「馬鹿なことを聞くが……おまえ、芝居はできるか……?」
 辰五郎は、歌舞伎小屋の舞台袖で引きつった顔で、叡正に聞いた。
「あいにく俺は……歌舞伎を観たことがない……」
 叡正は青ざめた顔で小さく答えた。
「はは……、そうか……そりゃあ絶望的だな……」

 舞台袖から見える客席はすでに客でいっぱいだった。
 開演まで、あまり時間は残されていない。

「雪之丞は戻ってくるのか……?」
 辰五郎は引きつった顔のまま叡正を見つめた。
「戻ってくるとは言っていたが……」
 叡正は目を伏せる。
(戻ってくる……よな……? 一体、信は何をして……)

 そのとき舞台裏から声が掛かる。
「おい! 雪之丞と辰五郎! そろそろ時間だぞ! ちゃんと準備しとけ!」
「あ、はい!」
 辰五郎が慌てて振り向いて返事をした。
 叡正も少し振り返って、そっと頷く。

「おい、どうするんだよ……!?」
 辰五郎は目に涙を浮かべながら、叡正に詰め寄る。
「今日の舞台、あいつなしは無理だぞ!? あいつが立役(たちやく)……主役なんだよ……」
「き、きっと……もうすぐ戻ってくると……」
 叡正は青ざめたまま、なんとかそれだけ口にした。

「さぁ! そろそろ一回集まるぞ!」
 遠くで声が掛かる。

 二人は顔を見合わせた。
「と、とりあえず、雪之丞は腹を下して休んでるってことにしとくから! おまえは一回部屋に戻れ! そ、それでもし雪之丞が戻ってこなかったら、そのときは……」
 辰五郎は叡正の両肩に手を掛けて言った。
「……逃げろ」
「わ、わかった……」
 叡正は青ざめたままコクコクと何度も頷いた。


(本当に戻ってこなかったらどうすれば……)
 雪之丞の部屋に向かって歩きながら、叡正はどんどん血の気が引いていくのを感じた。
(一体、信は何を……)
 叡正がそんなことを考えながら、雪之丞の部屋の戸に手を掛けた瞬間、ゆっくりと戸が開いた。

 叡正は一瞬、目の前に鏡が置かれたのかと思い目を丸くする。
「あ! ゆ、雪之丞……!?」
 叡正は我に返った。
 目の前にいたのは、化粧と着替えを終えた雪之丞だった。
「間に合ったのか!?」
 叡正は泣き出しそうになりながら、雪之丞を見た。
 雪之丞は苦笑する。
「ああ、悪かったな……」
 雪之丞は夜に見たときよりもどことなく表情が柔らかい気がした。

「あ、もうみんな集まって……」
「ああ、わかってる。おまえは着替えて、帰って大丈夫だ。ありがとな……」
 雪之丞は叡正の肩をポンと叩くと、横をすり抜けて舞台の方に足を進めた。

(本当に良かった……)
 叡正は気が抜けて、戸にもたれかかる。

「あ、そうだ……」
 後ろで、雪之丞の声が響く。
 叡正は戸に寄りかかったまま、振り返った。
「なんだ……? どうしたんだ?」

 雪之丞は叡正を真っすぐに見ると、どこか寂しげに微笑んだ。
「おまえは、俺みたいになるなよ」

「え……?」
 叡正はわずかに目を見開く。

「顔が似てるからかな、なんとなく言いたくなった……。伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ。俺には……それができなかったから……」
 雪之丞はそう言って軽く微笑むと、叡正に背を向けた。
「後悔だけはするなよ」
 雪之丞は片手を上げると、そのまま舞台に向かって歩いていった。

「……どういう意味だ……?」
 叡正は呆然と雪之丞を見つめる。
 雪之丞の背中が見えなくなるまで、叡正はその場から動くことができなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「雪之丞!」
 辰五郎は雪之丞の姿を見ると、慌てて駆け寄った。
「おまえ、間に合ったのか……」
「ああ、悪かったな」
 雪之丞は辰五郎の肩をポンと叩いた。

「おお、雪之丞! おまえ、腹はもう大丈夫なのか?」
 背後で別の役者が聞いた。
「腹……?」
 雪之丞は首を傾げる。
 辰五郎は慌てて、雪之丞の耳元で囁く。
「腹を下して休んでるってことにしてあるんだ……」
「ああ……」
 雪之丞は苦笑する。
「もう大丈夫だ」
 雪之丞はその場にいる全員を見ながら微笑んだ。

 辰五郎は目を見開く。
(どうしたんだ……なんか目に力が戻ってるような……)

 辰五郎はまじまじと雪之丞を見つめる。
 視線に気づいた雪之丞は軽く笑った。
「心配かけたな、もう大丈夫だ」

 辰五郎はなぜか顔が熱くなるのを感じた。
(なんだ!? なんか色気が増してないか? 一体どうしたんだ……)

 辰五郎が戸惑っていると、舞台の始まりを告げる太鼓の音が響いた。
 今、舞台の幕が開ける。