(何からお話しって……)
叡正は目の前の緑を見ながら、引きつった笑みを浮かべた。
「じゃ、じゃあ……咲耶太夫のことでも話すか……?」
叡正には、緑との共通の話題がそれしか思い浮かばなかった。
叡正の言葉を聞き、緑はなぜかにんまりと笑う。
「いいですよ! やっぱり叡正様は花魁と新助様のことが気になってたんですね」
「え!? いや……そういうわけでは……」
叡正は目を丸くして首を振ったが、緑は構わず話し続ける。
「わかってます! わかってますから!」
緑はニヤニヤしながら言った。
(一体、何がわかってるんだ……)
叡正は思わずため息をついた。
「あれからお二人は特に何もありませんよ。そもそも江戸一の男になったらってお話しでしたから、新助様が江戸一だと胸を張れるようになるまでは、もうこちらにはいらっしゃらないと思います。お客でもなければ、間夫でもありませんし」
「そうなのか……」
「そうですよ! 叡正様は感覚がおかしくなっているようですけど、そもそも花魁はそんな簡単に会える方ではないんです!」
緑は叡正に顔を近づけて言った。
緑の勢いに叡正は思わずたじろぐ。
「そ、そうだな……。申し訳ない……」
叡正はなぜか謝った。
「まぁ、わかればいいんです。というわけで安心しましたか? 叡正様」
緑は姿勢を元に戻すと、叡正を見て微笑んだ。
「安心?」
叡正が聞き返すと、緑は小さくため息をつく。
「まぁ、わからないならいいんです」
緑はそう言うと、大人びた表情で微笑んだ。
「私は応援していますよ、叡正様」
「え……ああ、ありがとう」
叡正は戸惑いながら、とりあえず礼を言った。
「あ、でもあれだろう? 咲耶太夫ぐらいになると身請けの金は相当な額になるんじゃないのか?」
(新助は嫁にと言っていたが、遊女の身請けには相当な金が必要だよな……。ましてや、咲耶太夫なら……)
「ああ、普通はそうですけど、花魁の場合は少し違います」
緑の言葉に、叡正は不思議そうな表情を浮かべる。
「そもそも、花魁は売られてきたわけではないので……。前にお話ししたように、見世の前に捨てられていたのを玉屋の楼主様が引き取って育てたんです。ですから、もともと借金がないうえに、これまでにかかったお金も花魁はすでにご自身で稼いでいますから、花魁の気持ちひとつでしょうね」
「え!? そんなことありえるのか……」
「まぁ、玉屋の稼ぎ頭ですし、何よりうちの楼主様は花魁のことを娘のように愛していますからね。覚悟を見るために相当な額を提示される可能性はありますが……」
「そ、そうなのか……」
「はい。まぁ、それでも花魁の気持ちを尊重するでしょうから。花魁が望んでいるのなら払える額にするでしょうね。……花魁が身請けされずにここにいるのは、ひとえに花魁がここにいることを望んでいるからです」
「……玉屋にいたいってことか」
叡正の言葉に、緑は微笑んだ。
「花魁は口ではそっけなくても、誰より情に厚いですからね。以前花魁に聞いたら『特に行きたいところもないから』って言ってましたけど、本当は玉屋のみんなが心配なんだと思います。やっぱり花魁は世界一です」
緑は目を輝かせた後、少し悲しそうな顔をした。
「ただ、花魁には幸せになってほしいので。心から望む場所を見つけてほしいとは思っています。だから……」
緑は叡正を見つめた。
「叡正様も頑張ってくださいね」
「頑張るって……何を??」
緑は微笑んだ。
「何でもありませんよ。まぁ、信様との関係は清算してからにしてくださいね! 泥沼の関係は困ります!」
「清算!? もともと何の関係もないのに何を清算するんだ! まだそんな噂があるのか!?」
「ありますよ。新助様との噂も最近増えました」
叡正は愕然とした表情で緑を見つめる。
「そんな噂まで……」
頭を抱える叡正を見て、緑は微笑んだ。
「いろいろと頑張ってください、叡正様」
緑はそう言うと、叡正の背中をポンポンと叩く。
「可能性はなくはない……かな」
緑は小さく呟くと、楽しげに笑った。
玉屋を出た咲耶は、吉原の外れにある裏茶屋にいた。
(少し遅くなったか……)
案内された座敷の襖を開けると、そこにはすでに信が座っていた。
「すまない、遅くなって」
咲耶がそう言うと、信はゆっくりと咲耶に視線を向けた。
「それで何かわかったのか?」
咲耶は信と向かい合うように、座布団の上に腰を下ろした。
「いや、何もわからなかった」
信は淡々と言った。
「そうか……」
信はまだ両国橋の火事について気になることがあるようで、大文字屋の周りを探り続けていた。
「何がそんなに気になっているんだ?」
(仕組んでいた男が死んで、すべて終わったんじゃないのか?)
咲耶は信を見つめた。
信は何か考えていたようだったが、しばらくして口を開いた。
「派手にやり過ぎている気がする……」
「派手?」
「大文字屋だけが目的なら、あそこまでする必要がない。何か別の目的があったのかもしれない」
「別の目的……か」
咲耶はそう呟くとため息をついた。
「下手をすれば大勢の人間が死んでいたかもしれない火事に、何か別の目的があったと考えると正直ゾッとするな……。目的のためならどこの誰が死んでも構わないってことか……」
咲耶は目を伏せた。
「ああ……」
信はそれだけ言うと口をつぐんだ。
咲耶は何も言えず、ただ信を見る。
窓から差し込む光で、信の髪が淡く輝いていた。
(髪、伸びたな……)
信は目を伏せていたが、前髪は明らかに目にかかっていた。
(見えにくくないのか……?)
