【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

(これはダメかもしれないな……)
 火こそ見えなかったが、黒い煙はすでに部屋に充満していた。
(一階に続く階段は燃えていたし、窓の格子も私の力では壊せない……)
 咲耶は煙を吸わないように着物の袖で口を覆い、外の空気が入る窓のそばに立っていたが、それでもかなり息苦しくなってきていた。
(これが故意に起こされた火事なら、何か細工されていてもおかしくないしな……。少なくとも階段は使えないし、外から梯子が掛からないところを見ると隠されているのかもしれないな……)
 咲耶は眩暈がして、ずるずるとその場に座り込んだ。

(ここまで煙が充満すると、立っていても意味ないか……)
 咲耶は苦笑した。
(まさか、こんなところで死ぬことになるとは……)
 咲耶は煙を吸い込み、咳き込んだ。
 息をするたびに入ってくる煙でうまく呼吸ができなかった。
(苦しいし、熱いな……)
 咲耶は額の汗を軽く拭う。
 火は見えなかったが、熱さから炎がすぐ隣の部屋まで迫っているのがわかった。
 全身から汗が噴き出す。

(心残りは……意外とないな……)
 咲耶は目を閉じた。
(悔いのないようには生きてきたつもりだし……。やり残したことも……。あ……)
 咲耶はふいに思い出して目を開けた。
(叡正へのお礼……まだ渡していなかったな……。……まぁ、手配はしたから、誰か渡してくれるだろう……)
 咲耶は苦笑した。
(人の最期ってこんなふうなんだろうか……。私がおかしいのか……?)
 咲耶はしだいに瞼が重くなっていくのを感じた。
(後悔はない……。ただ……ああ、そうだ……)

 咲耶の脳裏に、手を差し出して微笑む信の顔が浮かんだ。

(もう一度……笑った顔は見たかったかもしれないな……)



 咲耶が目を閉じた瞬間、聞き慣れた声が耳に届いた。

「……! ……や! ……咲耶!」

(幻聴……か?)
 咲耶は重い瞼を何とか動かす。
 その瞬間、黒い煙の中から、腕と見慣れた顔が現れた。
(……え?)
 薄茶色の髪に薄茶色の瞳。
 見慣れているはずのその顔は、見たこともない悲痛な表情を浮かべていた。
 今にも泣き出しそうな顔が咲耶の目の前にあった。

(あ……お姉さんのことがあるから……)
 咲耶は大丈夫と口にしたかったが、声がうまく出てこなかった。
(言わないと……)
 咲耶がもう一度声を出そうとしたとき、ひんやりとしたものが体を包んだ。
(え……?)
 信の両腕が咲耶の背中に回る。
 壊れ物に触れるように、信は咲耶を抱きしめた。
 炎の熱気の中、信の纏うひんやりとした空気で咲耶は少し呼吸がしやすくなった気がした。

「咲耶……」
 すぐ耳元で絞り出すような、信の声が響く。


「死ぬな……」


 咲耶は目を見開いた。


「頼む……。死なないでくれ……」
 信の声は少しだけ震えていた。

 咲耶は重い腕を動かして、そっと信の背中を撫でる。
 信は弾かれたように体を離し、咲耶を見た。

「……死な……ない」
 咲耶は何とか口を動かすと微笑んだ。
「最初と…………逆だな……」
 咲耶は思わず笑っていた。
「死なない……約束する……から……」
 咲耶は信の頬に手を伸ばそうとしたが、どうしても目が開けていられなかった。
 重い瞼が閉じるのと同時に、咲耶は意識を失った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 叡正は茫然と炎に飲まれていく茶屋を見つめていた。

『伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ』
 ふいに、以前雪之丞に言われたことが頭に浮かんだ。

 叡正は両手で顔を覆う。
(そうだ……。いつだって突然いなくなるって……わかってたはずなのに……)
 背を向けた父の姿、血まみれの母の姿、腕の中で微笑んで逝った妹の姿。
 叡正の脳裏にさまざまなものが浮かんでは消えていった。

(俺はどうして……)

 叡正が顔を上げたその瞬間、バキッという大きな音が辺りに響いた。
 叡正は思わず音のした方に目を向ける。
 そこは二階で唯一まだ炎に飲まれていない場所だった。
 黒い煙に覆われてよく見えなかったが、そこから何か黒い影が落ちていくのが見えた。

「な、なんだ……?」
「何か落ちたぞ……」
 火を消そうとしていた男たちが、何かが落ちた方へと足を進める。


「人だ! 人が……」
 男の一人が明るい声を上げたが、その声は不自然なかたちで途切れた……。

 叡正の目にも黒い煙の中から、誰かがこちらに向かって歩いてきているのがわかった。
(信……なのか……?)
 茶屋の中に入っていたのは、信だけだった。
 煙を抜けると、その姿は叡正の目にもはっきりと見えた。

 信が咲耶を抱きかかえて歩いている。
 叡正は喜びで声を上げそうになったが、実際には口から言葉を発することはできなかった。

 信の腕や足は火傷で赤黒く変色し、束ねていた髪は解け、着物もところどころ焼けていた。
 何より信の目が、この場にいる全員を殺すのではないかと思うほど殺意に満ちていて、誰も声を出すができずにいた。

 信は真っすぐに叡正の方に歩いてきた。
 皆が固唾を飲んで見守る中、信は叡正の前で足を止める。
「咲耶を頼む」
 信はそう言うと、咲耶に視線を落とす。
 咲耶は信の腕の中で、ただ眠っているように穏やかな顔をしていた。
 叡正はホッと胸を撫でおろす。

「あ、ああ。わかった……」
 信は、咲耶を叡正に任せると、そのまま人だかりの方に進んでいこうとした。
「お、おい……。どこに行くんだ……? おまえ火傷……診てもらないと……」

 叡正の言葉に、信はゆっくりと振り返った。
「やることがある……」
 信の鋭い眼差しに、叡正の背中に冷たいものが走る。
(やること……?)

