咲耶が裏茶屋の座敷を出て玉屋の前に着くと、見世の前に人だかりができていた。
(なんだ……?)
 咲耶が眉をひそめながら見世に近づくと、咲耶に気づいた人々がサッと道を開ける。

 咲耶が見世に入ると、男衆たちがひとりの男を取り押さえているのが見えた。
 取り押さえられている男は酔っているのか、ふらふらしながら悪びれる様子もなく男衆に何か話しかけている。

 ひとりで何か言いながら楽しそうに笑っていた男は、ふと顔を上げて戸口に立っていた咲耶を見た。

 咲耶は目を見開く。
(ああ、こいつが噂の……)
 男は叡正によく似た華やかな顔立ちをしていた。醸し出す雰囲気も良く似ていたが、圧倒的に違うのは自信に満ちたその表情だった。
「なんだ……やっぱりいるじゃねぇか。玉屋の咲耶」
 男は咲耶を見てニヤリと笑った。
 男は腕を掴んでいた男衆たちを振り払うと、よろよろと咲耶に歩み寄る。
 酔っていてもしぐさの一つひとつにどこか色気が漂っていた。
 慌てて男を取り押さえようとする男衆たちに、咲耶はそっと微笑む。
「大丈夫だ」
 咲耶はそう言うと、男衆に向かって小さく頷いた。

 咲耶の目の前に来た男は、咲耶を下から舐めるように見ると無遠慮に咲耶の頬に触れた。
「噂通りのいい女だな」
 男からは強い酒の臭いがした。
 咲耶はただ静かに男を見る。
「相手してくれよ。いくらだ? 俺が買ってやる」
 男が咲耶に顔を近づける。

(なるほど……。これはひどいな……)
 咲耶はため息をつくと、そっと男の胸に触れた。
 男はニヤリと笑うと、咲耶の手に自分の手を重ねる。

「私が相手をしたところで、おまえの穴は埋まらないぞ」
 咲耶は男を見つめた。
「は……?」
 男の顔からヘラヘラとした笑みが消える。

「……それぐらいおまえだってわかっているんじゃないのか?」
「なんだよ、穴って……。訳わからねぇこと言うんじゃねぇよ……」
 男は咲耶の手を払いのけると、くしゃくしゃと頭を掻きむしった。

「あ~あ、酔いが醒めちまった。最悪……」
 男は咲耶を軽く睨む。
「どこか吉原一だよ……。帰るわ……」
 男はそう言うと、咲耶の横を通り過ぎて見世の外に出た。

「おらおら、見せ物じゃねぇぞ! 散れ散れ!」
 男は、見世の前にいた人々に向かってそう言うと、よろけながら見世から去っていった。


「咲耶太夫! 大丈夫でしたか!?」
 男衆が慌てて咲耶に駆け寄った。
「ああ、問題ない」
 咲耶は微笑む。
(噂は本当のようだな……)
 咲耶はため息をついた。

「残酷だな……」
 咲耶は二階の部屋に向かいながら小さく呟く。

「花魁、大丈夫でしたか?」
 二階にいた緑が咲耶に駆け寄った。
「あ、叡正様は先ほどお帰りになりました」
「ああ、そうか。ありがとう」
 咲耶は緑に礼を言うと、優しく頭をなでた。

「あの……、今の方は……」
「ああ、あれが花巻雪之丞だろう? 確かにあいつに似ているが、中身はまったく似ていないな」
 咲耶は苦笑した。
「雪之丞……、今度来たら塩を撒いてやります」
 緑は珍しく怒っているようだった。
「もう来ないさ。それに……あれは許してやれ」
 咲耶は緑の頭をなでながら、悲しげに微笑んだ。

「気に入っていた遊女がほかの男と心中したんだ。誰だって荒れるだろう……。それに……」
 咲耶は今はもう誰もいなくなった玉屋の戸口に目を向けた。
「あの様子だと、噂と違って本気だったんだろう……」
 咲耶はため息をつく。
「ああいうのを見ると、この仕事の残酷さを思い知るよ……」
 咲耶はそう言うと、ひとり部屋に戻った。
 鏡台の前に座ると、暗い顔の女がこちらを見ている。
 心は晴れなかったが、咲耶は気持ちを切り替えて見世の準備を始めることにした。