咲耶はそっと信に手を伸ばした。
咲耶の手が信の髪に触れそうになった瞬間、信がビクリを体を震わせた。
「え……?」
咲耶は思わず手を止める。
「す、すまない……。嫌だったか……?」
咲耶は信のこれまでにない反応に戸惑いながら聞いた。
信の表情は何ひとつ変わっていなかったため、咲耶には信の感情がわからなかった。
「いや、なんでもない。どうした?」
信が淡々とした口調で聞いた。
「あ、いや……髪が伸びたから、見えづらくないかと思って……」
「ああ、そうだな。今日切ることにする」
信はそう言いながら、自分の前髪を触る。
「じ、自分で切るのか……?」
「ああ」
咲耶は以前、信が髪を切ったときのことを思い出した。
信じられない短さで一直線に切りそろえられた前髪を見ながら、吹き出さないように会話するのに苦労した日のことが鮮やかによみがえる。
「よ、よければ私が切ろうか?」
咲耶は不自然にならないように微笑みを浮かべた。
「ここにも化粧箱くらいはあるはずだから借りてくる。ちょっと待っていてくれ……」
咲耶はすぐに裏茶屋の主人に化粧箱を借りると、座敷に戻った。
化粧箱から鋏と櫛を取り出すと、咲耶は少し不安な気持ちになり信を見る。
「髪に触れても大丈夫か?」
「ああ」
信が短く応えた。
咲耶は櫛を手に取ると、信の後ろに移動する。
(後ろは切らないにしても梳かしておいた方がいいか……)
咲耶は、髪紐で束ねられていた信の髪をほどいた。
さらさらと広がった薄茶色の髪に、咲耶は櫛を通す。
(後ろの髪も長くなったな……)
首筋にかかる髪を手に取りながら、咲耶は初めて信に会った日のことを思い出した。
(そういえば、髪に触れたのはあの日以来か……)
咲耶は後ろの髪を梳かし終えると、信の目の前に移動して腰を下ろした。
ゆっくりと前髪にも櫛を通していく。
前髪で隠れていたが、信は目を閉じているようだった。
梳かし終えると、櫛を置いて鋏に持ち替える。
前髪をひと房手に取ると、目にかからないように鋏を入れた。
薄茶色の髪が光を受けて、はらはらと輝きながら落ちていく。
「綺麗だな……」
咲耶は思わず呟いた。
次のひと房を手に取ったとき、咲耶はふと視線を感じて手を止めた。
信の薄茶色の瞳が真っすぐに咲耶に向けられていた。
咲耶は小さく息を飲む。
色素の薄い瞳は透き通った硝子のような美しさだった。
「……どうかしたのか?」
少しして我に返った咲耶は信に聞いた。
「いや、なんでもない」
信はそう言うと、また静かに目を閉じた。
咲耶は再び、信の前髪に鋏を入れる。
(こんなに間近で見たことはなかったな……)
咲耶は目を閉じたままの信を見た。
(触られるのが嫌なのか……?)
咲耶はなるべく急いで前髪を切った。
「よし、できた」
咲耶がそう言うと、信がそっと目を開ける。
前髪は短くはないが、目にかからない長さになっていた。
信は礼を言うと咲耶から髪紐を受け取り、髪を束ねた。
「すまなかったな」
信はそう言うとゆっくりと立ち上がる。
「いや……少し切っただけだから。それより、また何かわかったら教えてくれ」
咲耶の言葉に信は静かに頷くと、座敷を後にした。
ひとりになった座敷で、咲耶はポツリと呟く。
「あんなに嫌がられたのは初めてだな……」
咲耶は少し傷ついている自分に苦笑した後、長いため息をついた。
咲耶が裏茶屋の座敷を出て玉屋の前に着くと、見世の前に人だかりができていた。
(なんだ……?)
咲耶が眉をひそめながら見世に近づくと、咲耶に気づいた人々がサッと道を開ける。
咲耶が見世に入ると、男衆たちがひとりの男を取り押さえているのが見えた。
取り押さえられている男は酔っているのか、ふらふらしながら悪びれる様子もなく男衆に何か話しかけている。
ひとりで何か言いながら楽しそうに笑っていた男は、ふと顔を上げて戸口に立っていた咲耶を見た。
咲耶は目を見開く。
(ああ、こいつが噂の……)
男は叡正によく似た華やかな顔立ちをしていた。醸し出す雰囲気も良く似ていたが、圧倒的に違うのは自信に満ちたその表情だった。
「なんだ……やっぱりいるじゃねぇか。玉屋の咲耶」
男は咲耶を見てニヤリと笑った。
男は腕を掴んでいた男衆たちを振り払うと、よろよろと咲耶に歩み寄る。
酔っていてもしぐさの一つひとつにどこか色気が漂っていた。
慌てて男を取り押さえようとする男衆たちに、咲耶はそっと微笑む。
「大丈夫だ」
咲耶はそう言うと、男衆に向かって小さく頷いた。
咲耶の目の前に来た男は、咲耶を下から舐めるように見ると無遠慮に咲耶の頬に触れた。
「噂通りのいい女だな」
男からは強い酒の臭いがした。
咲耶はただ静かに男を見る。
「相手してくれよ。いくらだ? 俺が買ってやる」
男が咲耶に顔を近づける。
(なるほど……。これはひどいな……)
咲耶はため息をつくと、そっと男の胸に触れた。
男はニヤリと笑うと、咲耶の手に自分の手を重ねる。
「私が相手をしたところで、おまえの穴は埋まらないぞ」
咲耶は男を見つめた。
「は……?」
男の顔からヘラヘラとした笑みが消える。
「……それぐらいおまえだってわかっているんじゃないのか?」
「なんだよ、穴って……。訳わからねぇこと言うんじゃねぇよ……」
男は咲耶の手を払いのけると、くしゃくしゃと頭を掻きむしった。
「あ~あ、酔いが醒めちまった。最悪……」
男は咲耶を軽く睨む。
「どこか吉原一だよ……。帰るわ……」
男はそう言うと、咲耶の横を通り過ぎて見世の外に出た。
「おらおら、見せ物じゃねぇぞ! 散れ散れ!」
男は、見世の前にいた人々に向かってそう言うと、よろけながら見世から去っていった。
「咲耶太夫! 大丈夫でしたか!?」
男衆が慌てて咲耶に駆け寄った。
「ああ、問題ない」
咲耶は微笑む。
(噂は本当のようだな……)
咲耶はため息をついた。
「残酷だな……」
咲耶は二階の部屋に向かいながら小さく呟く。
「花魁、大丈夫でしたか?」
二階にいた緑が咲耶に駆け寄った。
「あ、叡正様は先ほどお帰りになりました」
「ああ、そうか。ありがとう」
咲耶は緑に礼を言うと、優しく頭をなでた。
「あの……、今の方は……」
「ああ、あれが花巻雪之丞だろう? 確かにあいつに似ているが、中身はまったく似ていないな」
咲耶は苦笑した。
「雪之丞……、今度来たら塩を撒いてやります」
緑は珍しく怒っているようだった。
「もう来ないさ。それに……あれは許してやれ」
咲耶は緑の頭をなでながら、悲しげに微笑んだ。
「気に入っていた遊女がほかの男と心中したんだ。誰だって荒れるだろう……。それに……」
咲耶は今はもう誰もいなくなった玉屋の戸口に目を向けた。
