叡正は女の後に続いて屋敷の奥へと足を進めていた。
 奥へ進めば進むほど奉公人の数は増え、忙しなく廊下を行き来していた。
 客が屋敷の奥まで来るのはやはり珍しいのか、皆戸惑いながら法衣を来た叡正に頭を下げた。

「ここの奥が台所なので、こちらでお待ちください。今、呼んでまいりますので」
 女は叡正にそう言うと、扉を開けて中に入っていった。

(さぁ、ここからどうするか……)
 廊下にひとりになった叡正は、腕組みをしてそっとため息をついた。
(とりあえず顔が確認できれば十分だよな……。どう考えてもいきなり連れ出すなんて無理だし……)

 叡正が考え込んでいると、ガラッと扉の開く音がした。
 叡正が視線を上げると、先ほどの女とともに、どこか不安げな表情の女が扉から出てきた。
「こちらが咲です」
 女は、隣にいる女をちらりと見て言った。
「あ、咲と申します。私が何か落としてしまったようで……お手数をおかけして申し訳ありません」
 咲は一度だけ叡正の顔を見ると、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。

(この子が、咲か……)

 叡正は咲を見る。
 咲は印象に残りにくい素朴な顔立ちをしていた。
 咲の背は決して低くなかったが、ずっと申し訳なさそうにうつむいているせいか、隣にいる女よりもずっと小さく見えた。

「あの……、お、落としたものを……」
 咲がおずおずと叡正を見上げた。

「あ……、えっと……」
 叡正は、咲の隣に立っている女をちらりと見る。
「その……ほかの者が見ている前では出しにくいものだから、少し外してもらえるだろうか?」

 女と咲は二人同時に目を丸くした。
「え……?」
 咲は一瞬ポカンとした顔をした後、みるみる顔を赤くした。

(しまった……。何か恥ずかしいものを落としたような感じになってしまった……)

 女は気の毒そうに咲を見た後、叡正の方を向いた。
「そういうことでしたら……」
 女はそれだけ言うと、そそくさと扉を開けて台所の方に去っていった。

 女がいなくなったのを確認すると、叡正は慌てて咲の方を向く。
「す、すまない! そんなことを言うつもりでは……申し訳ない!」
「あ……いえ……」
 咲は真っ赤な顔のままうつむいた。

「それに……落とし物を拾ったというのは嘘なんだ……」
「え……?」
 咲は目を丸くして顔を上げる。

「実はその……君のお兄さんと知り合いで……」
 叡正の言葉に、咲は目を見開いた。
「兄と、ですか!?」
 咲はそう言うと、先ほどまでとは別人のように叡正に詰め寄る。
「あの! 兄は今どこにいるんですか!? ずっと心配で……!」
 咲の勢いに、叡正は思わず後ずさった。
「あ、えっと……、ここ最近は会ってないんだ……。最後に会ったときに、君をすごく心配してたから……。法要のついでに顔を見ていこうかと……」
 叡正はあらかじめ考えておいた言い訳を口にした。
 叡正の言葉に、咲は明らかに肩を落としていた。
「そう……でしたか……」

「その……お兄さん、行方がわからないのか……?」
 咲は一度叡正を見てから、静かに目を伏せた。
「はい……。兄は基本的に旦那様に直接仕えているのですが、行方がわからなくなったらしいのです……。旦那様の大切なものを持って逃げたという噂も広がっていて……。最初からそのつもりでこの屋敷に来たのではないかと疑われていて……」

(一体、どこまでが事実なんだ……?)
 叡正は咲の兄が死んだということだけは知っていたが、それは今話すべきではないと判断した。

「そう……なのか……。それは君も居心地が悪いだろうね」
 叡正の言葉に、咲は苦しげな表情を見せた。
「居心地……というよりは、最近変なことが多くて……」
「変なこと?」
 叡正は眉をひそめる。
「かまどに薪を入れているときに後ろから誰かに押されたり……、食事の味が今までとどこか違ったり……大したことではないのですが、火傷や怪我、体調を崩すことが多くなってきていて……」

 叡正は目を見開いた。
(これは、思っていたよりもすでに危ないんじゃないか……?)

「そんなことがあるのに……君は逃げようとは思わないのか?」
 叡正は咲を見つめた。
「ここまでよくしていただいた恩があります……。それに、私が逃げたら兄がやはり悪いことをしていたと思われてしまいそうで……。本当に兄が悪いことをして逃げたのなら、それこそ私が罪を償わないといけませんし……」

(……恩……、罪を償う……?)

 叡正は茫然と咲を見つめる。
 咲が、今はもういない叡正の妹と重なって見えた。

(ああ……あいつもそんなことを考えていたんだろうな……)
 叡正はきつく目を閉じた。
(その後、辿った道は……)

 叡正はゆっくりと目を開けた。
「俺が……言うことではないのかもしれないが……、もっと自分を大事にしてほしい。恩があったとしても命の危険があるなら逃げるべきだ。それに……もし君のお兄さんが罪を犯していたとしても、それを君が償う必要はない。何よりお兄さんが絶対にそれを望んでいない。君のことを心配していたんだから」

 叡正の言葉に、咲は目を見開いた。

「逃げるんだ。自分のために……。もし逃げる気があるなら手伝うから。もし……その気があるなら、今日の夜、屋敷の門の前に来てくれ」
 叡正は真っすぐに咲を見つめた。

「わ、私は……」
 咲は目を泳がせる。
「私は……どうすればいいか……。……すみません!」
 咲はそう言うと、叡正を押しのけて廊下を駆け出した。

 叡正は咲の後ろ姿を呆然と見つめながら、よろよろとその場にしゃがみ込む。
(ああ……失敗した……! あんなこと急に言ったら混乱するに決まってるだろう……)
 叡正は頭を抱える。
(……とりあえず、まずは来ることに賭けるしかないか……)
 叡正は頭を抱えたまま、祈るように目を閉じた。