「おまえ、本当に大丈夫か……?」
芝居小屋で辰五郎は鏡越しに雪之丞を見た。
雪之丞の顔は青白く、目の下のクマも酷い。
「ああ、大丈夫だ」
雪之丞は目を伏せたまま淡々と答える。
辰五郎はため息をついた。
「大丈夫に見えないから言ってるんだろう……? 最近ちゃんと寝てるのか?」
「ああ」
雪之丞は短く答える。
辰五郎は息を吐いた。
(日に日に酷くなってるな……)
遊女が心中した日から、雪之丞の状態は日を追うごとに悪くなっているようだった。
(まぁ、あれだけ惚れ込んでたから無理もないか……)
「数時間後には舞台が始まる。……おまえ本当に大丈夫なのか?」
「ああ」
雪之丞の表情はまったく変わらなかった。
(そんな状態でどうやって芝居するんだよ……)
辰五郎は顔を歪めると、片手で顔を覆ってうつむいた。
遊女が死んでからも雪之丞は舞台に立ち続けていた。
公演に支障は出ていない。ただ、あの日から雪之丞の芝居にはまるで生気がなくなっていた。
台本通りに動くだけの人形が、観客を惹きつけられるわけもなかった。
辰五郎はもう一度ため息をつく。
「舞台の前に少しでも寝ておけよ……」
辰五郎はそれだけ言うと、雪之丞に背を向けた。
部屋を出ようと戸に手をかけたところで、戸を叩く音が響く。
(? 誰だ? 公演前の雪之丞のところに来るなんて物好きは……)
「は~い」
軽く返事をして戸を開けた辰五郎は、戸の前に立っている人物を見て目を見開いた。
辰五郎は、ゆっくりと雪之丞を振り返る。
「あのさ……、雪之丞……」
辰五郎はもう一度、戸の前に立つ人物を見た。
「えっと……おまえ、弟とかいたっけ……?」
「…………は?」
雪之丞はその日、初めて表情を変えて振り返った。
眉をひそめていた雪之丞は、戸の前に立っている人物を見て戸惑いの表情を浮かべる。
「おまえ、誰だ……?」
戸の前には雪之丞によく似た顔の髪の長い男が、引きつった笑顔で立っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
戸惑っている様子の二人を前に、叡正は二人以上に戸惑っていた。
(どうして俺が来る必要があったんだ……)
叡正は今日のことを思い返す。
寺で眠っていた叡正は、真夜中に弥吉に叩き起こされた。
信からの緊急の手紙だと言われて急いで中を見ると、すぐに地図の場所に雪之丞を連れて来いという内容だった。
「夜中だぞ……? 正気か……?」
思わず叡正が呟くと、弥吉がすかさず答える。
「歌舞伎は明け方すぐに公演が始まるので、きっともう雪之丞さんは起きてますよ!」
(え……、俺は寝てたんだけど……、俺のことはどうでもいいのか……?)
叡正は少しだけ考えた後、しぶしぶ身支度を整えると雪之丞のいる三ツ井屋の芝居小屋に向かった。
芝居小屋に入れるか不安だったが、雪之丞に顔が似ているためか特に誰にも事情は聞かれずに雪之丞の部屋の前まで案内された。
「じゃ、じゃあ、込み入った話もあるかもしれないし、俺はこれで……」
戸を開けてくれた男は、そう言うとそそくさと部屋から出ていった。
「おまえは誰なんだ……?」
雪之丞は、戸惑いながらもう一度叡正に言った。
(確かに似ている気もするが、やっぱり全然違うな……)
初めて見た雪之丞は少し顔色が悪かったが、それでも洗練された華やかな容姿に人を惹きつける独特の色気を纏っていた。
(これが歌舞伎役者なんだな……)
「おい!」
叡正がぼんやり雪之丞を見ていると、しびれを切らした雪之丞が立ち上がった。
叡正は我に返る。
「あ、ああ、すまない。山吹という遊女のことで少し話があって……」
「山吹……?」
雪之丞の顔が曇る。
「ああ、俺もよくわからないんだが、一緒にこの地図のところまで来てくれないか?」
叡正は雪之丞に近づくと、信から受け取った地図を見せた。
「おまえもわからないってどういうことなんだ……? 何でそこに行く必要がある? 何があるんだ、そこに……」
雪之丞は地図を見ながら眉をひそめる。
「いや、俺もさっき手紙で言われただけだから……」
叡正は苦笑する。
「は??」
「あ! ただ、浮月っていう遊女から預かったものがあるんだ。山吹って遊女が刺繍した羽織が」
「羽織……」
雪之丞はわずかに目を見開いた後、そっと目を伏せた。
「律儀に心中前に仕上げたのか……」
雪之丞は悲しげな笑みを浮かべる。
「あ、それが……その、心中じゃないと浮月が言っていた……」
叡正はためらいがちに言った。
「心中じゃない……? 心中じゃないなら……何なんだ……?」
雪之丞は戸惑いの表情を浮かべる。
「それは……」
叡正は言い淀む。
殺されたかもしれないとは言いづらかった。
「それについて何かわかったんだと思う……。だから、この地図のところに来てほしいと……」
雪之丞の瞳が揺れていた。
「行きたいが……あと数時間で幕が上がる……。今俺がここを出ていくわけには……」
雪之丞はそこまで言って、何かに気づいたように叡正の顔をまじまじと見つめた。
「え……?」
嫌な予感がした。
雪之丞は叡正を見つめると、ゆっくり頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一時間後、辰五郎は雪之丞が心配になり、再び部屋を訪れた。
「おい、さっきの大丈夫だったか……? って、おまえもう衣装に着替えたのか? 化粧もして……。今日は早いんだな……」
辰五郎はそう言いながら、雪之丞に近づいた。
雪之丞のすぐ後ろまで来た辰五郎は、鏡越しに雪之丞の顔を見る。
「!?」
辰五郎は目を見開いた。
「え!? おまえ……何!? さっきのやつだよな!? え!? 雪之丞は!?」
歌舞伎の衣装を纏った男は、申し訳なさそうに目を伏せ、ただ引きつった笑顔を浮かべていた。
「あいつは俺を捨てる気なんだ……」
与太郎は山吹に縋りつくように言った。
「そ、そんなことはないと思いますよ……?」
山吹は戸惑いながら、与太郎の背中をさすった。
(昼からこんなに酔っているなんて……。お店は大丈夫なのかしら……)
その日、与太郎は珍しく昼見世の時間に山吹のもとにやってきた。
見世に来たときからすでに酔っていた与太郎は、座敷に入るなり泣き出した。
「奥様と一体何があったのですか……?」
山吹が与太郎の背中をさすりながら聞いた。
「あいつは俺を店から追い出す気なんだ……。うちの客が噂してるのを聞いた……。あいつが俺を追い出せるように、いろんなところに根回ししてるって! 俺は……俺はどうしたら……」
山吹は目を見開いた。
「そんな……」
「あいつは俺が嫌いなんだ……。もう終わりだ……」
与太郎は山吹に縋りついたまま、体を震わせた。
山吹は目を伏せる。
(なんとかならないのかしら……。一度は想い合った方たちがこんなふうになってしまうのは……)
「まだ、想いをきちんと伝えれば遅くないかもしれませんよ……?」
山吹は小さく言った。
「想い……?」