「あの様子だと、噂と違って本気だったんだろう……」
咲耶はため息をつく。
「ああいうのを見ると、この仕事の残酷さを思い知るよ……」
咲耶はそう言うと、ひとり部屋に戻った。
鏡台の前に座ると、暗い顔の女がこちらを見ている。
心は晴れなかったが、咲耶は気持ちを切り替えて見世の準備を始めることにした。
「いい加減にしろ!!」
花巻檀十郎は、雪之丞に掴みかかった。
「なんだ今日のアレは!!」
二人以外誰もいなくなった稽古場に、檀十郎の声が響く。
雪之丞は怒りに満ちた檀十郎の眼差しから、思わず視線をそらした。
何も答えない雪之丞を見て、檀十郎は舌打ちをすると掴んでいた着物から手を離した。
雪之丞は視線をそらしたまま、その場に立ち尽くす。
「おまえが女に入れあげてたのは知ってる……。何も言わなかったのは、そのことでおまえにいい影響があったからだ。芸にも艶が出て、ここ一年のおまえは今までで一番光ってたよ……」
檀十郎はそう言うと、ため息をついた。
「それなのに、今のおまえはなんだ……。すっかり腑抜けになっちまって……。女に振られたぐらいで、今まで築いてきたものを全部ぶち壊す気か? ……頭冷やせ」
檀十郎はそれだけ言うと、身を翻して稽古場から出ていった。
ひとりになった稽古場で、雪之丞はその場にしゃがみ込む。
「何やってんだろうな……」
雪之丞は片手で顔を覆った。
口から乾いた笑いがもれる。
「……笑えるな。……笑えるだろ? 山吹……」
雪之丞は顔を覆ったまま、ゆっくりと目を開ける。
「全然気づかなかったよ……。案外おまえの方が役者だな」
雪之丞は苦笑する。
「おまえがあの世までついていくって、どんだけいい男だったんだよ、そいつ……」
雪之丞は、視界がにじんでいくのを感じて、そっと目を閉じた。
「でも……何も死ぬことなかっただろ? 振るにしたって……恨み言くらいちゃんと聞いていけよ……」
雪之丞の指の隙間からこぼれた涙が、小さな音を立てて畳を濡らした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【一年前】
提灯に照らせて、遊女たちが妖艶に微笑んでいる。
(遊女ってみんな同じに見えるんだよな……)
雪之丞は吉原を歩きながら、ぼんやりと格子の向こうの遊女を見た。
同じような化粧をした遊女が、同じような表情で客を誘っている。
雪之丞は思わずため息をついた。
(女形の役者の方がよっぽど色気があるぞ……)
雪之丞と目が合った遊女が目を輝かせて手を伸ばす。
「あなた雪之丞様でしょう? よかったら遊んでいってよ」
遊女は雪之丞に流し目を送る。
(おいおい、流し目ヘタだなぁ……。小見世は軽く遊ぶにはいいがどうも品がねぇなぁ……)
雪之丞は顔が引きつるのをなんとか抑えながら微笑んだ。
(やっぱ、今日は帰るか……)
雪之丞がそんなことを考えていると、ふとひとりの遊女に目が留まった。
(あれは……)
ほかの遊女が熱心に雪之丞に手を伸ばす中、その遊女はひとりだけ黙々と縫物をしているようだった。
(あれは……地味だな……。そこらへんの町娘みたいじゃねぇか……)
雪之丞は思わずその遊女の前で足を止めた。
どこかあどけない雰囲気のあるその遊女は、雪之丞が目の前で足を止めてもまったく顔を上げようとしない。
(顔が見たいな……)
雪之丞がぼんやりとそんなことを考えていると、男衆が声をかけた。
「旦那、ご希望の子はいましたか?」
雪之丞はしばらく目の前の遊女を見つめた後、男衆に向かって頷いた。
「ああ、こいつにする」
雪之丞は目の前の遊女を指さしてそう言うと、見世の中に入っていった。
「失礼いたします」
雪之丞が座敷で待っていると、襖ごしに声が響いた。
遊女は襖を開けて座敷に入ると、静かに雪之丞の横に腰を下ろす。
(思った以上に小さいな……)
隣の遊女を見ながら、雪之丞は兎のようだと思った。
遊女は膳の上の銚子を手にすると、雪之丞の酒杯に酒を注ぐ。
(こいつ……目が合わねぇ……)
雪之丞は遊女を見ながら苦笑した。
大見世のような格式の高いところでは、遊女に目も合わせてもらえないところから始まるが、小見世の張見世に出ている遊女が目も合わせないというのはあまり聞かなかった。
(こいつの性格の問題か……)
雪之丞はため息をつくと、一気に酒を飲み干し酒杯を置いた。
遊女の肩がビクリと震える。
「おまえ……何をそんなに怯えているんだ?」
雪之丞は呆れ顔で聞いた。
「い、いえ……怯えてなど……」
遊女は相変わらず目を伏せて銚子を見つめていた。
雪之丞はもう一度ため息をつくと、遊女の頬に手を添えて強引に雪之丞の方を向かせた。
遊女が目を見開く。
もともと兎のように丸い目がさらに丸くなり、瞳が忙しなく動く。
雪之丞は、遊女に顔を近づけた。
「ほら、よく見ろ!」
雪之丞はニヤリと笑う。
「いい男だろ?」
遊女の忙しなく動いていた瞳が止まる。
「…………へ?」
遊女は目をパチパチさせながら、雪之丞を見た。
「本来、俺の顔を見るのは有料なんだ。それをタダで! ……いやむしろ俺が金を払ってるか……。おまえはタダで見れるんだから、しっかり見とけ! この綺麗な顔が近くで拝めるんだから、おまえは一瞬たりとも目をそらすんじゃねぇ!」
雪之丞はそう言うと鼻をならした。
遊女は口をポカンと開けたまま、しばらく雪之丞を見ていたが、やがてフッと笑った。
「おい、今……笑ったか?」
雪之丞がジトッとした目で遊女を見る。
「いえ、笑ってません! 笑ってません!!」
遊女は慌てて、首を激しく横に振る。
雪之丞がしばらく疑いの眼差しで遊女を見ていると、遊女は堪え切れず吹き出した。
「ふふ……、本当に……笑っていませんから」
その笑顔は、蕾がそっと花開くように可憐だった。
雪之丞は目を見開く。
「なんだ、笑った顔は悪くねぇな……」
雪之丞は小さく呟いた。
「おまえ、名前は?」
雪之丞はまだ少し笑っている遊女に聞いた。
「ああ……申し遅れました。山吹と申します。すみません……。私のようなものが雪之丞様のお相手をすると思うと緊張してしまい……」
山吹はそう言うと、静かに目を伏せた。
「おい、目をそらすな! 見とけって言ったばかりだろ?」
雪之丞は山吹の顔をのぞき込む。
「すみません……、ついクセで……」
山吹はさらに視線をそらす。
その瞬間、雪之丞が両手で山吹の頬を包むと、そっと唇を重ねた。
唇はすぐに離れたが、山吹の頬は雪之丞の両手で包まれたままだった。
「な!?」
山吹は目を見開いて、すぐ目の前にある雪之丞の顔を見つめる。
「目をそらした罰だ」
