浮月が二度寝から目覚めて一階に降りると、ちょうど糸の束と布を抱えた山吹が階段を登ろうとするところだった。
「ああ、おはようございます。姐さん」
 山吹がにっこりと笑う。
「今日も大量だねぇ」
 浮月は眠い目をこすりながら、山吹の腕の中にある糸と布を見つめた。
「あ、はい……」
 山吹は少しだけ頬を赤くすると、腕の中のものを愛おしそうに見る。
(その顔を歌舞伎役者に見せてやればいいのに……)
 浮月は首筋をポリポリと掻きながら、軽くため息をついた。

「山吹、あんた飯は?」
「あ、私はそんなに食欲がなくて……。何より早く刺繍がしたくて」
 山吹は嬉しそうに微笑んだ。
 浮月は髪をかき上げると、もう一度ため息をつく。
「食べな。あんた、それ以上ガリガリになってどうすんだ。ほら、私と一緒に食べるよ!」
 浮月はそう言うと、山吹の腕を掴んで引きずっていく。
「え、ちょっ……、姐さん……!」
 山吹は糸と布を落とさないように慌てて体勢を整えると、浮月の後をついていった。

 遅い時間ということもあり、朝食をとるための横長の机にほかの遊女は誰もいなかった。
 朝食を受け取った浮月と山吹は並んで腰を下ろす。
「飯はちゃんと食べな。白飯だけでもお腹に入れないと、そのうち倒れるよ」
 浮月は白飯の入った椀を持って、山吹を見た。
「はい……。ありがとうございます」
 山吹も椀を手に持つ。

「それで、あの歌舞伎役者とはうまくやってるのかい?」
 浮月はご飯を食べながら、山吹に聞いた。
「うまく……かどうかはわかりませんが……。良くしていただいています」
 山吹は照れたようにうつむいた。
「そう、それなら良かったね」
 浮月は山吹を見て微笑む。
「そのうち身請けでもしてくれりゃいいけど」

 浮月の言葉に、山吹は目を丸くする。
「そ、そんな、身請けなんて滅相もない!」
 山吹は勢いよく首を横に振った。
「今、来ていただけるだけで十分です」
 山吹は目を伏せると微笑んだ。
 浮月は横目で山吹を見る。
(山吹は本当に何もわかってないねぇ……)
 浮月はため息をついた。

「いつか……雪之丞様がここに来ることがなくなっても、私はもうこの思い出だけで十分です……」
 山吹が目を伏せたまま呟く。
 浮月は呆然と山吹を見つめた。
(なんでそう悲観的なんだ……)
「来ることがなくなるも何も……、ここ五ヶ月通い続けてるだろう? 貢物まで持って」
 浮月は、山吹が隣の椅子に置いた糸と布を見た。
(さすがにここまでくると、歌舞伎役者が可哀そうだな……)
 浮月は苦笑する。
「今は私のところに来てくださっていますが、それが続くなんて……そんなことあり得ませんから……」
 山吹は悲しげに微笑んだ。
 浮月はため息をつく。
「それはおまえが決めることじゃないだろう? それに永遠を求めるなんて、ちょっと贅沢すぎるんじゃないのか?」
「いいえ! そんな! ……私はそんなつもりでは……!」
 山吹が弾かれたように顔を上げて浮月を見る。
「そういう意味だろう? 続く保証がないから期待しないって」
 浮月は椀を机に置くと、真っすぐに山吹を見た。
「山吹、いいかい? 先のことなんてのは、あんたが遊女だとか関係なく、誰にもわからないし何の保証もないものなんだよ。相手が歌舞伎役者で吊り合わないとか、そんなこと考える前にもっと今を大事にしな。あんた、こんなことしてたらそのうち大事なものを取りこぼすよ」
 山吹は目を見開いた。
「大事な……もの……」
「どうせあんたのことだから、歌舞伎役者に自分の気持ちも伝えてないんだろう? 惚れてるくせに」
 浮月の言葉に、山吹の顔がサッと赤く染まる。
「思い出だけで十分とかカッコつけて。歌舞伎役者が来なくなったらメソメソするくせに。期待しないとか強がり言う前に、もっと自分の気持ちをさらけ出しな」

 山吹はおずおずと顔を上げる。
 その顔は真っ赤で耳や首筋まで赤くなっていた。
「で、でも……。そんなこと言ったら、きっと重いと思われます……」
 山吹は泣きそうな顔で言った。
「あいつがそう言ったなら、それまでの男だったってことでいいだろ? きっぱり諦めもついていいじゃないか」
(まぁ、こんな貢物持ってくるぐらいだから、そんなこと言わないだろうけど……)
 浮月はため息をついた。

「そう……ですよね……」
 山吹は悲しげな顔でうつむく。
 浮月は呆れた顔で山吹を見つめた。
「重いと思われて、あいつが来なくなるのが怖いんだろ? ほら、全然思い出だけで十分じゃないじゃないか」
「はい……」
 山吹は両手で顔を覆った。

「まずはちゃんと自分の気持ちを伝えな。まずはそれからだよ」
 浮月は山吹の頭をなでる。
「はい……」
 山吹はゆっくりと顔を上げた。
「今度……雪之丞様に刺繍を贈る予定なんです……。だから、そのときに……ちゃんと自分の気持ちを伝えます……」
 山吹の瞳は涙で濡れていたが、その奥には決意のようなものが見えた。
「ああ、そうしな」
 浮月は微笑むと、山吹の頭をポンポンと軽く叩いた。

「ところで、刺繍って何を贈るつもりなんだい?」
 浮月は再び椀に手を伸ばしながら聞いた。
「えっと……、何を贈るかは決めていなんですが、刺繍は桔梗の花にする予定です」
 山吹が着物の袖で涙を拭きながら答える。
「ああ……。三ツ井屋の家紋の花だもんね……」
 浮月が白飯を頬張りながら言った。
 山吹は目を丸くする。
「姐さん、知ってるんですね」
「ああ、あんたよりは歌舞伎に興味があるからね。まぁ、安心しなよ。雪之丞は私の趣味じゃない。それよりは今の檀十郎の方が私の好みだから」
「はぁ……そうだったんですね……」
 山吹は意外そうな顔で浮月を見た。
「なんだい? みんながあの歌舞伎役者に夢中になるとでも思ってたのかい? ホント……恋は盲目だねぇ……」
 浮月は呆れ顔で肩をすくめた。
「そ、そういうわけでは……」
 山吹の顔が再び赤く染まった。

「あ、そうだ!」
 浮月はふと思いついて声を上げる。
「それなら、こういう刺繍にしなよ……」
 浮月は思いついたことを山吹に話した。

「……そんなものがあるんですね!」
 山吹は目を輝かせる。
「はい! ぜひそれにさせてください!」
 山吹は嬉しそうに笑った。
 山吹の顔を見て、浮月も微笑む。
「うまく作りなよ」
「はい!」
 山吹はそう言うと、隣の椅子にある糸と布を見つめた。
「私の想いと願いを込めて……」
 山吹は目を伏せて微笑むと、大切そうに糸の束をそっとなでた。