翌日、咲耶は裏茶屋の座敷で信を待っていた。
 約束の時間よりも早く着いた咲耶は、ぼんやりと窓のへりに腰かけて外を見る。

(信が怒った……か……)
 咲耶は信と初めて会った日のことを思い出していた。


 信と会ったのは一年と少し前の春、咲耶が大門まで客を見送った帰りだった。
 吉原の大通りから一本入った路地に男が座り込んでいた。
 普通であれば闇に紛れて気づかない場所だったが、咲耶は暗闇の中で動く薄茶色のものが目に留まった。
 咲耶がゆっくりと近づいていくと、男はずぶ濡れで具合が悪そうにうつむいていた。
 これ以上濡れないように傘を差し出し、人を呼ぼうか迷っていると、ふいに男が顔を上げた。

 そのときの信の顔は、いまだに咲耶の目に焼きついている。

 憎悪、苦痛、絶望……。
 ぐしゃぐしゃになった負の感情が、その顔に浮かんでいた。
 何より咲耶が強く感じたのは、嫌悪だった。
 今ここで命を絶ってもおかしくないと思うほどの、自身に対しての嫌悪。
 人の顔を見ただけで涙が出たのは、初めてのことだった。


(どうして……あのとき信は笑ったんだろう……)
 それは咲耶が今まで幾度となく考えてきたことだった。
 咲耶は外の景色をぼんやりと見ながら、信の顔を思い浮かべた。
 あのとき信が笑った理由が、咲耶にはいまだにわからなかった。

 
 信の顔に浮かんでいた負の感情が突然消え、微笑んで手を伸ばしてきたときの衝撃は、咲耶にとって忘れらないものだった。
 とっさに手を掴み、離してはいけないと思った。

 信の表情らしいものを見たのはその日が最後だった。


 気を失った信を楼主に運んでもらい、良庵に怪我の治療をしてもらったが、信が目覚めたとき、信から表情は消えていた。
 自分の生い立ちを話したときも、これから何をするか話したときも。

 咲耶はゆっくりと目を閉じた。
(私は止めるべきだったんだろうか……?)

 くわしく聞いたわけではなかったが、鬼の刺青の入った者を探して殺すのは信の復讐なのだろうと咲耶は考えていた。


 咲耶は長く息を吐いた。
(考えても仕方ないか……)


 咲耶はゆっくりと目を開く。
 ふいに、窓の外を灰色の煙が流れていくのが見えた。
 咲耶は眉をひそめる。
(煙……?)

 咲耶は窓の格子に顔を近づけた。
 煙が流れてきた方に目を向ける。

 煙は裏茶屋のいくつか先の座敷から出ているようだった。
(火事……か……?)

 咲耶は窓のへりから下りると、急いで座敷の襖を開けて廊下に出た。
 廊下には灰色の煙が充満していた。
 咲耶は熱風に思わず目を閉じる。
(これは……!)

 咲耶は思わず後ずさった。
 急いで座敷に戻り襖を閉める。
 咲耶は振り返り、窓の外を見た。
 格子越しに見える景色は、煙で灰色に染まっていた。