「目、そらさなくなったな……」
雪之丞は酒を飲む手を止めると、山吹の目を見つめた。
山吹はなぜか少し嬉しそうに微笑むと、雪之丞を見つめ返す。
「雪之丞様が三日に一度はいらっしゃるので、ようやく少し見慣れてきました」
「見慣れた!?」
雪之丞は目を丸くした後、呆れた顔で山吹を見た。
「おまえさ……普通そういうことは面と向かって言わねぇんだよ……。遊女なんだから、もっと気を持たせるようなことを……」
雪之丞はそこまで言ってため息をついた。
「まぁ、いいや……。正直なのがおまえのいいところか……」
雪之丞の言葉を聞き、途端に山吹の顔が曇る。
「あ、ごめんなさい……。私……本当にいろいろヘタで……」
山吹はそう言うと、下を向いて背中を丸めた。
「おい、それやめろ」
雪之丞は山吹の背中を軽く叩く。
「胸を張れ、胸を。背筋が凛と伸びてるだけでも女は綺麗に見えるんだから」
雪之丞に見つめられて、山吹は慌てて姿勢を正した。
雪之丞は頷くと、酒杯の酒に口をつける。
「まぁ、俺はおまえが売れてなくて都合がいいけどな。俺がいつ来てもおまえは張見世にいるから」
雪之丞が初めて見世に来てからひと月ほどが経っていたが、いつ来ても山吹は張見世にいた。
雪之丞はフッと微笑む。
「あ、いえ、いくら私でも毎日張見世に残っているわけでは……」
山吹は何の悪気もなさそうな顔で言った。
雪之丞は再び呆れた顔で山吹を見つめる。
(だから、なんでそれを面と向かって俺に言うんだよ……)
山吹は何も言わない雪之丞を不思議そうな顔で見つめていた。
(この顔は俺に妬いてほしいとか、そういう意図じゃねぇよな……。絶対……)
雪之丞はため息をついた。
山吹が不安げな顔で雪之丞を見る。
「私……また何か……?」
「なんでもねぇよ」
雪之丞はそう言って苦笑すると、山吹を抱き寄せた。
「雪之丞様?」
山吹がおずおずと、雪之丞の背中に手を回す。
「本当に……おまえはヘタだな」
山吹の肩に顎を乗せて雪之丞がそっと呟く。
(自分以外の男も相手してるなんて聞いて、喜ぶ男がいるわけないだろう……。どうしておまえはそんなに……)
雪之丞はもう一度ため息をつくと、そっと体を離した。
「……おまえ、三味線は弾けるか?」
「え!? 突然ですね……。す、少し習いましたが……、披露する機会もないので今はもう……」
山吹は戸惑いながら首を横に振った。
「じゃあ、弾けるんだな。三味線が聴きたい気分だ。弾いてくれ」
「そ、それじゃあ、今度芸妓の方にでも……」
「なんでだよ。今聴きたい。ほら、三味線持ってこい」
雪之丞は頬杖をついて、山吹をじっと見つめる。
山吹は顔を青くしてしばらく何か言いたげに口をパクパクさせていたが、やがて観念したように立ち上がると座敷を出ていった。
少しして、山吹は三味線を手に座敷に戻ってきた。
「ほら、弾いてみろ」
雪之丞は頬杖をついたまま山吹を見つめる。
「あの……私、本当に……」
三味線を持って雪之丞の前に腰を下ろしながら、山吹は泣きそうな顔で言った。
「いいから弾け」
雪之丞の言葉に、山吹はしぶしぶ右手で持った撥で弦を弾く。
間延びした音が座敷に響いた。
山吹が弦を弾いていく。
何かの曲を弾いているようだったが、一音ずつが間延びしているため曲として聴くことは難しかった。
子どもが初めて三味線を握って指で弾いたような、そんな音だった。
雪之丞は呆気に取られ、ポカンと口を開けて山吹を見る。
「おまえ…………驚くほどヘタだな……。それともその三味線がおかしいのか……?」
雪之丞がそう言うと、山吹は顔を真っ赤にして、静かに三味線を置いた。
「ですから私は…………」
山吹は赤い顔を両手で覆ってうつむいた。
