「遅い……!」
 部屋の中を歩き回っていた忠幸は、苛立たしげに親指の爪を噛んだ。
「何をしているんだ……!」

 裏茶屋に火を点け、信を焼き殺す手筈になっていたが、いまだに報告役の者は戻ってきていなかった。
(もう夜だぞ……。うまくいったんだろうな……! もし失敗していたら俺は……!)
 
「クソッ……!」
 忠幸は頭を掻きむしる。
(落ち着け……。きっと成功しているさ……)
 忠幸はゆっくりと息を吐いた。
(とにかく今は待つしかない……。外の空気でも吸うか……)
 忠幸は軽く胸を叩くと外の空気を入れるため、障子を開けた。

 外から吹く風は生温かく、どちらかといえば蒸し暑い不快な夜だったが、忠幸はそれでも少し呼吸がしやくなったような気がした。
 忠幸はそっと目を閉じる。
(これさえ終われば、ようやく安心して眠れるんだ……)
 忠幸がもう一度息を吐こうとしたとき、ふと喉元に冷たいものが当たった。

(……え?)

 忠幸が反射的に一歩後ろに下がると、何か温かいものにぶつかった。
 忠幸の背中を、嫌な汗が伝う。


「……こいつを待っていたのか?」
 耳元で聞き慣れない男の声がした。
 忠幸は恐怖で目を開けることができなかった。
 喉元に再び冷たいものが当たる。
「連れてきてやったぞ」
 男が耳元で低く囁いた。

 忠幸は薄く目を開ける。
 忠幸の足元には全身血まみれの男が転がっていた。
 火付けとその報告を命じた男だった。
「ひっ……!」
 思わず後ずさると再び温かいものにぶつかった。

「残念だったな、殺せなくて……」
 忠幸が恐る恐る首をひねって後ろを見ると、冷たい薄茶色の瞳が真っすぐに忠幸を捉えていた。
 獰猛な獣を前にしたときのように、忠幸は恐怖で声を出すことができなかった。
 喉元にひりつく痛みが走る。

「この男が教えてくれた。おまえが命じたと……。間違いないか?」
 獣のような男は何の感情もない声で聞いた。
「あ……、お、俺じゃ……」
「おまえだろ?」
 男の目がより鋭くなった気がした。

(なんて答えたって……こいつは俺を殺す気なんだ……!)
「ああ! お、俺だよ……! おまえが先に俺を殺そうとしたんだろ!? 自分の身を守って何が悪い!?」
 忠幸は男を横目で見たまま、吐き捨てるように言った。
「俺を殺したところで……おまえだって殺されるんだ! こんなこと、続けられると思うなよ!?」

 忠幸の言葉を聞き、男は薄っすらと微笑んだ。
 不気味な微笑みに、忠幸の顔が凍りつく。

「勘違いするな。俺の命なんてどうだっていい」
 男は忠幸に顔を近づけると、見開いた目で忠幸を見つめた。
「俺は、俺が死ぬまでにひとりでも多く、俺みたいな人間を地獄に連れていきたいだけだ」
 男の薄茶色の瞳には、恐怖で歪む忠幸の顔だけが映っていた。
「や……めろ……」
「さぁ、行こうか」
 忠幸の首に当たるものに力が込もるのがわかった。
「やめ……!!」
 忠幸の叫びは途中から声にならなかった。
 忠幸の瞳に最後に映ったのは、自分から噴き出した血で赤く染まる障子と小刀、そして赤黒く爛れた化け物ような手だった。