(俺はどこに向かっているんだ……?)
 気がつくと、信は山を下りて町を歩いていた。

(殺す……。あいつを殺してやる……)
 信の頭の中で声が響く。

(そうだ……、お館様を殺しに……。でもどこに……? それに、そんなことをしたところで……)
 信は目を伏せた。

(すべておまえが望んだことだろう? よかったじゃないか? これで自由だ)
 頭の中で響く声に、信は頭を抱えて首を振る。
(神様はおまえの望みを叶えてくれたんだな。足手まといの姉の死を望んでいただろう?)

 信は耳を塞いだ。
「違う……」
(違わないだろう? 願ったじゃないか?)
「願ってない……」

(殺す……殺すんだ。あいつを……)
(自分の浅ましさを認めろよ。おまえは自分が助かるために数えきれないほどの人を殺して、最後には姉まで呪ったんだ)
 信は頭を掻きむしった。
(殺す……、あいつだけは絶対に……)
(……とんだ化け物だな。おまえのせいでみんな死んだんだ)
 信は体を支えることができず、その場にしゃがみ込んだ。

「……俺は…………」



「…………ぇ、ねぇ……ねぇってば!!」
 ふいに肩を叩かれ、信は弾かれたように顔を上げた。
 知らない女が心配そうに信を見下ろしていた。

「ねぇ、あんた……。大丈夫かい? 背中……着物が真っ赤だし……怪我してるんじゃないのかい? 医者……呼んでこようか?」
 信はゆっくりと辺りを見回す。
 道の真ん中でしゃがみ込んでいた信を、町の人たちが遠巻きに見つめていた。

 信は足に力を込めてなんとか立ち上がった。
「いや、いい……」
 信は重い体を引きずるように足を動かす。

「え、そんな体で……」
 女が慌てて、信に手を伸ばした。
 女の手が信の肩に触れた瞬間、信は女の手を振り払った。
 女の顔が驚きで見開かれていく。
 その顔がなぜか百合の顔に重なって見えた。
『信……』
 百合の絞り出すような声が聞こえた気がした。

「……ッ」
 信はきつく目を閉じると、逃げるように走り出した。

「ちょ……あんた……!」
 女の声が遠くに聞こえた。

 信はただひたすらに走った。
(殺す……殺してやる……!)
(何逃げてるんだよ。どこに逃げたって、おまえは呪われた化け物だ)
 声はずっと頭の中で響き続けている。

「俺は……何をしてるんだ……」
 足がもつれ、信は道に倒れ込んだ。
 信の横顔に冷たいものがポツリと当たった。
(雨……か……)
 雨は信の横顔を冷たく濡らしていく。
 雨足は強くなっているはずだったが、信の耳はしだいに何も聞こえなくなっていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 信は雨音の中、かすかに聞こえる人の声で、目を覚ました。

「こ、こっちです……。怪しい人がいて……」
「はい、血だらけで……」
「この先の……。怖いんで、早く連れてってください……」

(俺のこと……か……)
 信はゆっくりと体を起こした。
(まずいな……)
 信は重い体を引きずるように、再び走り出した。

(ここは……どこだ……)
 何も考えずに走っていたため、信は今自分がどこにいるのかまったくわからなかった。
(時間は……? あれからどれくらい経った……?)
 雨のせいで空が暗いのか、もうすでに夜なのかも、信にはわからなかった。

 走り続けると、大きな門が見えた。
(とりあえず、あの門の先に……)
 信は足を速め、門をくぐる。

「お、おい! もうすぐ閉める時間だぞ! 今からは……」
「え、あいつ血まみれじゃねぇか……? お、おい!」
 門の守衛のような男たちが後ろから追いかけてくるのがわかった。
 信は雨の中で、もつれる足をなんとか動かして、男たちを撒くと路地裏に身を隠す。
 細い道を進んでいると、信はまた意識が遠のいていくのを感じた。

(まずいな……)
 信は壁に寄りかかると、その場に座り込んだ。

(殺してやる……、許さない……殺してやる……)
(どこに行くんだ? おまえに逃げる場所なんてないぞ……)
 雨音の中でも、声は聞こえ続けていた。

「うる……さい……」
 信は耳を塞いで、きつく目を閉じた。


 ふいに、雨が止んだ。
 断続的に体に当たっていた冷たいものがなくなり、信はゆっくりと息を吐いた。
(雨……止んだのか……)
 しかし、信の耳には雨音が聞こえ続けていた。
(雨は……降っているのか……?)