 信はそれだけ言うと、再び前を向いた。
 道を遮っていた人たちが一斉に道を開ける。
 信はそのまま真っすぐ歩き出した。

「……信さん……」
 声を掛けたのは青ざめたままの弥吉だった。
「俺……、俺は……」

 その瞬間、叡正には信の纏う空気が少しだけ柔らかくなったように見えた。

 信はゆっくりと腕を上げると、弥吉の頭をポンポンと叩いた。
「おまえは……何も悪くない……」

 信の言葉に、弥吉は弾かれたように顔を上げた。
 その目がゆっくりと見開かれていく。

「なんで……? まさか……わかってたの……?」
 弥吉が震える声で聞いた。

 信は何も応えず、再び前を向いて歩きだした。

「どうして……」
 弥吉はそれだけ呟くと、足元から崩れ落ちた。

「お、おい……」
 叡正は咲耶を抱えながら、弥吉に駆け寄った。
「大丈夫か……?」

 弥吉は何も聞こえていないように、頭を抱えうずくまった。
「俺は……」
 涙交じりのくぐもった声が、叡正の耳にかすかに届いた。
「俺のできる範囲で……守れればって……」

 叡正は弥吉を見つめる。
(一体、どういうことなんだ……?)
 叡正は腕の中の咲耶に目を向けた。
 咲耶は変わらない穏やかな表情で、ただ眠り続けていた。
「遅い……!」
 部屋の中を歩き回っていた忠幸は、苛立たしげに親指の爪を噛んだ。
「何をしているんだ……!」

 裏茶屋に火を点け、信を焼き殺す手筈になっていたが、いまだに報告役の者は戻ってきていなかった。
(もう夜だぞ……。うまくいったんだろうな……! もし失敗していたら俺は……!)
 
「クソッ……!」
 忠幸は頭を掻きむしる。
(落ち着け……。きっと成功しているさ……)
 忠幸はゆっくりと息を吐いた。
(とにかく今は待つしかない……。外の空気でも吸うか……)
 忠幸は軽く胸を叩くと外の空気を入れるため、障子を開けた。

 外から吹く風は生温かく、どちらかといえば蒸し暑い不快な夜だったが、忠幸はそれでも少し呼吸がしやくなったような気がした。
 忠幸はそっと目を閉じる。
(これさえ終われば、ようやく安心して眠れるんだ……)
 忠幸がもう一度息を吐こうとしたとき、ふと喉元に冷たいものが当たった。

(……え?)

 忠幸が反射的に一歩後ろに下がると、何か温かいものにぶつかった。
 忠幸の背中を、嫌な汗が伝う。


「……こいつを待っていたのか?」
 耳元で聞き慣れない男の声がした。
 忠幸は恐怖で目を開けることができなかった。
 喉元に再び冷たいものが当たる。
「連れてきてやったぞ」
 男が耳元で低く囁いた。

 忠幸は薄く目を開ける。
 忠幸の足元には全身血まみれの男が転がっていた。
 火付けとその報告を命じた男だった。
「ひっ……!」
 思わず後ずさると再び温かいものにぶつかった。

「残念だったな、殺せなくて……」
 忠幸が恐る恐る首をひねって後ろを見ると、冷たい薄茶色の瞳が真っすぐに忠幸を捉えていた。
 獰猛な獣を前にしたときのように、忠幸は恐怖で声を出すことができなかった。
 喉元にひりつく痛みが走る。

「この男が教えてくれた。おまえが命じたと……。間違いないか?」
 獣のような男は何の感情もない声で聞いた。
「あ……、お、俺じゃ……」
「おまえだろ?」
 男の目がより鋭くなった気がした。

(なんて答えたって……こいつは俺を殺す気なんだ……!)
「ああ! お、俺だよ……! おまえが先に俺を殺そうとしたんだろ!? 自分の身を守って何が悪い!?」
 忠幸は男を横目で見たまま、吐き捨てるように言った。
「俺を殺したところで……おまえだって殺されるんだ! こんなこと、続けられると思うなよ!?」

 忠幸の言葉を聞き、男は薄っすらと微笑んだ。
 不気味な微笑みに、忠幸の顔が凍りつく。

「勘違いするな。俺の命なんてどうだっていい」
 男は忠幸に顔を近づけると、見開いた目で忠幸を見つめた。
「俺は、俺が死ぬまでにひとりでも多く、俺みたいな人間を地獄に連れていきたいだけだ」
 男の薄茶色の瞳には、恐怖で歪む忠幸の顔だけが映っていた。
「や……めろ……」
「さぁ、行こうか」
 忠幸の首に当たるものに力が込もるのがわかった。
「やめ……!!」
 忠幸の叫びは途中から声にならなかった。
 忠幸の瞳に最後に映ったのは、自分から噴き出した血で赤く染まる障子と小刀、そして赤黒く爛れた化け物ような手だった。
 夕暮れ時、二人の男が茶屋にいた。
 二人は、茶屋の主人が店の奥に行ったのを確認すると、静かに口を開いた。

「橘様、死んだってな」
 額に傷がある男が前を向いたまま言った。
「言っとくけど、俺はちゃんと逃げろって言ったからな。余計なことまでして……自業自得だ」
 傷のある男は呆れたようにため息をついた。

「本当にね……。まったく余計なことをしてくれたよ」
 もうひとりの男は軽く笑うと、もうすっかり冷めている茶を手にとった。

「どうするんだ、これから……。あいつ本気で殺しに来るぞ。そうなったら困るから、監視だけつけて放っておいたのに……」
 傷のある男は額の古傷を掻いた。

「そうだね……。それに、よりによって咲耶太夫も巻き込んでくれたし、これはかなりマズいよね……。いろいろと動いてほしくない人たちが動き出しちゃうよ……」
 もうひとりの男は冷めたお茶に口をつける。

「町奉行に豪商に切れ者の楼主、それからもっと厄介なところまで……。想像するだけでゾッとする」
 傷のある男は吐き捨てるように言った。

「まぁ、しばらくは大人しくするのがいいだろうね……」
「それしかないだろうな」
 傷のある男はため息をついた。
「あ、そうだ。弥吉はどうする? まぁ、最初からバレてたみたいだけど」

 もうひとりの男は薄く笑う。
「バレたとしても、あいつならそばに置くだろうって計算して送り込んだんだろう? あれぐらいの年の子で、しかも自分と同じような境遇に見えたら、放っておけないって簡単に想像できるからね」

「まぁな。でも、弥吉の方が(ほだ)されるのは計算外といえば計算外だ」
「そう? 俺は想像の範囲内だけど」
 もうひとりの男はクスッと笑う。
「おまえは相変わらず鼻につくな」
 傷のある男は眉をひそめる。
「まぁまぁ、そう言わず仲良くやろうよ」
 もうひとりの男は傷のある男の方を向くと、にっこりと微笑んだ。

 傷のある男は腕組みをすると、長く息を吐いた。
「まぁ、何はともあれ、弥吉に関しては今後の動きしだいだな」
「そうだね」

 傷のある男はゆっくりと立ち上がると、暗くなり始めている空を見た。
「あ~あ、いずれにしろ面倒くさいことになりそうだな……」
「そうだね……」

 傷のある男はしばらく無言で立っていたが、少しすると片手を上げて茶屋を後にした。

「吉原のお姫様か……。これ以上面倒くさいことは遠慮したいね」
 ひとり残された男は、そう呟くと静かに冷めたお茶を飲みほした。
(ここは……?)
 咲耶が目を開けると、霞んだ視界の向こうに見慣れた天井が見えた。
(私の……部屋……?)

