「誰だ……?」
 月明かりに照らされて、障子に薄っすらとした影が揺れていた。
 橘忠幸はそっと床の間にある刀に手を伸ばす。
 

「……俺ですよ」
 障子の向こうから、両手を上げた男が薄い笑いを浮かべて現れる。
 忠幸は小さく息を吐くと、刀から手を離した。
「なんだ、おまえか……」

「なんだとはなんですか。心配して来てあげたんですよ?」
 額に傷のある男はフッと笑うと、部屋の中に入った。
「心配? ……どうせ笑いにでも来たんだろう?」
 忠幸は忌々しげに言うと、男に背を向けた。

 男は忠幸の背中を見つめると、静かに息を吐いた。
「さっさと逃げた方がいいんじゃないですか? このままじゃ、殺されますよ?」

「どうして俺が逃げる必要がある? 俺は犬なんかに殺される気はない」
 忠幸は男を少しだけ見ると、不快そうに眉をひそめた。

(おいおい、どこから来るんだよ、その自信は……)
 男は悪態をつきたい気持ちをなんとか抑えた。
「殺される気はないって言っても、真正面から行って勝てる相手じゃないですよ?」

「そんなこと言われなくてもわかってる!」
 忠幸は苛立ちを隠す様子もなかった。

 男はため息をつく。
(そんな調子だから、自分の飼い犬に手を噛まれるんだろうが……)
 飼い犬に売られた可哀そうな主人だということはわかっていたが、男は忠幸に手を差し伸べる気にはなれなかった。
(こっちはあの方に言われたから、仕方なく警告してやってるっていうのに……)

「じゃあ、どうするつもりなんですか?」
 男はため息交じりに聞いた。
「要は、正面から行かなければいいんだろう……?」
「……は?」
「俺は殺されない……。俺が……先に殺してやる……」
 忠幸は男に背を向けて呟くように言った。

 男は眉をひそめて、忠幸の背中を見つめる。
(なんか……厄介なことになりそうだな……)
 男は額の傷を掻いた。
「俺は、逃げるのが一番いいと思いますけどね……」

 男の言葉に、忠幸が勢いよく振り返った。
「だから、どうして俺が屋敷を捨てて逃げなきゃいけないんだ! これまで築いてきたものを捨てる気はない!」
 忠幸の顔は怒りで赤くなっていた。

(たいしたもの築いてねぇだろうが……)
 男はゆっくりと息を吐いた。
「まぁ、そういうことなら……好きにしてください。俺はあの方に様子を見てきてやれと言われて来ただけなので」

「俺は死なない」
 忠幸は独り言のように呟く。

「はいはい、そう伝えておきます」
 男はそう言うと、忠幸に背を向けた。

「クソッ……あの方のお気に入りだからって……犬のくせに偉そうに……」
 忠幸の呟くような声が、かすかに男の耳に届いた。

 部屋を後にした男は、思わず苦笑した。
「お気に入りねぇ……」
 男は静かに目を伏せた。
「あの方にとってはただの玩具(おもちゃ)だよ。……俺も、おまえもな」
 男は小さく呟くと、夜の闇に消えていった。