雪之丞は楽しそうに笑った。
山吹の顔がみるみる赤く染まっていく。
山吹が思わず目をそらした瞬間、また唇を塞がれる。
「!?」
山吹は真っ赤な顔で涙目になりながら、雪之丞を見た。
雪之丞はニヤリと笑う。
「早くそのクセ直せよ? 直るまで俺が付き合ってやるから」
「!?」
山吹は口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。
「これからよろしくな、山吹」
雪之丞は意地悪く笑うと、じっと目をそらさないように頑張っている様子の山吹の目を見つめながら、今度はゆっくりと深く唇を重ねた。
三味線の音色が響く座敷で、咲耶は頼一に酌をしていた。
「……何か悩みごとか?」
頼一は酒を注ぐ咲耶の顔を見ながら静かに聞いた。
咲耶は思わず銚子を傾けていた手を止める。
「悩みごと……というほどでは……」
咲耶は静かに微笑むと、銚子を膳に戻した。
(そんなに顔に出ていただろうか……)
咲耶は苦笑した。
頼一は少しだけ咲耶を見て微笑むと、三味線を演奏する芸妓を見ながら口を開く。
「火消しが結婚を申し込みに来た件か? それとも売れっ子の役者がひどく酔った状態で訪ねてきた件の方だろうか?」
咲耶はわずかに目を見開いた後、苦笑した。
「よくご存じですね」
頼一は再び咲耶に視線を戻すと微笑んだ。
「火消しも役者も有名人だからな。噂になっているようだ。まぁ、どれほど広がっているのかわからないが、何を思ってなのか奉行所の者が咲耶に関する噂は逐一報告してくるからな。自然と耳に入ってくるんだ……」
頼一は苦笑すると、酒杯の酒に口をつけた。
「そうでしたか……」
咲耶は静かに微笑んだ。
(頼一様は慕われているからな……)
「それで、悩みごとはそのどちらかなのか?」
頼一は咲耶を見つめた。
「いえ……、二人が来たことと直接は関係ないのですが……」
咲耶は苦笑すると、頼一を見つめ返す。
「その歌舞伎役者の件で、遊女との噂を聞いておりましたので、この仕事の残酷さを感じてしまいまして……」
頼一は酒杯を見つめた。
「ああ……、あの心中の件か……」
「どうしようもないことではあるのでしょうが、残された者のああいう姿を見てしまうと……」
咲耶は静かに目を伏せた。
「そうだな……。だが、あれは……」
頼一はそう言うと、何かを考えるように腕を組んだ。
咲耶は頼一の顔を見つめる。
頼一はしばらく思案した後、静かに目を閉じた。
「あの件は、私の管轄ではないからこれはただの噂話として聞いてくれ……」
頼一はゆっくりと目を開けると息を吐いた。
「商家の男と遊女が心中したと聞いていると思うが……実際には少しだけ違う」
咲耶は頼一の顔を見つめた。
「見つかったのはお歯黒どぶに浮いていた遊女の遺体だけだ。男は見つかっていない……」
「どういうことですか? ……心中ではないのですか?」
咲耶は眉をひそめる。
「心中ということになったのは、遊女が書いた遺書があったからだ。「もう二度と離れないように」という遺書の内容通り、遊女の手首には紐が結んであったがその紐は切れていた。本当に心中したが、紐が切れて男の遺体だけ流されたか……、男だけ生き残って逃げたか……。もしくは……最初から心中ではなかったか……だ」
咲耶は目を見開いた。
「心中したとされる男はもちろん家に戻っていない。ただ、それだけでなく男の妻も行方がわからない……。いろいろと不可解な件なんだ。それに……」
頼一はそこで少し言いにくそうに視線を動かした。
「遊女の首には手で絞められた跡があった……。心中でも女の気を失わせてから男が抱いて飛び込むというのがあるから一概にはなんとも言えないが……」
頼一はそこで言葉を止めた。
(心中ということにして、殺された可能性があるということか……)
咲耶は自分の顔が強張っていくのを感じた。
(そんなことがあっていいのか……)
咲耶の握り締めたこぶしの上に、頼一の手が重なる。
「すまない……。こんな話しをして……」
頼一は心配そうな眼差しで、咲耶を見ていた。
「いえ……。教えてくださり、ありがとうございます」
咲耶は微笑んだ。
咲耶の脳裏に、このあいだ玉屋に来たときの雪之丞の顔が浮かぶ。
(知らないのだろうか? ……おそらく知らないのだろう)
咲耶はため息をついた。
「思っていたよりもずっと残酷なお話だったのですね……」
「そうだな……。事実はどうなのかわからないが……」
頼一はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。
頼一はしばらく何も言わなかったが、手を重ねたまま静かに口を開く。
「咲耶は……心中だけはやめてくれ」
咲耶は頼一の顔を見る。
頼一は目を伏せたまま悲しげに微笑んでいた。
「咲耶の心は咲耶自身のものだ。誰を愛してもおまえが気に病むことはない。私も含めてほかの客を傷つけることになろうが気にするな。ただ……」
頼一は咲耶を真っすぐに見つめた。
「生きて幸せになってくれ。それだけは約束してほしい」
咲耶は目を見開いた。
「……私は……幸せ者ですね」
咲耶は静かに微笑んだ。
「まぁ、皆、陰では泣くかもしれないがな……。それぐらいは許してくれ」
頼一は苦笑する。
咲耶は、頼一の手にもう片方の手をそっと重ねて微笑んだ。
「心中はもちろん、まだまだそんな予定はありませんが、覚えておきます」
頼一に向かって微笑みながら、咲耶は死んだ遊女のことを考え始めていた。
(死んだ遊女はどんな気持ちだっただろうか……。本当に遊女の意思があっての心中ならまだいいが、そうでなければ……)
咲耶は目を伏せた。
三味線の音色がどこか物悲しく座敷に響いていた。
「目、そらさなくなったな……」
雪之丞は酒を飲む手を止めると、山吹の目を見つめた。
山吹はなぜか少し嬉しそうに微笑むと、雪之丞を見つめ返す。
「雪之丞様が三日に一度はいらっしゃるので、ようやく少し見慣れてきました」
「見慣れた!?」
雪之丞は目を丸くした後、呆れた顔で山吹を見た。
「おまえさ……普通そういうことは面と向かって言わねぇんだよ……。遊女なんだから、もっと気を持たせるようなことを……」
雪之丞はそこまで言ってため息をついた。
「まぁ、いいや……。正直なのがおまえのいいところか……」
雪之丞の言葉を聞き、途端に山吹の顔が曇る。
「あ、ごめんなさい……。私……本当にいろいろヘタで……」
山吹はそう言うと、下を向いて背中を丸めた。
「おい、それやめろ」
雪之丞は山吹の背中を軽く叩く。
「胸を張れ、胸を。背筋が凛と伸びてるだけでも女は綺麗に見えるんだから」
