「誰が売れっ妓になれって言った?」
 雪之丞は、座敷に入ってきた山吹の顔を見るなりため息をついた。
 雪之丞の言葉に、山吹は目を丸くする。
「売れっ妓なんて、そんな……」
 山吹は、座敷に入ると慌てて雪之丞の横に腰を下ろした。
「最近、全然張見世にいねぇじゃねぇか……」
 雪之丞は苦笑すると目を伏せた。
「それは……」
 山吹は言葉に詰まる。
 最近、山吹が張見世にいることはほとんどなかった。
 何度来ても会えなかったため、雪之丞が五日連続で足を運んでようやく今日会えたのだ。

「どうして、そんなやる気になったんだ?」
 雪之丞は山吹を見た。
 山吹は不安げな表情はしていたが、背筋は凛と伸びていて以前のように背中を丸めることはなかった。
 雪之丞の顔色を窺うその目も、どこか憂いを帯びていて色気すら感じる。
 雪之丞は思わず山吹から目を背けた。
(自信は持ってほしかったが、こんなふうになってほしかったわけじゃねぇのに……)

「その私は……」
 山吹はゆっくりと口を開いたが、言葉が続かないようだった。
 雪之丞はため息をつく。
「もういい……。別におまえは何も悪くないし……」
(これがこいつの仕事なんだから……)
 雪之丞は目を伏せた。

「あ、あの、雪之丞様……」
 山吹がおずおずと言った。
「その、よかったら三味線を聴いてもらえませんか……? 私、あれから練習したので……」
 雪之丞は山吹を見る。
 山吹が自分から何かをお願いするのは初めてのことだった。
 雪之丞は少しだけ微笑んだ。
「ああ……。じゃあ、聴かせてくれ」
 山吹は目を輝かせる
「じゃ、じゃあ、三味線を取ってきますね!」
 山吹はそう言って立ち上がると、座敷を出ていった。
(なんだ? 妙に嬉しそうだな……)
 雪之丞は首を傾げた。

 しばらくすると、山吹が三味線を手に戻ってきた。
「弾いても……よろしいですか?」
 山吹がまたおずおずと聞いた。
 雪之丞は苦笑する。
「聴かせてくれって言っただろう? ダメだって言ったら三味線抱えてずっとおどおどしながら立ってる気か?」
「そ、そうですよね」
 山吹はそう言うと、雪之丞の横に座り三味線を構えると右手で撥を掴んだ。

 凛とした三味線の音が座敷に響く。

 雪之丞は目を丸くする。
(上手くなったな……)

 山吹はゆっくりと曲を奏でていく。
 雪之丞は山吹を見つめた。
 構え方や指使いまで様になっている。
 芸妓には遠く及ばないにしても、決してヘタではなかった。

 一曲弾き終えると、山吹はためらいがちに雪之丞を見た。
「あの……、どうでしたか……?」
「あ、ああ……。悪くなかった」
 雪之丞は思わず視線をそらす。
 上手くなったことをなぜか素直に誉めることができなかった。
「ほ、本当ですか!?」
 山吹は目を輝かせた。
「雪之丞様にそう言っていただけて嬉しいです!」
 
 雪之丞は山吹を見る。
 山吹は、雪之丞が今まで見た中で一番嬉しそうに微笑んでいた。
「上手くなったとは言われていたんですが、まだ自信がなくて……」
 雪之丞の胸が嫌な音を立てた。
(上手くなったと言われた……?)
 胸を殴られたような鈍い痛みが広がっていく。

「どういう……」
 雪之丞が絞り出すように呟いた。
「え……?」
(ほかの誰にも……聴かせたくなんてなかった……)
「…………誰だ?」
「え……?」

 雪之丞は勢いよく山吹の左手首を掴んだ。
「上手くなったと言ったのは誰だ!?」
 三味線が音を立てて畳に落ちる。
 手首を掴まれた山吹はこぼれ落ちそうなほど目を見開いて雪之丞を見た。
 雪之丞は手首をつかんで山吹を引き寄せる。
「誰なんだ……?」
「え……あ、あの……」
 山吹の唇は震えていた。
「……ね、姐さん……ですけど……」

「姐さん……?」
 山吹の言葉に、雪之丞は呆然と畳に視線を落とした。
(男じゃないのか……?)
 雪之丞は、掴んでいた山吹の手首を離した。
 山吹の手が力なく畳に落ちる。
 手首には薄っすらと雪之丞の手の跡が残っていた。
(俺は一体、何を…………)
 雪之丞は、山吹の顔を見ることができなかった。

