「おい、本当に……どこに向かってるんだ……?」
 叡正は黙々と歩き続けている信の横に並ぶと、小さな声で聞いた。
 信と叡正の少し後を、咲が小走りでついてきている。
 信が何も言わずに歩き始めてから、すでにかなりの距離を歩いていた。

 信は横目でチラリと叡正を見た。
「おまえも知っているところだ」
「俺も知っているところ……?」
 叡正は首を傾げた。
「そこに連れていくように咲耶に頼まれた」
 信の口調はいつもの淡々とした感情のないものに戻っていた。
「ああ、咲耶太夫に……」
 信のいつも通りの口調に、叡正は少しホッとしていた。

(さっき……なんであんなに怒ってたんだ……?)
 叡正は信を見つめる。
 信の横顔からは何の感情も読み取れなかった。
 叡正は目を伏せる。
(前に目の見えない姉さんがいたって言ってたし……。信もいろいろ思うところがあるってことか……)
 叡正は目を閉じて、小さく息を吐いた。

 叡正が目を開けて、信に声を掛けようとしたとき、ふいに信が立ち止まった。
「……どうしたんだ?」
 叡正も立ち止まると、信に聞いた。
「着いた」

 叡正は辺りを見回す。
 暗くてはっきりとは見えなかったが、ここは叡正にも見覚えがあった。
「ここは……」
 叡正が小さく呟くと、少し遅れて咲が二人に追いついた。
「こ、ここですか……?」
 ずっと小走りでついてきていたため、咲は息が上がっていた。
「ああ」
 信はそう呟くと、一軒の長屋の戸を強く叩いた。

 中からは何の音も聞こえなかったが、信は繰り返し何度も戸を叩く。

「お、おい……! 留守かもしれないから、そう何度も……」
 叡正が慌てて止めようとしたとき、中からドタッという大きな音が聞こえ、バタバタと戸に足音が近づいてくるのがわかった。

 勢いよく戸が開き、慌てたように男が出てくる。
「な、なんだ!? 急患か!?」

 出てきた男は目の前にいる信を見ると、あからさまに顔をしかめた。
「信……、おまえなんでこんな夜更けに……」
 そう言いながら男は、信の後ろにいる叡正と咲の方に視線を向けた。

「あ、おまえはあのときの……」
 男は叡正を見て目を丸くする。
 叡正は慌てて頭を下げた。
「あ……、あのときはお世話になりました……」

(向かってるところってここだったのか……)
 叡正はゆっくり頭を上げると、目を丸くしたままの良庵を見つめた。
 良庵は、叡正の妹を最後まで診てくれた医者だった。

 良庵は困惑したように頭を掻いた。
「えっと……なんでここに……? それにそちらの人は……? 患者……じゃねぇよな……。息は上がってるみたいだけど元気そうだし……」
 良庵は叡正の隣にいる咲を見て、首を傾げる。

「先生に助手を紹介に来た」
 信は淡々と言った。
「…………は? 助手……?? 俺に??」
 良庵は唖然とした顔で信を見る。
「え? ちょっと待て……。俺、助手が欲しいなんて言ったことあったか?」

「いや、ない」
「…………じゃあ、なんで紹介しに来たんだ……?」
 良庵はポカンとした表情で咲を見た。
「助手にして欲しいと思ったからだ」

 良庵は信を呆然と見つめた後、頭を抱えた。
「……ここはいつから駆け込み寺になったんだ……」
 良庵はうんざりしたような表情で信を見る。
「どうせあれだろ……。咲耶だろ……?」
 良庵の言葉に、信は静かに頷いた。
「腰が悪そうだからちょうどいいだろうと言っていた。今も調子が悪そうだから座った方がいいんじゃないか?」
 信は淡々と言った。
「ああ……。おまえが何回も戸を叩いてくれたおかげで、慌てて起きて転んだからな……。腰は絶不調だ……。気遣いありがとう」
 良庵は引きつった笑顔で応えた。
「しかし、助手って……。俺は……」

「あ、あの……!」
 良庵の言葉を遮るように、咲が声を上げた。
 咲は足早に良庵の前まで行くと、突然地面に膝をついた。

「お、おい……!」
 慌てて良庵がしゃがみ込む。

 咲は地面に両手をついて、縋るように良庵を見た。
「お願いです! 私をここに置いてください!! 私……今は何もできませんが……なんでもやります! なんでもすぐ覚えて……必ずお役に立ちます!! だから、どうかここに……。お願いします!!」
 咲は地面に額をつけるように、頭を下げた。

「おい……。とりあえず顔を上げてくれ……」
 良庵は慌てて咲に言うと、信と叡正を恨めしそうに見た。
 良庵は口にこそしかなかったが、『どうしてくれるんだこの状況』と訴えているのが叡正にもわかった。
 叡正は静かに視線をそらす。

 良庵は大きくため息をついた。
「とりあえず、中に入れ……。少しは事情を説明してくれ……。誰かさんの言うように、こっちは腰も痛いんだよ……」
 良庵の言葉に、咲はようやく顔を上げた。

 呆れ顔の良庵に促され、三人は長屋の中に入っていった。