雪之丞に見つめられて、山吹は慌てて姿勢を正した。
雪之丞は頷くと、酒杯の酒に口をつける。
「まぁ、俺はおまえが売れてなくて都合がいいけどな。俺がいつ来てもおまえは張見世にいるから」
雪之丞が初めて見世に来てからひと月ほどが経っていたが、いつ来ても山吹は張見世にいた。
雪之丞はフッと微笑む。
「あ、いえ、いくら私でも毎日張見世に残っているわけでは……」
山吹は何の悪気もなさそうな顔で言った。
雪之丞は再び呆れた顔で山吹を見つめる。
(だから、なんでそれを面と向かって俺に言うんだよ……)
山吹は何も言わない雪之丞を不思議そうな顔で見つめていた。
(この顔は俺に妬いてほしいとか、そういう意図じゃねぇよな……。絶対……)
雪之丞はため息をついた。
山吹が不安げな顔で雪之丞を見る。
「私……また何か……?」
「なんでもねぇよ」
雪之丞はそう言って苦笑すると、山吹を抱き寄せた。
「雪之丞様?」
山吹がおずおずと、雪之丞の背中に手を回す。
「本当に……おまえはヘタだな」
山吹の肩に顎を乗せて雪之丞がそっと呟く。
(自分以外の男も相手してるなんて聞いて、喜ぶ男がいるわけないだろう……。どうしておまえはそんなに……)
雪之丞はもう一度ため息をつくと、そっと体を離した。
「……おまえ、三味線は弾けるか?」
「え!? 突然ですね……。す、少し習いましたが……、披露する機会もないので今はもう……」
山吹は戸惑いながら首を横に振った。
「じゃあ、弾けるんだな。三味線が聴きたい気分だ。弾いてくれ」
「そ、それじゃあ、今度芸妓の方にでも……」
「なんでだよ。今聴きたい。ほら、三味線持ってこい」
雪之丞は頬杖をついて、山吹をじっと見つめる。
山吹は顔を青くしてしばらく何か言いたげに口をパクパクさせていたが、やがて観念したように立ち上がると座敷を出ていった。
少しして、山吹は三味線を手に座敷に戻ってきた。
「ほら、弾いてみろ」
雪之丞は頬杖をついたまま山吹を見つめる。
「あの……私、本当に……」
三味線を持って雪之丞の前に腰を下ろしながら、山吹は泣きそうな顔で言った。
「いいから弾け」
雪之丞の言葉に、山吹はしぶしぶ右手で持った撥で弦を弾く。
間延びした音が座敷に響いた。
山吹が弦を弾いていく。
何かの曲を弾いているようだったが、一音ずつが間延びしているため曲として聴くことは難しかった。
子どもが初めて三味線を握って指で弾いたような、そんな音だった。
雪之丞は呆気に取られ、ポカンと口を開けて山吹を見る。
「おまえ…………驚くほどヘタだな……。それともその三味線がおかしいのか……?」
雪之丞がそう言うと、山吹は顔を真っ赤にして、静かに三味線を置いた。
「ですから私は…………」
山吹は赤い顔を両手で覆ってうつむいた。
(これは想像以上に……)
雪之丞は山吹の前に置かれた三味線と撥を手に取ると、一弦ずつ弾いた。
凛とした音が座敷に響く。
(弦は新しいし、調弦も問題ねぇな。やっぱり山吹の腕の問題か……)
雪之丞は、両手で顔を覆ったままの山吹を見つめる。
「ほら、手本を見せてやるから、顔上げろ」
「え……?」
山吹が顔を上げたのを確認すると、雪之丞は撥で弦を弾いていく。
凛とした力強い音色が座敷を包み込む。
山吹は目を丸くした。
「すごく上手いですね……」
山吹の声に、雪之丞は手を止める。
「まぁ、歌舞伎の演目でも弾くことがあるからな。これぐらいはできて当然だろ」
雪之丞はそう言うと、三味線と撥を丁寧に畳の上に置いた。
山吹は目を伏せる。
「雪之丞様はなんでもできるのですね……」
山吹の言葉に雪之丞は首を傾げた。
「当たり前だろ。練習してるんだ。誰でもできる」
山吹は苦笑する。
「練習しても、私はなかなか……」
雪之丞はしばらく山吹を見つめていたが、静かに口を開いた。
「……手を見せてみろ」
「え?」
「いいから、見せろ」
雪之丞は山吹の手をとると、手のひらを見た。
「いいか? おまえは小柄だが手は小さくない。弦が押さえにくいということはないはずだ。ほら、今度は俺の手を見てみろ。何が違う?」
雪之丞はそう言うと、自分の両手を差し出した。
山吹はおずおずと雪之丞の手をとる。
手のひらは大きく、指はごつごつしているが長くて綺麗だった。
「あ……」
山吹は思わず小さく声を上げる。
左手の指先の皮が硬くなっていた。
山吹は顔を上げて、雪之丞を見る。
「わかったか? 続けていれば体も変わる」
雪之丞は真っすぐに山吹を見つめた。
「俺とおまえの違いは、続けたか諦めたかだ。おまえは諦めるのが早すぎるんだ。諦めるから自信がつかない。自信がないから背中も丸くなるんだ。何かひとつでいいから自信がつくまで続けてみろ」
雪之丞の言葉に山吹は目を泳がせた。
「俺は何においても自分が日本一だと思っている。だから、俺が選んだおまえもいい女だ。俺が言うんだから、そこは自信を持て」
雪之丞はそう言うとニヤリと笑った。
山吹は目を見開く。
何か言いたげにわずかに口を開いたが、山吹は何も言わず静かに微笑んだ。
「三味線なら俺が少し教えてやるから。ほら、三味線を持て」
雪之丞は三味線を手に取ると、山吹に渡した。
山吹はおずおずと三味線と撥を手にとる。
雪之丞は背後から抱きしめるように山吹を包み込むと、弦を押さえる手と撥を持つ手にそっと触れた。
「ところで……」
雪之丞はすぐ横にある山吹の顔をのぞき込むように言った。
「おまえの三味線を聴いた客はほかにいるのか?」
山吹は顔を赤くする。
「あのヘタな演奏を聴きましたよね……。聴かせられるようなものではないので、私がお客をとるようになってから初めて弾きました……」
山吹はそう言うと、首をそらした。
「ふ~ん、ならいい」
雪之丞は満足げに微笑むと、赤くなった山吹の首筋にそっと唇を寄せた。
「さぁ、みっちり教えてやるから覚悟しろよ」
雪之丞はニヤリと笑うと、撥を持つ山吹の手をとって弦を弾いた。
凛とした音が座敷全体に響く。
山吹の真剣な横顔を見て、雪之丞は小さく微笑んだ。
(本当にヘタだな……)
雪之丞はそっと目を閉じる。
(でも……ヘタなままでいいか……)
山吹ひとりで弦を弾くと、やはり間延びした音が響いた。
(このまま、ほかの誰にも聴かせなくていい……)
雪之丞が目を開けると、山吹が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「雪之丞様? あの……」
雪之丞は少しだけ微笑むと、顔を近づけて山吹の唇をそっと塞いだ。
叡正は緑に案内され、咲耶の部屋に向かっていた。
(何の用なんだ……?)
