「おまえは数もかぞえられないのか? 十日後といっただろう? 今は何日目だ? おまえの頭にはウジでも湧いているのか?」
 咲耶は髪を結われながら、鏡ごしに叡正を見る。
 叡正は咲耶の後ろで正座しながら、頭を下げていた。
「いや……すまない…。もう何かわかったかと思い、来てしまって……」
 叡正が上目遣いで鏡越しに咲耶を見ると、咲耶はジトっとした眼差しを向ける。
「ほぅ…、おまえはどうしようもないほど暇らしいな。あいにく、こちらは暇ではない。ウジが湧いた頭でも少しは理解できるだろうか?」
 そう言うと咲耶は目を細めた。

 咲耶は今、部屋で道中のための準備をしていた。
 叡正が前回会ったときと違い、咲耶は化粧を施して豪華な衣装に身を包んでおり、威圧的なまでの美しさを放っていた。
 その分、怒りが滲むその表情は非常に恐ろしかった。

(気のせいだろうか……。以前会ったときよりも当たりがキツいような……)
 なんと言っていいかわからず、叡正は目を泳がせた。

「た、太夫? どうされました?」
 髪結いの男が、いつもと違う咲耶の様子に引きつった顔で言う。
「ああ、すまない。ちょっとウジ虫と話しているだけだ。気にせず続けてくれ」
 咲耶は髪結いの男に笑顔で応えた。
「…あ、はい」
 髪結いの男は戸惑いながら、咲耶の髪を結いあげていく。

(ついにウジ虫になってしまった…)
 叡正が顔をあげられずにいると、部屋の隅にいた緑が叡正の横に来て耳打ちする。

「……私も責任の一旦は感じていますけど、大部分は叡正様が悪いですからね」
「???」
 叡正はなんとも言えない顔で緑を見る。

「とりあえず道中が終わって、うちの座敷に入る前に少しだけ時間をとるから、それまでおとなしくここで待ってろ。むしろ寝てろ」
 髪を結い終わった咲耶が叡正の方に振り向く。
「おまえ、顔色悪いぞ」

 咲耶はそれだけ言うと立ち上がり、叡正の横を通りすぎた。
「緑、道中に出る前に、部屋に香だけ焚いてやれ」
「はい、わかりました」
 そう言うと咲耶は髪結いとともに部屋を出ていった。
 緑も部屋の隅にお香だけ焚くと、一礼して部屋を出ていく。

 部屋にひとり残された叡正は長い髪をかきあげて息を吐いた。
(顔色……悪かったのか)
 ここ最近あまり眠れていないのは確かだった。
 悪夢を見る頻度が高くなり、ここ数日は眠ることすら少し怖かった。

 叡正がぼんやりと窓の方を見ていると、金棒のシャンシャンという音が響いた。
「咲耶太夫、おね~り~」
 男衆の声とともにお囃子が始まる。
 外では歓声もあがっていた。
(道中始まったのか……)
 叡正はお囃子の音を聞きながら、少しずつ意識が遠のいていくのを感じた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 歓声が聞こえ、叡正は重い瞼を開けた。
 見慣れない景色をひと通り見まわしてから、叡正はようやくここがどこだか思い出した。
(本当に寝てしまったのか……)
 叡正は顔にかかった髪をかきあげた。
 悪夢は見なかった。
(久しぶりにこんなに寝た気がする)

 叡正はぼんやりとしていると、部屋の襖が開いた。
「休めましたか?」
 緑が笑顔で叡正を見る。
「ああ、お香のおかげなのかな? ……ありがとう」
 緑は笑顔で応えた。
「花魁ももうすぐ戻りますから、少し待っててください」
 その言葉と同時に玉屋に賑やかな声が響く。
 叡正は立ち上がると、部屋から出て声の方を見た。
 ちょうど客と思われる男と咲耶が寄り添いながら座敷に向かうところだった。
 咲耶は見たことのないようなうっとりとした表情を浮かべて男を見ている。
 仕草や表情、そのすべてが別人のようだった。

「あれは、同一人物か……?」
 叡正は思わず呟いた。
 横で見ていた緑がふふっと笑う。
「花魁はいつもお客の前では、その人が求めている理想の女性になるんです。演じているつもりはないようなんですが、お客の想いに応えていると自然とそうなるようで……」
「そうなのか……」
 叡正を罵っているときからは想像できない姿だった。

(いや、待て……)
「俺があんなに罵られるのは、もしやそれが俺の好みだからなのか……?」
 叡正が困惑したように緑を見る。
 緑はそんな叡正を見て、目を丸くしてから笑った。
「叡正様の趣味はちょっとわかりませんけど、花魁の普通の状態に近いかとは思いますよ」
「そ、そうなのか?」
「はい。叡正様は『俺に惚れたのか』発言がありますからね。そのせいで当たりは強いと思いますけど」
 叡正は思わず両手で顔を覆った。
 俺に惚れたのかと言ったことは、もはや叡正にとって恥だった。一刻も早く忘れてほしい。
「花魁のお客は花魁が厳選した聡い方ばかりですからね。『俺に惚れたのか』なんて馬鹿な……いえ、愚かな発言をされた方が今までいませんでしたから、花魁も驚いたんだと思います」
 叡正は顔から火が出そうだった。
 馬鹿から愚かに言い換えられてもなんのフォローにもなっていなかった。

 一旦落ち着こうと叡正と緑が部屋に戻ると、少しして咲耶が顔を出した。
「少しはマシな顔になったな」
 叡正を見て咲耶が呟く。
「十日待てないようだから、少し約束の日を早める。明日昼前にここに来い。そこで……すべて話してやる」
 咲耶はそう言うと目を伏せた。
「もう何かわかっているのか!?」
 叡正は思わず身を乗り出した。
「ああ……、それがおまえにとって良いことか悪いことかはわからないが……」
「生きて…いるのか?」
 咲耶は叡正を見つめると、少しためらいがちに口を開いた。
「…明日話す」
 それだけ言うと咲耶は襖を閉めて去っていった。

(明日わかる……)
 叡正は自分の身体が震え始めたのを感じた。