与太郎が顔を上げる。
「はい、誠心誠意、気持ちを伝えれば、奥様もわかってくださるかもしれません。何より昼間からここにいるのはよくありませんから……、早く帰って話し合うのがいいと思いますよ」
「わかってくれるはずない……」
与太郎は頭を抱えた。
「わかってもらえなくても、伝えることは大事だと思います」
山吹は微笑んだ。
与太郎は何も言わずうつむいていたが、しばらくしてゆっくりと顔を上げた。
「まだ間に合うか……?」
与太郎が山吹を見た。
「わかりませんが……早く話し合うことが大切かと……。あ、話しが切り出しにくいのであれば、奥様の好きなものでも贈ってからお話しになるのがいいかと思います」
与太郎は縋るように山吹を見つめた後、そっと目を伏せた。
「そうか……。わかった、そうしてみる……」
与太郎はそう言うと、ふらふらしながら立ち上がった。
「帰って話してみる……。ありがとな、山吹……」
「はい」
与太郎はよろよろしながら座敷を後にした。
(よかった……。上手くいくといいけど……)
山吹は胸をなでおろすと、座敷を片付けて張見世に戻った。
「あれ、あんた早くない?」
張見世に戻ると、浮月が眉をひそめて言った。
「ああ、与太郎様は奥様といろいろあったようで……。お話しをするためにお帰りになりました」
山吹は浮月の隣に腰を下ろすと苦笑した。
「ふ~ん、まぁ、あんなやつが旦那だと奥さんは大変だろうからね……」
浮月はあまり興味なさそうにそう呟くと、山吹を真っすぐに見た。
「それより! あんたあの歌舞伎役者からの身請けの返事はいつするんだい?」
「ああ! それでしたら! 見てください!」
山吹は目を輝かせて、持っていたものを差し出した。
「時間がかかってしまいましたが、ついに刺繍が終わったんです! 次に雪之丞様がいらっしゃったときに私の想いを伝えるつもりです!」
浮月は差し出された羽織を広げると、まじまじと見つめた。
「ふ~ん、あんたにしては主張のある羽織だね……」
浮月は羽織を見て微笑んだ。
「あ、やはり……やりすぎでしたでしょうか……?」
浮月の言葉に、山吹は目を泳がせると静かに肩を落とした。
浮月が山吹の背中を勢いよく叩く。
「違うよ! 主張があって良いって言ってんの!」
叩かれた衝撃で、山吹は前に倒れ込んだ。
「あ、良い意味だったのですね……。よかったです……」
山吹は体を起しながら微笑んだ。
浮月は山吹を真っすぐに見つめる。
「グズグズしてたからどうなるかと思ったけど……。よかったね、山吹。幸せになりな」
浮月はニヤリと笑った。
山吹はわずかに目を見開いた後、目に涙を溜めていく。
「おいおい、なんで今泣くんだよ……。鬱陶しいから早く泣きやみな」
浮月はそう言うと、自分の着物の袖で山吹の涙を拭った。
「姐さん……。姐さんと離れるのは寂しいです……」
山吹の目にまた涙が溜まっていく。
浮月はため息をつくと、そっと山吹を抱きしめた。
「そういう可愛いことは歌舞伎役者に言ってやりな」
「姐さん……」
「はいはい、まだそばにいるから、大丈夫だよ」
浮月はそう言いながら、山吹が泣き止むまでずっと背中をさすっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昼見世を終えた山吹は、夜見世が始まるまでのあいだ、浮月に贈るものを買いに見世を出ていた。
(すっかり遅くなっちゃったな……。姐さんが気に入りそうなものが見つかったのはよかったけど、夜見世に遅れたら怒られちゃう……)
空は赤く染まり、山吹の足元からは長い影が伸びていた。
山吹は足を速める。
「山吹……」
ふいに後ろから声が聞こえた。
山吹は足を止めて振り返る。
「与太郎様……?」
そこには与太郎が立っていた。
夕日を背にしているためか、その表情はひどく暗く見えた。
「どうされたのですか……? 奥様とはお話しされました……?」
与太郎は山吹の言葉に何も応えずゆっくりと近づいてくる。
「与太郎様……?」
山吹はなぜか少し怖くなり、一歩後ずさる。
(お顔がよく見えないから……なんだか……)
与太郎は、山吹のすぐ目の前に来ると強引に山吹の腕をとって引っ張った。
「よ、与太郎様!?」
与太郎は、何も言わず強い力で山吹の腕を引き、脇道を進んでいく。
やがて、人通りのない薄暗い路地に来ると、与太郎は山吹の腕を離した。
「与太郎様……、どうしたのですか……?」
山吹は背を向けて立っている与太郎を見る。
自分の体がかすかに震えているのがわかった。
「……した」
与太郎が小さく呟く。
「…………え?」
「殺した…………」
与太郎はゆっくりと振り返った。
暗い瞳が真っすぐに山吹に向けられる。
「雪を……」
山吹は目を見開く。
(ころした……? え……何、どういう……? ……せつ……? 奥様のことなの……?)
山吹が茫然としていると、与太郎が勢いよく山吹の両肩を掴む。
「あいつ、俺の手を振り払ったんだ!! こんなものいらないって! 何を今さらって! 怒鳴って、罵って!! だ、だから……カッとなって……。殴ったら……死んだ……」
山吹は一気に血の気が引いていくのを感じた。
(私が……余計なことを言ったから……)
「なぁ、山吹! 一緒に逃げよう……!」
与太郎は山吹の肩を揺すった。
「二人で遠くに」
(逃げる…………?)
山吹は茫然と与太郎を見つめる。
「俺のこと愛してるんだろう……? 俺が寝てるとき、愛おしそうに頭なでてくれたじゃねぇか! 俺のこと好きなんだろう!?」
山吹は言葉が出なかった。
(私は……どうしたら……。私のせいで……)
「おまえは、俺のものだろ?」
与太郎の言葉に、山吹の瞳が揺れる。
(私は…………)
『俺のものになるか?』
桜の花びらの向こうでそう言った雪之丞の姿が、山吹の脳裏に鮮やかに蘇る。
(そうだ、私は……)
山吹はきつく目を閉じた後、真っすぐに与太郎を見つめた。
山吹の唇が震える。
「私は…………」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(なんか気恥ずかしいな……)
扇屋に向かって歩いていた雪之丞は、手に持っている桔梗の花を見つめた。
(花なんか喜ぶかな……。いや、山吹ならなんでも喜ぶんだろうが……)
雪之丞はため息をついた。
身請けの話をしてから何度か山吹には会っていたが、いまだに返事はもらえていなかった。
ここまで来る道中に、早咲きの桔梗を見つけ思わず摘んできたが、花を贈ったことなどない雪之丞は少しずつ恥ずかしくなり始めていた。
(まぁ、でも……喜んでくれるなら……。家紋の桔梗の話も素敵って言ってたし……。まぁ、大丈夫だろう……)
そんなことを考えていると、扇屋の前に人だかりができていることに気づいた。
(どうしたんだ……?)
「心中だってさ……」
「最近続いてるなぁ……」
「男、誰だよ……」
「なんでも米問屋の旦那だってよ……」
(心中……?)
