波の音が響いていた。
(ここは海が近いな……)
 宗助(そうすけ)は松林の向こうにかすかに見える海を横目に、真っすぐな道を歩き続けていた。
 吹きつける強い風から、海の匂いがした。
(このへんのはずなんだが……)
 宗助は紙に書かれた地図に視線を落とした。
 乱雑に書かれた地図からは海の近くにある大きな屋敷ということしか読み取れなかったが、場所はこのあたりで間違いないはずだった。

 宗助は地図を畳んで懐に仕舞うと、そっとため息をついた。
(大名の屋敷なんて……俺なんかが果たしてやっていけるんだろうか……)

 宗助はもともと農家の次男だった。
 武家の屋敷に奉公に出て七年、どういった事情か宗助にはわからなかったが、大名の屋敷の奉公人として推薦された。
(どうして俺が選ばれたんだろうな……。もう二十二でそんなに若くもないんだが……)
 宗助は、自分でも器用である自覚はあった。
 教えられればどんなことでもある程度までできる自信はある。
 しかし、大名の屋敷に呼ばれるほど秀でたものがあるかと聞かれれば、宗助には思い当たることがなかった。
(まぁ、金が稼げれば何でもいいけど……)
 宗助がそんなことを考えていると、遠くに屋敷らしきものが見えてきた。
(ああ、あれか……)

 白い塀に囲まれた巨大な屋敷は、大名屋敷と呼ぶに相応しい佇まいだった。
(約束の時間にはまだ早いけど……。まぁ、早いに越したことはないだろう……)
 足取りは軽いわけではなかったが、早く挨拶を済ませてしまいたいという思いから、宗助の足は自然と速くなっていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 大名屋敷での挨拶は、宗助が拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
 宗助が呼ばれた理由も単純に人手が足りないだけだとわかった。
 くわしい仕事の話は明日するから、今日はもう休んでいいという優しい言葉をもらい、宗助は早々に通された部屋を後にすることになった。
(みんな良い人そうだし、思ったより居心地も悪くないかもな……)

 宗助がそんなことを考えながら屋敷の廊下を歩いていると、少し先の中庭で素振りをする少年の後ろ姿が目に入った。
 長い髪を後ろで束ね、袴姿で一心不乱に木刀を振っている。

(誰だ……あれ。奉公人なのか……?)
 宗助は少年をじっと見つめる。
 少年の木刀を持つ佇まいは美しかった。
(筋は良さそうだな……)

 幼い頃、家の近くに住んでいた老人に気に入られ、剣術の指導をされた宗助には多少の心得があった。
(うん、綺麗だ……)
 少年の剣術は構え方も型も、非常に綺麗だった。

 少年の横を通り過ぎるとき、宗助は軽く会釈をした。
(誰かわからないが、とりあえず礼儀正しくしておいて損はないだろう)
 少年が宗助の方を見たのが気配でわかった。

 顔を上げた宗助が少年の横を通り過ぎようとしたとき、落ち着いた声が響く。
「そこの人」
 宗助はゆっくりと振り返った。
「ちょっと相手をしてくれないか?」

 宗助はそのとき初めて少年の顔を見た。
 少年は、驚くほど整った顔立ちをしていた。
 宗助は目を丸くする。
(大名屋敷ともなると、奉公人もこんなに品があるのか……?)
 白い肌に切れ長の目、影ができるほどに長い睫毛、真っすぐに伸びた背筋。
 これほど美しい少年を宗助は今まで見たことがなかった。

 宗助が呆然としていると、少年が形の良い唇を尖らせる。
「聞いているのか? ちょっと相手をしてくれと言ったんだ」
「え?」
 宗助が思わず声を漏らすと、少年は木刀を差し出した。
「剣術、できるだろう? 相手をしてくれ」
「え、ああ……」
 宗助は戸惑いながら頷いた。
(どうしてわかるんだ……?)

 中庭に降りるための草履がないことに気づき裸足で降りようとすると、少年は少し離れたところに置かれていた草履を宗助の足元に置いた。
「合わないかもしれないが、これを使ってくれ。手合わせしてもらっていた者に逃げられてな……」
 少年は苦笑した。
「ああ、そうなのか……。ありがとう」
 宗助は、草履を履くと木刀を受け取った。

(近くで見ると一層綺麗だな……)
 肌は近くで見ても白く澄んでいて、目鼻立ちは近くで見るとより華やかだった。

 木刀を渡した少年は、距離をとって宗助と向かい合うように立つ。
「先に一本入れた方が勝ちだ」
 少年はそう言うと、木刀を構えた。
「ああ、わかった」
 宗助も木刀を構える。
(木刀を持つのは久々だな……)
 宗助は木刀を握る手に力を込めた。
 久しぶりの感覚に、自分でも少し高揚しているのがわかった。

