「信さん……信さん!」
 弥吉の声で、信は目を覚ました。
「……どうした?」
「どうしたって……もう朝だよ。今日は咲耶太夫のところに行く日だろ?」
 ゆっくりと体を起した信に向かって、弥吉は苦笑した。
「珍しいね、信さんがこんなに寝るの。いつも物音ひとつですぐ起きるのに」
 弥吉はそう言うと、お茶が入った湯飲みを信に差し出した。
「ああ、そうか……」
 信は湯飲みを受け取ると、小さく呟いた。

 弥吉は信の顔をまじまじと見つめ、眉をひそめる。
「あれ、なんか信さん顔色悪くない? もしかして体調悪い?」
 信は弥吉を少し見た後、目を伏せた。
「いや」
 信は短く答えると、お茶に口をつけた。
「そう……? ならいいけど、無理はしないでよ」
 弥吉はそう言うと立ち上がった。

「俺は先に玉屋に行くから。信さんもちゃんと支度するんだよ」
「ああ」
 信の返事を聞くと、弥吉は微笑んで長屋を後にした。
 ひとりになった長屋で、信は湯呑みに残ったお茶をぼんやりと見つめる。
 一瞬だけ映し出された自分の顔を見て、信は静かに目を閉じた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 身支度を整えた信は、そのまま咲耶の部屋を訪れた。
 長襦袢姿の咲耶は、意外そうな顔で信を見る。
「今日は珍しく遅かったな」
「ああ、悪かった」
 信は目を伏せた。
「いや、珍しいと思っただけだ」
 咲耶はそう言って苦笑すると、座るように目で促した。
 信は咲耶の前の座布団に腰を下ろす。

 咲耶は目を伏せて、少し言いづらそうに口を開いた。
「賭場に行ったこと……後悔してないか?」
 信は咲耶を見た。
「……どうしてだ?」
「おまえが生きていること……バレたんじゃないのか……?」
 咲耶の言葉に、信は少しだけ目を伏せた。
「それは問題ない。最初から向こうもわかっているはずだ」

 咲耶は信を見つめる。
「……どうしてそう思うんだ?」
「特に……根拠はない」
 信は目を伏せたまま答えた。
「……そうか。それなら、もう少しだけ……聞いてもいいか?」
「ああ」
 信は小さく頷いた。
「あの木島屋の男……自殺じゃないと思っているんだろう?」
「ああ」
「だとしたら、あの男の居所……どうしてバレたんだと思う?」

 咲耶は真っすぐに信を見つめた。
 信は視線を上げて少しだけ咲耶を見たが、すぐにまた目を伏せた。

「さぁな」
 しばらく信を見つめていた咲耶は、ゆっくりと目を閉じた。
「……そうか」

 二人のあいだに沈黙が流れる。
 窓から、外を歩く人の声がかすかに聞こえていた。

「私も……」
 咲耶は畳を見つめながら口を開いた。
「それでいいと思う」

 信は顔を上げて咲耶を見た。
 窓からは強い日差しが差し込み、咲耶を照らしている。
 目は伏せたままだったが、咲耶の表情は穏やかだった。

「……そうか」
 信はそれだけ言うと立ち上がる。

 咲耶は信を見上げた。
「信……、最初からわかっていたのか?」

 信は立ったまま、咲耶の後ろにある窓を見ていた。
「……なんのことかわからない」

 咲耶は信を見上げながら、少し悲しげに微笑んだ。
「そうか……。呼び止めて悪かったな」
 咲耶の言葉を聞き終えると、信は咲耶に背を向けて部屋を後にした。

「最初からわかっていて……」
 閉めた襖の向こうで、そう呟く咲耶の声がかすかに信の耳に届いた。
 信は目を閉じ、そっとその場を離れた。