雪之丞が見世のすぐそばまで来ると、雪之丞に気づいた人々は目を丸くして道を開けた。
雪之丞はその道を真っすぐに進んでいく。
見世の中からは女の声が聞こえていた。
「だから、そんなわけないって言ってるだろ!?」
扇屋の入口で、遊女が楼主だと思われる男に詰め寄っていた。
「いや……、遺書だってあっただろう……?」
楼主は遊女の勢いに押されて後ずさっていた。
「こんなの嘘だよ!! 山吹があんな男と死ぬわけないだろ!?」
雪之丞は目を見開いた。
「でも、心中するって書いてあったんだから……」
楼主はそこまで言うと、自分たちを見ている雪之丞に気づいた。
「あ……!」
「山吹が……心中……?」
雪之丞は言葉の意味がよくわからなかった。
「心中……?」
雪之丞の手から桔梗の花が落ちる。
「ち、違うんだよ!!」
遊女が雪之丞に向かって叫ぶように言った。
雪之丞は後ろを振り返る。
見世の前に集まっていた人々が一斉に顔をそむけた。
(本当に……死んだのか……?)
雪之丞は足元が崩れ落ちていくような感覚に陥った。
この場にいることが耐え切れず、雪之丞は少しでも見世から離れようと、もつれる足をなんとか動かし駆け出した。
「待って!! 違うんだよ!! 本当に! 山吹は……!!」
遊女が止める間もなく雪之丞は去っていった。
(どうしてだ……)
雪之丞は今自分がどこに向かっているのかもわからなかった。
(心中……心中……? どうして心中なんて……)
雪之丞は、足を止めた。
口から渇いた笑いがこぼれる。
「ああ、俺が……身請けの話なんてしたからか……」
雪之丞はその場に座り込んだ。
「一緒になりたい男がいたのに、俺が身請けの話なんてしたから……。そんなに嫌だったってことか……。はは……笑えるな……」
視界がかすんでいた。
何も見えず自分が今どこにいるのかも雪之丞にはわからなかった。
「普通に断ってくれりゃあ、よかったのに……」
雪之丞はうつむいて、奥歯を噛みしめた。
「本当に……笑える…………」
笑うたびに雪之丞の体が小さく震える。
目からこぼれ落ちた雫が、静かに地面を濡らしていた。
(一体どういうことなんだ……)
雪之丞は地図に記された場所へと急いでいた。
(心中じゃない? 心中じゃないなら一体……)
雪之丞は足を止めると辺りを見回した。
まだ日が出ていないため薄暗くよく見えなかったが、地図に記されているのはこの辺りのはずだった。
雪之丞は背後にあった建物に近づくと、持ってきた提灯で建物を照らす。
照らし出された看板には「木島屋」と書かれていた。
(ここか……? 灯りはついていないが……)
雪之丞は入口に近づくと、軽く戸を叩いた。
しばらく待ったが何の返事も帰ってこない。
(ここじゃないのか……?)
雪之丞が背を向けて歩き出したとき、ゆっくりと戸が開いた。
「雪之丞か?」
中から男の声が響いた。
「あ、ああ……」
雪之丞が返事をすると、中から薄茶色の髪の男が姿を現した。
男は雪之丞の背後を見ると首を傾げる。
「あいつは一緒じゃないのか?」
(あいつ……? ああ、髪の長い男のことか……)
「悪い……。今、俺の身代わりで歌舞伎小屋に残ってもらっている」
「……そうか」
男はそれだけ言うと、首を動かして中に入るように促した。
雪之丞は警戒しながらゆっくりと建物の中に入る。
建物の奥に小さな灯りがあるだけで、中は足元もよく見えないほどに薄暗かった。
「なぁ、どうして俺をここに呼んだんだ……?」
雪之丞は男に聞いた。
「渡すものがある。それに……おまえも話しが聞きたいだろうと思った」
「話しって……それは山吹の……」
雪之丞がそこまで言いかけたとき、暗闇の中で何かが動く気配がした。
奥の灯りに照らされて、男の背後で何かの影が動くのが見える。
(一人じゃなかったのか……)
「ほかにも……誰かいるのか?」
雪之丞は男を見て聞いた。
男は何も応えず、奥に進んでいく。
「起きたか……」
男はしゃがみ込むと、闇の中で蠢いている何かに話しかけた。
「うぅ……!うぅ!」
低い呻き声のようなものが響く。
(なんだ……? 一体どういう……)
雪之丞は恐る恐る蠢くものに近づいた。
(……!?)
そこには柱に縛りつけられた男がいた。
「話せるようにしてやるが、大きな声は出すな。出せばすぐに殺す」
薄茶色の髪の男はそう言うと、縛られている男の口に詰めていたものを抜き取った。
「はっ……! た、助けてくれ! な、なんで俺を……!?」
縛られている男は、縋るように二人を見た。
(な、なんだ……? こいつは一体誰なんだ……)
雪之丞は思わず後ずさった。
「おまえが殺したのか? 雪という女と山吹という遊女、二人共……」
男の声が響く。
(……え? 今、なんて言った……?)
「おまえが殺したのか?」
男がもう一度聞いた。
「お、俺は悪くない! せ、雪は俺のことを怒鳴って、罵って……、だ、だからちょっと叩いたら死んじまっただけで……、じ、事故だ! 事故なんだよ……。そ、それに山吹は悪い女で……お、俺に思わせぶりな態度とっておきながら、俺を裏切ったんだ!」
(何を……言っているんだ……この男は……)
「俺と逃げようって言ったのに……! あいつ俺に言ったんだ……」
男は忌々しげな表情を浮かべる。
「『私は雪之丞様のものです』って……!」
雪之丞は目を見開いた。
「愛してるのは雪之丞だけだとか言って、俺を馬鹿にして……! だ、だからちょっと黙らせようと思って、首を絞めたらそのまま死んじまって……。あ、あいつが悪いんだ……!」
(何を……言って……?)
目の前の光景がグラグラと揺れているようだった。
(首を絞めた……? そのまま死んだ……?)
「俺は何も悪くないんだ! なぁ……助けてくれ……!」
縛られている男は縋りつくように雪之丞を見た。
(この男に……山吹が……殺された……?)
雪之丞の中で何かがプツリと切れる音がした。
「……してやる……」
雪之丞はふらふらと縛られている男に近づく。
「俺が……殺してやる……!」
「ヒッ……!」
雪之丞の手が首に伸びてきたことに気づいた男は、身をよじった。
だが、雪之丞の手が男に届く前に薄茶色の髪の男が雪之丞の腕と肩を掴み、後ろに押し倒した。
そのまま床に抑えつけられた雪之丞がもがく。
「離せ!! 殺してやる!! 今すぐそいつを……!」
手足をバタつかせて抵抗していると、雪之丞の腹に強い衝撃が走った。
「ッ……!」
雪之丞は腹を抱えてうずくまる。
「……悪いな。こいつにはまだ聞きたいことがある。殺してもらったら困る」
薄茶色の髪の男は、縛られたまま呆然としている男を振り返って言った。
「それに、どちらにしろこの男は死罪だ。おまえが手を汚す必要はない」
「そ……んなこと……関係ない……。この手で……そいつを……!」
雪之丞は腹を押さえながら、立ち上がった。
薄茶色の髪の男が短く息を吐く。
「それなら止めはしないが、俺が話しを聞き終わるまで待っていろ」
男はそう言うと雪之丞の腕を取り、引きずっていく。
「お、おい……。やめろ……」
男は戸を開けると、雪之丞を外に出した。
「そこで待ってろ」
男はそう言うと静かに戸を閉めた。
雪之丞は暗闇の中でひとりうずくまった。
(心中じゃなかった……。殺されてたなんて……! 山吹……)
雪之丞は頭を掻きむしる。
(わかってる!! あいつを殺したところで、もう山吹は返ってこない……! それに、こうなった原因は俺にもある……。俺がもっと早く身請けでもなんでもしていれば……!)
