張見世に咳き込む音が響いていた。
「鈴、大丈夫?」
 美津が声をひそめて鈴に聞いた。
「大丈夫……。ごめんね」
 鈴は美津に向かって微笑む。
音羽(おとわ)、客だ」
 男衆が鈴に声をかけた。
 音羽とは鈴の妓名だった。
「また? 鈴は今戻ってきたばかりなのに……」
 美津が小声で呟く。
「仕方ないよ。行ってくるね」
 鈴は美津に微笑むと立ち上がった。
蜜葉(みつは)も客だぞ」
 後ろで美津も呼ばれるのが聞こえた。

 もう二年近く、この繰り返しだった。
 張見世に出て、客がつくと座敷にあがり、客が帰るとまた張見世に戻り、また客がつく。
 よほど何度も来た客でなければ、鈴は誰が誰だかわからなかった。
 会話らしい会話もなく、ただ繰り返される行為に、鈴は麻痺し始めていた。
 早く一日が終わることを願い、また一日が始まることに絶望した。
 鈴の人気は初めて見世に出たときから衰えることを知らず、気がつけば鈴は自分の座敷を持つほどの売れっ妓になっていた。

「顔色が良くないぞ。大丈夫か?」
 座敷に入ると客の男が口を開いた。
 鈴は顔を上げる。
 よく来る客だったため、鈴は男の顔は覚えていた。
「大丈夫です。いつも心配してくださってありがとうございます」
 鈴は微笑んだ。
「またこんなに痩せて」
 男は鈴の肩や腕に触れながら呟く。
「ふふ、大丈夫ですよ」
 鈴は男の首に腕を回した。
「ちゃんと食べるんだぞ」
 男は鈴を抱き寄せながら言う。
「はい」
 鈴は明るい声で返事をしながら、そっと目を閉じた。
 体を重ねながら鈴は、ただ早くこの時間が終わることだけを願っていた。


 鈴が張見世に戻ると、すぐに美津も張見世に戻ってきた。
「本当に大丈夫なの? かなり顔色が悪いよ」
「うん、ちょっと体がだるいだけで大丈夫だよ」
 鈴は微笑んだ。
「休ませてもらったら? 鈴はほかの子たちの何倍、何十倍って客とってるんだから、さすがに休ませてもらえるよ」
 美津は心配そうに鈴を見る。
「ありがとう……。でも、休むといろいろ考えちゃうから……。いっそ何も考える時間がない方がいいのかも」
 鈴はそう言うと格子の向こうを行き交う人たちを見た。

(もう私は、一生ここから出ることはないのかもしれない……)
 鈴がぼんやりとそんなことを考えていると、ひとつの人影に目が留まった。
 格子からこちらを見ようとできた人だかりの中で、その影だけがずっとこちらを見ているようだった。
 格子の向こうは薄暗く見えにくいため、鈴はじっと目を凝らす。
「!?」
 鈴の目が大きく見開かれる。
「どうしたの?」
 鈴の異変に気づいた美津が声をかけた。
 鈴の顔はみるみるうちに青ざめていく。
(将高様……)
 鈴は思わず口元に手を当てる。
 将高の顔もひどく青ざめているように見えた。

「音羽、客だ」
 鈴に声がかかる。
 鈴は顔を伏せてふらふらと立ち上がった。

「……鈴!」
 背中を向けた鈴の耳に将高の声が届いた。
 鈴は一瞬動きを止めたが、逃げるように張見世を出ていった。
(どうして……)
 鈴は客から見えないところまで来ると思わずしゃがみ込む。
「……こんな姿、見られたくなかったのに……!」
 鈴は両手で顔を覆った。