叡正は、咲耶からの手紙をもらい玉屋を訪れていた。
(呼び出されるなんて珍しいな……)
咲耶の部屋の前に着くと、緑が襖越しに声をかけ部屋に通される。
今回は突然来たわけではなかったため、咲耶はすでに座布団の上に座り、こちらを見ていた。
「悪かったな、突然来てもらって」
咲耶はそう言うと、微笑んだ。
昼見世の前ということもあり、咲耶は長襦袢姿だった。
「ああ。何かあったのか?」
叡正は咲耶と向かい合うように座布団に腰を下ろす。
「少し頼みたいことがあってな……」
咲耶は珍しく申し訳なさそうな顔で言った。
「頼み……」
(咲耶太夫から何か頼まれるのは初めてだな……)
叡正は咲耶を見つめた。
「おまえにお願いするのが一番早い気がして……」
「どんなことなんだ?」
叡正は首を傾げる。
「扇屋に行ってほしいんだ」
咲耶は叡正から少し視線をそらしながら言った。
「おおぎや……? え……吉原の扇屋か……? あの小見世の」
叡正は目を丸くする。
「行くって……遊郭だろ?」
「ああ、扇屋の遊女から話しを聞いてきてほしいんだ」
「遊女から話しって……。なんて名前の遊女から話しを聞いてこればいいんだ? ……人探しか何かか?」
叡正は真剣な表情で咲耶を見つめた。
「いや、人探しではない。おまえの顔を見て、一番驚いていた遊女から話しを聞いてきてほしい」
「俺の顔を見て……? なんだ、どういうことだ??」
「まぁ、行けばわかる。そこで山吹という遊女のことを聞いてきてほしい」
「やまぶき……?」
叡正には何ひとつわからなかった。
「そうだ。……金はこちらで出すから、頼めないか? そのかわりに、おまえの噂が消えるように協力する」
咲耶は申し訳なさそうに微笑んだ。
叡正は咲耶を見つめる。
(何のことかはまったくわからないが……)
叡正は今まで咲耶にしてもらったことを思い出していた。
(断る理由なんて最初からないか……)
叡正は静かに微笑んだ。
「わかった。今度扇屋に行ってくる」
叡正がそう言うと、咲耶はホッとしたような表情を浮かべた。
「助かる……。ありがとう」
「ただ、その……多少事情は聞いていいか?」
「ああ、そうだな……」
咲耶は事の経緯を簡単に説明した。
「心中じゃないかもしれないってことか……」
話しを聞き終えた叡正は小さく呟いた。
「でも……どうしてそれをおまえが調べるんだ? 今の話しだと雪之丞って男に頼まれたわけでもないんだろう?」
叡正は不思議そうな顔で咲耶を見る。
咲耶は唇に手を当てて何か考えているようだったが、突然フッと笑った。
「ハハ……、なんでだろうな」
咲耶の自然な笑顔に、叡正は思わず見惚れた。
「きちんとした理由はない。ただ、私が気になるだけだ。……亡くなったとはいえ、心中なのかそうでないのかでは残された者の受け取り方が違う。死んだらもう何も伝えられないからな……。もし真実が違うなら、何かしたいと思ったんだ。すまないな。自分勝手な理由で」
咲耶はそう言うと、叡正に向かって微笑んだ。
叡正はしばらく咲耶を見つめていたが、静かに目を伏せた。
「そうか……」
(死んだら何も伝えられない、か……。俺のときもそう思ったから協力してくれたのか……)
「あ、そういえば、雪之丞という男は本当におまえによく似ていた。おまえも歌舞伎役者になれば、その色気も使いようがあったんじゃないか?」
咲耶はニヤリと笑って叡正を見つめた。
「色気の使いようって……。どう考えても俺にそんな才能はないだろう……」
叡正は呆れ顔で咲耶を見た。
「人の才能まではわからないさ。ただ、おまえなら真面目に努力しただろうし、悪くはない仕上がりにはなったと思うが……」
咲耶は叡正をまじまじと見ながら言った。
いつものように貶されると思っていた叡正は、思いがけない咲耶の言葉に少し動揺する。
(落ち着け……悪くない仕上がりは、別に誉め言葉じゃない……)
「あ、そ、それより雪之丞はやっぱりいい男だったか……?」
叡正は話題を変えようと、慌てて口を開く。
叡正の言葉に咲耶は目をパチパチさせた後、苦笑した。
「おまえによく似ていたって言っているのに、いい男かってよく聞けるな。おまえも相変わらずの自信家だな……」
叡正は目を丸くする。
「いや、そういう意味で言ったんじゃない! 俺と違っていい男だったかと聞いたんだ」
叡正は慌てて言った。
咲耶は視線を動かして少し考えているようだったが、フッと微笑んだ。
「おまえの方がいい男だよ。まぁ、私にとってはな」
叡正は目を見開く。
「性格も含めて悪くないと思うぞ」
咲耶はそう言って笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、私はそろそろ昼見世の準備でもするか……」
咲耶はそう言うと、叡正の肩を軽く叩いて襖に向かう。
「少し休んだらおまえも帰れよ。緑に声をかけておくから」
咲耶はそれだけ言うと、襖を開けて部屋を後にした。
ひとり部屋に残された叡正は、両手で顔を覆った。
顔が熱でも出たときのように熱かった。
「落ち着け……俺……。絶対都合のいい男って意味だから……」
叡正はゆっくりと息を吐いた。
「本当に……まいったな……」
都合のいい男という意味だとわかっていても、鼓動が早くなるほど舞い上がっている自分自身に、叡正はもう一度深いため息をついた。
「誰が売れっ妓になれって言った?」
雪之丞は、座敷に入ってきた山吹の顔を見るなりため息をついた。
雪之丞の言葉に、山吹は目を丸くする。
「売れっ妓なんて、そんな……」
山吹は、座敷に入ると慌てて雪之丞の横に腰を下ろした。
「最近、全然張見世にいねぇじゃねぇか……」
雪之丞は苦笑すると目を伏せた。
「それは……」
山吹は言葉に詰まる。
最近、山吹が張見世にいることはほとんどなかった。
何度来ても会えなかったため、雪之丞が五日連続で足を運んでようやく今日会えたのだ。
「どうして、そんなやる気になったんだ?」
雪之丞は山吹を見た。
山吹は不安げな表情はしていたが、背筋は凛と伸びていて以前のように背中を丸めることはなかった。
