「そういえば、檀十郎様というのは雪之丞様のお父様なんですか?」
 雪之丞の酒杯に酒を注ぎながら、山吹が口を開いた。
 酒杯を見ていた雪之丞は、顔を上げると呆れ顔で山吹を見つめた。
(少しは俺に興味が出てきたと喜ぶべき……なのか……?)

 檀十郎と雪之丞が親子でないことは、江戸のほとんどの人間が知っていることだった。
(まぁ、吉原から出る機会もないだろうし、歌舞伎に興味もなさそうだから知らなくて当然か……)
「雪之丞様?」
 何も答えない雪之丞を見て、山吹が不安げな表情を浮かべた。
 雪之丞は小さくため息をつく。
「いや、俺は弟子入りして雪之丞を襲名してるから、親子じゃねぇよ」
 山吹は目を丸くする。
「そうでしたか……。てっきり雪之丞様は歌舞伎役者の家系なのかと……」
 雪之丞は山吹の反応に微笑むと、酒杯を置いて山吹の頭をなでた。
「まぁ、ずっと世話になってるから、親なんかよりよっぽど旦那には感謝してるけどな」
「そうなんですね……」
 山吹は銚子を膳に戻すと、雪之丞を見つめた。
「雪之丞様はどうして歌舞伎役者になろうと思われたのですか?」
 山吹は首をかしげる。

「ああ、それは……」
 雪之丞は酒杯を手にとる。
「成りあがるためだ」
 雪之丞は酒杯を見つめながら言った。

「成りあがる……?」
「ああ」
 雪之丞は酒杯の酒を飲みほした。
「もともとの身分とか関係なく、芸でのしあがれるのがこの世界だからな。まぁ、顔は昔から良かったし」
 雪之丞はそう言うと山吹を見てニヤリと笑った。
「あ、ああ……。そうなんですね……。ご両親は反対しなかったのですか?」
 苦笑いする山吹を、雪之丞は少し不満げな表情で見た。
「母親は俺が物心つく前に死んでるし、父親は仕事もせずに酒飲んでるだけのろくでなしだったからな。反対するも何もねぇよ」
「そう……なんですね……」
 山吹は申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんな顔すんな。別に俺は気にしてねぇんだから」
 雪之丞は酒杯を膳に置くと、山吹を見つめた。
「まぁ、俺のことよりおまえの話を聞かせろよ」

 山吹は顔を上げた。
「私の話……ですか?」
「ああ。俺ばかり話してるだろ? おまえはここに来る前どうだったんだよ」
「ああ……」
 山吹は少しだけ微笑んだ。
「お話しできるようなことは特にないのですが……、私は縫物師の娘でした」
「縫物師?」
 雪之丞は首をかしげる。
「江戸刺繍はご存じですか? 私の父は江戸刺繍の職人だったんです」
 雪之丞は目を丸くする。
(ああ……、そういえば初めて張見世で見たとき、こいつも縫物をしていたような……)

「父は、刺繍の腕は良いのですがこだわりが強くて……。高い糸ばかり仕入れて……。そのうえ、膨大な時間をかけて仕上げたものもお客に言われるままの値段で売ってしまうような人で……。借金ばかりが膨らんで、私がここに……」
 山吹は苦笑した。
「母親は何も言わなかったのか……?」
 山吹は首を横に振った。
「あんな父ですから、母は私を生んですぐに愛想をつかして出ていったと聞いています」
「そうか……」
 雪之丞は目を伏せる。
 山吹は微笑んだ。
「そんな顔しないでください。私も気にしていませんから」
 雪之丞は先ほどの自分の言葉をそのまま返られたことに苦笑した。

「借金のためにここに売られることにはなりましたが、父のことは嫌いでもなければ、恨んでもいません。父が縫物師だったおかげで、刺繍は私の唯一のとりえになっていますし」
 山吹は目を伏せて微笑んだ。
「今でも刺繍をしているのか?」
 雪之丞は山吹を見つめた。
「刺繍用の鮮やかな糸は高いので、ここに来てからは縫物をするぐらいですが、破れた布を縫い合わせるときに、簡単な刺繍を施すことはあります」
「へ~、すごいんだな」
 雪之丞は目を丸くする。
 山吹の頬が少しだけ赤く染まった。
「すごいというほどでは……。でも、好きなんです。願いを込めてひと針ずつ縫っていくのが……」
「願い?」
「はい、刺繍は願いを込めるものですから」
 山吹は楽しそうに言った。

「着物の柄に意味があるのは、雪之丞様ならご存じだと思いますが、刺繍の柄にも同じように意味があります。一番簡単な刺繍は背守(せまも)りだと思いますが、それにも柄によって意味があるんですよ」
「背守りっていうのはアレか……? 子どもの着物の背中に縫い付けてあるやつか?」
 山吹は嬉しそうに笑う。
「そうです、そうです! 子どもが健やかに育つように、母親がする刺繍です。あれにも意味があって長寿の象徴の亀や、身を守ってくれる破魔の矢の柄を縫うことが多いですね」
 雪之丞は山吹を見つめた。
 山吹がこんなに活き活きと話しているのを見るのは初めてだった。
 雪之丞はそっと微笑む。
「願いね……。ただの柄じゃねぇんだな」
「はい! ひと針ずつ願いが込められています!」
 山吹は雪之丞に顔を近づけて言った。
 
 山吹が自分から雪之丞に近づくのも初めてのことだった。
 雪之丞は苦笑すると、山吹の頭をそっとなでる。
「刺繍が好きなのはよくわかったよ。それなら、今度からここに来るときは刺繍の糸と布を持ってきてやる」
 雪之丞がそう言うと、山吹は目を丸くした。
「そ、そんな! 私はそんなつもりで話したわけでは……!」
 山吹は慌てて首を横に振る。
「いいんだよ。俺が好きで持ってくるだけだから。ただ、そのかわり……」
 雪之丞は山吹を見つめた。
「いつか俺に、おまえが刺繍を入れたものを何か贈ってくれ」
「雪之丞様に……ですか?」
「ああ。……嫌か?」
 山吹は目を丸くすると、慌てて首を横に振った。
「嫌なはずありません! ただ、私よりもっと上手い方は大勢おりますので、私なんかの刺繍で大丈夫かと……」
 山吹は目を伏せる。
 雪之丞は、山吹の頭をくしゃくしゃと勢いよくなでた。
 ぐしゃぐしゃになった髪を押さえて、山吹がポカンとした顔で雪之丞を見る。
「願いを込めてくれるんだろう? おまえが願いを込めた刺繍がいいんだ」
 雪之丞はそう言うと優しく微笑んだ。

 山吹は目を見開く。
「……はい!」
 山吹はそれだけ言うと、嬉しそうに顔をほころばせた。
 山吹の笑顔を見ながら、雪之丞は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「じゃあ、次から持ってくる」
「ありがとうございます! いつか雪之丞様に贈れるように、今まで以上に練習します!」
「ああ、期待してる」
 雪之丞は目を伏せて微笑んだ。
 山吹に酒を注いでもらいながら、雪之丞は次来るときにどんな糸を持ってくるべきか考え始めていた。