「花魁!? よかった……」
 緑の声が響く。
 声が聞こえた方に顔を向けると、緑が泣きそうな顔で咲耶を見ていた。
 少し前まで泣いていたのか、緑の目は赤く瞼が腫れていた。

(そうか……。助かったのか……)
 咲耶は裏茶屋で見た信のことを思い出した。
(あれは……夢……?)

 緑は、掛け布団の上に出ていた咲耶の手を取ると強く握りしめた。
「もう……目を覚まさないんじゃないかと思いました……。本当に……本当によかった……!」
 緑の目から涙が溢れ出す。

「……み……どり……」
 咲耶は緑を安心させようと名を呼んだが、その声はひどくかすれていた。
「あ、まだ声は出さない方がいいかもしれないです! 良庵先生が外傷はないけど、煙をかなり吸い込んでるみたいだって言ってましたから!」

(ああ……そうか……)
 咲耶は緑の言葉に頷くと小さく微笑んだ。
 咲耶の笑顔を見て、緑も涙を流しながら微笑む。

「あ、楼主様を呼んできます! 花魁の目が覚めたら知らせるように言われているので」
 緑はそう言うと、咲耶の手をそっと離して部屋を出ていった。

 ひとりになった部屋で咲耶は窓の方を見た。
 窓からは明るい日差しが差し込んでいる。
(あの火事からどれくらいの時間が経ったんだ……?)
 咲耶はゆっくりと布団の上で体を起こした。

(……私以外の者は大丈夫だっただろうか? 裏茶屋にいたほかの人は? ……あれが夢でないなら……信は?)
 頭の奥がズキリと痛み、咲耶は顔をしかめた。
(あの火事は偶然ではないだろう……。狙われたのは私か? それとも信? 裏茶屋にいたほかの誰かか……?)
 咲耶はため息をついた。
(ここで考えたところで答えは出ない……か)

 そのとき、襖が開く音がして、咲耶は振り返る。

「咲耶……」
 そこには楼主の姿があった。
 楼主の顔色は悪く、慌てて走ってきたのか少し息が上がっている。
 いつも落ち着いている楼主らしくない姿だった。

「……ひどい……顔……」
 咲耶は思わずかすれた声で呟いた。
 咲耶の言葉を聞き、楼主は目を丸くした後、長いため息をついた。
「おまえな……、それが二日間心配していた人間に掛ける言葉か……?」
 楼主は呆れたような顔で、咲耶に近づくと布団の横に腰を下ろした。

「……ふつ……か?」
「そうだ。おまえ、あれから二日眠っていたんだ」
 楼主は咲耶を見た。
「大丈夫か?」
「ああ……、声……以外は……」
 咲耶は頷くと、自分の両手を見つめた。
「……悪……かった……。心配……かけて……」

 楼主は苦笑すると、咲耶の頭をポンポンと叩いた。
「謝ることでもないだろう? おまえが無事でよかった」
「ほかの……人たちは……?」
 咲耶は顔を上げると、楼主を見つめた。
「みんな無事だ。おまえを助けてくれた信も、火傷は負っていたらしいが無事のようだ」
「無事のようだ……ってことは、会って……いない……のか?」
 咲耶は不思議に思い首を傾げる。
「ああ、おまえをここまで運んだのは叡正という男だ。その男が、信が助けたと言っていた」
(叡正……? どうして叡正が?)
 首を傾げている咲耶を見て、楼主は息を吐いた。
「とにかく、しっかり礼を言うんだぞ。信にも叡正という男にも」
「あ、ああ……」
 咲耶は微笑んで頷いた。

「……私のことは……良庵が診てくれたのか?」
「おい、呼び捨てにするな。ああ、良庵先生が診てくれた」
「また……借りができたな……」
 咲耶はうつむくと、小さく呟いた。
「ん? なんだって?」
「いや、なんでもない……」
 咲耶は慌てて首を横に振った。

「信の様子を見に長屋に行くって言っていたから、今日あたり行っているかもしれないな」
 楼主は思い出したように言った。
「そうか……。火傷……ひどいのか……?」
 咲耶がポツリと呟く。
 楼主は咲耶を見つめた後、目を伏せた。
「さぁな。今度会ったときに確かめろ」
 楼主はそう言うと立ち上がった。
「俺はそろそろ戻るから、おまえはもう休め。みんな心配している。早く元気になって姿を見せてやれ」
「ああ……、わかった」
 咲耶の言葉を聞くと、楼主は静かに頷き、部屋を後にした。

 ひとりになると、咲耶はゆっくりと体を倒した。
(今はとにかく体調を整えないとな……)
 咲耶は静かに目を閉じる。
 長く眠っていたはずなのに、横になると咲耶の意識は一気に遠のいていった。

『桜……』

 咲耶は懐かしい夢を見た。
 温かく心地よい夢だった。
 しかし、再び咲耶が目を覚ましたとき、咲耶は夢を見たことさえ覚えてはいなかった。
「ほら、来てやったぞ!」
 良庵は長屋の戸を勢いよく叩きながら大声で言った。
 隣にいた咲は目を丸くする。
「せ、先生……、そんな大きな音を……」

 良庵は咲の言葉を無視して、再び強く戸を叩く。
 少しすると長屋の戸が開き、信が顔を出した。

(聞いてた通り……ひでぇ火傷だなぁ……)
 良庵は戸の隙間から見えた信の腕と足を見て、思わず顔をしかめた。
 信の火傷は赤く水疱ができているところもあれば、黒ずんでいるところもあった。