(これは想像以上に……)
雪之丞は山吹の前に置かれた三味線と撥を手に取ると、一弦ずつ弾いた。
凛とした音が座敷に響く。
(弦は新しいし、調弦も問題ねぇな。やっぱり山吹の腕の問題か……)
雪之丞は、両手で顔を覆ったままの山吹を見つめる。
「ほら、手本を見せてやるから、顔上げろ」
「え……?」
山吹が顔を上げたのを確認すると、雪之丞は撥で弦を弾いていく。
凛とした力強い音色が座敷を包み込む。
山吹は目を丸くした。
「すごく上手いですね……」
山吹の声に、雪之丞は手を止める。
「まぁ、歌舞伎の演目でも弾くことがあるからな。これぐらいはできて当然だろ」
雪之丞はそう言うと、三味線と撥を丁寧に畳の上に置いた。
山吹は目を伏せる。
「雪之丞様はなんでもできるのですね……」
山吹の言葉に雪之丞は首を傾げた。
「当たり前だろ。練習してるんだ。誰でもできる」
山吹は苦笑する。
「練習しても、私はなかなか……」
雪之丞はしばらく山吹を見つめていたが、静かに口を開いた。
「……手を見せてみろ」
「え?」
「いいから、見せろ」
雪之丞は山吹の手をとると、手のひらを見た。
「いいか? おまえは小柄だが手は小さくない。弦が押さえにくいということはないはずだ。ほら、今度は俺の手を見てみろ。何が違う?」
雪之丞はそう言うと、自分の両手を差し出した。
山吹はおずおずと雪之丞の手をとる。
手のひらは大きく、指はごつごつしているが長くて綺麗だった。
「あ……」
山吹は思わず小さく声を上げる。
左手の指先の皮が硬くなっていた。
山吹は顔を上げて、雪之丞を見る。
「わかったか? 続けていれば体も変わる」
雪之丞は真っすぐに山吹を見つめた。
「俺とおまえの違いは、続けたか諦めたかだ。おまえは諦めるのが早すぎるんだ。諦めるから自信がつかない。自信がないから背中も丸くなるんだ。何かひとつでいいから自信がつくまで続けてみろ」
雪之丞の言葉に山吹は目を泳がせた。
「俺は何においても自分が日本一だと思っている。だから、俺が選んだおまえもいい女だ。俺が言うんだから、そこは自信を持て」
雪之丞はそう言うとニヤリと笑った。
山吹は目を見開く。
何か言いたげにわずかに口を開いたが、山吹は何も言わず静かに微笑んだ。
「三味線なら俺が少し教えてやるから。ほら、三味線を持て」
雪之丞は三味線を手に取ると、山吹に渡した。
山吹はおずおずと三味線と撥を手にとる。
雪之丞は背後から抱きしめるように山吹を包み込むと、弦を押さえる手と撥を持つ手にそっと触れた。
「ところで……」
雪之丞はすぐ横にある山吹の顔をのぞき込むように言った。
「おまえの三味線を聴いた客はほかにいるのか?」
山吹は顔を赤くする。
「あのヘタな演奏を聴きましたよね……。聴かせられるようなものではないので、私がお客をとるようになってから初めて弾きました……」
山吹はそう言うと、首をそらした。
「ふ~ん、ならいい」
雪之丞は満足げに微笑むと、赤くなった山吹の首筋にそっと唇を寄せた。
「さぁ、みっちり教えてやるから覚悟しろよ」
雪之丞はニヤリと笑うと、撥を持つ山吹の手をとって弦を弾いた。
凛とした音が座敷全体に響く。
山吹の真剣な横顔を見て、雪之丞は小さく微笑んだ。
(本当にヘタだな……)
雪之丞はそっと目を閉じる。
(でも……ヘタなままでいいか……)
山吹ひとりで弦を弾くと、やはり間延びした音が響いた。
(このまま、ほかの誰にも聴かせなくていい……)
雪之丞が目を開けると、山吹が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「雪之丞様? あの……」
雪之丞は少しだけ微笑むと、顔を近づけて山吹の唇をそっと塞いだ。
