「だいたい話しはわかったが……」
 ひと通り話しを聞き終えた良庵はため息をついた。
「それなら、別にここじゃなくたっていいだろう……。商家で人手がほしいところなんていくらでもあるんだから……」
 良庵は、向かい側に座っている信を見た。
 信は良庵の視線に気づき、顔を上げる。
「咲耶はどうして俺の助手にしようなんて思ったんだ?」
 良庵は首をひねった。

 二人の話を聞いていた叡正も、信に視線を向ける。
(確かに……。どうして咲耶太夫はここに連れていくように言ったんだ……?)

 視線を受けて、信がゆっくりと口を開く。
「ひとりで生きられるようになってほしいそうだ」
「ひとりで?」
 良庵の言葉に信は静かに頷いた。

(そうか……。確かに医者の助手なら、医者にならないにしてもいろんな道が選べるか……)
 叡正は咲耶の考えがなんとなくわかった気がした。

 医者の助手をしていれば薬の知識を得て、いずれ薬屋になることができるかもしれない。
 咲自身が子どもを生めば、医学の心得のある産婆になることもできるだろう。
 女がひとりで生きていくことが難しい江戸で、医学の知識は武器になる。

「ん~、その考えはわからなくもないが……」
 良庵は腕組みをしながら、咲を見た。
「あんたはそれでいいのか? 医者なんて、そんなにいい仕事じゃないぞ」

 急に視線を向けられ、咲は慌てて背筋を伸ばした。
「そ、そんな! お医者様はすごく立派なお仕事です!」
「立派ねぇ……」
 良庵は苦笑する。
「医者が人を救えるなんてのは幻想だよ。できるのは痛みを和らげたり、症状を抑えたりすることくらいだ。病気も怪我も、結局は自力で治してもらうしかない。どんなに医者が頑張ろうと、死ぬやつは死ぬんだ。目の前で死なれて、残された家族から責められることだって少なくない。あんた、それに耐えられるのか?」
 良庵の言葉に、咲は目を伏せた。

「医者にできるのは生きる手助けだけだ」

「生きる……手助け……」
 咲は良庵の言葉を繰り返した。

 咲はしばらくうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「それなら、やはり私は……ここで働きたいです」

 咲の言葉に、良庵は意外そうな顔をした。
「本当にいいのか? 助手とはいえ、ラクじゃないぞ?」

「はい」
 咲は良庵を真っすぐに見て頷いた後、わずかに目を伏せた。
「……私、今までずっと兄に助けてもらって生きてきたんです。何も考えずに……それが当たり前みたいに……。もしかしたら兄にも……誰かに助けてもらいたいときがあったかもしれないのに……」
 咲はそう言うと悲しげに微笑んだ。
「だから今度は、私が助けられる人間にならなきゃいけないんです。たとえ助けられなくても、助けようとする人間になりたいんです。もし……また兄に会えたら、今度は私が兄を支えられるように……」

 咲の言葉に、叡正は顔を曇らせるとそっと目を伏せた。

 叡正の様子を見て、良庵は何かを悟ったように小さく息を吐く。
「そうか……。わかった。それならここに置いてやるよ……」
 良庵はそう言うと頭を掻いて、信を見つめる。
「咲耶に言っとけよ。この借りは高くつくぞってな」

「ああ、わかった」
 信は淡々と言った。

「あ、ありがとうございます!」
 咲は嬉しそうに目を輝かせると、深々と頭を下げた。

「まぁ、そうと決まれば、俺が管理してる長屋でちょうど空いてるところがあるから、あんたはそこで今日から寝泊まりしな。後で案内してやるから」
 良庵は咲にそう言うと、信と叡正に視線を移した。
「で、おまえら二人にもう用はないから、さっさと帰れ」
 良庵はにこやかにそう言うと、信と叡正の腕を掴み引きずるように長屋の外に連れ出した。

 二人とともに外に出て長屋の戸を閉めると、良庵は深いため息をついた。
「とりあえず、あの子は俺が面倒みるからいいとして……」
 良庵は信を見つめた。
「あんまり危ないことに首突っ込むなよ? 詮索する気はないが……おまえだって死ぬときは死ぬんだ。あのとき助かったのは奇跡に近い。今度あんな状態になったら、おまえ死ぬぞ。それに……」
「ああ、わかってる」
 信は淡々と言うと目を伏せた。

 叡正は静かに二人を見つめていた。
(あのときって何のことだ……?)

 良庵はこめかみを指で押さえると、目を閉じて長い息を吐いた。
「わかってはなさそうだけど……。まぁ、いい……。とにかく気をつけろよ」

「ああ」
 信は短く答えると、良庵に背を向けて歩き始めた。
「あ、おい、待てよ!」
 叡正は慌てて良庵に頭を下げると、信の後を追う。

「まったく……危ないのはおまえだけじゃないんだぞ……」
 背後でため息交じりにそう呟く声が、叡正の耳にかすかに響いた。