「おまえが山吹か?」
 座敷に入った山吹に男が聞いた。
「あ、はい……。山吹と申します」
 山吹は慌てて名乗る。
「へ~、普通だなぁ」
 男はそう言うと軽く笑った。
 山吹は男の横に座ると、膳の上にある銚子を手にとる。
「おお、ありがとな」
 男は酒杯を手にとった。
 山吹が酒杯に酒を注ぐ。
「おまえが雪之丞の女で間違いないか?」
 男は山吹をまじまじと見ながら聞いた。
「雪之丞様の女……というわけではありませんが、良くしていただいています……」
 山吹は軽く微笑みながら答えた。
 ここ最近、客から同じような質問を受けるため、山吹は深く考えることもなくいつものように返した。

「そうか。じゃあ、聞くが……」
 男は山吹に顔を近づける。
「俺は雪之丞よりいい男か?」
 男からは強い酒の臭いがした。
(雪之丞様より……?)
 山吹は目を丸くする。
 浅黒い肌に落ち窪んだ目元、薄い唇にボサボサの髪。
 雪之丞とは真逆ともいえる容姿に、山吹は言葉を詰まらせた。
 山吹はしばらく目を泳がせていたが、答えを待っている男を前に何も答えないわけにはいかず、引きつった笑みを浮かべ曖昧に首を傾げた。

 男はそれを肯定と捉えたようで満足げに笑う。
「そうか! 俺はそんなにいい男か!」
 男はそう言うと、酒杯の酒を一気に飲み干した。
(すごく酔っていらっしゃるみたい……)
「お水を持ってきましょうか……?」
 山吹がそう言って立ち上がろうとすると、男が山吹の手首を掴んだ。
「いいから、おまえはここにいろ」
 男はニヤニヤと笑いながら山吹を舐め回すように見た。
 あからさまな視線に山吹は思わず顔を背ける。

「雪之丞をどうやって虜にしたのか、俺に教えてくれよ」
 男はそう言うと、山吹を押し倒し覆いかぶさった。
 山吹は目を見開いた。
 雪之丞が入れあげる遊女ということで山吹を選ぶ客は多かったが、ここまで強引な客は初めてだった。
 男の放つ酒の臭いが近づいてくるのを感じて、山吹はギュッと目を閉じた。
(酔っているのだから仕方ない……)

 薄く開けた瞳に、男の手によって畳に押さえつけられている自分の手首が映った。
(仕方……ない……)
 山吹は男を受け入れるように体の力を抜くと、固く目を閉じた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あんた、その手どうしたの?」
 大門への見送りを終えて見世に戻ってきた山吹を見て、浮月が声をかける。
 山吹の両手首には赤い痕が残っていた。
「あ、これは……」
 山吹は困ったように微笑むと、手首をそっと隠した。
 浮月はため息をつく。
「あんたね……、あんまりひどい客はちゃんと断りな。全部受け入れてたら体がいくつあっても足らないんだから」

 山吹は目を伏せる。
「少し酔っていらっしゃったみたいで……。でも、悪い方ではなさそうでしたから……」
 浮月は腕を組んで首を傾げる。
「そうかい? チラッと見た感じ、良い男には見えなかったけど」
 張見世で格子越しに見た男は、浮月の目には下品で傲慢な男に映った。
「あんたは今、歌舞伎役者とのこともあって客が増えてるんだから、変なやつはちゃんと断りな。今のあんたなら、それくらい許してもらえるはずだから」
 浮月の言葉に、山吹はようやく目線を上げて少し微笑んだ。
「ありがとうございます……。姐さん」
「別にいいけど……」
 浮月は山吹の手をとった。
「本当に気をつけなよ」
 浮月は山吹の赤くなった手首を見つめる。
「ありがとうございます。でも、ちゃんとした方みたいですし、大丈夫です」
「ちゃんとした人?」
 浮月は眉をひそめる。
「はい。大きい米問屋の方みたいですよ。木島屋さんっていう……」
「大きい店をやってるからって、まともってわけじゃないんだから……。ちゃんと人を見なよ?」
 浮月は心配になり山吹を見る。
 山吹は人を見る目がない。
 浮月はそのことが心配だった。

「はい。本当にありがとうございます」
 山吹は嬉しそうに微笑んだ。
(これ以上言っても仕方ないか……)
 浮月は小さくため息をついた。
「まぁ、いいや……。まだ朝早いからもうひと眠りしよう」
 浮月はそう言うと、山吹を二階に促した。
 朝日が差してもいい時間だったが、見世の中はどこか薄暗かった。
(今日は雨かもな……)
 浮月はぼんやりとそんなことを考えていた。