信が目を覚ましたのは、空が明るくなってからだった。
まだ胸が焼けつくような気持ち悪さは残っていたが、起き上がれないほどではなかった。
(逃げよう……。一刻も早くここから……)
信はゆっくりと体を起すと、重い体を引きずるように小屋に戻った。
「信?」
信が小屋に入る気配に気づいたのか、百合は布団から体を起こすと信の方に顔を向けた。
「昨日はあれからどこに行っていたの?」
百合は不安げな表情で聞いた。
(姉さん……、昨日より具合は良さそうだな……)
信はそっと胸をなでおろした。
「……お館様に呼ばれて外に出てたんだよ……」
信の言葉に、百合は少しだけ表情を曇らせた。
「そう……なの……」
「それでさ……お館様から言われた仕事をするために、今すぐここから二人で出ていかないといけなくなったんだ……!」
焦りから信は少し早口になっていた。
百合は目を丸くする。
「今から? ……そんなに急ぎの仕事なの?」
「うん、とにかく急がないといけないんだ……。必要な荷物なんてほとんど何もないだろう? 姉さんはついてきてくれればいいから」
信の言葉に、百合は何か言いかけたが目を伏せると静かに頷いた。
「少しだけ待ってね……。すぐに荷物をまとめるから」
百合はそう言うと、手探りで荷物をまとめていった。
(今ならまだ早い時間だから見つかる可能性は低い……。なるべく早く山を下りないと……)
気持ちだけが焦っていた。
「待たせてごめんなさい。準備ができたから行きましょうか」
百合は手には何も持っていなかった。
信の言いたいことを察したのか、百合は自分の胸元をポンと叩く。
大切なものは懐に入れたということなのだろうと信は理解した。
「行こう」
信は百合の手をとると小屋を出た。
仕事で山を下りるときに使う道は避けて、木々の生い茂ったけもの道を進む。
目の見えない百合にとってけもの道が歩きにくいのはわかっていたが、いつも通る道では見つかってしまう可能性が高かった。
(山さえ下りられれば、後はなんとかやっていけるはずだ……)
仕事で何度も山を下りてきた信は、少しずつ普通の暮らしというものを理解し始めていた。
(二人で普通に生きていくためなら、なんでもやる。きっと大丈夫だ)
木の枝や葉が百合に当たらないように手で払いながら、信は百合の手を引いて進んだ。
(ただ普通に……)
その瞬間、ストンという音が耳に響いた。
(な……んだ?)
音のした方を見ると、信のすぐ横にある木の根元に弓矢が刺さっているのが見えた。
(まさか……!)
「姉さん、気をつけて!!」
「え……?」
百合がそう呟いて信に顔を向けた瞬間、百合の右足に弓矢が刺さるのが見えた。
「姉さん!!」
「ッ……!」
百合はそのまま前に倒れ込む。
百合は、何が起こったのかわからず戸惑っていたが、ゆっくりと自分の足に触れていき、足首より少し上に刺さった棒のようなものに触れるとようやく何が起きたのか理解したようだった。
信は慌ててしゃがみ込む。
「姉さん、触らないで! ヘタに抜こうとすると食い込むようになってるから! 急いで医者に……」
「おやおや、信じゃないか」
今、一番聞きたくなかった声に、信は凍りついたように動けなくなった。
木の根や草を踏みしめる音が少しずつ近づいてくる。
「どうしてこんなところを歩いているんだ? 獣だと思って弓を射ってしまったじゃないか」
信の背中に男の影がかかる。
「あ、これは! お姉さんの足に刺さったのか!? こりゃあ、大変だ!」
信には男の声が少し笑いを含んでいるように聞こえた。
「矢じりには毒が塗ってあるんだ! 早く処置しないと!」
(毒……?)
信の顔から血の気が引いていく。
「大丈夫、心配いらないさ。今ならまだ足を切り落とせば、命は助かる」
(足を……切り落とす……?)
