(仕留めたかな……)
 信は矢が刺さり倒れた鹿に近寄る。
 鹿はピクリとも動かなかった。
(よし……)
 信は思わず微笑んだ。

 男たちに案内され山奥の屋敷にある小屋で、姉と暮らし始めてひと月ほどが経った。
 そのあいだ、信は狩りの仕事を任されていた。
 初めのうちは一日狩りに出ても何ひとつ捕まえることができなかったが、今では弓と槍を使って一日に小動物なら数匹捕まえられるようになっていた。
 捕まえた小動物を刀で捌くのには抵抗があったが、しだいに慣れて今ではすばやく捌けるようになった。

(鹿は大きいけど、うまく捌けるかな……)
 信がそんなことを考えていると、背後で人が動く気配がした。

「おお、信! 調子はどうだ?」
 信が振り返ると、恰幅のいい男が笑顔で近づいてきていた。
「お館様! こんなところまでありがとうございます!」
 信は慌てて、男に頭を下げた。
 屋敷に入ったときに、男のことはお館様と呼ぶようにと言われていた。
「すっかり狩りがうまくなったなぁ」
 男は倒れている鹿を見ながら、自分の顎を撫でた。
「皆さんに教えていただいたおかげです」
 信は少し照れ臭くなり頭を掻いた。

「これだけのものが仕留められるなら、もう少し大きな狩りを任せてみようか」
 男は、信を見ながら微笑んだ。
 信は目を輝かせる。
「ほ、本当ですか!? はい、どんなものでも必ず!」
「そうか、それならよかった」
 男はそう言うと、懐から折りたたんだ紙を取り出し、信に渡した。
 信は少しだけ首を傾げながら紙を開く。

「お館様……、これは……?」
 紙には優しそうな顔立ちをした中年の男が描かれていた。
「ああ、この男を狩ってきてくれ」

「…………え?」
 信は目を見開いた。
「あの……冗談……ですよね?」
 信の唇が震える。

「ハハ、冗談なわけないだろう」
 男は心の底から楽しそうに笑った。
「まぁ、心配するな。おまえは子どもだ。子どもは警戒されにくい。隙をつけば簡単に殺せるさ」
 信は男の言葉がよく理解できなかった。

「ひ、人を殺すってことですか……? 人は動物とは……」
 信は思わずうつむくと、必死に言葉を探した。
「同じだよ」
 男は、信の顔をのぞき込むように顔を近づけた。
「そこで死んでる鹿も、人間も、大差ない」
 男は妖しげに目を細めた。
「それにな、信。その男は悪い人間なんだ」

「悪い……人間?」
 信は震える唇をなんとか動かした。
「そうだ。おまえが天罰を下すんだよ」
 男はニヤニヤと笑っていた。
「天罰……」
「そうだ、天罰だ」
 男はそう言うと、信の耳元で囁いた。
「それに、なんでもするって言っただろう?」

 男の言葉に信は弾かれたように顔を上げ、思わず後ずさった。
 顔から血の気が引いていく。
「なぁ、信。すべてはおまえが望んだことなんだ」
 男の顔は、信がこれまで見たことがないほど醜く歪んでいた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「信、おかえり」
 小屋に帰ると、ござの上に座っていた姉の百合(ゆり)がそう言って微笑んだ。
 ひと月が経ち、百合もここの生活に慣れ始めていた。
 食べ物や着る物が与えられたおかげで、百合は長屋で暮らしていたときより肌の色つやがよくなり活き活きして見えた。
「今日も狩りだったの?」
 百合は目を閉じたまま信に聞いた。
「……う、うん」
 信は思わず目を伏せた。

 百合の眉がピクリと動く。
「何かあったの? 声が……」
 百合はそう言うと、自分の座っているござの隣をポンポンと叩いた。
「信、ここに来て」

 信は言われた通りに、百合の横に腰を下ろす。
 百合は信の方を向いて座り直すと、両手で信の顔に触れた。
 百合の表情が曇る。
「ひどい顔してるじゃない……。何があったの?」
「別に何も……」
 信は思わず顔をそむけた。

 百合は悲しそうな顔をすると、胸元から十字架の首飾りを取り出した。
「神はいつも信のことを見守っているわ。だから、何も不安に思うことはないのよ」
 百合はそう言うと、十字架を信に握らせた。

(見守っている……か)
 信は手の中にある十字架を見つめた。
(見守っているだけで、俺たちを救ってくれたことなんて一度だってないじゃないか……)
 信はきつく目を閉じた。
(どんなに祈っても腹は減ったままだったし、どんなに祈っても母さんの病気はよくならなかった)

 信は、ここに来てからのひと月が今までで一番幸せだと感じていた。
 食べ物があり、着る物があり、帰る場所がある。それだけで十分だった。
(神は何もしてくれない……。だから、なんでもするって決めたんだろう?)
 信は十字架をそっと百合の手に返した。
「信……?」
「本当になんでもないよ。大丈夫だから」
 信はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。

 信は心を決めた。