は自分の発した言葉の意味に愕然とした。
「あ、ち、違……!」

「みんな……?」
 紫苑のかすれた声が、宗助の耳に響く。
 硝子のような二つの瞳が宗助に向けられ、大きく揺れた。
 紫苑を支えていた何かが壊れたように、紫苑の顔がゆっくりと歪む。

「違う! ……そういう意味じゃ……!」

 紫苑は表情を隠すように顔をそむけると、立ち上がり背を向けた。

「紫苑……! 違う……」
「いいんだ。最初からわかっていた……」
 紫苑は背を向けたまま言った。
 その声は不自然なほど明るかった。
「おまえが不幸になることはしない」

「紫苑! 違うんだ! そういう意味じゃ……」

「ただ、さ……」
 紫苑はそう言うと、少しだけ宗助を振り返った。
「私の幸せを……おまえが語るなよ……」
 紫苑は笑った。その顔は宗助が今まで見たどの顔よりも寂しげで、笑顔のはずなのに、泣いているようでもあった。

 紫苑はそれだけ言うと、そのまま廊下に向かった。
「違う……! 紫苑…………」
 宗助が紫苑に向かって伸ばした手は、わずかに紫苑には届かなかった。

 紫苑はそのまま宗助の部屋を後にした。

 宗助は頭を抱えてうずくまる。
「違うんだ……。紫苑、俺は…………」
 叫び出したいほどに胸が痛かった。
 この胸の痛みの意味を宗助自身もう十分に理解していたが、想いが言葉になることはついになかった。