【七年前】

「この役立たずが!!」
 怒声とともに少女は冷水を頭からかけられた。
「申し訳…ありません」
 師走の寒空の下、少女は体を震わせながら頭を下げる。
 その様子を見て、女が舌打ちをする。
「顔を見るだけで虫唾が走る!さっさと仕事に戻りな」
 顔を歪めてそう言うと、庭で立ち尽くす少女を残して女は足早に去っていった。

 少女は震える体を温めるように腕をさする。
(早く仕事に戻らないと……)
 少女がゆっくりと歩き始めると、後ろからふわりと羽織がかけられる。
 少女が振り向くと、そこには少年が立っていた。

「母上が申し訳ありません……」
 少年は目を閉じて頭を下げた。
「いいえ……、私が悪いんです……。お世話になっている身で何もお役に立てず……。こんな私を引き取ってくださったのに……」
 少女は悲しげに目を伏せた。
「鈴さんは何も悪くありません!」
 少年が慌てて言った。
「母上は、父上と兄上が亡くなってから、おかしくなってしまったのです……。以前はあんなことを言う人ではなかったのですが……」
「それも私のせいですから……。父上があんなことをしなければ……。ですから、将高(まさたか)様も私のことはお気になさらないでください」
 鈴はそう言うと少し微笑んだ。
「それも鈴さんのせいではありません! 鈴さんが責任を感じる必要などないのです!」
 将高は声を大きくして言った。
「……ありがとうございます。将高様は本当にお優しいですね……。私を憎んでいてもおかしくないのに……」
 鈴は悲しげに微笑んだ。
「何度も言いますが、鈴さんには何の責任もないのです! こんな扱いを受けるのもおかしい! 私が母上を説得できればいいのですが……」
 将高は目を伏せた。
「ありがとうございます。そのお言葉だけで十分です」
 鈴は微笑んだ。
 実際に将高がもう何度も叔母に話しをしてくれていることを鈴は知っていた。
「私は大丈夫です」
「……もう少し時が経てば、母上もきっとわかってくれます……。私が必ず……!」
 将高の言葉に鈴は微笑んで頷いた。
 その気持ちだけで十分救われる。

「さぁ、早く屋敷に入りましょう。このままでは風邪をひいてしまいます」
 鈴は将高に促されると、二人で屋敷に向かって歩き始めた。
「ところで鈴さん、その……私に敬語はおやめてください……。私の方が年が下ですし、本来なら鈴さんは私に敬語を使うような身分ではないのですから……」
 鈴は将高の言葉を聞き、クスりと笑った。
「私は無一文の居候です。将高様こそ、私に敬語はおやめください」
「しかし、元は旗本の……」
「家は……もうありませんから」
 鈴は悲しげに呟いた。
「申し訳ありません……。辛いことを思い出させてしまって……」
「いえ、大丈夫です。家はなくなりましたが、まだ兄様が生きていますし、それだけで私も生きていけます」
「ああ、出家されたお兄様ですね」
 以前、旗本の屋敷を訪れた際に将高も鈴の兄は見たことがあった。
 鈴とよく似た華やかな容姿に、旗本の跡取りらしい聡明さを感じる瞳が強く印象に残っていた。
 鈴を庇うように、親族や御家人たちの恨みや憎しみを一身に受けて出家したのは将高もよく知っていた。
「お兄様を慕っていらっしゃるんですね」
「はい、自慢の兄様です」
 鈴は晴れやかな笑顔をみせる。
 将高は鈴の初めて見る心からの笑顔に頬を染めた。
「将高様?」
 鈴は将高の顔をのぞきこむ。
「いえ、なんでもありません…」
 将高は咳払いをして言葉を続ける。
「ところで、敬語についてなのですが……。私も敬語はやめるので、鈴さんも私と二人だけのときはやめてください。名前も将高と呼び捨てていただきたいです。将高様と呼ばれるのは慣れなくて……」
「ですが……」
「これは私からのお願いです。聞いていただけないでしょうか?」
 鈴は微笑んだ。
「お願いということでしたら……承知いたしました。では、私のことも鈴とお呼びください」
「ありがとうございます」
 将高はホッとしたように微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとうございます」

「……敬語、なかなか直らないかもしれませんね」
「そ、そうですね…」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 寒さは変わらなかったが、鈴は自分の胸がじんわりと温かくなるのを感じた。