雪之丞は酒を飲む手を止めると、山吹の目を見つめた。
山吹はなぜか少し嬉しそうに微笑むと、雪之丞を見つめ返す。
「雪之丞様が三日に一度はいらっしゃるので、ようやく少し見慣れてきました」
「見慣れた!?」
雪之丞は目を丸くした後、呆れた顔で山吹を見た。
「おまえさ……普通そういうことは面と向かって言わねぇんだよ……。遊女なんだから、もっと気を持たせるようなことを……」
雪之丞はそこまで言ってため息をついた。
「まぁ、いいや……。正直なのがおまえのいいところか……」
雪之丞の言葉を聞き、途端に山吹の顔が曇る。
「あ、ごめんなさい……。私……本当にいろいろヘタで……」
山吹はそう言うと、下を向いて背中を丸めた。
「おい、それやめろ」
雪之丞は山吹の背中を軽く叩く。
「胸を張れ、胸を。背筋が凛と伸びてるだけでも女は綺麗に見えるんだから」
雪之丞に見つめられて、山吹は慌てて姿勢を正した。
雪之丞は頷くと、酒杯の酒に口をつける。
「まぁ、俺はおまえが売れてなくて都合がいいけどな。俺がいつ来てもおまえは張見世にいるから」
雪之丞が初めて見世に来てからひと月ほどが経っていたが、いつ来ても山吹は張見世にいた。
雪之丞はフッと微笑む。
「あ、いえ、いくら私でも毎日張見世に残っているわけでは……」
山吹は何の悪気もなさそうな顔で言った。
雪之丞は再び呆れた顔で山吹を見つめる。
(だから、なんでそれを面と向かって俺に言うんだよ……)
山吹は何も言わない雪之丞を不思議そうな顔で見つめていた。
(この顔は俺に妬いてほしいとか、そういう意図じゃねぇよな……。絶対……)
雪之丞はため息をついた。
山吹が不安げな顔で雪之丞を見る。
「私……また何か……?」
「なんでもねぇよ」
雪之丞はそう言って苦笑すると、山吹を抱き寄せた。
「雪之丞様?」
山吹がおずおずと、雪之丞の背中に手を回す。
「本当に……おまえはヘタだな」
山吹の肩に顎を乗せて雪之丞がそっと呟く。
(自分以外の男も相手してるなんて聞いて、喜ぶ男がいるわけないだろう……。どうしておまえはそんなに……)
雪之丞はもう一度ため息をつくと、そっと体を離した。
「……おまえ、三味線は弾けるか?」
「え!? 突然ですね……。す、少し習いましたが……、披露する機会もないので今はもう……」
山吹は戸惑いながら首を横に振った。
「じゃあ、弾けるんだな。三味線が聴きたい気分だ。弾いてくれ」
「そ、それじゃあ、今度芸妓の方にでも……」
「なんでだよ。今聴きたい。ほら、三味線持ってこい」
雪之丞は頬杖をついて、山吹をじっと見つめる。
山吹は顔を青くしてしばらく何か言いたげに口をパクパクさせていたが、やがて観念したように立ち上がると座敷を出ていった。
少しして、山吹は三味線を手に座敷に戻ってきた。
「ほら、弾いてみろ」
雪之丞は頬杖をついたまま山吹を見つめる。
「あの……私、本当に……」
三味線を持って雪之丞の前に腰を下ろしながら、山吹は泣きそうな顔で言った。
「いいから弾け」
雪之丞の言葉に、山吹はしぶしぶ右手で持った撥で弦を弾く。
間延びした音が座敷に響いた。
山吹が弦を弾いていく。
何かの曲を弾いているようだったが、一音ずつが間延びしているため曲として聴くことは難しかった。
子どもが初めて三味線を握って指で弾いたような、そんな音だった。
雪之丞は呆気に取られ、ポカンと口を開けて山吹を見る。
「おまえ…………驚くほどヘタだな……。それともその三味線がおかしいのか……?」
雪之丞がそう言うと、山吹は顔を真っ赤にして、静かに三味線を置いた。
「ですから私は…………」
山吹は赤い顔を両手で覆ってうつむいた。
(これは想像以上に……)