 信はゆっくりと顔を上げる。
 気がつくと、信の隣には人が立っていた。
 信は目を見開く。

 そこには、傘を持って佇む美しい女がいた。
 女の背後では、無数の提灯に照らされた桜が妖しげに揺らめいている。
 幻想的なその光景は、この世のものとは思えないほど美しかった。

(俺は……死んだのか……?)

 信は女を見上げる。
 艶やかな黒髪に雪のように白い肌、大きく切れ長の漆黒の瞳、瞳を縁取る長いまつ毛、形の良い唇。
(天女……? 神の遣いは……こんなにも美しいのか……)

 天女の、形の良い唇がかすかに震えたのが見えた。
(どうしたんだ……?)
 天女を見つめていた信は、目を見開いた。

 天女の切れ長の瞳がわかずかに揺れると、その瞳から涙がこぼれていく。

(…………え?)

 涙は白い頬をつたい、その雫はゆっくりと地面に落ちた。
(どう……して……?)
 天女は真っすぐに信を見ていた。

(俺を見て……泣いているのか……?)
 その瞬間、信は胸の中で何かが溶け出していくのを感じた。

(俺のために……泣いてくれるのか……?)

 頭の中の声は、いつのまにか止んでいた。
(もう……いいか……)
 信は自分でも気づかないうちに微笑んでいた。
(もう……いいんだ……)

 こぼれ落ちる涙を見て、信は自分の中の澱んでどろどろになった醜い感情が、溶けていくのを感じた。

(もう…………。地獄でもどこでも連れていってくれ……)

 信はゆっくりと震える手を、天女に伸ばした。

(あなたが泣いてくれたから……もう……いいんだ……)


 信の手は温かいものに包まれた。
 そのしっかりとした感触に、信は一気に現実に引き戻される。
 天女の持っていた傘がゆっくりと地面に落ちた。

(人……なのか? ……俺は……一体何を……?)
 急いで振り払おうと信は手に力を込めたが、女は信の手を離さなかった。

 女がゆっくりと信の横に腰を下ろす。
 逃げようと信が身を引くのとほぼ同時に、信の頭が温かいものに包まれた。
(…………え?)
 気がつくと、信は女に抱きしめられていた。
 女の鼓動だけが信の耳に響く。
 温かかった。今までこれほどまでに人の温もりを感じたことは、信にはなかった。


「何があったのかは知らない……」
 女の声が聞こえた。
 その声は胸から直接頭の中に響いてくるようだった。
「だが……誰が何を言おうと…………私はおまえを許す」

 信は目を見開いた。

「おまえが自分を許せなくても、私はおまえを許す……。生きようとすることも、笑うことも、すべて許す。だから……」
 女は信を抱きしめる腕に力を込めた。


「死ぬな」


 信の口から言葉にならない声が漏れた。

「もう少し生きてみてくれ……」

 信の見開かれた目に、温かいものが溢れていく。
 自分の中にまだ温かいものあったことに、信は戸惑った。

「おまえが思っているよりは、この世は優しくて温かくて、美しいはずだから」

 信の目からこぼれた温かいものが地面を濡らしていく。
(俺が生きることを望んでくれるのか……? こんな俺を……)
 信は顔を上げることができなかった。


(もし……まだ生きることが許されるなら……)
 信は静かに目を閉じた。

(そのときは、この人のために生きよう……)
 聞こえるのは女の鼓動だけだった。
(この温かく美しい人が憂うことのない世界をつくる……。どうせ地獄に落ちるなら、この世の歪んだものはすべて俺が連れていく……。もしまだ生きられたら、そのときは……)

 信は心地よい温かさと、優しい音の中で、静かに意識を手放した。