「雪之丞様……?」
 山吹が震える声で言った。
 雪之丞はその声に耐え切れず、思わず立ち上がると山吹に背を向けた。
「……悪かった。今日はもう帰る……。本当に……悪かった……」
 雪之丞はそれだけ言うと、足早に襖に向かった。
「雪之丞様……!」
 山吹の言葉に、雪之丞は思わず足を止める。
「…………また来る」
 雪之丞はなんとかそれだけ口にすると、逃げるように座敷を出ていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 張見世にいた浮月(うきづき)は、暗い顔で張見世に戻ってきた山吹を見て、目を丸くした。
「あれ、あんたさっき……」
 浮月の言葉に、山吹は悲しげに目を伏せた。
(あの歌舞伎役者に呼ばれて嬉しそうに出ていったばかりなのに……)
 浮月は山吹の様子に首をひねる。

「まぁ……、とりあえず座りな」
 浮月は自分の隣をポンと叩いて、山吹を見た。
 山吹は静かに浮月の隣に腰を下ろす。
「どうした? 何かあった?」
 浮月は横目で山吹を見ながら聞いた。
「姐さん……、私……」
 山吹は着物の袖口をギュッと握りしめてうつむいた。
「こら、張見世でメソメソするんじゃない。何があった? ほら、話してみな」
「私……嫌われました……。もうきっと見世に来てもらえません……」
 山吹のうつむいた顔から、無数の雫が落ちて着物を濡らす。

「それでわかるわけないだろ。順を追って話して」
 浮月はうつむいたままの山吹を呆れ顔で見た。
「すみません……」
 山吹は雪之丞とした会話を、断片的に浮月に話した。

「ああ……、なるほどね……」
 浮月はため息をつく。
「あんた、本当にヘタだよね……。言うべきことは言わないと、何も伝わらないよ?」
 浮月は横目で山吹を見る。
「言ってやればよかったのに……。客が増えたのは、あんたのせいだって」
「そんなこと……」
 山吹は悲しげな顔で浮月を見た。

 ここ最近、山吹の客が急激に増えたのは、色気が出てきたというのもひとつの要因だったが、それ以上に「花巻雪之丞が入れあげている遊女」だからというのが大きかった。
 江戸一の色男といわれる雪之丞が、小見世の遊女のもとに足しげく通っているというのは今では有名な話だった。
 大見世ならば高嶺の花と諦める男たちも、小見世の遊女ならば簡単に手が届いてしまう。
 興味本位で山吹を選ぶ客が増えたのは当然のことだった。

「で、三味線をほかの誰かに褒められたことを話して、怒らせたと……」
 浮月は額に手を当てる。
「何やってんだ……、本当に……」
 
 山吹は肩を震わせた。
「どうして雪之丞様が怒ったのか、私……わからなくて……」
 浮月はため息をついた。
(そりゃあ……、三味線は自分とだけのものにしてほしかったんだろうよ……)
「なんでちゃんと言わないかな……。ほかの客の前では弾いてないって。あの歌舞伎役者に褒めてほしくて私とあんなに練習したんだから」
 山吹は顔を上げ、涙で濡れた目で浮月を見た。
「そんな……。聞かれてもいないのに……」
「聞かれてなくても言うんだよ!」
 浮月は呆れ顔で言った。
 山吹は目を泳がせる。
「でも……、そんなこと言ったらきっと重いと思われてしまいます……」
 浮月はもはや開いた口が塞がらなかった。
(いやいや、重いも何も……。想いのひとかけらだって伝わってないだろう。聞いた感じだと……)

「私はただ……少しでも雪之丞様に吊り合うようになれればと……。もちろん吊り合う遊女なんて無理なんですけど……それでも少しは……」
 うつむいた山吹が小さく呟いた。
 浮月は苦笑して目を伏せる。
(吊り合う遊女になってほしいなんて……向こうは思ってないんだよ、山吹……)
 浮月はゆっくりと息を吐いた。
「まぁ、とりあえず、あんたは頑張る方向を間違えてるんだよ。次、あの歌舞伎役者が来たら、客のことも三味線のことも全部話しな。ついでに吊り合う遊女がなんたらって話しも!」
「で、でも……」
 顔を上げた山吹に、浮月が顔を近づける。
「でも、じゃない! ああ、ホントどっちも面倒くさい! 私、面倒くさいことは嫌いなんだよ! わかったね! 全部話しな! それで全部解決! はい、おしまい!」
 山吹は浮月の勢いに押され少しのけぞる。
「ほら、返事は!?」
 浮月は畳みかけた。
「は、はい……!」
 山吹は目に涙を溜めたまま、コクコクと頷いた。

(まったく面倒くさい……)
 浮月は正面を向くように座り直すと格子の向こうを見た。
(ホント感謝しろよ、歌舞伎役者……)
 浮月はまだうつむいている山吹を横目で見ながら、もう何度目かわからないため息をついた。