「手当ては必要ない」
 信はそれだけ言うと戸を閉めようとした。
 良庵は慌てて戸に手を掛ける。
「まぁ、待て。おまえのためじゃない。練習台になってもらうために来たんだよ」
 良庵は隣にいる咲を見た。
「おまえが連れて来たんだ。助手の上達のために、練習台くらいにはなってくれるだろう?」
 信はしばらく無言で咲を見つめると、戸から手を離し奥に入っていった。

 咲が不安げな表情で良庵を見る。
「入れってことだ」
 良庵は咲にそう言うと、長屋の中に入った。

「なんだ、ひとりか?」
 信は奥の座敷にひとりで座っていた。
「弥吉ってやつがいるって聞いてたんだが……」
 良庵は長屋をひと通り見ると、信に視線を向けた。
 信は顔を上げて良庵を見る。
「弥吉はしばらく帰ってきていない……」
 良庵は眉をひそめる。
「帰ってきてないって……。どこに行ったんだ?」
 信は目を伏せる。
「わからない……」

「わからないって……」
 良庵は頭を掻いた。
(弥吉ってやつがいるなら、最低限の手当はしてあるかと思ったが……。この様子じゃ、何もしてねぇな……)
 良庵は思わずため息をつく。
「痕は残ると思うが何もしないよりはマシか……」
 良庵はそう呟くと、おずおずと長屋に入ってきた咲に近づいた。
 咲が持っている薬箱の中から二つ軟膏を取り出すと咲に差し出す。
「これとこれを混ぜておいてくれ」
「あ、はい!」
 咲は慌てて薬箱を置くと軟膏を受け取った。
「それから、井戸から水を汲んできてもらえるか?」
「は、はい! わかりました!」
 咲はそう言うと、軟膏を一旦薬箱の上に置き、水を汲みに長屋の外に出ていった。

 咲の背中を見送ると、良庵は座敷に上がり信の横に腰を下ろす。
「俺の言ったことの意味、わかったか?」
 信は無言で良庵を見つめると、視線を落とした。
「危ないことに首突っ込むなって言っただろう? おまえだって死ぬときは死ぬし、それは咲耶も同じだ」
 良庵の言葉に、信の瞳がわずかに揺れる。
「危ないのはおまえだけじゃないんだよ。……死んでほしくないんだろう?」
 良庵は信の腕を見つめた。
「自分の体がこんなになっても助けるくらい……」
 良庵は小さくため息をつく。
「なぁ、信……。もう普通に生きたらどうだ? 咲耶だってそれを望んでるんじゃないのか?」
 信を視線を落としたまま何も答えなかった。

 二人の間に重苦しい空気が流れる。
 良庵が言葉を重ねようとしたとき、信の唇がわずかに動いた。
「俺は…………」

 そのとき、長屋の戸が開いた。
「水汲んできました!」
 咲が水を入れた桶を持って、長屋の戸口に立っていた。

「あ、ああ。早かったな。じゃあ、さっきの軟膏を混ぜてくれ」
 良庵は立ち上がると、咲から水の入った桶を受け取った。

 良庵が振り返って信を見ると、信は視線を落としたまま口を閉ざしていた。
 良庵はため息をつく。
(ひとまず治療に集中するか……)
 良庵は頭を掻くと、気持ちを切り替えて咲に指示を出した。
 波の音が響いていた。
(ここは海が近いな……)
 宗助(そうすけ)は松林の向こうにかすかに見える海を横目に、真っすぐな道を歩き続けていた。
 吹きつける強い風から、海の匂いがした。
(このへんのはずなんだが……)
 宗助は紙に書かれた地図に視線を落とした。
 乱雑に書かれた地図からは海の近くにある大きな屋敷ということしか読み取れなかったが、場所はこのあたりで間違いないはずだった。

 宗助は地図を畳んで懐に仕舞うと、そっとため息をついた。
(大名の屋敷なんて……俺なんかが果たしてやっていけるんだろうか……)

 宗助はもともと農家の次男だった。
 武家の屋敷に奉公に出て七年、どういった事情か宗助にはわからなかったが、大名の屋敷の奉公人として推薦された。
(どうして俺が選ばれたんだろうな……。もう二十二でそんなに若くもないんだが……)
 宗助は、自分でも器用である自覚はあった。
 教えられればどんなことでもある程度までできる自信はある。
 しかし、大名の屋敷に呼ばれるほど秀でたものがあるかと聞かれれば、宗助には思い当たることがなかった。
(まぁ、金が稼げれば何でもいいけど……)
 宗助がそんなことを考えていると、遠くに屋敷らしきものが見えてきた。
(ああ、あれか……)

 白い塀に囲まれた巨大な屋敷は、大名屋敷と呼ぶに相応しい佇まいだった。
(約束の時間にはまだ早いけど……。まぁ、早いに越したことはないだろう……)
 足取りは軽いわけではなかったが、早く挨拶を済ませてしまいたいという思いから、宗助の足は自然と速くなっていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 大名屋敷での挨拶は、宗助が拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
 宗助が呼ばれた理由も単純に人手が足りないだけだとわかった。
 くわしい仕事の話は明日するから、今日はもう休んでいいという優しい言葉をもらい、宗助は早々に通された部屋を後にすることになった。
(みんな良い人そうだし、思ったより居心地も悪くないかもな……)

 宗助がそんなことを考えながら屋敷の廊下を歩いていると、少し先の中庭で素振りをする少年の後ろ姿が目に入った。
 長い髪を後ろで束ね、袴姿で一心不乱に木刀を振っている。

(誰だ……あれ。奉公人なのか……?)
 宗助は少年をじっと見つめる。
 少年の木刀を持つ佇まいは美しかった。
(筋は良さそうだな……)

 幼い頃、家の近くに住んでいた老人に気に入られ、剣術の指導をされた宗助には多少の心得があった。
(うん、綺麗だ……)
 少年の剣術は構え方も型も、非常に綺麗だった。

 少年の横を通り過ぎるとき、宗助は軽く会釈をした。
(誰かわからないが、とりあえず礼儀正しくしておいて損はないだろう)
 少年が宗助の方を見たのが気配でわかった。

 顔を上げた宗助が少年の横を通り過ぎようとしたとき、落ち着いた声が響く。
「そこの人」
 宗助はゆっくりと振り返った。
「ちょっと相手をしてくれないか?」

 宗助はそのとき初めて少年の顔を見た。
 少年は、驚くほど整った顔立ちをしていた。
 宗助は目を丸くする。
(大名屋敷ともなると、奉公人もこんなに品があるのか……?)
 白い肌に切れ長の目、影ができるほどに長い睫毛、真っすぐに伸びた背筋。
 これほど美しい少年を宗助は今まで見たことがなかった。

 宗助が呆然としていると、少年が形の良い唇を尖らせる。
「聞いているのか? ちょっと相手をしてくれと言ったんだ」
「え?」
 宗助が思わず声を漏らすと、少年は木刀を差し出した。
「剣術、できるだろう? 相手をしてくれ」
「え、ああ……」
 宗助は戸惑いながら頷いた。
(どうしてわかるんだ……?)

