「私は……雪之丞様のものです……」
 山吹は震える唇をなんとか動かした。
「私が……愛しているのは雪之丞様だけです。奥様のことは……申し訳なく思っていますが……与太郎様と一緒に逃げることはできません……」

 与太郎は茫然と山吹を見ていた。

「罪を償いましょう……。私も一緒に行きますから」
 山吹は震える手を与太郎に伸ばす。
「与太郎様……お願いで……」
 その瞬間、山吹の首に強い力がかかる。
「ッ……!」

 山吹のすぐ目の前に、血走った目をした与太郎の顔があった。
「おまえ……俺を裏切るのか……!! 俺を……俺を弄んだのか……!?」
 与太郎の腕に力が入り、山吹の首を締め上げる。
「ッア……!!」
 山吹は与太郎の手を掴み、必死で振りほどこうともがいたがその手はビクともしなかった。

(ああ、私はまた間違えたんだ……)
 与太郎の怒りに歪んだ顔を見つめながら、山吹は自分の死を悟った。 
(ごめんなさい……雪之丞様……)
 目に涙が溢れる。
 山吹の脳裏に、花びらが舞う中で微笑む雪之丞の姿が浮かんだ。

(どうか……雪之丞様のこの先に光が差しますように……。どうか……どうか幸せに……)
 山吹は祈るように目を閉じた。
 溢れる涙が頬を伝い、山吹の意識はそこで途切れた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「おい……、山吹……? 山吹……」
 与太郎は抜け殻になった山吹の体を揺すっていた
(どうして……どうしてこんなことに……。と、とりあえず死体を隠さないと……)
 
 そのとき、与太郎の背後で音がした。
「おや、どうされましたか?」
 薄暗くなり始めた路地に柔らかい声が響く。
「お困りのようですね」

 与太郎は恐る恐る振り返る。
 ぼんやりとした人影がゆっくりと与太郎に近づいてきていた。

「い、いや……、こ、これは違うんだ……!」
 与太郎は山吹を隠すように両手を広げた。
「ちょ、ちょっと体調の悪い遊女がいたから……、休ませていただけで……」
 与太郎は目を泳がせる。

「ふふ……、そんなに警戒しないでください」
 影のような人物はおかしそうに笑った。
「全部わかっておりますから。その遊女が悪いのでしょう? とんだ災難でしたね」

「え……?」
 与太郎は目を見開いた。

「力をお貸ししましょうか? こんなことであなたの人生が終わるなんてもったいないでしょう?」
 黒い影は与太郎に近づいた。

「あなたを、救って差し上げます」
 黒い影はそう言うと、白い歯をのぞかせて妖しく微笑んだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 男は遊女の死体に膝をついて手を合わせると、そっとお歯黒どぶに落とした。
「ああ、ホントに胸くそ悪ぃ……」
 男は舌打ちをした。
「遺書はあの方がやるって言ってたし、こっちはこれで終わりか……」
 男は暗闇の中、提灯に火を灯すとゆっくりと立ち上がった。

(心中に見せかける必要なんかあるのか……?)
 男は苛立ちを抑えようと、額の左側にある傷跡を掻いた。
(まぁ、俺は言われたことをやるだけだが……)

 男はため息をついた。

「もうひとつ処理する死体もあるみたいだし、さっさと次行くか……」
 男は小さく呟くと木島屋に向かって歩き始めた。

(こういうことは、あんまりやりたくねぇんだよな……。二人も殺しておいて「俺は何も悪くない」って? ホントただのゴミだぞ、あの男……)
 男は目を伏せる。
(とりあえず、見つからないように寺の賭場に入れてきたが……。あんな男死んだ方が世のためだろ……)
 男はもう一度ため息をついた。

 
 しばらく歩いた男は、辺りを見回す。
(たぶん、この辺り……。あ、ここか……)
 男は、中の様子を窺いながら、静かに戸を開けて木島屋の中に入った。
(二階って言ってたか……)
 男は提灯の光を頼りに、二階へと上がる。

 二階の座敷を提灯の光で照らしていくと、倒れた机や畳に転がった筆や紙が目に入った。
(ここで間違いなさそうだな……)
 男が目を凝らすと、机の向こうに人の足のようなものが見えた。

 男は座敷を進んでいき、提灯の光をかざす。
「あ~あ、悲惨……」
 男は息を吐いた。
 黒い大きな染みの中で女が目を見開いたまま倒れていた。
 その横には黒ずんだ硯も見える。

(斬ったわけでもねぇのに、これだけ血が広がるって一体何回殴ったんだよ……)
 男は眉をひそめた。
(ホント、胸くそ悪ぃ……)

 男は畳に提灯を置くと、膝をつき手を合わせた。
「さぁ、片付けるか……」

 まもなく木島屋に替えの畳が届く手筈になっていた。
 男の役割は、台車で畳を運んできた男に死体を渡すことと畳の張り替えを含めた片付けだった。
 男は提灯で辺りを照らす。
(ん……?)
 灯りに照らされて、何かが白く浮かび上がっていた。
 男は首を傾げるとそちらに近づく。
 男はしゃがみ込み、提灯をかざした。
「花か……」
 男は白い花を手に取る。

「夕顔……」
 暗く沈んだ部屋の中で、夕顔の花だけが不自然なほど美しく咲いていた。
「夕顔……ね……」
 男は苦笑する。
「ああ……ホントに胸くそ悪ぃ……」
 男は顔を歪めて額の傷跡を掻く。
 花を見つめていた男はしばらくすると息を吐き、気持ちを切り替えて片付けを始めた。