雪之丞の顔色を窺うその目も、どこか憂いを帯びていて色気すら感じる。
雪之丞は思わず山吹から目を背けた。
(自信は持ってほしかったが、こんなふうになってほしかったわけじゃねぇのに……)
「その私は……」
山吹はゆっくりと口を開いたが、言葉が続かないようだった。
雪之丞はため息をつく。
「もういい……。別におまえは何も悪くないし……」
(これがこいつの仕事なんだから……)
雪之丞は目を伏せた。
「あ、あの、雪之丞様……」
山吹がおずおずと言った。
「その、よかったら三味線を聴いてもらえませんか……? 私、あれから練習したので……」
雪之丞は山吹を見る。
山吹が自分から何かをお願いするのは初めてのことだった。
雪之丞は少しだけ微笑んだ。
「ああ……。じゃあ、聴かせてくれ」
山吹は目を輝かせる
「じゃ、じゃあ、三味線を取ってきますね!」
山吹はそう言って立ち上がると、座敷を出ていった。
(なんだ? 妙に嬉しそうだな……)
雪之丞は首を傾げた。
しばらくすると、山吹が三味線を手に戻ってきた。
「弾いても……よろしいですか?」
山吹がまたおずおずと聞いた。
雪之丞は苦笑する。
「聴かせてくれって言っただろう? ダメだって言ったら三味線抱えてずっとおどおどしながら立ってる気か?」
「そ、そうですよね」
山吹はそう言うと、雪之丞の横に座り三味線を構えると右手で撥を掴んだ。
凛とした三味線の音が座敷に響く。
雪之丞は目を丸くする。
(上手くなったな……)
山吹はゆっくりと曲を奏でていく。
雪之丞は山吹を見つめた。
構え方や指使いまで様になっている。
芸妓には遠く及ばないにしても、決してヘタではなかった。
一曲弾き終えると、山吹はためらいがちに雪之丞を見た。
「あの……、どうでしたか……?」
「あ、ああ……。悪くなかった」
雪之丞は思わず視線をそらす。
上手くなったことをなぜか素直に誉めることができなかった。
「ほ、本当ですか!?」
山吹は目を輝かせた。
「雪之丞様にそう言っていただけて嬉しいです!」
雪之丞は山吹を見る。
山吹は、雪之丞が今まで見た中で一番嬉しそうに微笑んでいた。
「上手くなったとは言われていたんですが、まだ自信がなくて……」
雪之丞の胸が嫌な音を立てた。
(上手くなったと言われた……?)
胸を殴られたような鈍い痛みが広がっていく。
「どういう……」
雪之丞が絞り出すように呟いた。
「え……?」
(ほかの誰にも……聴かせたくなんてなかった……)
「…………誰だ?」
「え……?」
雪之丞は勢いよく山吹の左手首を掴んだ。
「上手くなったと言ったのは誰だ!?」
三味線が音を立てて畳に落ちる。
手首を掴まれた山吹はこぼれ落ちそうなほど目を見開いて雪之丞を見た。
雪之丞は手首をつかんで山吹を引き寄せる。
「誰なんだ……?」
「え……あ、あの……」
山吹の唇は震えていた。
「……ね、姐さん……ですけど……」
「姐さん……?」
山吹の言葉に、雪之丞は呆然と畳に視線を落とした。
(男じゃないのか……?)
雪之丞は、掴んでいた山吹の手首を離した。
山吹の手が力なく畳に落ちる。
手首には薄っすらと雪之丞の手の跡が残っていた。
(俺は一体、何を…………)
雪之丞は、山吹の顔を見ることができなかった。
「雪之丞様……?」
山吹が震える声で言った。
雪之丞はその声に耐え切れず、思わず立ち上がると山吹に背を向けた。
「……悪かった。今日はもう帰る……。本当に……悪かった……」
雪之丞はそれだけ言うと、足早に襖に向かった。
「雪之丞様……!」
山吹の言葉に、雪之丞は思わず足を止める。
「…………また来る」
雪之丞はなんとかそれだけ口にすると、逃げるように座敷を出ていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
張見世にいた浮月は、暗い顔で張見世に戻ってきた山吹を見て、目を丸くした。
「あれ、あんたさっき……」
浮月の言葉に、山吹は悲しげに目を伏せた。
(あの歌舞伎役者に呼ばれて嬉しそうに出ていったばかりなのに……)
浮月は山吹の様子に首をひねる。
「まぁ……、とりあえず座りな」
浮月は自分の隣をポンと叩いて、山吹を見た。
山吹は静かに浮月の隣に腰を下ろす。
「どうした? 何かあった?」
浮月は横目で山吹を見ながら聞いた。
「姐さん……、私……」
山吹は着物の袖口をギュッと握りしめてうつむいた。
「こら、張見世でメソメソするんじゃない。何があった? ほら、話してみな」
「私……嫌われました……。もうきっと見世に来てもらえません……」
山吹のうつむいた顔から、無数の雫が落ちて着物を濡らす。
「それでわかるわけないだろ。順を追って話して」
浮月はうつむいたままの山吹を呆れ顔で見た。
「すみません……」
山吹は雪之丞とした会話を、断片的に浮月に話した。
「ああ……、なるほどね……」
浮月はため息をつく。
「あんた、本当にヘタだよね……。言うべきことは言わないと、何も伝わらないよ?」
浮月は横目で山吹を見る。
「言ってやればよかったのに……。客が増えたのは、あんたのせいだって」
「そんなこと……」
山吹は悲しげな顔で浮月を見た。
ここ最近、山吹の客が急激に増えたのは、色気が出てきたというのもひとつの要因だったが、それ以上に「花巻雪之丞が入れあげている遊女」だからというのが大きかった。
江戸一の色男といわれる雪之丞が、小見世の遊女のもとに足しげく通っているというのは今では有名な話だった。
大見世ならば高嶺の花と諦める男たちも、小見世の遊女ならば簡単に手が届いてしまう。
興味本位で山吹を選ぶ客が増えたのは当然のことだった。
「で、三味線をほかの誰かに褒められたことを話して、怒らせたと……」
浮月は額に手を当てる。
「何やってんだ……、本当に……」
山吹は肩を震わせた。
「どうして雪之丞様が怒ったのか、私……わからなくて……」
浮月はため息をついた。
(そりゃあ……、三味線は自分とだけのものにしてほしかったんだろうよ……)
