「じゃあ、行ってくる」
 信の言葉に、百合は信の方に顔を向けると穏やかに微笑んだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
 信は百合をしばらく見つめると、静かに戸を開けて小屋を後にした。

 百合が、信に逃げるように言った日から一年近くが経っていた。
 あの日、信が小屋に戻ると、百合はすべてが夢だったかのようにいつも通り信を出迎えた。
 あれ以来変わらない百合の笑顔に、信はあの日の出来事は毒のせいで見た幻覚だったのではないかと思い始めていた。

(とにかく……今日も早く片付けて戻らないと……)
 信はいつもの山道を下りながら、空を見た。
 日が暮れ始める時間だったが、空は厚い雲で覆われていてすでに辺りは薄暗かった。

(雨が降りそうだな……)
 信は灰色の雲を見ながらぼんやりと思った。
 雨の日は雨音で気配を消しやすく、痕跡が残っても消えやすいため、仕事をするには悪くない天気だった。
(この天気なら多少強引に進めても大丈夫か……)
 信は目を伏せると、足早に山を下りていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 山を下りた頃に降り出した雨は、しだいに地面を叩くように強くなった。
 目的の屋敷に着いた頃には、雨音で周りの音はほとんど聞こえなくなっていた。
 雨で視界が遮られる中で、屋敷に侵入するのはいつも以上に簡単だった。

 信は雨に濡れた着物を軽く絞ると、目的の人物がいる部屋に向かう。
 屋敷の構造は、すべて信の頭に入っていた。
 屋敷の人間に見つからないように、信は慎重に足を進める。

 目的の場所は屋敷の一番奥にあった。

 雨音が大きいためか、屋敷はひっそりと息をひそめているように静かだった。
 目的の部屋に辿り着くと、信は耳を澄ませる。
 雨音で部屋の様子は、はっきりとはわからなかったが、障子から漏れる部屋の灯りで人がいることはわかった。
(今日は早く終わりそうだな……)
 そっと障子を開けて中を見ると、目的の男は机に向かい書き物をしていた。
 信は意図的に少しだけ音を立てたが、男が気づく様子はない。

(都合がいいな……)
 信は男の死角に回り込むと、そっと障子を開けて中に入る。
 男はただ紙に筆を走らせていた。
 信は、男の後ろまで足を進めると、懐から小刀を取り出す。

(恨んでくれていい……)
 信は祈るように一度目を閉じると、男の口元を押さえ顎を上げると、一気に喉元を切った。
 男の目が見開かれ信を見るのとほぼ同時に、血しぶきで一面が赤く染まる。
 手にかかる血が生温かく、信は思わず顔をしかめた。

 男が死んだのを確認すると、信は抜け殻となった男の体をそっと横たえた。
 信は血振りすると小刀を懐におさめる。
 何度経験してもまとわりつくような血の臭いと生温かさには慣れなかった。
 信は、目を見開いたままの男から静かに目をそらす。
(早く戻ろう……)

 信が背を向け部屋を出ようとしたとき、パタパタと廊下を走る小さな足音が聞こえた。
(気づかれたか……?)

「お父様! 志乃が雷が怖いって言っててさ……」
 勢いよく襖が開き、まだ十にも満たないような子どもが笑顔で顔を出した。

「え……?」

 部屋一面に飛び散った血と部屋で立ち尽くす信を見て、子どもは凍りついたように動かなくなった。
 子どもの目がゆっくりと見開かれていく。
 子どもの視線がゆっくりと倒れている男に向けられた。

「ちょっと、お兄様! 怖いって言ってたのはお兄様でしょう!?」
 パタパタという足音とともに、別の子どもの声が近づいてくる。
「? どうしたの? お兄様……」

 ハッとしたように、子どもは慌てて後ろを向く。
「く、来るな!!」
 子どもは大声で言った。

「な、何!? ……どうしたの?」

 子どもはその声を無視して、ゆっくりと信を振り返る。
 その顔は憎悪で歪んでいた。

「よくもお父様を……!」
 信は子どもから目を離すことができなかった。
 子どもの顔がなぜか昔の自分と重なる。
 いくらでも逃げる隙はあったが、信は動くことができずにいた。

(俺は…………)
 信が、こちらに向かってくる子どもを茫然と見ていると、ふいに背後に気配を感じた。

 信が振り返る間もなく、背中に焼けつくような痛みが走る。
「ッ……」
(……切られた……のか……)
 次の瞬間、首に強い衝撃が走り、信は何もわからないまま意識を失った。