(大丈夫……きっと大丈夫……)
 信は懐に忍ばせた短刀にそっと触れた。
(悪い人だって言ってたし……)
 信は山を降り、指示された場所へと向かっていた。
 日は暮れ始め、信の前には長い影が伸びている。
(日暮れ前には屋敷に戻ってくる人だから、待ち伏せして……それから……それから……)
 信はきつく目を閉じた。
 不安と緊張で、信はすでに吐きそうだった。
(本当に殺さなきゃいけないのか……? どうしてこんなことを……)

 信はゆっくりと足を進めていたつもりだったが、予定通りの日暮れ前に目的の屋敷前に着いた。
(俺は本当にやるのか……?)
 心臓の音がうるさいほどに響いている。
 信は思わずその場にうずくまった。
(俺に……できるわけない……! 今からでも逃げて……)

「おや、気分でも悪いのかい?」
 信は上から聞こえてきた声に、恐る恐る顔を上げた。
 そこには信が殺すように言われた優しそうな顔立ちの男が立っていた。
 信の顔から血の気が引いていく。

「おやおや、ひどい顔色だね……。家はどこだい? 送っていこうか?」
 男は心配そうな顔で信を見ていた。
(悪い……人……?)

「この近くかい?」
 男は信と目線を合わせるようにその場にしゃがみ込み、提灯をそっと置いた。
「立てるか?」
 男は優しく微笑むと信に手を差し出した。
(悪い人……なのか……?)
 信の目に涙が溢れた。
「ほら、泣かなくても大丈夫だよ」
 男は笑うと、信の頭を優しく撫でた。
(やめろ……。悪い人なんだろ……?)

 男は優しく信の手をとると、提灯を持って信と一緒に立ち上がった。
「家はどっち?」
 信は言葉が出てこず、無言で細い路地を指さした。
「あっちなのかな?」
 男の言葉に、信は静かに頷いた。

(今ならまだ逃げられる……)
 信は男を見上げた。
(このままこの人を突き飛ばして逃げて、帰って失敗したってお館様に言えば……。許して……。きっと許して……)


『なんでもするって言っただろう?』
 信の耳に、ねっとりとしたあの声が聞こえた気がした。


 信の背中にゾクリと冷たいものが走る。

 信は奥歯を噛みしめた。
 懐に触れると、そこには変わらず硬い感触があった。
(ダメだ……。きっと……許してもらえない……!)

 男と信は細い路地を進んでいく。
「本当にこっちであっているのかい?」
 男が提灯で道を照らしながら、不思議そうに信を見た。

「ああ……あってる」
 信はうつむいたままそう呟くと、懐から取り出した小刀で抱きつくように男の腹を刺した。
「な……!?」
 震える手で小刀を引き抜くと、信の手に生温かいものが飛んだ。
 男は前かがみになり、驚愕の表情で信を見ている。
 提灯が男の手から落ち、灯りが揺らめく。
 その口がわずかに動いた。
(まずい!! 叫ばれたら人が……!)
 信は小刀を勢いよく振り、男の喉を切った。
「あ……!!?」
 男の喉から吹き出した血しぶきが信の顔を赤く染める。
 男は仰向けに倒れ、声にならない呻き声を上げながら、のたうち回っていた。
「ぅぅう!! あぅ!!!! ぅううぅ!!」

 信は膝から崩れ落ちる。
(に、逃げないと……。で、でもまだ生きてる……。こ、殺さないと……!)
 信は体を引きずるように、男に近づいた。
 提灯に照らされ、視界のすべてが赤く染まっている。
(殺さないと……)
 信は血で滑る小刀を両手で握りしめると、体重をかけて男の心臓を目がけて小刀を振り下ろした。
 肉に刃先が入る嫌な感触とともに、男の体がビクリと震える。
(殺さないと……殺さないと、殺さないと、殺さないと)
 信は何度も何度も小刀を振り下ろした。

 いつしか男はピクリとも動かなくなっていた。
 血で滑って、信の手から小刀が落ちる。
「あ……」
 信はようやくそこで男が死んだことに気づいた。
 信は男の顔を見た。
 目は飛び出しそうなほど見開かれ、舌はだらしなく外に飛び出した。
 その苦悶の表情は、信に声をかけたときとは別人のようだった。

 男の体は胸を中心に真っ赤に染まっている。
 美しいとさえ思ってしまうほどの赤。けれど、血の生臭さが信を現実に引き戻した。
「うぅ……!」
 信は思わず吐いた。
 吐いた後の口の中はなぜか血の味がした。
(殺した……俺が……)
 涙が溢れると同時に、吐き気もこみ上げた。
(俺が……俺が……)
 信の目からこぼれ落ちた涙も薄っすらと赤い色をしていた。

(そ、そうだ……、まずは逃げなきゃ……)
 信は震える足に力を入れてなんとか立ち上がる。
 男が落とした提灯を拾い上げると、ゆっくりと路地を進む。

 殺した後どのように動くかは、すでに指示されていた。
 路地の先にある井戸で血を流し、誰も住んでいない長屋に準備してある着物に着替えて逃げる手筈だ。
 信は井戸で何度も何度も水をかぶり血を流した。
 体が擦り切れるほどこすって、ようやく血の臭いは消えた。
 信は少しだけ落ち着きを取り戻し、新しい着物に袖を通す。
(全部……夢……だったのかな……)
 信はすべてを振り払うように、ただ山奥の小屋に向かって歩いた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「信、おかえり」
 百合がいつものように目を閉じたまま信を出迎えた。
「ああ、ただいま」
 信はいつも通りの光景にどこかホッとしていた。
(全部、夢だ……あんなの……)

「あら、今日もまた狩りだったのね」
 百合はそう言うと少しだけ微笑んだ。
「……狩り……?」
「違った? 狩りの後と同じ臭いがしたから……」
 百合は少し首を傾げた。
 信の顔から一気に血の気が引いていく。
「臭い……?」
「ええ、いつもかすかに血の臭いがするから。今日は今までで一番臭いが強いから、きっと大物を捕まえたのね」
 百合はにっこりと笑った。

 信の顔が歪む。
(血の臭いが……)
 信は思わず後退りした。

「信?」
 百合の眉がピクリと動く。
「どうしたの? 何かあったの?」
 
 信は何も答えることができなかった。

「何があったのかわからないけど、大丈夫よ。神はずっとあなたを見守っているわ」
 百合は十字架を取り出した。

(見て……いる……?)

 百合が手にしている十字架は、信の罪を咎めているように見えた。

(もう……やめてくれ……)

 信は耐え切れず小屋を飛び出した。
「信!」
 かすかに百合の声が聞こえた気がしたが、信はそのまま山の中を走った。

(俺は……俺は……!)
 信は何かに足をとられて転んだ。

(俺は…………)
 信は頭を抱えてうずくまる。

(ただの……人殺しだ……)
 信は頭を掻きむしった。
「あああああああああああああああ!」
 信の叫びは夜の闇に飲まれ、誰にも届くことはなかった。