山吹は眠っている与太郎の横で、羽織の刺繍を進めていた。
(これなら夏が来る前にお渡しできるかもしれないな……)
 山吹は羽織を広げて眺めると、静かに微笑んだ。
(今日はここまでにしよう……)
 山吹は羽織を畳むと、音を立てないように気をつけながらそっと戸棚に羽織をしまった。

 与太郎はずっといびきをかきながら眠り続けている。
(それにしても、今日の与太郎様は特に変だったな……)
 山吹は与太郎を見つめた。

 酔った状態で見世に来たのはいつも通りだったが、今日の与太郎にはいつものような強引さがなく、むしろ何かに怯えるように山吹を求めていた。

「おまえは俺を捨てないだろう?」
「おまえは俺のものだよな……?」
「俺のこと好きだろう?」

 繰り返し縋るような目で聞かれるたび、山吹はただ困ったように微笑むことしかできなかった。
 嘘でも頷くのが優しさだとわかってはいたが、山吹はどうしても嘘をつくことができないでいた。
(遊女失格ね……)
 山吹は申し訳ない気持ちで与太郎を見つめる。
(この方は孤独なのかしら……)

 山吹に縋るように愛の言葉を求めるのと同時に、与太郎は今日も妻のことを口にしていた。

「あいつは俺が邪魔なんだ……」
「俺のことなんて見えていない」
「俺なんて死んでほしいと思ってるんだ……」

(そんなふうに思うなんて、一体奥様と何があったのかしら……)

 山吹はふと浮月の言葉を思い出した。
『永遠を求めるなんて、ちょっと贅沢すぎるんじゃないのか?』

(愛し合って結ばれても、変わっていくこともあるということよね……)
 山吹は急に与太郎が可哀そうに思えて、寝ている与太郎の頭をそっとなでた。
(奥様に想いが通じればいいのだけれど……)

 山吹はそっと目を伏せた。
 山吹の脳裏に雪之丞の顔が浮かぶ。
(私はもう変わっていくことは怖くない……)
 初雪の降った日、当たり前のように自分との未来を語る雪之丞を見て、山吹はその瞬間死んでもいいと本気で思った。
(私はもう大丈夫……。たとえ雪之丞様がもう二度とここに来なくなったとしても、あの日の記憶だけで、私は一生雪之丞様の幸せを願って生きていける……)
 山吹は心からそう思っていた。
「一瞬でも永遠の夢が見られた……。私は本当に幸せだわ……」
 山吹はひとり微笑んだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 翌日、雪之丞はどこか落ち着かない様子で見世にやってきた。
(雪之丞様……どうしたのかしら……)

 雪之丞は、酒を注ごうと山吹が銚子を手にしても酒杯を手に取ることもせず、ただそわそわとしていた。
「あの……、雪之丞様? どうかされましたか?」
 山吹は雪之丞の顔をのぞき込んだ。
「べ、別に何でもねぇよ……。春だなぁと思って……」
 雪之丞は目を泳がせる。
「は、春……? そ、そうですね、最近暖かくなってきましたね……」
(本当にどうされたんだろう……)
 山吹は雪之丞を見つめた。
 今まで山吹が口にしない限り、雪之丞が季節や天気のことを話したことは一度もなかった。
「あとひと月ほどしたら桜も咲くでしょうか」
 山吹は雪之丞に言った。

「桜……そうか桜の咲く頃か……」
 雪之丞は小さく呟く。
「ところで山吹……、おまえ何か欲しいものや叶えたい望みはあるか?」
「え??」
 山吹は目を丸くする。
「ほ、欲しいものですか?」
 雪之丞がなぜ唐突にそんなことを聞くのか、山吹にはまったくわからなかった。
「そ、そうですね……。刺繍の糸や布を雪之丞様にたくさんいただきましたから、特にもう欲しいものは……。そうですね……強いて言えば……、三味線や刺繍が上達することが望みでしょうか……」
 山吹の言葉に、雪之丞はひどく落胆した表情を見せる。
「なんだそれは……」
「え! こ、この答えではダメでしたか……!?」
「あ、いや……そういうわけじゃない……。じゃあ……えっと……、おまえはどんな男が……す、好……」
 雪之丞はそこまで言いかけて顔を真っ赤にしてうつむいた。
「ゆ、雪之丞様!? どうされました!?」
 山吹は目を丸くする。
 雪之丞はうつむいたまま、片手で顔を覆った。
「な、なんでもない……。俺にはこういうのは無理だ……」
 雪之丞の最後の呟きは小さく、山吹の耳には届かなかった。
「だ、大丈夫ですか……?」
 山吹はどうしていいかわからず、雪之丞の背中をさすった。

「ああ、大丈夫だ」
 雪之丞はそう言うと、まだ少し赤い顔を上げた。
「あ、そうだ……。じゃあ、おまえ、桜は好きか?」
「桜ですか……? はい、そうですね。吉原の大通りに植えられる桜は毎年見にいきますけど……」
 山吹は雪之丞の顔をじっと見た。
「じゃあ、ひと月後、一緒に見に行くか?」
「え?」
 山吹は目を丸くする。
「吉原の大通りにですか?」
「違う。外のだよ。隅田川の桜、一緒に見に行くか?」
「い、いいのですか……? そんな贅沢な……」
 山吹は自分の唇が震えているのを感じた。
 見世に売られてきてから、山吹は一度も吉原の外に出たことがなかった。

「そんな贅沢ってほどのことでもねぇよ。どうする? 行くか?」
 雪之丞は微笑んだ。
「はい! 行きたいです! ありがとうございます……雪之丞様」
 山吹は思わず出た涙を手で拭った。
(こんなに幸せでいいのだろうか……)

 山吹の顔を見て、雪之丞は満足げに微笑んだ。
「ああ。じゃあ、来月な」
「はい!」
 山吹は想いが溢れ出すように、涙が止まらなかった。