 中庭に降りるための草履がないことに気づき裸足で降りようとすると、少年は少し離れたところに置かれていた草履を宗助の足元に置いた。
「合わないかもしれないが、これを使ってくれ。手合わせしてもらっていた者に逃げられてな……」
 少年は苦笑した。
「ああ、そうなのか……。ありがとう」
 宗助は、草履を履くと木刀を受け取った。

(近くで見ると一層綺麗だな……)
 肌は近くで見ても白く澄んでいて、目鼻立ちは近くで見るとより華やかだった。

 木刀を渡した少年は、距離をとって宗助と向かい合うように立つ。
「先に一本入れた方が勝ちだ」
 少年はそう言うと、木刀を構えた。
「ああ、わかった」
 宗助も木刀を構える。
(木刀を持つのは久々だな……)
 宗助は木刀を握る手に力を込めた。
 久しぶりの感覚に、自分でも少し高揚しているのがわかった。

「では、行くぞ」
 少年は一歩踏み込むと、木刀を振り上げた。

(ああ、やっぱり綺麗だな……)
 少年の剣術は基本に忠実で、とても美しいものだった。
(一旦受けるか)
 宗助は木刀で、少年の一撃を受け止めると軽く弾いた。
 弾いたところで隙ができるかと思ったが、宗助の動きは予想の範囲内だったようで、少年はすぐに体制を立て直すと、一瞬で胴に向けて木刀が振られた。
(速さもあるな……。けど……)
 宗助はそんなことを考えながら、少年の手首を木刀ですばやく叩いた。

 カランっという音を立てて、少年の木刀が地面に落ちる。
 一瞬、二人の間に沈黙が流れる。

「あ、悪い……。痛かったか?」
 宗助は慌てて少年に駆け寄ると、手を取った。
 少年の手首は少しだけ赤くなっている。
「もう少し加減するべきだったか……」
 宗助がそう呟くと、少年はフッと笑った。
「いや、十分手加減してくれたんだろう? ありがとう。やっぱり強かったか」
 少年はなぜか嬉しそうに笑った。
 笑った少年の顔は年相応にあどけないものだった。
 宗助はその表情に少しだけドキリとして、思わず少年の手を離した。
「あ、いや……おまえの方が若いのにすごいよ。型も綺麗だし」
「そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう」
 少年はにっこりと笑った後、少しだけ目を伏せた。

「……なぁ、おまえはどう思う? この平和な時代に剣術なんて必要ないと思うか? ただのお遊びだと……そう思うか……?」
「え?」
 宗助は思わず少年の顔を見つめた。
(なんだ? 誰かに何か言われたのか……?)
 少年は少し悲しげに微笑んだ。
「わかっている。必要になる日なんて来ないかもしれないって。それでも……」
 少年はそう言うと、落とした木刀を拾い上げた。

 宗助は少年を見つめる。
「必要になる日が来ないなら、それはそれでいいんじゃないか?」
「え?」
 少年は顔を上げると宗助を見つめた。
「平和ならそれに越したことはない。ただ、大切なものを守れる力は持っておいた方がいいとは思う。遊びじゃない。どんな時代でも大事なものを守る力は必要だろう?」

 少年は目を見開いた後、軽く微笑んで目を閉じた。
「……ああ、そうだな」


「な、何をしているのですか!?」
 突然、大きな声が響いた。
 宗助が驚いて声の方を見ると、廊下に立っていた奉公人の女が裸足で中庭に降りてくるところだった。
 宗助は目を丸くする。
「え、裸足……大丈夫……ですか?」

「そ、そんなことどうだっていいのです! 何をしているのですか姫様(ひいさま)!?」
 女は、少年に向かって言った。
「今日はもうダメだと言われたではありませんか!」

 少年は苦笑する。
「悪かった。ちょっと素振りをしていただけだ」

 宗助は呆然と二人を見つめる。
(え? ひい……さま? え……、姫様(ひいさま)!?)

「と、ところで、こちらの方はどなたですか……?」
 女は怪訝な表情で宗助を見た。
「ああ、そういえば名前を聞いていなかった。名は何というんだ?」
 少年は嬉しそうに宗助に視線を向ける。

「え、あ……宗助…………です」
「宗助か、いい名だな。私は紫苑(しおん)だ」
「あ……はい」
 宗助は呆然としたまま頷いた。

「姫様、見たことのない男ですが……怪しい者ではないのですか?」
 女は紫苑の耳元で小さく呟く。
「屋敷を普通に歩いていたんだ。きっと新しく来た奉公人なんだろう。なぁ?」
 紫苑はにこやかに宗助に問いかけた。
「あ、は、はい! 今日来たばかりで……決して怪しい者では……」
 宗助は慌てて口を開く。

「ほらな」
 紫苑はなぜか得意げに言った。
「あ、そうだ。宗助は私に付けてくれ。ちょうど一人辞めたところだし」

「え!?」
 宗助と女は思わず同時に声を漏らす。

「うん、それがいい。父上には私から言っておくから……。あ、そうか、今から言いに行ってくる」
 紫苑はそう言うと、なぜか楽しそうに屋敷に向かって歩き始めた。
「え、ちょっ……待ってください! 姫様!」
 女は慌てて紫苑を追いかけて屋敷の中に入っていく。

 中庭にひとり残された宗助は、理解が追いつかず呆然と立ち尽くしていた。

「え……?」

 宗助のその呟きは誰にも届くことはなく、次の日から宗助は紫苑付きの奉公人として働くことになった。
「ほら、これもやる」
 紫苑はそう言うと刺身の盛られた皿を宗助に差し出した。
「嫌いなんだ」
 紫苑は宗助に向かってにっこりと微笑む。