「すまない……。山吹……」
雪之丞は絞り出すように呟いた。
(あいつを殺したところで、もう……)
雪之丞はゆっくりと顔を上げた。
(そうか……。あいつを殺したところでどうにもならない……。それなら……)
雪之丞はまだ痛む腹を押さえながら立ち上がった。
(俺が行けばいいんだ……)
雪之丞はゆっくりと通りを進む。
木島屋までの道中に通った橋の上まで来ると雪之丞は足を止めた。
橋の上から流れる川を見つめる。
闇に溶け込んでいるように川はよく見えなかったが、勢いよく流れる水の轟音だけが闇に響いていた。
「山吹……、独りにして悪かったな……。俺もすぐ行くから……」
雪之丞は微笑むと、橋の欄干に足をかけた。
死ぬことを決めた雪之丞の心は、不思議なほど穏やかだった。
(これでラクになれる……)
雪之丞は目を閉じ、欄干から手を離した。
その瞬間、強い力で後ろに引っ張られる。
視界が回り、気がつくと雪之丞は空を見ていた。
後ろに倒れたのだと気づいたのは少し経ってからだった。
茫然としていた雪之丞の視界に、薄茶色の髪が映る。
「死にたいなら好きにしていい。ただ、まだ俺は頼まれていたものを渡していない」
雪之丞はぼんやりと薄茶色の髪の男を見る。
「頼まれていたもの……?」
倒れている雪之丞の体に何かが掛けられた。
「羽織だ」
男が淡々と言った。
(ああ……、刺繍の……)
雪之丞はゆっくりと体を起すと、羽織を手に取った。
「死んだ遊女の願いだそうだ」
男はそれだけ言うと、木島屋に戻っていった。
男が提灯を残していったため、羽織の刺繍は細やかな色の違いまではっきりと見えた。
雪之丞は羽織を見つめる。
(願い……?)
羽織の裾には紫の糸で見事な桔梗の花が描かれていた。
(ああ、本当に上手かったんだな……刺繍……)
雪之丞は微笑んだ。
(こんな手の込んだ刺繍、初めて見た……)
桔梗の花だけでも微妙に色の異なる紫の糸がいくつも使われていて、山吹の刺繍は店に並んでいてもおかしくないほど見事なものだった。
(胸元の刺繍は……家紋か……?)
雪之丞は羽織の胸元を提灯で照らした。
(……!)
雪之丞は目を見開く。
「これは…………役者紋か……。あいつ、そんなの知ってたのか……?」
胸元には、桔梗の花を四枚の葉が取り囲んだような柄の紋が描かれていた。
(四つ葉桔梗……)
「願いって……そういう……」
四つ葉桔梗は役者紋だった。ただ、それは雪之丞ではなく檀十郎の役者紋だった。
「はは……これじゃ、今の俺は着れねぇよ……」
桜の中で微笑む山吹の姿が、雪之丞の脳裏に鮮やかに蘇る。
『雪之丞様がすべてをかけて取り組んでおられる歌舞伎も、年季が明けたら観に行こうと思っているのです。舞台に立つ雪之丞様はきっと今以上に輝いていると思いますから……。それが私の一番の望みです』
「山吹……」
雪之丞の目から涙が溢れ出す。
雪之丞が震える手で羽織の襟元に触れると、その瞬間、羽織の内側で何かが光った。
雪之丞がそっと襟元を開くと、背中の羽織裏には眩しいほどに鮮やかな刺繍があった。
金糸と黄色の糸で描き出されていたのは、一面に広がる無数の山吹の花だった。
金の糸が提灯の光を受けて輝く。
「山吹……」
涙で濡れた雪之丞の瞳に、山吹の花が眩しかった。
「……背守りのつもりなのか……」
雪之丞は顔を歪めた。
「山吹……」
嗚咽がこみ上げる。
裂けるように胸が痛かった。
「山吹……、俺は……まだ何も伝えてねぇのに……」
雪之丞は羽織を抱えてうずくまった。
「俺のものになるか、なんて馬鹿みたいなこと言って……。違うんだ……。ただ、愛してるって……。愛してるって……伝えたかった……。そばにいてくれるだけでよかったんだ……」
雪之丞の慟哭が夜の闇に響いていた。
「私は……雪之丞様のものです……」
山吹は震える唇をなんとか動かした。
「私が……愛しているのは雪之丞様だけです。奥様のことは……申し訳なく思っていますが……与太郎様と一緒に逃げることはできません……」
与太郎は茫然と山吹を見ていた。
「罪を償いましょう……。私も一緒に行きますから」
山吹は震える手を与太郎に伸ばす。
「与太郎様……お願いで……」
その瞬間、山吹の首に強い力がかかる。
「ッ……!」
山吹のすぐ目の前に、血走った目をした与太郎の顔があった。
「おまえ……俺を裏切るのか……!! 俺を……俺を弄んだのか……!?」
与太郎の腕に力が入り、山吹の首を締め上げる。
「ッア……!!」
山吹は与太郎の手を掴み、必死で振りほどこうともがいたがその手はビクともしなかった。
(ああ、私はまた間違えたんだ……)
与太郎の怒りに歪んだ顔を見つめながら、山吹は自分の死を悟った。
(ごめんなさい……雪之丞様……)
目に涙が溢れる。
山吹の脳裏に、花びらが舞う中で微笑む雪之丞の姿が浮かんだ。
(どうか……雪之丞様のこの先に光が差しますように……。どうか……どうか幸せに……)
山吹は祈るように目を閉じた。
溢れる涙が頬を伝い、山吹の意識はそこで途切れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おい……、山吹……? 山吹……」
与太郎は抜け殻になった山吹の体を揺すっていた
(どうして……どうしてこんなことに……。と、とりあえず死体を隠さないと……)
そのとき、与太郎の背後で音がした。
「おや、どうされましたか?」
薄暗くなり始めた路地に柔らかい声が響く。
「お困りのようですね」
与太郎は恐る恐る振り返る。
ぼんやりとした人影がゆっくりと与太郎に近づいてきていた。
「い、いや……、こ、これは違うんだ……!」
与太郎は山吹を隠すように両手を広げた。
「ちょ、ちょっと体調の悪い遊女がいたから……、休ませていただけで……」
与太郎は目を泳がせる。
「ふふ……、そんなに警戒しないでください」
影のような人物はおかしそうに笑った。
「全部わかっておりますから。その遊女が悪いのでしょう? とんだ災難でしたね」
「え……?」
与太郎は目を見開いた。
「力をお貸ししましょうか? こんなことであなたの人生が終わるなんてもったいないでしょう?」
黒い影は与太郎に近づいた。
「あなたを、救って差し上げます」
黒い影はそう言うと、白い歯をのぞかせて妖しく微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
男は遊女の死体に膝をついて手を合わせると、そっとお歯黒どぶに落とした。
「ああ、ホントに胸くそ悪ぃ……」
男は舌打ちをした。
「遺書はあの方がやるって言ってたし、こっちはこれで終わりか……」
男は暗闇の中、提灯に火を灯すとゆっくりと立ち上がった。
(心中に見せかける必要なんかあるのか……?)