「では、行くぞ」
 少年は一歩踏み込むと、木刀を振り上げた。

(ああ、やっぱり綺麗だな……)
 少年の剣術は基本に忠実で、とても美しいものだった。
(一旦受けるか)
 宗助は木刀で、少年の一撃を受け止めると軽く弾いた。
 弾いたところで隙ができるかと思ったが、宗助の動きは予想の範囲内だったようで、少年はすぐに体制を立て直すと、一瞬で胴に向けて木刀が振られた。
(速さもあるな……。けど……)
 宗助はそんなことを考えながら、少年の手首を木刀ですばやく叩いた。

 カランっという音を立てて、少年の木刀が地面に落ちる。
 一瞬、二人の間に沈黙が流れる。

「あ、悪い……。痛かったか?」
 宗助は慌てて少年に駆け寄ると、手を取った。
 少年の手首は少しだけ赤くなっている。
「もう少し加減するべきだったか……」
 宗助がそう呟くと、少年はフッと笑った。
「いや、十分手加減してくれたんだろう? ありがとう。やっぱり強かったか」
 少年はなぜか嬉しそうに笑った。
 笑った少年の顔は年相応にあどけないものだった。
 宗助はその表情に少しだけドキリとして、思わず少年の手を離した。
「あ、いや……おまえの方が若いのにすごいよ。型も綺麗だし」
「そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう」
 少年はにっこりと笑った後、少しだけ目を伏せた。

「……なぁ、おまえはどう思う? この平和な時代に剣術なんて必要ないと思うか? ただのお遊びだと……そう思うか……?」
「え?」
 宗助は思わず少年の顔を見つめた。
(なんだ? 誰かに何か言われたのか……?)
 少年は少し悲しげに微笑んだ。
「わかっている。必要になる日なんて来ないかもしれないって。それでも……」
 少年はそう言うと、落とした木刀を拾い上げた。

 宗助は少年を見つめる。
「必要になる日が来ないなら、それはそれでいいんじゃないか?」
「え?」
 少年は顔を上げると宗助を見つめた。
「平和ならそれに越したことはない。ただ、大切なものを守れる力は持っておいた方がいいとは思う。遊びじゃない。どんな時代でも大事なものを守る力は必要だろう?」

 少年は目を見開いた後、軽く微笑んで目を閉じた。
「……ああ、そうだな」


「な、何をしているのですか!?」
 突然、大きな声が響いた。
 宗助が驚いて声の方を見ると、廊下に立っていた奉公人の女が裸足で中庭に降りてくるところだった。
 宗助は目を丸くする。
「え、裸足……大丈夫……ですか?」

「そ、そんなことどうだっていいのです! 何をしているのですか姫様(ひいさま)!?」
 女は、少年に向かって言った。
「今日はもうダメだと言われたではありませんか!」

 少年は苦笑する。
「悪かった。ちょっと素振りをしていただけだ」

 宗助は呆然と二人を見つめる。
(え? ひい……さま? え……、姫様(ひいさま)!?)

「と、ところで、こちらの方はどなたですか……?」
 女は怪訝な表情で宗助を見た。
「ああ、そういえば名前を聞いていなかった。名は何というんだ?」
 少年は嬉しそうに宗助に視線を向ける。

「え、あ……宗助…………です」
「宗助か、いい名だな。私は紫苑(しおん)だ」
「あ……はい」
 宗助は呆然としたまま頷いた。

「姫様、見たことのない男ですが……怪しい者ではないのですか?」
 女は紫苑の耳元で小さく呟く。
「屋敷を普通に歩いていたんだ。きっと新しく来た奉公人なんだろう。なぁ?」
 紫苑はにこやかに宗助に問いかけた。
「あ、は、はい! 今日来たばかりで……決して怪しい者では……」
 宗助は慌てて口を開く。

「ほらな」
 紫苑はなぜか得意げに言った。
「あ、そうだ。宗助は私に付けてくれ。ちょうど一人辞めたところだし」

「え!?」
 宗助と女は思わず同時に声を漏らす。

「うん、それがいい。父上には私から言っておくから……。あ、そうか、今から言いに行ってくる」
 紫苑はそう言うと、なぜか楽しそうに屋敷に向かって歩き始めた。
「え、ちょっ……待ってください! 姫様!」
 女は慌てて紫苑を追いかけて屋敷の中に入っていく。

 中庭にひとり残された宗助は、理解が追いつかず呆然と立ち尽くしていた。

「え……?」

 宗助のその呟きは誰にも届くことはなく、次の日から宗助は紫苑付きの奉公人として働くことになった。