「なんでちゃんと言わないかな……。ほかの客の前では弾いてないって。あの歌舞伎役者に褒めてほしくて私とあんなに練習したんだから」
山吹は顔を上げ、涙で濡れた目で浮月を見た。
「そんな……。聞かれてもいないのに……」
「聞かれてなくても言うんだよ!」
浮月は呆れ顔で言った。
山吹は目を泳がせる。
「でも……、そんなこと言ったらきっと重いと思われてしまいます……」
浮月はもはや開いた口が塞がらなかった。
(いやいや、重いも何も……。想いのひとかけらだって伝わってないだろう。聞いた感じだと……)
「私はただ……少しでも雪之丞様に吊り合うようになれればと……。もちろん吊り合う遊女なんて無理なんですけど……それでも少しは……」
うつむいた山吹が小さく呟いた。
浮月は苦笑して目を伏せる。
(吊り合う遊女になってほしいなんて……向こうは思ってないんだよ、山吹……)
浮月はゆっくりと息を吐いた。
「まぁ、とりあえず、あんたは頑張る方向を間違えてるんだよ。次、あの歌舞伎役者が来たら、客のことも三味線のことも全部話しな。ついでに吊り合う遊女がなんたらって話しも!」
「で、でも……」
顔を上げた山吹に、浮月が顔を近づける。
「でも、じゃない! ああ、ホントどっちも面倒くさい! 私、面倒くさいことは嫌いなんだよ! わかったね! 全部話しな! それで全部解決! はい、おしまい!」
山吹は浮月の勢いに押され少しのけぞる。
「ほら、返事は!?」
浮月は畳みかけた。
「は、はい……!」
山吹は目に涙を溜めたまま、コクコクと頷いた。
(まったく面倒くさい……)
浮月は正面を向くように座り直すと格子の向こうを見た。
(ホント感謝しろよ、歌舞伎役者……)
浮月はまだうつむいている山吹を横目で見ながら、もう何度目かわからないため息をついた。
(ここでいいのかな……)
叡正は扇屋と書かれた提灯を確認すると、遊女たちのいる張見世に足を進めた。
昼見世ということもあり、格子の前にはほとんど客がいなかった。
(まぁ、昼はそうだよな……)
叡正が格子に近づくと、暇そうにしていた遊女たちが顔を上げた。
「…………!」
顔を上げた遊女たちの目が一斉に見開かれていく。
(こ、これは……みんな同じくらい驚いているんじゃないのか……?)
咲耶からは一番驚いた遊女から話しを聞いてほしいと言われていたが、叡正の目にはその違いがわからなかった。
叡正がしばらく遊女たちを見つめていると、しだいに遊女たちの顔が青ざめていく。
(ど、どうしたらいいんだ……?)
叡正が立ち尽くしていると、ふいに張見世の奥から声が響いた。
「あんた……あの歌舞伎役者の弟か何かかい?」
叡正は声の方に視線を移す。
そこには二十半ばくらいの気の強そうな遊女が座っていた。
「あ、いや……、そういうわけでは……」
叡正がそう言って目を泳がすと、遊女はため息をついた。
「そう、違うならいい……」
遊女はそれだけ言うと、興味を失ったように再び下を向いた。
叡正は遊女を見つめる。
(驚いている感じじゃなかったが……、あの遊女からなら何か聞けそうだな……。ほかの遊女は俺だと違いがわからないし……)
叡正は少し考えてから小さく頷くと、男衆に声をかけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は案内された座敷で、落ち着かない気持ちで遊女を待った。
(そういえば、俺……ちゃんと遊郭の座敷に入るの初めてだな……)
叡正は居心地の悪さに変な汗をかいた。
(聞くことを聞いて、早く出よう……)
叡正がそう決意した瞬間、勢いよく襖が開いた。
叡正が驚いて顔を上げると、先ほどの遊女がドカドカと入ってくる。
遊女は叡正の前まで来ると、しゃがみ込んで叡正に顔を近づけた。
「あんた、明らかに私に興味なさそうだったのに、なんで呼んだの?」
眉をひそめて詰め寄る遊女に、叡正はたじろぐ。
「私に何の用?」
遊女は真っすぐに叡正を見た。
叡正は勢いに押されながら、なんとか口を開く。
「その……山吹という子について話しが聞きたくて……」
叡正の言葉に、遊女は目を見開く。
「あんた……やっぱりあの歌舞伎役者の弟なの……?」
遊女は叡正をまじまじと見た。
(否定……しない方がいいか……)
「あ、ああ、まぁ……」
叡正は遊女から視線をそらしながら、曖昧に頷く。
「そう……」
遊女はそう言うと、その場に腰を下ろした。
「それなら、お兄さんに伝えて……。あの子は……山吹は絶対に心中なんかしてないって」
「心中じゃない……?」
「そう。山吹が好きだったのはあんたのお兄さん。ほかの男となんか死ぬわけないのよ。殺されたうえにほかの男を想ってたことにされて、さすがにあの子が浮かばれない……」
遊女は目を伏せると、苦しげに言った。
「殺された……?」
目を丸くする叡正を見て、遊女は苦笑する。
「心中じゃなけりゃ、殺されてるでしょ。あの子に死ぬ理由なんてなかったし……」
叡正は目を伏せる。
「そう……なのか……」
遊女は叡正を見つめた。
「必ずお兄さんに伝えて。あ、私の名前、浮月っていうの。山吹から名前は聞いてるはずだから。浮月って遊女がそう言ってたって伝えて」
「あ、ああ、わかった……」
叡正はゆっくりと頷いた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
浮月は何か思い出したように立ち上がると、座敷を出ていった。
しばらくして戻ってきた浮月の腕には、着物のようなものが抱えられていた。
「それは……?」
叡正は浮月の持ってきたものを見て聞いた。
「山吹から……あんたのお兄さんへの贈り物。まぁ、結局渡せなかったけどね……」
浮月は抱えたものを叡正に差し出しながら、悲しげに微笑んだ。
それは黒い羽織だった。
羽織の裾には花の刺繍が施されている。
「この花は……桔梗か?」
叡正は紫の糸で描かれた花をそっとなでた。
「ああ。これは、あの子の願いなんだ……」
「願い?」
浮月は静かに頷く。
叡正は続く言葉を待ったが、浮月は目を伏せて、もうそれ以上何も言わなかった。