男は苛立ちを抑えようと、額の左側にある傷跡を掻いた。
(まぁ、俺は言われたことをやるだけだが……)
男はため息をついた。
「もうひとつ処理する死体もあるみたいだし、さっさと次行くか……」
男は小さく呟くと木島屋に向かって歩き始めた。
(こういうことは、あんまりやりたくねぇんだよな……。二人も殺しておいて「俺は何も悪くない」って? ホントただのゴミだぞ、あの男……)
男は目を伏せる。
(とりあえず、見つからないように寺の賭場に入れてきたが……。あんな男死んだ方が世のためだろ……)
男はもう一度ため息をついた。
しばらく歩いた男は、辺りを見回す。
(たぶん、この辺り……。あ、ここか……)
男は、中の様子を窺いながら、静かに戸を開けて木島屋の中に入った。
(二階って言ってたか……)
男は提灯の光を頼りに、二階へと上がる。
二階の座敷を提灯の光で照らしていくと、倒れた机や畳に転がった筆や紙が目に入った。
(ここで間違いなさそうだな……)
男が目を凝らすと、机の向こうに人の足のようなものが見えた。
男は座敷を進んでいき、提灯の光をかざす。
「あ~あ、悲惨……」
男は息を吐いた。
黒い大きな染みの中で女が目を見開いたまま倒れていた。
その横には黒ずんだ硯も見える。
(斬ったわけでもねぇのに、これだけ血が広がるって一体何回殴ったんだよ……)
男は眉をひそめた。
(ホント、胸くそ悪ぃ……)
男は畳に提灯を置くと、膝をつき手を合わせた。
「さぁ、片付けるか……」
まもなく木島屋に替えの畳が届く手筈になっていた。
男の役割は、台車で畳を運んできた男に死体を渡すことと畳の張り替えを含めた片付けだった。
男は提灯で辺りを照らす。
(ん……?)
灯りに照らされて、何かが白く浮かび上がっていた。
男は首を傾げるとそちらに近づく。
男はしゃがみ込み、提灯をかざした。
「花か……」
男は白い花を手に取る。
「夕顔……」
暗く沈んだ部屋の中で、夕顔の花だけが不自然なほど美しく咲いていた。
「夕顔……ね……」
男は苦笑する。
「ああ……ホントに胸くそ悪ぃ……」
男は顔を歪めて額の傷跡を掻く。
花を見つめていた男はしばらくすると息を吐き、気持ちを切り替えて片付けを始めた。
「馬鹿なことを聞くが……おまえ、芝居はできるか……?」
辰五郎は、歌舞伎小屋の舞台袖で引きつった顔で、叡正に聞いた。
「あいにく俺は……歌舞伎を観たことがない……」
叡正は青ざめた顔で小さく答えた。
「はは……、そうか……そりゃあ絶望的だな……」
舞台袖から見える客席はすでに客でいっぱいだった。
開演まで、あまり時間は残されていない。
「雪之丞は戻ってくるのか……?」
辰五郎は引きつった顔のまま叡正を見つめた。
「戻ってくるとは言っていたが……」
叡正は目を伏せる。
(戻ってくる……よな……? 一体、信は何をして……)
そのとき舞台裏から声が掛かる。
「おい! 雪之丞と辰五郎! そろそろ時間だぞ! ちゃんと準備しとけ!」
「あ、はい!」
辰五郎が慌てて振り向いて返事をした。
叡正も少し振り返って、そっと頷く。
「おい、どうするんだよ……!?」
辰五郎は目に涙を浮かべながら、叡正に詰め寄る。
「今日の舞台、あいつなしは無理だぞ!? あいつが立役……主役なんだよ……」
「き、きっと……もうすぐ戻ってくると……」
叡正は青ざめたまま、なんとかそれだけ口にした。
「さぁ! そろそろ一回集まるぞ!」
遠くで声が掛かる。
二人は顔を見合わせた。
「と、とりあえず、雪之丞は腹を下して休んでるってことにしとくから! おまえは一回部屋に戻れ! そ、それでもし雪之丞が戻ってこなかったら、そのときは……」
辰五郎は叡正の両肩に手を掛けて言った。
「……逃げろ」
「わ、わかった……」
叡正は青ざめたままコクコクと何度も頷いた。
(本当に戻ってこなかったらどうすれば……)
雪之丞の部屋に向かって歩きながら、叡正はどんどん血の気が引いていくのを感じた。
(一体、信は何を……)
叡正がそんなことを考えながら、雪之丞の部屋の戸に手を掛けた瞬間、ゆっくりと戸が開いた。
叡正は一瞬、目の前に鏡が置かれたのかと思い目を丸くする。
「あ! ゆ、雪之丞……!?」
叡正は我に返った。
目の前にいたのは、化粧と着替えを終えた雪之丞だった。
「間に合ったのか!?」
叡正は泣き出しそうになりながら、雪之丞を見た。
雪之丞は苦笑する。
「ああ、悪かったな……」
雪之丞は夜に見たときよりもどことなく表情が柔らかい気がした。
「あ、もうみんな集まって……」
「ああ、わかってる。おまえは着替えて、帰って大丈夫だ。ありがとな……」
雪之丞は叡正の肩をポンと叩くと、横をすり抜けて舞台の方に足を進めた。
(本当に良かった……)
叡正は気が抜けて、戸にもたれかかる。
「あ、そうだ……」
後ろで、雪之丞の声が響く。
叡正は戸に寄りかかったまま、振り返った。
「なんだ……? どうしたんだ?」
雪之丞は叡正を真っすぐに見ると、どこか寂しげに微笑んだ。
「おまえは、俺みたいになるなよ」
「え……?」
叡正はわずかに目を見開く。
「顔が似てるからかな、なんとなく言いたくなった……。伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ。俺には……それができなかったから……」
雪之丞はそう言って軽く微笑むと、叡正に背を向けた。
「後悔だけはするなよ」
雪之丞は片手を上げると、そのまま舞台に向かって歩いていった。
「……どういう意味だ……?」
叡正は呆然と雪之丞を見つめる。
雪之丞の背中が見えなくなるまで、叡正はその場から動くことができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「雪之丞!」
辰五郎は雪之丞の姿を見ると、慌てて駆け寄った。
「おまえ、間に合ったのか……」
「ああ、悪かったな」
雪之丞は辰五郎の肩をポンと叩いた。
「おお、雪之丞! おまえ、腹はもう大丈夫なのか?」
背後で別の役者が聞いた。
「腹……?」
雪之丞は首を傾げる。
辰五郎は慌てて、雪之丞の耳元で囁く。
「腹を下して休んでるってことにしてあるんだ……」
「ああ……」
雪之丞は苦笑する。
「もう大丈夫だ」
雪之丞はその場にいる全員を見ながら微笑んだ。
辰五郎は目を見開く。
(どうしたんだ……なんか目に力が戻ってるような……)
辰五郎はまじまじと雪之丞を見つめる。
視線に気づいた雪之丞は軽く笑った。
「心配かけたな、もう大丈夫だ」
辰五郎はなぜか顔が熱くなるのを感じた。
(なんだ!? なんか色気が増してないか? 一体どうしたんだ……)
辰五郎が戸惑っていると、舞台の始まりを告げる太鼓の音が響いた。
今、舞台の幕が開ける。
叡正は歌舞伎小屋の客席にいた。
