「雪之丞ちゃんは、最近どうなのかな? 身請けの話は進んでいるのかい?」
 稽古を終えた雪之丞のもとに、辰五郎がヘラヘラと近づいてきた。
 雪之丞は顔をしかめる。
「うるさい、黙れ。消えろ」
 雪之丞は手ぬぐいで顔の汗を拭きながら早口で言った。

 辰五郎はわざとらしく目を丸くして、両手で口元を覆った。
「まぁまぁ、なんてことでしょう! その様子だとまだ何のお話もしていないのね!」
 
 雪之丞は辰五郎を睨む。
「その地味な顔、舞台映えするようにボコボコにしてやろうか?」
 辰五郎はプッと吹き出した。
「ボコボコは困るなぁ」
 辰五郎はそう言うと、雪之丞の肩に手を置いた。
「いや、でも真面目な話、前に話してから三ヶ月は経ったぞ? まだ通い続けてるんだろう? 本当にまだ身請けの話してねぇの?」

 雪之丞は辰五郎から目をそらす。
「放っとけよ……」
 辰五郎は肩をすくめる。
「想像以上に雪之丞ちゃんは奥手だねぇ」

「だから、放っとけって……」
 雪之丞はそう言って辰五郎の手を払うと、壁際に寄りかかるように腰を下ろした。
「何で身請けの話しないんだよ? この先どうするつもりなんだ?」
 辰五郎も雪之丞の隣に腰を下ろした。
「どうって……」
 雪之丞は言葉に詰まる。
「このままなんて無理だろ? 小見世の遊女なんて下手したら別の誰かにすぐ身請けされるぞ」
「それは……!」
 雪之丞は弾かれたように辰五郎を見た後、目を伏せた。
「本人の気持ちがあるだろう……」

 辰五郎は呆れたようにため息をついた。
「おまえはホントにヘタレだねぇ……」
「うるせぇ」
 雪之丞は辰五郎を睨む。

 そのとき二人に影が差した。
 二人が同時に顔を上げると、よく通る太い声が響いた。

「おお、珍しい組み合わせだな」
 二人の前には檀十郎が立っていた。

 辰五郎は慌てて立ち上がると、頭を下げる。
「檀十郎さん、お疲れさまです!」
「ああ」
 檀十郎はそう言って微笑むと、二人を交互に見た。
「仲が良いとは知らなかったな。これからも雪之丞をよろしく頼む」
「はい、もちろんです!」
 辰五郎は自分の胸を叩いた。

「何を頼むって言うんだよ。こいつに頼ることなんて何もねぇよ」
 雪之丞が座ったまま、悪態をついた。

 檀十郎は呆れた顔で雪之丞を見る。
「おまえの悪いところはそういうところだぞ。可愛げがねぇ。そんなんじゃ、そのうち女にも愛想つかされるぞ」
「な!?」
 雪之丞は目を見開く。
(さては聞いてやがったな……! クソ狸……)
 辰五郎が顔をそらして、プッと吹き出したのがわかった。

「おまえは確かに見た目も実力も申し分ないが、これからは可愛げも必要だぞ」
 檀十郎は腕組みしながら雪之丞を見た。
「可愛げってなんだよ……。媚なんて売らなくたって芸を磨いていけばいいだろ?」
 雪之丞は檀十郎を見上げた。
「わかってないねぇ、おまえは。ひたすら芸に打ち込めるおまえは確かにすごいと思うが、それだけじゃ足りねぇ。歌舞伎なんてのは人気商売だ。特に看板役者は、どれだけ多くの人に愛されるかで芝居小屋全体の売り上げまで左右する。おまえはどうだ? 女ひとりも振り向かせられないやつが、どれだけの人間を魅了できるっていうんだ」

 雪之丞は檀十郎を睨む。
「それとこれとは関係ねぇだろ……」

「関係ある。おまえ、怖いんだろ? フラれるのが。縋りついてでも手に入れるってことが、その高い自尊心のせいでできねぇんだ。愛されるためならなんでもするって覚悟がおまえには足りない。女のことだけを言ってるんじゃねぇぞ。歌舞伎は庶民の娯楽だ。みんな生活を切り詰めてでも役者に会いたくて、その芝居が観たくてやってくる。おまえ自身が愛されなければ、簡単に歌舞伎小屋なんて潰れるんだ。つまらない自尊心は捨てろ。そんなものでは何も手に入らないし、金にもならない」
 檀十郎は雪之丞を真っすぐに見つめていた。
 しばらく檀十郎を睨んでいた雪之丞は、強い眼差しに耐え切れず思わず目をそらした。

「まぁ、こんなやつだが、よろしく頼む」
 檀十郎は辰五郎に視線を移すと微笑んだ。
「あ、はい。もちろん……」
 辰五郎がそう応えると檀十郎は満足げに笑い、身を翻して去っていった。

 辰五郎は座ったままうつむいている雪之丞を見た。
「おまえ……愛されてるねぇ……」
 辰五郎は苦笑する。
「どこがだよ……」
 雪之丞はうつむいたまま呟くように言った。

 辰五郎はため息をつく。
「おまえは呆れるぐらい鈍感だな……」
 何も応えない雪之丞を見て、辰五郎は肩をすくめると稽古場から出ていった。

 ひとりになった雪之丞は、檀十郎の言葉の意味をずっと考え続けていた。