足元に薄紅色の花びらが落ちていた。
 宗助が顔を上げると、道の先に薄紅色の花を咲かせた桜が、風で揺れているのが見えた。
「ほら、もう少しだ。大丈夫か?」
 宗助は菅笠(すげがさ)を被った紫苑の顔をのぞき込むように言った。
「ああ、大丈夫だ」
 紫苑は少し疲れているように見えたが、宗助の顔を見ると微笑んだ。
 紫苑は被っていた菅笠を取ると、遠くに見える桜並木を見た。
「綺麗だな……」
 紫苑が小さく呟く。

「やっぱり、おまえは駕籠で来た方がよかったんじゃないか?」
 宗助は心配になり、紫苑を見つめた。
 紫苑は宗助に視線を戻すと、首を横に振る。
「自分の足で来るから意味があるんだ」
 紫苑はそう言うとにっこりと微笑んだ。

 紫苑は長い髪を後ろでひとつに束ね、菅笠を被った旅装束だったが、身に纏っているのは女物ではなく男物の服だった。
(姫様だとわからないように男装するのは正解なのかもしれないが……。そもそも駕籠に乗れば綺麗な着物で来れたんじゃないのか? せっかくの花見なのに……)
 宗助がそんなことを考えながら紫苑を見つめていると、紫苑がフッと笑った。
「私が着飾って来たら、花が見劣りしてしまうだろう?」
 紫苑の言葉に、宗助は苦笑した。
「大丈夫だ。おまえがいくら着飾っても桜の方が綺麗だよ」
 紫苑はジトっとした目で宗助を見る。
「おまえは……本当にひどい男だな」

 風が吹いて、紫苑の横を桜の花びらが通り過ぎていく。
 進むにつれて、道は花びらを敷き詰めたように薄紅色に染まっていた。


「なぁ、宗助。おまえの一番好きな花は何だ?」
 紫苑は道の先にある桜を見つめながら言った。
「なんだ? 唐突に……」
 宗助は目を丸くした後、紫苑と同じように桜を見た。
「花ねぇ……。まぁ、桜かな……。そんなこと考えたこともないから、アレだけど……」

 紫苑は宗助を見るとフッと笑った。
「やっぱり紫苑じゃないか……」
「紫苑? 紫苑って、花の?」
 紫苑はこの地方に自生している薄紫色の小さな花だった。
 宗助の生家は山の上の方にあるため、野原一面に咲く紫苑の花は宗助にとっては見慣れたものだった。

「紫苑が一番好きなんて言うやつ、滅多にいないだろ……」
 宗助の言葉に、紫苑は唇を尖らせる。
「その言い方は傷つくなぁ」
「は? …………花の話だろ?」
 紫苑は唇を尖らせたまま、桜に視線を移した。
「ああ、花の話だ」

(なんで拗ねるんだよ……)
 宗助は軽くため息をつくと、頭を掻いた。
「まぁ、別に俺だって紫苑は嫌いじゃないよ。小さくて可愛い花だし……。咲いてるのが当たり前だったから好きとかあんまり考えたことないけど……」
 宗助が花を思い出しながら話していると、ニヤニヤしながら宗助を見ている紫苑と目が合った。


「…………花の話だぞ?」
「ああ、花の話だろ?」
 紫苑は軽く笑ってから、視線を上げる。

 二人はいつの間にか桜並木の横を歩いていた。
 強い風で花びらが舞い上がり、まるで空から花びらが降り注いでいるようだった。
「綺麗だな……」
 宗助は思わず呟いた。

「おまえの一番好きな花だもんな」
 紫苑は宗助を見て微笑んだ。
「それはもういいから……」
 宗助は苦笑した。


 紫苑は宗助を見た後、桜の木を見上げた。
「……紫苑は、母上が好きな花だったんだ」
 宗助は紫苑の横顔を見つめる。
 紫苑の瞳はどこか遠くを見ているようだった。

「私の名は、花の紫苑からつけられている。名には願いが込められるというだろう? だから私は、紫苑の花のような人になりたいんだ。母上の愛した花のような人間に……」

 宗助は目を伏せた。
(そういうことか……)
 宗助は小さく息を吐いた。
「悪かったな……。滅多にいないなんて言って……」

 宗助の言葉に、紫苑は視線を宗助に移すとニヤリと笑った。
「まぁ、紫苑が一番好きと言う物好きもいるってことだ」
「いや、俺は物好きとまでは言ってないから……」

 紫苑はフッと笑うと、少し足取りを速め、軽い足取りで宗助の前を歩いた。

(あれ……?)
 紫苑の歩き方を見て、宗助はふと違和感を覚えた。

「なぁ、紫苑……」
 宗助の言葉に、紫苑が笑顔で振り返る。
「なんだ?」

「おまえ……足痛めてないか?」

 紫苑の顔が一瞬引きつったのがわかった。
(ああ、やっぱり……)
 宗助はため息をつく。

「な、なんのことだ……? 足なんて全然……」
 紫苑は慌てたように前を向くと、そのまま歩いていこうとした。

「紫苑、帰るぞ」
 宗助は立ち止まると、紫苑に声を掛けた。
 その声に、紫苑も足を止める。
 先ほどまでとは打って変わった暗い表情で紫苑がゆっくりと振り返った。

 宗助は紫苑に駆け寄ると、屈んで紫苑の足元を見る。
 草履の鼻緒が擦れて、足袋にわずかだが血が滲んでいた。
「なんで言わないんだ……」
 宗助は紫苑を見上げる。

「そ、そんな大したことじゃない……。まだ着いたばかりじゃないか……」
 紫苑は縋るように宗助を見つめた。

「ダメだ。もう帰るぞ」
 宗助の言葉に、紫苑は額に手を当てた。

「ああ、なんだってこいつは、余計なことには気づくんだ……」
 紫苑は小さな声で呟く。
「何か言ったか?」
 宗助がジトっとした目で紫苑を見る。
「いや、なんでもない……」
 紫苑は唇を尖らせながら言った。


「ほら、負ぶってやるから。帰るぞ」
 宗助はそう言うと、屈んだまま紫苑に背を向けた。

「……昨日、負ぶってやらないぞって言ってなかったか?」
「おまえだって昨日、それはそれで面白そうだって言ってただろ? ほら、早く」
 宗助は、軽く振り返ると紫苑を促した。
 紫苑が長い息を吐いたのがわかった。

 宗助の背中に温かいものが覆いかぶさる。
(軽いな……)
 宗助は、ゆっくりと立ち上がった。
「しっかり掴まってろよ」
 宗助は背中にいる紫苑に声を掛けた。
「ああ」
 紫苑が小さな声で応えた。

「……こうやって歩いていると、弟を負ぶっていた頃を思い出すな」
 宗助が桜を見上げながら、そう小さく呟くと、突然後ろから強い力で髪を毟られた。
「痛っ! おい、何するんだよ!?」
 宗助が首を捻って紫苑を見る。

「ん? 桜の花びらが髪についていたから、取ってやっただけだが?」
 紫苑は意味がわからないとでも言うように、可愛らしく首を傾げた。
「嘘つけ! そんな繊細な触り方じゃなかったぞ! 絶対悪意を持って髪を毟っただろ!」
「そんなわけないだろ? ほら、そんなことよりちゃんと前を向いて歩け。危ないぞ」
 紫苑の言葉に、宗助は渋々前を向いた。

「何なんだよ……、まったく」
 宗助がそう呟いたとき、紫苑は小さくため息をついた。

「なんで、こういうことには気づかないんだよ……」
 紫苑の呟きは風の音に掻き消され、宗助の耳には届かなかった。