雪之丞は山吹の前に置かれた三味線と撥を手に取ると、一弦ずつ弾いた。
凛とした音が座敷に響く。
(弦は新しいし、調弦も問題ねぇな。やっぱり山吹の腕の問題か……)
雪之丞は、両手で顔を覆ったままの山吹を見つめる。
「ほら、手本を見せてやるから、顔上げろ」
「え……?」
山吹が顔を上げたのを確認すると、雪之丞は撥で弦を弾いていく。
凛とした力強い音色が座敷を包み込む。
山吹は目を丸くした。
「すごく上手いですね……」
山吹の声に、雪之丞は手を止める。
「まぁ、歌舞伎の演目でも弾くことがあるからな。これぐらいはできて当然だろ」
雪之丞はそう言うと、三味線と撥を丁寧に畳の上に置いた。
山吹は目を伏せる。
「雪之丞様はなんでもできるのですね……」
山吹の言葉に雪之丞は首を傾げた。
「当たり前だろ。練習してるんだ。誰でもできる」
山吹は苦笑する。
「練習しても、私はなかなか……」
雪之丞はしばらく山吹を見つめていたが、静かに口を開いた。
「……手を見せてみろ」
「え?」
「いいから、見せろ」
雪之丞は山吹の手をとると、手のひらを見た。
「いいか? おまえは小柄だが手は小さくない。弦が押さえにくいということはないはずだ。ほら、今度は俺の手を見てみろ。何が違う?」
雪之丞はそう言うと、自分の両手を差し出した。
山吹はおずおずと雪之丞の手をとる。
手のひらは大きく、指はごつごつしているが長くて綺麗だった。
「あ……」
山吹は思わず小さく声を上げる。
左手の指先の皮が硬くなっていた。
山吹は顔を上げて、雪之丞を見る。
「わかったか? 続けていれば体も変わる」
雪之丞は真っすぐに山吹を見つめた。
「俺とおまえの違いは、続けたか諦めたかだ。おまえは諦めるのが早すぎるんだ。諦めるから自信がつかない。自信がないから背中も丸くなるんだ。何かひとつでいいから自信がつくまで続けてみろ」
雪之丞の言葉に山吹は目を泳がせた。
「俺は何においても自分が日本一だと思っている。だから、俺が選んだおまえもいい女だ。俺が言うんだから、そこは自信を持て」
雪之丞はそう言うとニヤリと笑った。
山吹は目を見開く。
何か言いたげにわずかに口を開いたが、山吹は何も言わず静かに微笑んだ。
「三味線なら俺が少し教えてやるから。ほら、三味線を持て」
雪之丞は三味線を手に取ると、山吹に渡した。
山吹はおずおずと三味線と撥を手にとる。
雪之丞は背後から抱きしめるように山吹を包み込むと、弦を押さえる手と撥を持つ手にそっと触れた。
「ところで……」
雪之丞はすぐ横にある山吹の顔をのぞき込むように言った。
「おまえの三味線を聴いた客はほかにいるのか?」
山吹は顔を赤くする。
「あのヘタな演奏を聴きましたよね……。聴かせられるようなものではないので、私がお客をとるようになってから初めて弾きました……」
山吹はそう言うと、首をそらした。
「ふ~ん、ならいい」
雪之丞は満足げに微笑むと、赤くなった山吹の首筋にそっと唇を寄せた。
「さぁ、みっちり教えてやるから覚悟しろよ」
雪之丞はニヤリと笑うと、撥を持つ山吹の手をとって弦を弾いた。
凛とした音が座敷全体に響く。
山吹の真剣な横顔を見て、雪之丞は小さく微笑んだ。
(本当にヘタだな……)
雪之丞はそっと目を閉じる。
(でも……ヘタなままでいいか……)
山吹ひとりで弦を弾くと、やはり間延びした音が響いた。
(このまま、ほかの誰にも聴かせなくていい……)
雪之丞が目を開けると、山吹が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「雪之丞様? あの……」
雪之丞は少しだけ微笑むと、顔を近づけて山吹の唇をそっと塞いだ。