「だ、誰……?」
 子どもは突然現れた新たな男に、思わず後ずさった。

「俺か? 俺は君の味方だよ。悪いやつをやっつけに来たんだ」
 男は薄い笑いを浮かべると、意識を失って倒れた信の腕を掴んだ。
「殺した……のか?」
「ああ」
 男は嘘をついた。
 かなり深く切りつけたが、まだ死んでいないことは男もわかっていた。

「この男はこっちでどうにかしておくから、君は人を呼んでおいで。もしかしたらお父さん、助かるかもしれないだろう?」
 男はそう言うと、信に喉を切られて倒れている男を見る。

 子どもはハッとしたように静かに頷くと、慌てて部屋を出ていった。

「まぁ、そっちはもう死んでるけどな」
 男はそう呟くと小さく息を吐いた。

 男は腰を落とし、気を失っている信を肩に担ぐ。
「子どもに気をとられて俺の気配に気づかないなんてな……。人の心が残ってるってのはツラいねぇ」
 男は軽く額の傷を掻いた。
「さぁ、行くか」
 男は信を担いで障子を開けて歩き始めた。

「死んでも地獄、運よく死ななくても生き地獄か……」
 男はひとり呟く。
「どっちがマシなんだろうな……」
 男は小さく息を吐くと、降りしきる雨の中に消えていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 気がつくと、信は懐かしい長屋にいた。
(ここは……?)
「あら、信…起きたの?」
 懐かしい声が響く。
 信が顔を上げると、薄茶色の髪をなびかせた女が信の横に腰を下ろした。
「母……さん?」
 信の母は穏やかな微笑みを浮かべる。
 信は慌てて体を起こすと、母をじっと見つめた。
「どうしたの? そんなに見つめて」
 母は小さく首を傾げる。
「え……、いや、なんでもない」
 思わず視線を落とすと、信は母が花を持っていることに気づいた。

 信の視線に気づくと、母はにっこりと笑った。
「ほら、見て。お花をいただいたの。綺麗でしょう?」
 母は嬉しそうに一輪の白い花を信に差し出した。
「百合の花よ」

「百合……?」
「そう。お姉ちゃんの名前はね、この花からつけたのよ」
 母は目を閉じると、花に顔を近づけた。

「白い百合の花はね、聖母の象徴なの」
「聖母……?」
「尊い方よ。あなたもこの花のように、清く美しく生きなさい。神を信じていれば、きっとあなたも救われるわ」
「救われる……?」
「ええ」
 母は優しく微笑むと、百合の花を信に差し出した。
 信は、震える手で白い花を受け取る。

 真っ白なその花は信の目には眩しく、信は思わず目をそらした。
(救われる……? もう俺にそんな資格は……)
 信は苦しくなり、きつく目を閉じた。
 

「ねぇ……信……」
 突然、母の声色が変わった。
「どうしてなの……?」

 信が驚いて顔を上げると、白かったはずの花は赤く染まっていた。
「え……?」
 花だけでなく、信の両手も赤く染まっていた。

 百合の花はしだいに赤黒く変色していく。

「ち、違う……! これは……!」
 信が慌てて母を見ると、母の薄茶色の髪は抜け落ち、白い肌はただれウジが這い回っていた。

 信は目を見開く。

 母の周りを蠅が飛び交っていた。
「ねぇ……、どうしてなの……?」


 叫び出しそうになったところで、信は目を覚ました。

(ここは……?)
 体が冷たく、指先の感覚がなかった。
 水の流れる音が耳に響く。
 信は目を動かして、辺りを確認した。
 辺りは暗くなり始めていたが流れる川と、ごつごつした岩が目に入った。

(川を流されてきたのか……? ここは……どこかの川辺なのか……? どうして……こんなところに……)
 そこまで考えたところで、信はすべてを思い出した。
 一気に鼓動が早くなる。

(今日は……何日だ……? あれから何日経った……?)
 信は腕に力を込める。
 指先の感覚はまだなかったが、なんとか体を起こすことができた。
 背中に激痛が走ったが、そんなことを気にしている余裕は、信にはなかった。
(まずい、まずい、まずい、まずい……! 姉さんは……? 姉さんはどうなっている……!?)

 信の足はまるで棒のようにうまく動かなかったが、信はなんとか立ち上がった。
(早く! 早く戻らないと……!)
 信は何度も転びながら、這うように前に進んだ。
(ここはどこだ……? どっちに向かえばいい……?)

 信が見たことのある町にたどり着いた頃には、すでに辺りは真っ暗になっていた。
(かなり流されてきてるな……)
 信がいる場所は殺しに入った屋敷からかなり距離のある場所だった。
(しかも小屋とは真逆の方に流されてきたのか……)
 信は思わず舌打ちした。

 少しずつ足が動くようになってきていた信は、小屋に向かって全力で走った。
 背中は裂けるように痛かったが、気にしている余裕はない。

(姉さん……姉さん……! お願いだから……無事でいて……!) 

 
 信が山を登る頃には夜が明け始めていた。
 信はいつもの道を通り、小屋に向かって山を駆け上がった。

 辿り着いたのはポッカリと開けた場所だった。

 美しいとさえ思ってしまうような朝日が辺りを照らしている。

「……え?」

 そこには小屋と屋敷があるはずだった。
 信はもつれる足をなんとか交互に前に出し、ゆっくりと進む。
 目の前にあるのは、何かが燃え残ったような黒い瓦礫だけだった。

(一体どういう……)
 小屋だけでなく屋敷も、すべてなくなっていた。

(俺は……場所を間違えたんだ……。そうだ……そうに決まってる……)

 信は茫然と瓦礫を見つめる。
 そのとき、瓦礫の中に見覚えのあるものがあった。

(そんなわけない……、そんなわけ……)
 信は足の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
 それは、百合が肌身離さず身に着けていた十字架だった。

 十字架を見つめていると、しだいに黒い塊の中に人の形が見えてくる。
 頭、首、腕、手、胴、腰、足……。

(足…………)

 その人の形をした黒いものには、足が一本しかなかった。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 信は口から漏れる声を抑えることができなかった。

(嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ)

 耳元で虫の羽音が聞こえる。
 信は咄嗟に耳を塞いだ。

 すると、頭の中で声が響く。

『なぁ、信。すべてはおまえが望んだことなんだ』

 信は目を見開く。
(俺が……望んだ…………?)
 信は茫然と黒い塊を見つめる。
(俺が……姉さんの死を……望んだから……?)

 信はこみ上げるものが抑えきれず、その場で吐いた。
 うまく呼吸ができなかった。

『ねぇ……信、どうしてなの……?』
 懐かしい声が聞こえる。

 信が顔を上げると、視線の先に黒い花が咲いているのが見えた。
(百合…………?)
 そこにあったのは黒い百合の花だった。
 朝日を浴びた黒百合は、血を浴びたように赤く黒ずんで見えた。

(ああ……、やっぱり……。すべては俺のせいなんだ…………)

 首を絞められているように息ができなかった。
 信は静かにうずくまると、そのまま意識を失った。