「いりません。というか、自分で食べてください。大きくなれませんよ」
 宗助は自分の分の食事を口に運びながら淡々と言った。
「食べてくれたっていいじゃないか」
 紫苑は唇を尖らせる。
「なんだ? 大きい女が好きなのか?」
「は?」
 宗助は呆れた顔で紫苑を見た。
「大きい女も何も、姫様はまだ十くらいでしょう。子どもなんですから、たくさん食べてちゃんと大人になってください」
「はは、言ってくれるなぁ」
 紫苑は可笑しそうに笑った。
「まぁ、それは置いておいて……、とにかく嫌いだから、これを食べてくれ。……ああ、木刀で叩かれた手が痛いなぁ。父上に報告してしまいそうだ……」
 紫苑はそう言うとチラリと宗助の顔を見た。
 宗助は紫苑をジトっとした目で見つめ返す。
「またそれですか? それで何でも思い通りになると思わないでくださいよ。奉公人が一緒に食事をすることだって本当はダメなんですから」
「いいじゃないか。ひとりで食事をするのは寂しいんだ。付き合ってくれ」
 紫苑は宗助を見つめると無邪気に微笑んだ。

 宗助は小さくため息をつく。
(なぜこんなことに……)
 紫苑付きの奉公人になって三日、紫苑はほかの奉公人が驚くほど宗助に絡んできていた。
 寂しいからという理由で食事を共にすることになったのをはじめ、部屋にいるときも、どこかに出かけるときも宗助は紫苑に呼び出されていた。
(木刀で叩かれたのをそんなに根に持っているのか……?)
 宗助はチラリと紫苑を盗み見る。
 高い位置にひとつでまとめられた髪は、最初に会ったときと同じだったが、今の紫苑は姫様らしい上等な着物を着ていた。
 整った顔立ちに、仕草の一つひとつから感じ取れる品の良さ。

(どう見てもお姫様だろう……。どうして奉公人の少年だなんて思ったんだ……!)
 宗助は後悔の念でいっぱいだった。

 宗助の視線に気づいた紫苑はにっこりと微笑んだ。
「どうしたんだ? 男だと勘違いしていたことでも悔いていたのか?」
「な!?」
 宗助は目を見開く。
(どうして……!)
 宗助の様子を見て、紫苑はフッと微笑んだ。
「気がつくさ。男だと思っていなかったら、手合わせなんてしなかっただろう?」
「あ、いや……そんな……」
 宗助は視線をそらし、言葉を濁した。

 紫苑は軽く笑う。
「ああ、傷ついたな……。傷ついたから……」
 紫苑はそう言うと刺身の皿を持って立ち上がった。
 ゆっくりと宗助の膳の前まで移動すると、刺身の皿を膳に置く。
「食べてくれ」
 紫苑はにっこりと微笑んだ。

 宗助は反論しようとわずかに口を開いたが、紫苑の笑顔の圧力に負けて、ゆっくりと息を吐いた。
「わかりました……。ただ、刺身だけですからね! 今後、ほかに嫌いなものが出てきても自分で食べてくださいよ」
「ああ、わかった」
 紫苑は満足げな笑顔で頷いた。
「あ、ついでに、これから二人のときは敬語はやめてくれ」
「は?」
 宗助は呆然と紫苑を見つめる。
「そんなの無理に決まっているでしょう……。俺は奉公人ですよ?」
「大丈夫。二人だけの秘密にすればいい」
「そんなわけには……」
「ああ、傷ついた……! 父上に……」
「わかった! もうわかったから!」
 宗助は諦めたように言うと、頭を抱えた。
(どっちにしろ、俺クビになるんじゃ……)
 宗助がため息をつきながら顔を上げると、紫苑は嬉しそうに宗助を見つめていた。

 宗助はもう一度ため息をつく。
「あ、そういえば……」
 宗助はずっと疑問に感じていたことを思い出した。
「あのとき……最初に会ったとき、どうして俺が剣術ができるってわかったんだ?」
 宗助の言葉に、紫苑は苦笑する。
「逆にどうしてわからないと思ったんだ? おまえの姿勢も歩き方もお辞儀の仕方も、全部武士の所作だぞ。むしろ奉公人だってことに気づいたのは、私のお目付け役が来てからだ」
「そう……だったのか……。昔、近所のじいさんに無理やり剣術をやらされてたからな。そのクセがついているのかも……」
「ああ、そうなのか。指導した方が上手いのか、おまえの筋がいいのか、どちらにしろすごいな」
「まぁ、どっちもだろうな」
 宗助は淡々と言った。
 紫苑はフフッと笑う。
「言うなぁ、おまえ」

「あ、それともうひとつ……、どうして俺に構うんだ? その……木刀で叩いたことをまだ根に持っているのか……?」
 宗助の言葉に、紫苑は吹き出した。
「そんなわけないだろう! 自分から手合わせをお願いしたのに!」
 紫苑はひとしきり笑い終わると、真っすぐに宗助を見た。

「……何にも興味がなさそうに見えたんだ」
「は?」
「すべてに関心がなさそうに見えたおまえが、『大切なものを守れる力は持っておいた方がいい』と言った。……大切なものとは、おまえの家族のことか?」
「え、ああ……まぁ」
 宗助の返事に、紫苑は微笑んだ。
 紫苑は遠くを見つめる。
「羨ましいと思ったんだ……。その大切なものの中に、私も入りたいと思った」
 宗助は目を丸くした。
(そんな大層なことではないんだが……)
 宗助は紫苑を見つめる。
 遠くを見つめるその表情はどこか悲しげに見えた。
(ひとりの食事が寂しいっていうのは、案外嘘ではないのかもしれないな……)

 宗助は目を伏せた。
「羨ましいと思ってもらえるほど、俺は家族を大事にできてないし……あれだけど……」
 宗助は目を泳がせながら言った。
「姫様のことは守りますよ。……俺はここの奉公人だし……、姫様付きなので……。何かあれば守ります。必ず」
 宗助がそう言い終えると顔を上げた。