化粧を落として雪之丞の部屋から出た叡正は、歌舞伎の関係者だと思われる男に捕まり、客席で観ていくようにと後ろの方の客席に案内されたのだった。
(絶対、弟かなんかだと思われてるな……)
叡正はひとり苦笑する。
「おい、あんた歌舞伎は初めてか?」
唐突に、叡正の隣に座っていた老人が口を開いた。
老人は真っすぐに叡正を見ている。
「えっと……、そうです……」
「だろうな。弁当も持ってきてなさそうだし、初心者だろ。ほら、握り飯だ。分けてやる」
老人は竹の皮に包まれた握り飯を叡正に渡した。
「ああ……、ありがとうございます……」
叡正は戸惑いながら、握り飯を受け取る。
「今日の演目……雪之丞が立役やるにはまだ早ぇと思うんだよ。若すぎるし……。しかも最近不調みたいだしな……」
老人はしみじみと言った。
「えっと……、今日の演目って何ですか……?」
叡正がおずおずと老人に尋ねる。
老人の目がカッと見開かれた。
「おまえ、そんなことも知らねぇで来たのか!」
「す、すみません……」
「まぁ、いい……。初心者だもんな」
老人は咳払いをすると口を開いた。
「今日の演目は、赤穂浪士の出来事を基にした時代物だ。あの大石内蔵助の仇討ちの話が基になってるんだ。自決に追い込まれた主君の仇を打つって流れは歌舞伎でも一緒だな」
「ああ、赤穂浪士か……」
歌舞伎に関しては何もわからない叡正も、武家の史実はひと通り学んでいた。
「まぁ、歌舞伎だからいろいろ脚色されてるがな。仇討ちに巻き込まれた人たちの人生が狂っていく様も見どころになってる」
老人はなぜか自慢げに鼻を鳴らした。
「そうなんですね……」
(人生が狂っていく様か……)
そのとき、太鼓の音が鳴り響いた。
「お、始まるぞ」
老人が呟くと同時に舞台が始まった。
役者が舞台袖から登場する。
「三ツ井屋!!」
突然、隣の老人が叫んだ。
「!?」
叡正は目を丸くして、老人を見た。
続けてほかの場所からも掛け声が上がる。
「三ツ井屋!」
「三ツ井屋」
「待ってました!」
(あ、これが普通なのか……)
叡正は気を取り直して舞台を見た。
舞台には煌びやかな衣装を身に纏った色気漂う女形がいる。
(これがみんな男なんだから、信じられないよな……)
叡正は感心しながら舞台を見ていた。
しばらく舞台に見入っていると、隣の老人が小さく呟く。
「ほら、そろそろ雪之丞が出てくるぞ」
叡正は舞台に目を向ける。
ひとりの役者が舞台袖から現れた。
その瞬間、歌舞伎を知らない叡正でも舞台の雰囲気が変わったのがわかった。
特に光が当てられているわけでもないのに、その役者の周りだけ明るく輝いているようだった。
「……み、三ツ井屋……」
老人が先ほどとは打って変わった戸惑いがちな声を掛ける。
叡正は不思議そうに老人を見た。
老人は呆然とその役者を見ている。
「雪之丞……こんな雰囲気だったか……?」
老人は小さく呟いた。
叡正は舞台に視線を向ける。
舞台では、雪之丞が切腹した男に駆け寄っていた。
男が雪之丞に自分の腹を切った小刀を託す。
叡正は雪之丞に目を向けると、思わず身震いした。
舞台から遠く離れているにも関わらず、雪之丞の悲しみと憤りが見えるようで胸が詰まる。
すべての観客が固唾を飲んで雪之丞を見つめているのが叡正にもわかった。
(すげぇ……)
叡正は雪之丞から目を離すことができなかった。
幕間に入ると、叡正は隣の老人に声を掛けた。
「雪之丞って本当にすごいですね……。ここまでだとは思いませんでした」
老人は戸惑いながら叡正を見る。
「いやぁ……、確かに雪之丞はもともと上手いが、今日は……何かに取り憑かれてるみてぇだ……。なんか鬼気迫るものがあるよな……」
「そんなにいつもと違うんですか?」
叡正は首を傾げる。
「違うなんてもんじゃねぇ……。でも、役者が花開く瞬間っていうのはこういうものなのかもしれねぇなぁ……」
(そう……なのか……。今日何があったんだ……)
叡正は少し考えてから、首を横に振った。
(今は芝居を楽しもう)
叡正は気持ちを切り替えると、握り飯に口をつけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「雪之丞……おまえ……」
辰五郎は舞台袖で雪之丞に声を掛けた。
最後の討ち入りの場面に向けて着替えていた雪之丞は、辰五郎を振り返る。
「どうした?」
「おまえ……死ぬ気なのか?」
辰五郎の言葉に、雪之丞は目を丸くした。
「おまえの今日の芝居……凄すぎて……なんか人生最後の芝居って感じで……怖いんだよ……」
辰五郎は苦しげに言った。
(そんなふうに見えたのか……)
雪之丞は思わず苦笑する。
「違う違う」
雪之丞は辰五郎を安心させるため、笑顔で辰五郎に近づくと背中をポンポンと叩いた。
「見せたいやつがいるだけだ」
「見せたいやつ?」
辰五郎が眉をひそめる。
「そうそう。見たがってたから……。見せてやりたいんだよ、最高の舞台ってやつを」
雪之丞は辰五郎を真っすぐに見て言った。
辰五郎は目を見開いた後、静かに目を閉じた。
「そうか……」
「ああ。じゃあ、そろそろ出番だから行くわ」
雪之丞はそう言うと片手を上げて、舞台に向かった。
(ここ最近ちゃんとした舞台見せてやれなくて悪かったな、山吹……。俺が最高の舞台を見せてやる)
雪之丞は顔を上げて舞台に出る。
そこには一面の雪景色が広がっていた。
綿でできた雪を一歩ずつ踏みしめる。
頭上から雪に見立てた紙吹雪が舞い落ち、視界を白く染め上げていく。
(ああ、そうだ……。来年も再来年も一緒に初雪を見るって約束したんだったな……)
舞台は仇の待つ屋敷の前。
仇討ちのための役者が舞台に出揃っていた。
(なぁ、見てるか? 山吹……)
仇討ちという目的を同じくする者たちが、雪之丞の討ち入りの合図を待っている。
歌舞伎小屋は水を打ったように静まり返っていた。
(見ててくれ)
紙吹雪が舞う中、雪之丞は顔を上げる。
雪之丞の合図とともに、皆が屋敷になだれ込んだ。
役者たちの立ち回りに、観客が息を飲む。
大立ち回りの末、役者たちは小屋に隠れていた宿敵を見つけ出した。
雪之丞が形見の小刀で宿敵の首を取る。
降りしきる雪の中、雪之丞が宿敵の首を掲げた。
雪之丞は顔を上げる。
舞い落ちる紙吹雪が、雪之丞の目には雪にも桜にも見えた。
(ちゃんと見えたか? これから何度も何度も、最高の舞台を見せてやる。だから……おまえが飽きるまで、そばで見てればいい……)
観衆は皆、雪之丞から目を離すことができずにいた。
雪の中に佇む雪之丞は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
雪之丞の姿は、仇討ちを成し遂げた力強さだけでなく仇討ちの虚しさ、人の儚さも感じさせるものだった。
舞い落ちる雪がそれをより強く印象づける。
「三ツ井屋!!」
「三ツ井屋!
