「ご存じなかったんですか? 姫様のお母様は姫様が生まれてすぐ亡くなっているんです」
「え?」
 奉公人の男とともに、座敷で書き物の仕事を手伝っていた宗助は、思わず手を止めた。
「え、では今の奥方様は……?」
 男も手を止めると、顔を上げて宗助を見た。
「姫様のお母様が亡くなられてからご結婚された方です。ご結婚されたのも割と最近なんですよ」
「ああ、そうなんですか……」
 宗助は目を伏せた。
(だから、あんなに寂しげだったのか……)

「では、姫様は……」
 宗助は少し声をひそめた。
 宗助の表情を見て何かを察した様子の男は慌てて口を開く。
「いえいえ! 今の奥方様と姫様の仲はとても良いんです! 本当の親子とまではいかないかもしれませんが、ご友人のようによくお話しされています!」
「あ……、そうなんですか?」
「ええ。……むしろ、ぎこちないのは御前様と姫様の方ですね……」
 男は少し目を伏せた。
「え、どうしてですか? 御前様は実の父親なのでしょう?」
 宗助は首を傾げた。

 男はゆっくりと息を吐くと、静かに口を開いた。
「御前様は……姫様のお母様を心から愛していらしたので……。お亡くなりになったときの悲しみようは本当に見ていられないほどのものでした」
 男はそこで言葉を切ると、宗助を見て悲しげに微笑んだ。
「姫様は、亡くなられた奥方様に生き写しなんです。姫様を見ると思い出してしまうようで……。あ、もちろん姫様のことは愛していらっしゃいますよ! お子様は姫様ひとりですし! ただ……どう接していいかわからないようで……」
 男はそこまで言うと目を伏せた。

(そういうことか……)
 宗助は年の割に随分と大人びている紫苑の顔を思い浮かべた。
(大名屋敷のお姫様でも、幸せとは限らないってことか……)
 宗助は静かに目を閉じた。

「そういえば、宗助さんはここに来て五日ですが、姫様と仲が良いそうですね」
 男は宗助を見てにっこりと微笑んだ。
「え、いえ……、仲が良いというわけでは……」
 宗助は慌てて首を横に振った。
「そうですか? こんなに姫様が奉公人を呼び出すことは今までなかったので。それに、宗助さんといるときの姫様は今までより少し幼いというか……、子どもらしい一面が見られて、みんな喜んでいるんです」
「え!? 子どもらしい一面ですか!?」
 宗助は目を丸くする。
(俺の前でも随分大人びていると思うが……。一体今まではどんなふうに周りと接してきたんだ……)

 そのとき、襖が開く音がした。
「あ、ここにいたのですね、宗助さん。姫様がお呼びです」
 宗助が振り返ると、紫苑付きの奉公人の女がこちらを見ていた。

 男がクスリと笑う。
「噂をすればですね。こちらはもう大丈夫なので行ってください」
「あ、はい。すみません……」
 宗助はそう言うと、残っていた書き物を男に渡し、硯と筆を持って立ち上がった。
「姫様をよろしくお願いします」
 男が宗助に向かってにっこりと微笑む。
「? あ、はい……」
 宗助は一礼すると、硯と筆を片付け、紫苑の部屋に向かった。
  


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「失礼します。お呼びですか、姫様」
 紫苑の部屋の襖を開けると、宗助はいつものように頭を下げた。
「ああ、宗助に聞きたいことがあってな」

 宗助が顔を上げると、部屋には何着もの着物が並べられていた。
「これは?」
 宗助は首を傾げる。
「明日着る着物を選んでいたんだ。おまえに決めてもらおうと思ってな」
 そう言いながら宗助に駆け寄った紫苑は、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ? 私の顔に何かついているか?」
「あ、いや……」
 宗助は慌てて目をそらした。
「そんなことより、明日は何かあるんですか?」

「明日は父上が屋敷に帰ってくるからな。出迎えの着物を……って、さっきからなんだその顔は……」
 紫苑は呆れたような顔で宗助を見た。
「それに今は二人だから敬語はやめろ」

「あ、いや……、俺そんなに変な顔してたか?」
 宗助は苦笑する。
「ああ、不安げというか心配そうというか……変な顔だ」
 紫苑は腕組みをして宗助を見上げる。
「ああ……えっと……、おまえと御前様のことを少し聞いて……」
 宗助は思わず視線をそらしながら頭を掻いた。

 紫苑の目がわずかに見開かれる。
「ああ、そんなことか!」
 宗助が拍子抜けするほど、紫苑の反応はあっさりとしたものだった。
「心配してくれていたのか? 私は大丈夫だ。父上の気持ちはよくわかるし、理解もしている」
 紫苑はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。心配してくれて」

 紫苑の言葉に、宗助は紫苑を見つめた。
 宗助の視線に気づき、紫苑は首を傾げる。

「理解していたとしても、寂しいものは寂しいだろ?」

「……え?」
 紫苑の瞳がわずかに揺れる。

「理解しているからって、そんな割り切れるものじゃないだろ? あまり無理はするな。おまえはまだ子どもなんだ。甘えていい年なんだから」
 宗助はそう言うと紫苑の頭をそっと撫でた。

 茫然と宗助を見つめていた紫苑は、しばらくするとわずかに口元を緩めた。
「そうか……。私は……寂しかったのか……」
 紫苑は小さく呟くと、フッと笑った。

「それで? 私が寂しかったら慰めてくれるのか? では、寂しくないように抱きしめてくれないか?」
 紫苑はそう言うと、悪戯っぽく笑った。

 紫苑は宗助に向かって両手を広げる。
「ほら、早く。フフ、できないなら……」


 その瞬間、紫苑は温かいものに包み込まれた。


「え……?」

 気がつくと、紫苑は宗助の腕の中にいた。
 宗助の手がそっと紫苑の頭を撫でる。
 宗助の腕の中で、紫苑が息を飲んだ。

「ほら、これでいいか? 俺はおまえがお嫁に行くまで、奉公人としてそばにいるから。おまえの親……みたいな存在になってやるから……ちゃんと甘えることも覚えるんだぞ」

「…………親」
 紫苑はそう呟くと、長いため息をついた。
「宗助……、もう大丈夫だ……」

 宗助がゆっくりと体を離す。

「親ね……」
 紫苑はジトッとした目で宗助を見た後、もう一度ため息をついた。
「まさか本当に抱きしめるとは……。しかも親って……。ホント……今に見てろよ……」
 紫苑の声は小さく、その声は宗助の耳には届かなかった。
「え? なんだって?」
 宗助は紫苑の言葉を聞こうと、紫苑の口元に耳を寄せた。

「なんでもない……」
 紫苑は疲れたような顔でそう言うと、宗助に背を向けた。
「では、私が嫁に行かなかったら、おまえは一生そばにいてくれるんだな?」
「え!? それは……」
 宗助が慌てて口を開くと、紫苑は振り返りニヤリと笑った。

「約束だからな」
 紫苑はそう言うと鼻歌交じりに、部屋の襖に向かう。
「末永くよろしく頼むぞ、宗助」
 紫苑はそう呟くと、振り返らず部屋を後にした。

「末永くって……」
 ひとりになった部屋で、宗助は頭を掻く。
「まぁ、でも……、少しでも紫苑の寂しさが紛れれば……」

 宗助はふと故郷にいる兄と弟を思い出した。
(あいつらも元気でやってるかな……)

 しばらく物思いに耽っていた宗助は、静かにため息をついた。
(仕事しよう……)
 宗助は部屋一面に広げられた着物を見て、もう一度ため息をつくと、慎重に着物を片付けていった。