叡正は緑に案内され、咲耶の部屋に向かっていた。
(何の用なんだ……?)
 叡正は、咲耶からの手紙をもらい玉屋を訪れていた。
(呼び出されるなんて珍しいな……)

 咲耶の部屋の前に着くと、緑が襖越しに声をかけ部屋に通される。
 今回は突然来たわけではなかったため、咲耶はすでに座布団の上に座り、こちらを見ていた。
「悪かったな、突然来てもらって」
 咲耶はそう言うと、微笑んだ。
 昼見世の前ということもあり、咲耶は長襦袢姿だった。
「ああ。何かあったのか?」
 叡正は咲耶と向かい合うように座布団に腰を下ろす。

「少し頼みたいことがあってな……」
 咲耶は珍しく申し訳なさそうな顔で言った。
「頼み……」
(咲耶太夫から何か頼まれるのは初めてだな……)
 叡正は咲耶を見つめた。
「おまえにお願いするのが一番早い気がして……」
「どんなことなんだ?」
 叡正は首を傾げる。
「扇屋に行ってほしいんだ」
 咲耶は叡正から少し視線をそらしながら言った。
「おおぎや……? え……吉原の扇屋か……? あの小見世の」
 叡正は目を丸くする。
「行くって……遊郭だろ?」
「ああ、扇屋の遊女から話しを聞いてきてほしいんだ」
「遊女から話しって……。なんて名前の遊女から話しを聞いてこればいいんだ? ……人探しか何かか?」
 叡正は真剣な表情で咲耶を見つめた。

「いや、人探しではない。おまえの顔を見て、一番驚いていた遊女から話しを聞いてきてほしい」
「俺の顔を見て……? なんだ、どういうことだ??」
「まぁ、行けばわかる。そこで山吹という遊女のことを聞いてきてほしい」
「やまぶき……?」
 叡正には何ひとつわからなかった。
「そうだ。……金はこちらで出すから、頼めないか? そのかわりに、おまえの噂が消えるように協力する」
 咲耶は申し訳なさそうに微笑んだ。
 叡正は咲耶を見つめる。
(何のことかはまったくわからないが……)
 叡正は今まで咲耶にしてもらったことを思い出していた。
(断る理由なんて最初からないか……)
 叡正は静かに微笑んだ。
「わかった。今度扇屋に行ってくる」
 叡正がそう言うと、咲耶はホッとしたような表情を浮かべた。
「助かる……。ありがとう」
「ただ、その……多少事情は聞いていいか?」
「ああ、そうだな……」
 咲耶は事の経緯を簡単に説明した。

「心中じゃないかもしれないってことか……」
 話しを聞き終えた叡正は小さく呟いた。
「でも……どうしてそれをおまえが調べるんだ? 今の話しだと雪之丞って男に頼まれたわけでもないんだろう?」
 叡正は不思議そうな顔で咲耶を見る。
 咲耶は唇に手を当てて何か考えているようだったが、突然フッと笑った。
「ハハ……、なんでだろうな」
 咲耶の自然な笑顔に、叡正は思わず見惚れた。

「きちんとした理由はない。ただ、私が気になるだけだ。……亡くなったとはいえ、心中なのかそうでないのかでは残された者の受け取り方が違う。死んだらもう何も伝えられないからな……。もし真実が違うなら、何かしたいと思ったんだ。すまないな。自分勝手な理由で」
 咲耶はそう言うと、叡正に向かって微笑んだ。

 叡正はしばらく咲耶を見つめていたが、静かに目を伏せた。
「そうか……」
(死んだら何も伝えられない、か……。俺のときもそう思ったから協力してくれたのか……)

「あ、そういえば、雪之丞という男は本当におまえによく似ていた。おまえも歌舞伎役者になれば、その色気も使いようがあったんじゃないか?」
 咲耶はニヤリと笑って叡正を見つめた。
「色気の使いようって……。どう考えても俺にそんな才能はないだろう……」
 叡正は呆れ顔で咲耶を見た。
「人の才能まではわからないさ。ただ、おまえなら真面目に努力しただろうし、悪くはない仕上がりにはなったと思うが……」
 咲耶は叡正をまじまじと見ながら言った。
 いつものように貶されると思っていた叡正は、思いがけない咲耶の言葉に少し動揺する。
(落ち着け……悪くない仕上がりは、別に誉め言葉じゃない……)

「あ、そ、それより雪之丞はやっぱりいい男だったか……?」
 叡正は話題を変えようと、慌てて口を開く。
 叡正の言葉に咲耶は目をパチパチさせた後、苦笑した。
「おまえによく似ていたって言っているのに、いい男かってよく聞けるな。おまえも相変わらずの自信家だな……」
 叡正は目を丸くする。
「いや、そういう意味で言ったんじゃない! 俺と違っていい男だったかと聞いたんだ」
 叡正は慌てて言った。

 咲耶は視線を動かして少し考えているようだったが、フッと微笑んだ。
「おまえの方がいい男だよ。まぁ、私にとってはな」

 叡正は目を見開く。

「性格も含めて悪くないと思うぞ」
 咲耶はそう言って笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、私はそろそろ昼見世の準備でもするか……」
 咲耶はそう言うと、叡正の肩を軽く叩いて襖に向かう。
「少し休んだらおまえも帰れよ。緑に声をかけておくから」
 咲耶はそれだけ言うと、襖を開けて部屋を後にした。

 ひとり部屋に残された叡正は、両手で顔を覆った。
 顔が熱でも出たときのように熱かった。
「落ち着け……俺……。絶対都合のいい男って意味だから……」
 叡正はゆっくりと息を吐いた。

「本当に……まいったな……」
 都合のいい男という意味だとわかっていても、鼓動が早くなるほど舞い上がっている自分自身に、叡正はもう一度深いため息をついた。