「そ、そんな! お館様……!」
信が勢いよく振り返ると、醜く歪んだ顔で信を見下ろす男と目が合った。
恐怖で声が出なかった。
気がつくと、ガサガサと何人かの男たちが近づいてきていた。
「ほら、さっき人を呼んでおいたから、お姉さんはこいつらに任せるんだ」
恰幅の良い男は、不気味に微笑んだ後、しゃがみ込んで百合の足に触れた。
「お姉さん、大丈夫だよ。足を切れば命は助かるから。痛くないように切るからね」
男の言葉に百合の顔は青ざめていたが、やがて意を決したようにゆっくりと頷いた。
「さぁ、おまえら慎重に運べよ」
恰幅の良い男がそう言うと、集まってきた男たちは百合を抱き上げ、木々の向こうに消えていった。
残されたのは、信と恰幅の良い男の二人だけだった。
「お館様……」
信は膝をつき、頭を地面にこすりつける。
「も、申し訳ございません! すべては俺が! どうか姉さんが足を切らなくてもいいように……どうか! なんでもします!! もう絶対に逃げたりしませんから! どうか……どうかお願いします!!」
信の肩にそっと男の手が置かれる。
「もう手遅れだよ、信」
男が信の耳元でそっと囁いた。
「毒矢だと言っただろう? 足を切って生きるか、死ぬかのどちらかだ。……すべておまえのせいだよ」
男の言葉に、信の手足が震え始める。
「おまえたちの好きな異国の神にでも縋ればいいさ」
男の声はどこかこの状況を楽しんでいるようだった。
「まぁ、おまえのような人殺しを救う神がいるのかはわからないがな」
男はそう言うと、声を上げて笑った。
信は顔を上げることができなかった。
しばらくするとガサガサと音がして男が遠ざかっていくのがわかった。
信は生まれて初めて神に祈った。
(すべては俺の罪で、姉さんは関係ないんです!! どうか姉さんをお救いください! 姉さんはずっと神を信じて祈りも捧げてきたでしょう……。どうか姉さんから足まで奪わないでください! どうかどうか!!)
信は、辺りが暗くなって屋敷の人間が呼びに来るまで、ずっと祈り続けた。
数日後、小屋に戻ってきた百合は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お館様に良くしていただいて治ったの。ようやく帰ってこられたわ」
百合のその表情は以前と何も変わらなかったが、百合は杖をつきながら小屋に入ってきた。
ゆっくりと進むその足元には片足しかなく、右足のふくらはぎから先は跡形もなく、なくなっていた。
まだ胸が焼けつくような気持ち悪さは残っていたが、起き上がれないほどではなかった。
(逃げよう……。一刻も早くここから……)
信はゆっくりと体を起すと、重い体を引きずるように小屋に戻った。
「信?」
信が小屋に入る気配に気づいたのか、百合は布団から体を起こすと信の方に顔を向けた。
「昨日はあれからどこに行っていたの?」
百合は不安げな表情で聞いた。
(姉さん……、昨日より具合は良さそうだな……)
信はそっと胸をなでおろした。
「……お館様に呼ばれて外に出てたんだよ……」
信の言葉に、百合は少しだけ表情を曇らせた。
「そう……なの……」
「それでさ……お館様から言われた仕事をするために、今すぐここから二人で出ていかないといけなくなったんだ……!」
焦りから信は少し早口になっていた。
百合は目を丸くする。
「今から? ……そんなに急ぎの仕事なの?」
「うん、とにかく急がないといけないんだ……。必要な荷物なんてほとんど何もないだろう? 姉さんはついてきてくれればいいから」
信の言葉に、百合は何か言いかけたが目を伏せると静かに頷いた。
「少しだけ待ってね……。すぐに荷物をまとめるから」
百合はそう言うと、手探りで荷物をまとめていった。
(今ならまだ早い時間だから見つかる可能性は低い……。なるべく早く山を下りないと……)
気持ちだけが焦っていた。
「待たせてごめんなさい。準備ができたから行きましょうか」
百合は手には何も持っていなかった。
信の言いたいことを察したのか、百合は自分の胸元をポンと叩く。
大切なものは懐に入れたということなのだろうと信は理解した。
「行こう」
信は百合の手をとると小屋を出た。
仕事で山を下りるときに使う道は避けて、木々の生い茂ったけもの道を進む。
目の見えない百合にとってけもの道が歩きにくいのはわかっていたが、いつも通る道では見つかってしまう可能性が高かった。
(山さえ下りられれば、後はなんとかやっていけるはずだ……)
仕事で何度も山を下りてきた信は、少しずつ普通の暮らしというものを理解し始めていた。
(二人で普通に生きていくためなら、なんでもやる。きっと大丈夫だ)
木の枝や葉が百合に当たらないように手で払いながら、信は百合の手を引いて進んだ。
(ただ普通に……)
その瞬間、ストンという音が耳に響いた。
(な……んだ?)