「三ツ井屋!!!」
「日本一!!」
観客から声が掛かる。
(俺が死ぬまで、俺はおまえが惚れ続けるような役者でいる。だから、来年も再来年もずっと一緒だ……)
雪之丞たちは討ち取った首を持って主君の墓に向かい、舞台は静かに幕を閉じた。
歌舞伎小屋に割れんばかりの拍手が響き渡る。
「三ツ井屋!!」
「三ツ井屋!
「三ツ井屋!!!」
「日本一!!」
この日、幕が下りて役者が舞台から去っても、拍手はいつまでも鳴り止むことはなかった。
(あれから、どれぐらい経ったんだ……?)
与太郎は暗闇の中でもがいていた。
(目隠しと猿ぐつわをされて、殴られたところまでは記憶にあるが……)
背中には相変わらず、硬い柱の感触があった。
与太郎は腕に力を入れる。
(腕も柱に括りつけられたままか……)
与太郎は全身を揺さぶった。
かなりきつく縛られているのか、体はまったく動かなかった。
(くそっ……! あいつは何て言ってっけ……)
与太郎は冷たい瞳で見下ろす薄茶色の髪の男を思い浮かべる。
『同心が来るまでここにいろ』
与太郎は男の言葉を思い出した。
(そうだ……! あいつ同心が来るって……。くそっ、捕まってたまるか!)
与太郎は必死で体を揺すった。
腕に縄が食い込んで擦り切れる。
(いてぇ……。痛いけど…………)
「おいおい、そんなに動いたら傷ができるだろう?」
突然、男の声が与太郎のすぐ耳元で聞こえた。
与太郎は身を固くする。
一気に顔から血の気が引いた。
(何の気配もなかったのに……!)
「いいざまだなぁ」
男が低く笑っているのがわかった。
「ご丁寧にやりやすい状態で置いていってくれるとは……。手間が省けて助かるよ」
(な、なんだ……!? だ、誰なんだ!? さっきとは違う男か……?)
「うぅ、ううぅ!!」
与太郎は必死で呻いた。
「やっぱり俺にはこういうゴミの処理の方が性に合ってる」
男の声はどこか楽しそうだった。
(こいつ、俺を殺す気なのか!?)
「うぅ! うぅうう!!」
与太郎は必死で体を動かして、縄をほどこうとした。
「ムダムダ。あいつがそんな逃げられるような状態にしていくわけねぇだろう? 変な傷がつくと偽装が面倒になるからやめてくれよ」
男は面倒くさそうに言った。
「同心にいろいろ話されるのと、さすがに都合が悪いからな。大人しく死んでくれ」
与太郎の首にザラザラしたものが触れる。
「うぅ!!! うぅうう!! うううう!!」
与太郎は狂ったように首を横に振った。
「あ、そうそう。あの方からの伝言だ」
男は、与太郎の耳元で囁いた。
「『君のおかげで、久しぶりに心が震えるいい舞台が観れたよ』だってさ。よかったな、ゴミでも人の肥やしぐらいには、なれたみたいで」
(……え? どういう……)
与太郎が考え始めた瞬間、ざらつくものが首に一気に食いこんだ。
「!?」
与太郎の口からくぐもった声がもれる。
与太郎は全身を激しくバタつかせたが、最後に激しく痙攣すると脱力して動かなくなった。
「はい、完了」
男の声が暗闇の中で静かに響いた。
翌朝、木島屋を訪れた同心たちは目を見開いた。
「自殺……か……?」
天井に結び付けられた縄で、与太郎は首を吊って死んでいた。
「木島屋に隠れてるって情報だったのに……」
「まぁ、逃げきれないと思ったんじゃないのか……?」
「そう……だな……」
同心たちは、恐ろしい形相で死んでいる与太郎からそっと目をそらした。
「まぁ、とりあえず死体を片付けるか」
「そうだな……」
その後、与太郎の死は遊女の後を追った自殺として処理された。
「檀十郎襲名、おめでとうございます」
雪之丞の部屋にやってきた男は、入って早々に深々と頭を下げた。
雪之丞は目を丸くする。
「おいおい、頭を上げてくれ、三ツ井屋さん。襲名ってまだ決まってねぇだろ?」
雪之丞は慌てて、三ツ井屋に駆け寄った。
「いえ、先日の公演、観させていただきました。私ども三ツ井屋含め贔屓筋一同、雪之丞様の檀十郎襲名に異論はありません」
三ツ井屋は頭を下げたまま言った。
雪之丞は言葉に詰まる。
「そんな……俺はまだまだ……」
「いえ、本当に……すばらしい舞台でした。人気の演目ですから、もう何度も観てまいりましたが、これほど涙した公演はありませんでした。現在の檀十郎様はもちろん、贔屓筋も皆、襲名を認めております」
「そ、そうなのか……?」
「ええ」
三ツ井屋はようやく頭を上げた。
「今日ここに参りましたのは、これを渡すためです」
三ツ井屋は袖口に手を入れると、一輪の桔梗の花を取り出した。
「桔梗……?」
「はい、初代からの習わしです。家紋が初代檀十郎に桔梗を贈った逸話からできているというお話はご存じですよね? それにならい、私どもが次代の檀十郎と認めた方には、生涯支えていくという想いを込めて桔梗を贈っているのです。どうぞお収めください」
三ツ井屋は雪之丞に桔梗を差し出す。
雪之丞はしばらく桔梗を見つめた後、そっと目を閉じた。
「悪い。それは受け取れない」
「え……?」
三ツ井屋は目を見開いた。
「桔梗は、もう受け取ってるから」
雪之丞は目を伏せて微笑んだ。
「それは……!」
三ツ井屋は何か言いかけたが、そこに続く言葉はなかった。
奥の椅子に掛けられているものに、三ツ井屋は視線を向ける。
そこには、美しい桔梗の刺繍が施された羽織があった。
「……そうですか」
三ツ井屋は目を閉じた。
「受け取れないが、俺から頼みがある」
雪之丞は三ツ井屋を真っすぐに見つめた。
「頼み……ですか?」
雪之丞はゆっくりと頷く。
「俺は後世に名を遺す役者になる。歴代、誰にも負けない檀十郎になると誓う」
雪之丞の言葉に、三ツ井屋は目を見開いた。
「そのためには、三ツ井屋さん、あんたたちの力が必要だ。だから、俺に力を貸してくれ」
雪之丞はそう言うと、深々と頭を下げた。
「頼む」
雪之丞は頭を下げたまま言った。
三ツ井屋はしばらく呆然と雪之丞を見ていたが、やがてフッと微笑んだ。
「……頭を上げてください」
三ツ井屋は柔らかい声でそう言うと、そっと雪之丞の手を取った。
「元よりそのつもりです。生涯、あなたを支えていきます」
三ツ井屋は雪之丞を見つめると、にっこりと微笑んだ。
「後世に語り継がれる芝居……、期待しています」
雪之丞はホッとしたように微笑んだ。
「ああ、約束する」
手を取り合う二人の影で、捧げられた二つの桔梗は雪之丞を見守るように、ただ美しく咲いていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
歌舞伎小屋で芝居を観た数日後、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
緑に案内されて部屋に入ると、すでにそこには信の姿があった。
「信! あれ、何だったんだよ。どうしてあんな夜に雪之丞を木島屋に連れていく必要があったんだ?」
叡正は来て早々に、ここ数日気になって仕方なかったことを信に聞いた。
