「檀十郎襲名、おめでとうございます」
 雪之丞の部屋にやってきた男は、入って早々に深々と頭を下げた。

 雪之丞は目を丸くする。

「おいおい、頭を上げてくれ、三ツ井屋さん。襲名ってまだ決まってねぇだろ?」
 雪之丞は慌てて、三ツ井屋に駆け寄った。

「いえ、先日の公演、観させていただきました。私ども三ツ井屋含め贔屓筋一同、雪之丞様の檀十郎襲名に異論はありません」
 三ツ井屋は頭を下げたまま言った。
 雪之丞は言葉に詰まる。
「そんな……俺はまだまだ……」
「いえ、本当に……すばらしい舞台でした。人気の演目ですから、もう何度も観てまいりましたが、これほど涙した公演はありませんでした。現在の檀十郎様はもちろん、贔屓筋も皆、襲名を認めております」
「そ、そうなのか……?」
「ええ」
 三ツ井屋はようやく頭を上げた。

「今日ここに参りましたのは、これを渡すためです」
 三ツ井屋は袖口に手を入れると、一輪の桔梗の花を取り出した。

「桔梗……?」

「はい、初代からの習わしです。家紋が初代檀十郎に桔梗を贈った逸話からできているというお話はご存じですよね? それにならい、私どもが次代の檀十郎と認めた方には、生涯支えていくという想いを込めて桔梗を贈っているのです。どうぞお収めください」
 三ツ井屋は雪之丞に桔梗を差し出す。

 雪之丞はしばらく桔梗を見つめた後、そっと目を閉じた。

「悪い。それは受け取れない」
「え……?」
 三ツ井屋は目を見開いた。

「桔梗は、もう受け取ってるから」
 雪之丞は目を伏せて微笑んだ。

「それは……!」
 三ツ井屋は何か言いかけたが、そこに続く言葉はなかった。
 奥の椅子に掛けられているものに、三ツ井屋は視線を向ける。
 そこには、美しい桔梗の刺繍が施された羽織があった。
「……そうですか」
 三ツ井屋は目を閉じた。

「受け取れないが、俺から頼みがある」
 雪之丞は三ツ井屋を真っすぐに見つめた。
「頼み……ですか?」

 雪之丞はゆっくりと頷く。
「俺は後世に名を遺す役者になる。歴代、誰にも負けない檀十郎になると誓う」
 雪之丞の言葉に、三ツ井屋は目を見開いた。
「そのためには、三ツ井屋さん、あんたたちの力が必要だ。だから、俺に力を貸してくれ」
 雪之丞はそう言うと、深々と頭を下げた。
「頼む」
 雪之丞は頭を下げたまま言った。

 三ツ井屋はしばらく呆然と雪之丞を見ていたが、やがてフッと微笑んだ。

「……頭を上げてください」
 三ツ井屋は柔らかい声でそう言うと、そっと雪之丞の手を取った。
「元よりそのつもりです。生涯、あなたを支えていきます」
 三ツ井屋は雪之丞を見つめると、にっこりと微笑んだ。
「後世に語り継がれる芝居……、期待しています」
 雪之丞はホッとしたように微笑んだ。
「ああ、約束する」

 手を取り合う二人の影で、捧げられた二つの桔梗は雪之丞を見守るように、ただ美しく咲いていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 歌舞伎小屋で芝居を観た数日後、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
 緑に案内されて部屋に入ると、すでにそこには信の姿があった。

「信! あれ、何だったんだよ。どうしてあんな夜に雪之丞を木島屋に連れていく必要があったんだ?」
 叡正は来て早々に、ここ数日気になって仕方なかったことを信に聞いた。
 信の瞳がゆっくりと叡正に向けられる。
「ああ、羽織を渡そうと思って」
 信は淡々と答えた。

「羽織を渡すだけなら、わざわざ木島屋に連れていく必要ないだろ」
 叡正は思わず声を大きくする。
「それに……木島屋の男、死んだんだろ……?」
 叡正は目を伏せた。

「ああ、そうみたいだな」
「そうみたいだなって……」
 叡正は信を見つめた。
 相変わらず、その顔からは何も読み取れなかった。

「まぁ、落ち着け」
 咲耶は二人を交互に見ると苦笑した。
「簡単に説明すると、木島屋の男が見つかったんだ。それで信が話しを聞いたところ、木島屋の奥さんも山吹って遊女も、その男が殺してたんだ」
「本当に殺していたのか……?」
 叡正は目を見開いた。
 咲耶はゆっくりと頷く。

「それで雪之丞を呼んで、男の話しを聞かせて、羽織を渡したと」
「え!?」
 叡正は目を丸くする。
「雪之丞が直接その男と話したのか……? じゃあ、その男が死んだのって……」
 叡正の顔が青ざめる。
「いや、雪之丞は関係ない。雪之丞が出ていった段階で男は生きていたのを信も確認している」
「じゃあ……、どうして……」
「さぁな……」
 咲耶は目を伏せる。
「男を木島屋に残して同心に捕まえさせようとしたが、同心が着いたときにはもう自殺していたそうだ」
「そう……なのか……」
 叡正も目を伏せる。

「まぁ、でもこれですっきりした」
 咲耶は明るい声で言った。
「雪之丞もここ数日調子がいいみたいじゃないか」

 咲耶の言葉に、叡正は思わず微笑む。
「ああ、確かに凄かった。もうすぐ檀十郎も襲名するみたいだしな」
「そうか。よかったな……」
 咲耶は叡正を見て微笑んだ。

 ふいに雪之丞の言葉が叡正の頭に蘇る。
『伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ。俺には……それができなかったから……』

「伝えたい想い……か」
 叡正は小さく呟いた。

「ん? 何か言ったか?」
 咲耶は不思議そうに首を傾げる。
「あ、いや、なんでもない」
 叡正は慌てて首を横に振った。

「そうか……。それにしても、私もいつか観てみたいな。檀十郎の芝居ってやつを……」
 咲耶はそう言うと、窓の外を見た。
 日は沈み、辺りは暗くなり始めていた。
 
 吉原から遠く離れた芝居小屋、桔梗紋の提灯には今日も明るい灯がともっていた。