「おまえ、本当に大丈夫か……?」
 芝居小屋で辰五郎は鏡越しに雪之丞を見た。
 雪之丞の顔は青白く、目の下のクマも酷い。
「ああ、大丈夫だ」
 雪之丞は目を伏せたまま淡々と答える。
 辰五郎はため息をついた。
「大丈夫に見えないから言ってるんだろう……? 最近ちゃんと寝てるのか?」
「ああ」
 雪之丞は短く答える。

 辰五郎は息を吐いた。
(日に日に酷くなってるな……)
 遊女が心中した日から、雪之丞の状態は日を追うごとに悪くなっているようだった。
(まぁ、あれだけ惚れ込んでたから無理もないか……)

「数時間後には舞台が始まる。……おまえ本当に大丈夫なのか?」
「ああ」
 雪之丞の表情はまったく変わらなかった。
(そんな状態でどうやって芝居するんだよ……)
 辰五郎は顔を歪めると、片手で顔を覆ってうつむいた。

 遊女が死んでからも雪之丞は舞台に立ち続けていた。
 公演に支障は出ていない。ただ、あの日から雪之丞の芝居にはまるで生気がなくなっていた。
 台本通りに動くだけの人形が、観客を惹きつけられるわけもなかった。

 辰五郎はもう一度ため息をつく。
「舞台の前に少しでも寝ておけよ……」
 辰五郎はそれだけ言うと、雪之丞に背を向けた。
 部屋を出ようと戸に手をかけたところで、戸を叩く音が響く。

(? 誰だ? 公演前の雪之丞のところに来るなんて物好きは……)
「は~い」
 軽く返事をして戸を開けた辰五郎は、戸の前に立っている人物を見て目を見開いた。

 辰五郎は、ゆっくりと雪之丞を振り返る。
「あのさ……、雪之丞……」
 辰五郎はもう一度、戸の前に立つ人物を見た。
「えっと……おまえ、弟とかいたっけ……?」

「…………は?」
 雪之丞はその日、初めて表情を変えて振り返った。
 眉をひそめていた雪之丞は、戸の前に立っている人物を見て戸惑いの表情を浮かべる。
「おまえ、誰だ……?」

 戸の前には雪之丞によく似た顔の髪の長い男が、引きつった笑顔で立っていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 戸惑っている様子の二人を前に、叡正は二人以上に戸惑っていた。
(どうして俺が来る必要があったんだ……)
 叡正は今日のことを思い返す。

 寺で眠っていた叡正は、真夜中に弥吉に叩き起こされた。
 信からの緊急の手紙だと言われて急いで中を見ると、すぐに地図の場所に雪之丞を連れて来いという内容だった。

「夜中だぞ……? 正気か……?」
 思わず叡正が呟くと、弥吉がすかさず答える。
「歌舞伎は明け方すぐに公演が始まるので、きっともう雪之丞さんは起きてますよ!」

(え……、俺は寝てたんだけど……、俺のことはどうでもいいのか……?)
 叡正は少しだけ考えた後、しぶしぶ身支度を整えると雪之丞のいる三ツ井屋の芝居小屋に向かった。

 芝居小屋に入れるか不安だったが、雪之丞に顔が似ているためか特に誰にも事情は聞かれずに雪之丞の部屋の前まで案内された。

「じゃ、じゃあ、込み入った話もあるかもしれないし、俺はこれで……」
 戸を開けてくれた男は、そう言うとそそくさと部屋から出ていった。

「おまえは誰なんだ……?」
 雪之丞は、戸惑いながらもう一度叡正に言った。

(確かに似ている気もするが、やっぱり全然違うな……)
 初めて見た雪之丞は少し顔色が悪かったが、それでも洗練された華やかな容姿に人を惹きつける独特の色気を纏っていた。
(これが歌舞伎役者なんだな……)

「おい!」
 叡正がぼんやり雪之丞を見ていると、しびれを切らした雪之丞が立ち上がった。
 叡正は我に返る。
「あ、ああ、すまない。山吹という遊女のことで少し話があって……」
「山吹……?」
 雪之丞の顔が曇る。
「ああ、俺もよくわからないんだが、一緒にこの地図のところまで来てくれないか?」
 叡正は雪之丞に近づくと、信から受け取った地図を見せた。
「おまえもわからないってどういうことなんだ……? 何でそこに行く必要がある? 何があるんだ、そこに……」
 雪之丞は地図を見ながら眉をひそめる。
「いや、俺もさっき手紙で言われただけだから……」
 叡正は苦笑する。
「は??」
「あ! ただ、浮月っていう遊女から預かったものがあるんだ。山吹って遊女が刺繍した羽織が」
「羽織……」
 雪之丞はわずかに目を見開いた後、そっと目を伏せた。
「律儀に心中前に仕上げたのか……」
 雪之丞は悲しげな笑みを浮かべる。

「あ、それが……その、心中じゃないと浮月が言っていた……」
 叡正はためらいがちに言った。
「心中じゃない……? 心中じゃないなら……何なんだ……?」
 雪之丞は戸惑いの表情を浮かべる。
「それは……」
 叡正は言い淀む。
 殺されたかもしれないとは言いづらかった。
「それについて何かわかったんだと思う……。だから、この地図のところに来てほしいと……」

 雪之丞の瞳が揺れていた。
「行きたいが……あと数時間で幕が上がる……。今俺がここを出ていくわけには……」
 雪之丞はそこまで言って、何かに気づいたように叡正の顔をまじまじと見つめた。

「え……?」
 嫌な予感がした。
 雪之丞は叡正を見つめると、ゆっくり頷いた。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 一時間後、辰五郎は雪之丞が心配になり、再び部屋を訪れた。
「おい、さっきの大丈夫だったか……? って、おまえもう衣装に着替えたのか? 化粧もして……。今日は早いんだな……」
 辰五郎はそう言いながら、雪之丞に近づいた。

 雪之丞のすぐ後ろまで来た辰五郎は、鏡越しに雪之丞の顔を見る。

「!?」
 辰五郎は目を見開いた。
「え!? おまえ……何!? さっきのやつだよな!? え!? 雪之丞は!?」
 
 歌舞伎の衣装を纏った男は、申し訳なさそうに目を伏せ、ただ引きつった笑顔を浮かべていた。