「叡正様の噂は相変わらずですね……」
 緑は、叡正を咲耶の部屋に案内しながら呟いた。
 叡正は苦笑する。
 玉屋で咲耶が叡正を「愛する男」だと言った日からひと月ほどが経っていた。
 結論からいえば、叡正の噂はまったく良くなっていない。
 男好きという噂から、男も女も好きな好色な男という噂に変わっただけだった。
 むしろ悪化している。
 
 咲耶の部屋の前に着くと、緑は膝をついて襖ごしに咲耶に声をかけた。
 咲耶の返事を待ち、緑が襖を開ける。
 咲耶は窓のへりに腰かけて外を見ていた。
 長い髪を下ろし長襦袢姿の咲耶を見て、叡正はなぜか少し落ちつかない気持ちになった。
(いや、見た目は本当に綺麗なんだから、これは当然の反応だ……)
 叡正は慌てて目を閉じると深呼吸した。

 咲耶は叡正を見て苦笑する。
「また来たのか。まぁ、今回は私が悪いからな……」
 咲耶はそう言うと立ち上がり、緑が用意した座布団に座った。
 緑が目で叡正に座るように促す。
「ああ……、ありがとう」
 叡正は緑に礼を言うと、咲耶の前に腰を下ろした。

「悪かったな」
 咲耶の言葉に、叡正は目を丸くする。
「ど、どうしたんだ……。俺に謝るなんて……」
 叡正がそう口にすると、咲耶はジトッとした目で叡正を見た。
「おまえ……、私を何だと思ってるんだ。悪いと思ったら謝罪ぐらいする」
「いや、すまない。そういう意味では……」
 叡正は慌てて首を振る。
 咲耶はため息をついた。

「噂の件は、たぶんあれだ……。あちらの影響を受けているんだろうな」
 咲耶はそう言うと長い髪を耳にかけた。
「あちら?」
 叡正は首を傾げる。
 咲耶は叡正を見つめた。
「おまえに雰囲気が似ている歌舞伎役者がいるんだが……」
 咲耶がそう言うと、部屋の隅に控えていた緑が小さく声を上げた。
 叡正は不思議そうに緑を見る。
「……確かに似てるかもしれませんね。花巻雪之丞(はなまきゆきのじょう)に」
 緑が叡正の顔をまじまじと見ながら言った。
「雪之丞……?」
「人気のある歌舞伎役者だ。少し問題のある……」
 咲耶が苦笑した。
「問題……?」
「ここ最近、女関係で派手に遊んでいるらしい」
 咲耶の言葉に緑が頷く。
「私も聞きました。どうしたんでしょうね。それまでは花巻檀十郎(だんじゅうろう)の襲名も近いって言われるほど乗りに乗ってた役者だったのに」
 緑は首を傾げる。

 咲耶は目を伏せた。
「まぁ、噂が本当なら……同情はするが……」
「噂?」
 叡正が咲耶を見ると、咲耶は少し視線をそらした。
「まぁ、それは置いておいて、中身はともかく見た目の雰囲気は同じだからな、あちらの影響もあって好色の噂が出ているんだろう」
 叡正は目を丸くする。
「まったくの他人なのにか……?」
「他人でもだ。遊女の悪い噂が出れば、遊女全体が悪く見られるのと同じだな」
「……俺は僧侶だ」
 咲耶は叡正を見て微笑んだ。
「ああ、だから男色の噂も加わっているだろう?」
 叡正は言葉を失う。
「まぁ、噂なんてそんなものだ。しばらくしたら消えるから、あまり気にするな。ああ、でも自分の身だけは守れよ」
 咲耶はそう言うと立ち上がり、叡正の肩を軽く叩いた。
「頑張れ」
 咲耶は叡正を見下ろしながら微笑む。
 叡正は呆然と咲耶を見つめ返した。

「緑、頼みがあるんだが」
 咲耶は緑に視線を移した。
「私はこれから少し用事があるから、こいつの相手をしてもらえないか? 間夫なのにすぐ帰るのも不自然だからな。頼めるか?」
 咲耶がそう言うと、緑は目を輝かせて頷いた。
「じゃあ、あとは頼んだぞ」
 咲耶は緑に微笑むと、襖を開けて部屋を後にした。

「花魁に頼られた……」
 叡正が視線を向けると、緑は嬉しそうに頬を赤く染めていた。
「さぁ、叡正様、お相手いたします!」
 緑は勢い良く立ち上がると、叡正の前に移動して腰を下ろした。
「え!? 何の!?」
 叡正は目を丸くする。
「もちろん、お話しのです! 叡正様がこれ以上、惨めにならないように頑張ります!」
(俺は惨めなつもりはなかったんだが……)
 叡正が密かに傷ついていると、緑は目を輝かせて叡正を見つめた。
「さぁ、何からお話ししましょうか!」
 前のめりな緑を前に、叡正は帰ると言い出す機会を完全に逸した。