信の瞳がゆっくりと叡正に向けられる。
「ああ、羽織を渡そうと思って」
信は淡々と答えた。
「羽織を渡すだけなら、わざわざ木島屋に連れていく必要ないだろ」
叡正は思わず声を大きくする。
「それに……木島屋の男、死んだんだろ……?」
叡正は目を伏せた。
「ああ、そうみたいだな」
「そうみたいだなって……」
叡正は信を見つめた。
相変わらず、その顔からは何も読み取れなかった。
「まぁ、落ち着け」
咲耶は二人を交互に見ると苦笑した。
「簡単に説明すると、木島屋の男が見つかったんだ。それで信が話しを聞いたところ、木島屋の奥さんも山吹って遊女も、その男が殺してたんだ」
「本当に殺していたのか……?」
叡正は目を見開いた。
咲耶はゆっくりと頷く。
「それで雪之丞を呼んで、男の話しを聞かせて、羽織を渡したと」
「え!?」
叡正は目を丸くする。
「雪之丞が直接その男と話したのか……? じゃあ、その男が死んだのって……」
叡正の顔が青ざめる。
「いや、雪之丞は関係ない。雪之丞が出ていった段階で男は生きていたのを信も確認している」
「じゃあ……、どうして……」
「さぁな……」
咲耶は目を伏せる。
「男を木島屋に残して同心に捕まえさせようとしたが、同心が着いたときにはもう自殺していたそうだ」
「そう……なのか……」
叡正も目を伏せる。
「まぁ、でもこれですっきりした」
咲耶は明るい声で言った。
「雪之丞もここ数日調子がいいみたいじゃないか」
咲耶の言葉に、叡正は思わず微笑む。
「ああ、確かに凄かった。もうすぐ檀十郎も襲名するみたいだしな」
「そうか。よかったな……」
咲耶は叡正を見て微笑んだ。
ふいに雪之丞の言葉が叡正の頭に蘇る。
『伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ。俺には……それができなかったから……』
「伝えたい想い……か」
叡正は小さく呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
咲耶は不思議そうに首を傾げる。
「あ、いや、なんでもない」
叡正は慌てて首を横に振った。
「そうか……。それにしても、私もいつか観てみたいな。檀十郎の芝居ってやつを……」
咲耶はそう言うと、窓の外を見た。
日は沈み、辺りは暗くなり始めていた。
吉原から遠く離れた芝居小屋、桔梗紋の提灯には今日も明るい灯がともっていた。
「うわぁ、ひでぇ臭いだな……」
男たちは長屋に入るなり、顔をしかめた。
鼻をつまんでも吐き気をもよおすほどのひどい臭いだった。
「一体、死んでからどれくらい経ってるんだよ……」
ひとりの男が涙目で小さく呟く。
「うっ……!」
一緒に長屋に入った男は長屋の外に飛び出した。
「おぇ……」
「おい、吐くなよ……」
男は吐いている男に向かって呟くと、畳の真ん中に横たわる死体を見つめた。
腐敗が進んでいて、すでに原形は留めていないが薄茶色の長い髪が布団に広がっていた。
(あの女で間違いなさそうだな……)
死体に群がる蠅やウジ虫を見て、男は思わず口元を覆う。
吐き気を堪えながら、男はなんとか顔を上げた。
(それにしても……よくこんなののそばにいられるな……)
男は死体の枕元に座る二人の子どもを見た。
ひとりは目を閉じ、十字架を握りしめて何かブツブツ呟いている。
もうひとりは、目こそ開いていたが、瞬きもせずにただ虚ろな目で一点を見つめていた。
二人共、死体の女と同じ薄茶色の髪をしている。
「気味悪ぃ……」
男は思わず舌打ちをした。
男たちは、女が亡くなったという噂を聞き、その確認と借金のかたに持っていけるものがないかを見に来ていた。
「金目のものなんてねぇし、とんだ無駄足だ……」
亡くなった女は美しかった。
だからこそ、金を貸した。
「馬鹿な女だな……」
男はため息をつく。
体を売って金を稼ぎ、二度も身籠った。
生む必要などないのに子を生んで体は衰え、しだいに客は離れていった。
「育てられるわけねぇだろう……」
(妾にでもなれると思ってたのか……?)
女は美しかった。ただ、女が誰かの妾になるのは無理だろう、と男は思っていた。
女の顔立ちは、異国の血が混じっているとはっきりわかるものだった。
生まれた二人の子どもは顔立ちこそ完全にこの国の人間だったが、女と同じ明るい髪の色はやはり異質だった。
男はひと通り長屋の中を見て回ると、外に出た。
(外の空気がこんなにうまいと思ったのは久しぶりだ……)
男は大きく深呼吸した。
男が休んでいると、遠くから恰幅のいい男が長屋に近づいてきた。
「何か金になりそうなものはあったか?」
「あ、これ以上は死臭がキツイんで、やめた方がいいです」
男が慌てて言った。
「そうか。じゃあ、ここでいい。何かあったか?」
「何もありません。ガキが二人いただけで、ほかは何も……」
「そうか、無駄足だな。それなら、さっさと帰るぞ」
恰幅のいい男は身を翻した。
「ま、待って……」
長屋からか細い声が聞こえた。
男が振り返ると、そこには薄茶色の髪の少年が立っていた。
「助けてください……」
少年はその場に崩れ落ちた。
「お、おい……」
男は少年に駆け寄る。
少年は縋るような目で恰幅のいい男を見つめていた。
「お願いです……。姉は目が見えなくて……このままじゃ、二人共死んでしまいます……。どうか僕に何か……仕事をください。姉と生きていくために……なんでもしますから!」
恰幅のいい男は顎を撫でながら、妖しく笑った。
「なんでも?」
男は思わず身震いする。
(この人がこういう顔をするときは、ろくでもないことを考えてるときだ……)
「本当になんでもするのか?」
恰幅のいい男は、少年に一歩ずつ近づいていく。
「はい……なんでもします」
恰幅のいい男は、少年の前にしゃがみ込んでニヤリと笑った。
「そうか。なんでもするか。それじゃあ、俺がおまえを飼ってやろう。ただし、覚えておけよ」
恰幅のいい男は、少年の耳元で囁く。
「これから先起こることは、すべておまえが望んだことだ」
少年の顔がわずかに青ざめたが、それでも、強い眼差しで恰幅のいい男を見つめた。
「……はい」
「ハハ、いい目だ。おまえ、名前はあるのか?」
「はい、信といいます」
少年は恰幅のいい男を真っすぐに見つめた。
「信か、いい名だな。それじゃあ、信。お姉さんを連れておいで。一緒に行こう」
「はい!」
少年は目を輝かせると、よろよろと長屋の中に戻っていった。
「あ、あのよろしかったんですか?」
男はおずおずと聞いた。
「ああ、楽しくなりそうじゃないか」
恰幅のいい男はニヤニヤと笑った。
「ちょうど、新しい犬が欲しかったんだ」
恰幅のいい男の目が妖しく輝く。
男は身震いした。
(ああ、このまま死んだ方が、二人は幸せだったんじゃねぇか……?)
姉を支えながら、嬉しそうに長屋から出てきた少年を見て、男はそっと目を閉じた。