(視線を感じる……)
 廊下で奉公人の女と話していた宗助は、視線を感じて思わず振り向いた。
「なんだ……。しお……姫様か」
 廊下の曲がり角から顔を出し、紫苑がジトっとした目で宗助を見ていた。
(あいつ、何やってるんだ……?)
 宗助は首を傾げながら、奉公人の女の方に視線を戻す。

「どうかしましたか?」
 女は背伸びをして宗助の肩越しに廊下の角を見た。
「あ、ひ、姫様ですね! 何かご用があるのかもしれません……! 宗助さん、私の用事はもう大丈夫ですので、行ってください!」
 女は少し慌てたように言った。
「え? いいんですか? 何か用事があって俺のことを呼んだんでしょう? まだ用件を聞いていませんが……」
 先ほどから女は雑談ばかりで、宗助はまだ用件だと思われる話を聞いていなかった。

「あ、いえ! また今度で大丈夫ですから! では、私はこれで……」
 女はそれだけ言うと、そそくさと廊下の向こうに去っていった。
「なんだったんだ……?」
 宗助はひとり呟くと、辺りを確認してゆっくりと振り返った。

「おい、紫苑。そんなところで何やってるんだよ……」
 周りに人がいないことは確認したが、念のため宗助は声を抑えて紫苑を呼んだ。
 紫苑はジトっとした目のまま、ゆっくりと宗助に近づいてきた。
「宗助こそ、こんなところで何をやっていたんだ?」
 紫苑は宗助の目の前に立つと、なぜか少しムッとした顔で宗助を見上げた。
「何って、用事があるって言われたから、それを聞きに来たんだよ」
「ほ~、用事ね。その用事は聞けたのか?」
 紫苑はじっと宗助を見つめる。
「いや、おまえが来たからまた今度でいいってさ。で、おまえは何か用だったのか?」

 宗助の言葉に、紫苑は深いため息をついた。

「おいおい、なんだよ……」
「おまえはどうして、そうなんだ……」
 紫苑が小さく呟く。
「え? なんだって?」
 宗助は体を傾けると、紫苑の口元に耳を寄せた。
「……!? だ、だから! どうしておまえはそんなに鈍いんだって言ったんだ!!」
 紫苑は宗助の耳元に向かって大声で言った。
「!? おまえ、声が大きいよ……」
 宗助は慌てて紫苑から顔を離すと、耳を手で覆った。

 紫苑はフンと鼻を鳴らす。

「まったくおまえは……。俺が鈍いってどういう……」
「おまえはああいう女が好きなのか?」
「は?」
 宗助は目を丸くする。
「ああいうちょっと間の抜けた感じで、思わず手を貸してやりたくなる、ちょっとだけ顔が可愛い女が好きなのか?」
「おい、おまえ半分くらい悪口だぞ……それ」
「どうなんだ?」
 紫苑はじっと宗助を見つめた。
「好きかって……別に好きとかは……。ああ! そうか! 大丈夫だ、おまえの方が顔は可愛いぞ」
 宗助はそう言うと、紫苑の頭をポンポンと叩いた。
(なんだ、自分の方が可愛いと言ってほしかったのか)
 宗助がひとり納得していると、紫苑の拳が小刻みに震えているのが目に入った。
(ん……?)

「……違う」
 宗助に頭を叩かれながら、紫苑が低い声で呟く。
「え?」
「違う!! そんなふうだから鈍いって言ったんだ! 私はもう十五だぞ!」
「そ、そうだな……」
 宗助は慌てて両手を上げた。

「もう大人だ!」
「……大人かどうかは……」
 宗助は思わず視線をそらす。
「それになんだ、『()()』って!」
「それは特に深い意味はないが……」

 紫苑はもう一度深いため息をついた。

「宗助、おまえいくつになった?」
「え? 俺? ……えっと、二十七……あれ二十八だったか?」
 宗助は指で数えながら答えた。

「おまえ、身を固める気はないのか?」
 紫苑は宗助を真っすぐに見た。
「身を……固める……? 俺が!?」
 宗助は目を丸くする。
「考えたこともないな……。家への仕送りもあるし、自分のことで精一杯だ。ほかの誰かを幸せにする余裕は俺にはないよ」
 宗助は苦笑した。

 紫苑は目を伏せた。
「そうか……。わかった……」
(ん? 何がわかったんだ??)
 宗助は首を傾げる。
「えっと……、紫苑?」
 宗助は紫苑の顔をのぞき込む。

「それなら」
 紫苑は宗助の目を真っすぐに見た。
「私がおまえを幸せにしてやる」

 宗助は目を見開く。

「私がおまえを支えてやる。おまえの家族もみんな。だから、安心して婿に来い」
 紫苑の目には強い決意の色があった。

「……え?」
 宗助は呆然と紫苑を見つめた。
(婿……? 俺が……??)

「よし、そうと決まれば、父上に報告してくる」
 紫苑は身を翻すと廊下を進み始めた。

「……え? え!? ちょ、ちょっと待て! 紫苑!!」
 宗助は慌てて紫苑に駆け寄る。
「おまえ、俺をクビにするつもりか!? そんなの認められるわけないだろう!?」
「そうか? この家は跡取りもいないし、婿養子は認められそうだが……」
「いやいや、婿養子は認められるかもしれないが、俺じゃダメだろ! 奉公人だぞ? 俺はそんな身分じゃない」
「そんなの関係さ」
「関係ある! 絶対あるから! 今回は本当にダメだ!」
 宗助の言葉に、紫苑は不満げな顔をした。
(これは全然納得してないな……)

「わ、わかった。こうしよう! もしおまえが結婚したいと思えるやつがずっと現れなくて、もう一生結婚できる気がしないと思ったときには、また話しをしよう」

 紫苑の顔はまだ不満そうだったが、渋々といった様子で口を開いた。
「わかった……。そのあいだ、ずっとそばにいてくれるか? 私を置いてほかの者と結婚するのもダメだぞ」
「ああ! 身を固めるなんて考えたこともないし、もともと嫁に行くまでそばで守ってやると約束しただろう? 」
 紫苑はゆっくりと目を伏せる。
「わかった……。絶対だからな」
 紫苑はそう言うと、ひとりで廊下を歩きだした。
 しばらく歩くと、紫苑はジトっとした目で宗助を振り返る。
「絶対だからな……」
「わかったって……」
 宗助は苦笑する。
 紫苑は何度か不満げな顔で振り返りながら、廊下を曲がりその場から去っていった。

「なんだったんだ、一体……」
 ひとりになると、宗助は額に手を当ててため息をついた。
「それにしても……」
 宗助は思わず微笑んだ。
「幸せにしてやるなんて初めて言われたな……」
 そんな日が来ることはないとわかっていたが、紫苑が幸せにしてくれようとしたことがただ素直に嬉しかった。

 宗助は目を閉じると、そっと笑った。
「今でも十分楽しいし幸せだよ、紫苑」
 宗助の胸は温かく、不思議なほど満ち足りていた。