「ねぇ、信。あなた今、どんな顔をしているの?」
 百合は両手で信の顔に触れながら、悲しげに呟いた。
「信の顔からも、声からも、最近何も感じ取れないの」

 悲しそうな百合とは対照的に、百合の言葉に信は心の底からホッとしていた。
(よかった……何もバレてない……)
「悲しいこともツラいこともなければ、これが普通なんだよ。ここに来てからもう何も困らなくなったから」
 信は淡々と答えた。
「そう……。それならいいのだけど……」
 百合はまだ何か考えているようだったが、信の顔に触れていた手をそっと下ろした。
「私の考え過ぎかしら……」
 百合は目を伏せた。
「そうだよ」
 信はそう言うと、静かに立ち上がった。
 
「また出かけるの?」
 百合は顔を上げた。焦点の合わない瞳が信に向けられる。
「うん。お館様からお願いされてることがあるから……」
 信は百合からわずかに視線をそらした。
「また何日か戻れないの?」
「うん……。でも、なるべく早く帰ってこれるようにするから……。俺がいないあいだでも、ご飯とかはお屋敷の人が持ってきてくれてるんだろう?」
「ええ。本当に何から何まで申し訳ないわ……」
 百合は目を伏せた。
 信は百合の言葉にホッと息をもらす。
 実際には食事など運ばれていないのではないかと、信は少し疑っていた。
「そうだね……。俺がいないあいだもしっかり食べて」
 信の言葉に、百合は少しだけ微笑んだ。
「わかったわ。信も気をつけて行ってきてね」
「うん」
 信はそう言うと、小屋の入口に向かって歩き始めた。

「信……」
 百合の声に、信は振り返った。
「無理は……しないでね……」
 百合は着物の胸元を強く握りしめていた。
(ああ、十字架か……)
 信は目を伏せた。
「うん」
 信は小さく応えると、小屋を後にした。

 小屋を出ると、信は大きく息を吸った。
 ようやくラクに呼吸ができた気がした。
 声の高さや低さ、息づかいひとつで百合に何か気づかれるのではないか思うと、信は百合の前でラクに話すことができなくなっていた。

 初めて人殺した日から、信はすでに数えられないほどの人を殺していた。
 殺す作業に慣れ、しだいに何も感じなくなりつつあったが、殺すのにはむしろ時間がかかるようになっていた。
 信は子どもから大人になりつつあった。
 信がこれまで簡単に相手の懐に飛び込めていたのは、信が子どもで警戒されなかったからだった。
 体が大きくなり、警戒されるようになった今では、殺す相手の行動をしっかり観察して誘い出し、殺しやすい状況を作ることが必要になっていた。

(今回はどれくらいで帰ってこれるかな……)
 信は目を伏せた。


「おお、信! まだこんなところにいたのか!」
 遠くから声が響いた。
 信の背中に冷たいものが走る。
 信が今、最も聞きたくない声だった。
 ゆっくりと声の方に視線を向けると、想像通りの男の姿があった。

「もうとっくに仕事に行ったと思っていたが、まだこんなところにいたんだな!」
 恰幅のいい男は冷たく笑いながら、信に近づいてきた。
「お館様……。申し訳ありません……。出るのに……少し時間がかかってしまって……」
 信は震える声でそう言うと、頭を下げた。

「準備……ねぇ」
 男の声が低くなる。
「最近、殺すのにも時間がかかってるみたいだな」
「も、申し訳ありません……」
 信は頭を上げることができなかった。

「それなら……もう少しやる気が出るようにしてあげようか」
 男が楽しそうな声で言った。
(やる気……?)
 信は自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「い、いえ! やる気は十分ありますので……」
 信は慌てて顔を上げると、縋りつくように男を見た。

 男の顔は、初めて人殺しを命じたときのように醜く歪んでいた。
 信の背筋が凍りつく。
「いいから、いいから。やる気は大事だからな」
 男はそう言うとフッと笑い、信に背を向けた。
「楽しみにしていろ」
 男はそのまま片手を上げて手を振ると、信の前から去っていった。

 血の気が引いた顔で、信は遠ざかっていく男の背中をただ見つめることしかできなかった。