 その瞬間、宗助は言葉を失う。
 宗助を見つめて微笑む紫苑の表情は、言葉にできないほど美しかった。
 形のよい唇がゆっくりと動く。
「ありがとう、宗助」
 十の少女とは思えないほど、その表情は大人びていて、宗助は思わず目をそらした。
「い、いや……」
 宗助はなんとかそれだけ口にした。

「あ、そうだ。二人のときは、これから紫苑と呼んでくれ」
「……は?」
 宗助が再び顔を上げたとき、紫苑の表情はまた無邪気な少女のものに戻っていた。

「ああ、男だと思われていたなんて傷ついたな……。父上に報告を……」
「わかった! わかったから!」
 宗助の言葉に、紫苑は楽しそうに微笑んだ。
「よろしくな、宗助」
 紫苑の無邪気な笑顔を見て、宗助は諦めたように小さくため息をついた。
「ご存じなかったんですか? 姫様のお母様は姫様が生まれてすぐ亡くなっているんです」
「え?」
 奉公人の男とともに、座敷で書き物の仕事を手伝っていた宗助は、思わず手を止めた。
「え、では今の奥方様は……?」
 男も手を止めると、顔を上げて宗助を見た。
「姫様のお母様が亡くなられてからご結婚された方です。ご結婚されたのも割と最近なんですよ」
「ああ、そうなんですか……」
 宗助は目を伏せた。
(だから、あんなに寂しげだったのか……)

「では、姫様は……」
 宗助は少し声をひそめた。
 宗助の表情を見て何かを察した様子の男は慌てて口を開く。
「いえいえ! 今の奥方様と姫様の仲はとても良いんです! 本当の親子とまではいかないかもしれませんが、ご友人のようによくお話しされています!」
「あ……、そうなんですか?」
「ええ。……むしろ、ぎこちないのは御前様と姫様の方ですね……」
 男は少し目を伏せた。
「え、どうしてですか? 御前様は実の父親なのでしょう?」
 宗助は首を傾げた。

 男はゆっくりと息を吐くと、静かに口を開いた。
「御前様は……姫様のお母様を心から愛していらしたので……。お亡くなりになったときの悲しみようは本当に見ていられないほどのものでした」
 男はそこで言葉を切ると、宗助を見て悲しげに微笑んだ。
「姫様は、亡くなられた奥方様に生き写しなんです。姫様を見ると思い出してしまうようで……。あ、もちろん姫様のことは愛していらっしゃいますよ! お子様は姫様ひとりですし! ただ……どう接していいかわからないようで……」
 男はそこまで言うと目を伏せた。

(そういうことか……)
 宗助は年の割に随分と大人びている紫苑の顔を思い浮かべた。
(大名屋敷のお姫様でも、幸せとは限らないってことか……)
 宗助は静かに目を閉じた。

「そういえば、宗助さんはここに来て五日ですが、姫様と仲が良いそうですね」
 男は宗助を見てにっこりと微笑んだ。
「え、いえ……、仲が良いというわけでは……」
 宗助は慌てて首を横に振った。
「そうですか? こんなに姫様が奉公人を呼び出すことは今までなかったので。それに、宗助さんといるときの姫様は今までより少し幼いというか……、子どもらしい一面が見られて、みんな喜んでいるんです」
「え!? 子どもらしい一面ですか!?」
 宗助は目を丸くする。
(俺の前でも随分大人びていると思うが……。一体今まではどんなふうに周りと接してきたんだ……)

 そのとき、襖が開く音がした。
「あ、ここにいたのですね、宗助さん。姫様がお呼びです」
 宗助が振り返ると、紫苑付きの奉公人の女がこちらを見ていた。

 男がクスリと笑う。
「噂をすればですね。こちらはもう大丈夫なので行ってください」
「あ、はい。すみません……」
 宗助はそう言うと、残っていた書き物を男に渡し、硯と筆を持って立ち上がった。
「姫様をよろしくお願いします」
 男が宗助に向かってにっこりと微笑む。
「? あ、はい……」
 宗助は一礼すると、硯と筆を片付け、紫苑の部屋に向かった。
  


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「失礼します。お呼びですか、姫様」
 紫苑の部屋の襖を開けると、宗助はいつものように頭を下げた。
「ああ、宗助に聞きたいことがあってな」

 宗助が顔を上げると、部屋には何着もの着物が並べられていた。
「これは?」
 宗助は首を傾げる。
「明日着る着物を選んでいたんだ。おまえに決めてもらおうと思ってな」
 そう言いながら宗助に駆け寄った紫苑は、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ? 私の顔に何かついているか?」
「あ、いや……」
 宗助は慌てて目をそらした。
「そんなことより、明日は何かあるんですか?」

「明日は父上が屋敷に帰ってくるからな。出迎えの着物を……って、さっきからなんだその顔は……」
 紫苑は呆れたような顔で宗助を見た。
「それに今は二人だから敬語はやめろ」

「あ、いや……、俺そんなに変な顔してたか?」
 宗助は苦笑する。
「ああ、不安げというか心配そうというか……変な顔だ」
 紫苑は腕組みをして宗助を見上げる。
「ああ……えっと……、おまえと御前様のことを少し聞いて……」
 宗助は思わず視線をそらしながら頭を掻いた。

 紫苑の目がわずかに見開かれる。
「ああ、そんなことか!」
 宗助が拍子抜けするほど、紫苑の反応はあっさりとしたものだった。
「心配してくれていたのか? 私は大丈夫だ。父上の気持ちはよくわかるし、理解もしている」
 紫苑はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。心配してくれて」

 紫苑の言葉に、宗助は紫苑を見つめた。
 宗助の視線に気づき、紫苑は首を傾げる。

「理解していたとしても、寂しいものは寂しいだろ?」

「……え?」
 紫苑の瞳がわずかに揺れる。

「理解しているからって、そんな割り切れるものじゃないだろ? あまり無理はするな。おまえはまだ子どもなんだ。甘えていい年なんだから」
 宗助はそう言うと紫苑の頭をそっと撫でた。

