「人質……みたいなものでしょうか……?」
 奉公人の男はそう言うと目を伏せた。
「人質……」
 宗助は足元を見る。
 絶望的な言葉に、体が鉛のように重くなっていくのを感じた。

 紫苑の部屋を出た後、宗助は江戸に同行していた奉公人の男を訪ね、紫苑のことを聞いた。
 なぜ紫苑が大奥に入ることになったのか、まずは事情が知りたかった。

「今の奥様が江戸にいらっしゃるのは知っていますよね?」
 宗助は静かに頷く。
 幕府との取り決めで、大名の正室と世継ぎは江戸で暮らさなければならないことは、農家の出の宗助でも知っていることだった。
「この屋敷にはお世継ぎがいません。ご正室だった姫様のお母様が亡くなられて、今の奥様は正室として江戸で暮らしてもらうために籍を入れたという裏事情もあったのです……。しかし、将軍家から見ると人質としては不十分だったのでしょうね……」

(そんな事情が……)
 宗助は目を伏せた。

「それに加えて、将軍家は今、なかなかお世継ぎができず困っている状況です。亡くなられた奥様に似ている姫様の美しさは江戸でも有名ですから……。大奥に入ってもらえれば世継ぎが生まれる可能性も高まり、人質にもなっていいと考えたのでしょう」
「そう……なのですね……」
 宗助は気づかないうちに拳を握りしめていた。

「うちの藩は大きくなり過ぎました……。姫様がほかの大名家の次男や三男を婿養子に迎えることがあれば、大名同士の結びつきが強くなり、幕府にとっての脅威になるとも考えたのでしょう。御前様はそんな気はないと示すために、貧しい武家の息子とのお見合いを組んでみせていたのですが、納得しなかったようですね……」
 男は悲しげに微笑んだ。
「お見合いはそういう意味もあったのですね……」
「ええ」
 男はそっと頷いた。

「拒むことは……?」
 宗助の言葉に、男は悲しげに微笑むと首を横に振った。
「できません。江戸で御前様がずっと交渉を続けても覆らなかったのです。拒めば将軍家に背いたとして、この家ごと取り潰しになってもおかしくありません」

 宗助は目を閉じた。
(どうすることもできないのか……?)

「将軍家への輿入れ自体は名誉なことではありますが……」
 男は目を伏せた。
「姫様は決して望まないでしょうね……」

 宗助は何も言えず、ただうつむいた。
 大奥に入れば、もう二度と屋敷に戻ることもこの地に帰ることもできない。
(俺が言った、嫁に行くまでっていうのは、こういうことじゃないんだよ……)
 宗助はきつく目を閉じた。
(誰かに愛され守られて、ただ幸せになってほしかっただけなのに……)

 人質という言葉が、宗助の胸に重くのしかかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 食事の時間となり、宗助は再び紫苑の部屋を訪れた。
 破れた着物や割れた花瓶は片付けられ、部屋はいつもの状態に戻っていた。
 部屋の片隅で、紫苑が生気のない顔で座り込んでいる。

 紫苑の前に食事の膳を運んだ宗助は、思わず目を伏せた。
 部屋に入る前に声は掛けていたが、紫苑は宗助が部屋に入ったことにも気づいていないようだった。

「紫苑……」
 宗助がかすれた声でそっと呼びかける。
 紫苑の瞳がゆっくりと動き、宗助に向けられた。
「ああ、宗助か……」

「食事だ……」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。
 紫苑の口元に薄っすらとした笑みが浮かぶ。
「もうそんな時間か……。悪いが食欲がない、下げてくれ」

「紫苑、少しだけでも食べないと……」
 宗助は茶碗を持つと箸でご飯を少しだけすくい、紫苑の口元に運んだ。

「……病人にでもなった気分だな……」
 紫苑は宗助を見てかすかに笑うと、小さく口を開けてご飯を口に含んだ。
 ゆっくりと紫苑の口が動き、異物を飲み込むようにゴクリと喉が鳴る。
「もう大丈夫だ……。ありがとう……」
 紫苑は宗助に向かって微笑んだ。

「宗助は甲斐甲斐しいな……。私の女中になってほしいくらいだ……。女装して一緒に来るか……?」
 紫苑は乾いた笑いを浮かべる。
「ふふ、冗談だ……」

「紫苑……」
 宗助は茶碗を膳に戻すと、紫苑をそっと抱き寄せた。

 紫苑の体がビクリと震える。

「どうした……? 弟を嫁に出すような気持ちになったのか……?」
 紫苑の声は震えていた。
 宗助は何も言えず、ただ腕に力を込める。
(俺は……)

「ふふ、温かいな……。弟だと思ってもう少しだけ、このままでいてくれないか……?」
 紫苑は絞り出すような声で言った。
「……ああ」
 宗助はかすれた声で呟き、目を閉じた。

(紫苑、俺は……)
 宗助の想いは言葉になることはなく、ただ宗助の胸を締めつけ続けていた。