音のした方を見ると、信のすぐ横にある木の根元に弓矢が刺さっているのが見えた。
(まさか……!)
「姉さん、気をつけて!!」
「え……?」
百合がそう呟いて信に顔を向けた瞬間、百合の右足に弓矢が刺さるのが見えた。
「姉さん!!」
「ッ……!」
百合はそのまま前に倒れ込む。
百合は、何が起こったのかわからず戸惑っていたが、ゆっくりと自分の足に触れていき、足首より少し上に刺さった棒のようなものに触れるとようやく何が起きたのか理解したようだった。
信は慌ててしゃがみ込む。
「姉さん、触らないで! ヘタに抜こうとすると食い込むようになってるから! 急いで医者に……」
「おやおや、信じゃないか」
今、一番聞きたくなかった声に、信は凍りついたように動けなくなった。
木の根や草を踏みしめる音が少しずつ近づいてくる。
「どうしてこんなところを歩いているんだ? 獣だと思って弓を射ってしまったじゃないか」
信の背中に男の影がかかる。
「あ、これは! お姉さんの足に刺さったのか!? こりゃあ、大変だ!」
信には男の声が少し笑いを含んでいるように聞こえた。
「矢じりには毒が塗ってあるんだ! 早く処置しないと!」
(毒……?)
信の顔から血の気が引いていく。
「大丈夫、心配いらないさ。今ならまだ足を切り落とせば、命は助かる」
(足を……切り落とす……?)
「そ、そんな! お館様……!」
信が勢いよく振り返ると、醜く歪んだ顔で信を見下ろす男と目が合った。
恐怖で声が出なかった。
気がつくと、ガサガサと何人かの男たちが近づいてきていた。
「ほら、さっき人を呼んでおいたから、お姉さんはこいつらに任せるんだ」
恰幅の良い男は、不気味に微笑んだ後、しゃがみ込んで百合の足に触れた。
「お姉さん、大丈夫だよ。足を切れば命は助かるから。痛くないように切るからね」
男の言葉に百合の顔は青ざめていたが、やがて意を決したようにゆっくりと頷いた。
「さぁ、おまえら慎重に運べよ」
恰幅の良い男がそう言うと、集まってきた男たちは百合を抱き上げ、木々の向こうに消えていった。
残されたのは、信と恰幅の良い男の二人だけだった。
「お館様……」
信は膝をつき、頭を地面にこすりつける。
「も、申し訳ございません! すべては俺が! どうか姉さんが足を切らなくてもいいように……どうか! なんでもします!! もう絶対に逃げたりしませんから! どうか……どうかお願いします!!」
信の肩にそっと男の手が置かれる。
「もう手遅れだよ、信」
男が信の耳元でそっと囁いた。
「毒矢だと言っただろう? 足を切って生きるか、死ぬかのどちらかだ。……すべておまえのせいだよ」
男の言葉に、信の手足が震え始める。
「おまえたちの好きな異国の神にでも縋ればいいさ」
男の声はどこかこの状況を楽しんでいるようだった。
「まぁ、おまえのような人殺しを救う神がいるのかはわからないがな」
男はそう言うと、声を上げて笑った。
信は顔を上げることができなかった。
しばらくするとガサガサと音がして男が遠ざかっていくのがわかった。
信は生まれて初めて神に祈った。
(すべては俺の罪で、姉さんは関係ないんです!! どうか姉さんをお救いください! 姉さんはずっと神を信じて祈りも捧げてきたでしょう……。どうか姉さんから足まで奪わないでください! どうかどうか!!)
信は、辺りが暗くなって屋敷の人間が呼びに来るまで、ずっと祈り続けた。
数日後、小屋に戻ってきた百合は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お館様に良くしていただいて治ったの。ようやく帰ってこられたわ」
百合のその表情は以前と何も変わらなかったが、百合は杖をつきながら小屋に入ってきた。
ゆっくりと進むその足元には片足しかなく、右足のふくらはぎから先は跡形もなく、なくなっていた。