 茫然と宗助を見つめていた紫苑は、しばらくするとわずかに口元を緩めた。
「そうか……。私は……寂しかったのか……」
 紫苑は小さく呟くと、フッと笑った。

「それで? 私が寂しかったら慰めてくれるのか? では、寂しくないように抱きしめてくれないか?」
 紫苑はそう言うと、悪戯っぽく笑った。

 紫苑は宗助に向かって両手を広げる。
「ほら、早く。フフ、できないなら……」


 その瞬間、紫苑は温かいものに包み込まれた。


「え……?」

 気がつくと、紫苑は宗助の腕の中にいた。
 宗助の手がそっと紫苑の頭を撫でる。
 宗助の腕の中で、紫苑が息を飲んだ。

「ほら、これでいいか? 俺はおまえがお嫁に行くまで、奉公人としてそばにいるから。おまえの親……みたいな存在になってやるから……ちゃんと甘えることも覚えるんだぞ」

「…………親」
 紫苑はそう呟くと、長いため息をついた。
「宗助……、もう大丈夫だ……」

 宗助がゆっくりと体を離す。

「親ね……」
 紫苑はジトッとした目で宗助を見た後、もう一度ため息をついた。
「まさか本当に抱きしめるとは……。しかも親って……。ホント……今に見てろよ……」
 紫苑の声は小さく、その声は宗助の耳には届かなかった。
「え? なんだって?」
 宗助は紫苑の言葉を聞こうと、紫苑の口元に耳を寄せた。

「なんでもない……」
 紫苑は疲れたような顔でそう言うと、宗助に背を向けた。
「では、私が嫁に行かなかったら、おまえは一生そばにいてくれるんだな?」
「え!? それは……」
 宗助が慌てて口を開くと、紫苑は振り返りニヤリと笑った。

「約束だからな」
 紫苑はそう言うと鼻歌交じりに、部屋の襖に向かう。
「末永くよろしく頼むぞ、宗助」
 紫苑はそう呟くと、振り返らず部屋を後にした。

「末永くって……」
 ひとりになった部屋で、宗助は頭を掻く。
「まぁ、でも……、少しでも紫苑の寂しさが紛れれば……」

 宗助はふと故郷にいる兄と弟を思い出した。
(あいつらも元気でやってるかな……)

 しばらく物思いに耽っていた宗助は、静かにため息をついた。
(仕事しよう……)
 宗助は部屋一面に広げられた着物を見て、もう一度ため息をつくと、慎重に着物を片付けていった。
「花魁、叡正様がいらっしゃいました」
 咲耶の部屋に緑の声が響く。
 布団で横になっていた咲耶は、返事をすると体を起こした。
(手紙が届いたか……)
 火事から十日ほどが経ち、喉の調子も良くなった咲耶は、叡正に手紙を出していた。

 襖が開き、叡正の姿が目に入る。
 入口で立ち尽くす叡正の顔色はひどく青ざめていた。
(なんだ……? 私より叡正の方が調子が悪いんじゃないのか……?)
 叡正はただ咲耶を見つめていた。

「えっと……、心配かけて悪かったな。もうすっかり元気なんだが、まだ布団で寝ていろと楼主がうるさくてな……。来てもらったのに、こんな格好で申し訳ない」
 咲耶は叡正に向かって微笑む。
 叡正は部屋の入口で咲耶を見つめたまま、何も言わなかった。

(え……? どうして何も言わないんだ……?)

 緑はお茶を淹れるため部屋を出ていったため、二人の間に重苦しい沈黙が流れる。

「えっと……、そんなところにいないでもう少しこちらに来てくれ」
 咲耶の言葉に、叡正はゆっくりと咲耶のいる布団に近づいてきた。
 咲耶はホッと息を吐く。
「今日来てもらったのは前に言っていたお礼の件だ。少し待っていてくれ」
 咲耶はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。

 戸棚に向かおうと叡正に背を向ける。

 その瞬間、咲耶は後ろから温かいものに包まれた。

(え……?)

 少し振り向いた咲耶の頬に、叡正の長い髪がかかる。
 咲耶は目を見開いた。
 叡正の腕が咲耶をやわらかく包んでいた。
 長い髪に隠れ、叡正の表情は見えない。

「……た」
 咲耶の耳元で叡正のかすれた声が響く。
「……よかった。本当に……よかった」

 咲耶を抱きしめる叡正の手はかすかに震えていた。
「叡正……」
 咲耶は思わず呟く。

(ここまで心配されているとは……思っていなかったな……)

 咲耶はしばらくそのままじっとしていたが、やがて目を閉じると、叡正の手に自分の手を重ねた。

 叡正の体がビクリと震える。

「心配かけて悪かった……」
 咲耶は叡正の方を見ながら小さく呟く。
「それから……ありがとう。心配してくれて」
 咲耶の言葉に、叡正が弾かれたように咲耶を見る。

 互いの顔が触れそうな距離で、二人の視線が重なった。

「わ、悪い!!」
 叡正は慌てて咲耶から手を離すと、後ずさりして両手を上げた。
「こんなことするつもりは! わ、悪かった!」
 叡正の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

「あ、いや、そんな気にすることでは……」
 叡正のあまりの反応に、咲耶は目を丸くする。

「いや! 悪かった!! 本当に申し訳ない!」
 叡正は両手で顔を覆うとその場にうずくまった。
 叡正の顔は耳まで真っ赤だった。

 しばらくポカンとしていた咲耶は、叡正の反応に思わず吹き出した。
 叡正が指の隙間から咲耶を見上げる。
「わ、悪い……。おまえの反応があまりにも(せわ)しないから……」
 咲耶は笑いながら叡正を見た。
「青い顔をして入ってきたかと思えば、急に真っ赤になって……。でも、なんだろう……。ホッとした」
 咲耶は笑い過ぎて滲んだ目元の涙を拭うと、叡正を真っすぐに見た。
「うん、ホッとしたんだ。ありがとう、叡正」
 咲耶は叡正に向かって微笑んだ。

 咲耶の様子を指のあいだから見ていた叡正は、顔を覆っていた両手を下ろした。
「その……、よくわからないが……、笑ってもらえたならよかった」
 叡正は咲耶から視線をそらしながら呟くように言った。

「フフ……、まぁ、とりあえず布団の横に座って待っててくれ」
 咲耶はそれだけ言うと、戸棚に向かった。

 背後で叡正が長い息を吐く音が聞こえ、咲耶はそっと微笑んだ。
(心配されて嬉しいと思ったなんて、申し訳なくてとても言えないな……)
 咲耶は戸棚の扉を開けると、目的のものを取り出す。
 なぜかうなだれて座っている叡正の方を向くと、咲耶は口元を引き締めて叡正のもとに向かった。

【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

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