両国橋の火事から五日後、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
「じゃあ大文字屋は、死刑は免れたんだな……」
咲耶から話しを聞き、叡正はホッと胸をなでおろした。
「ああ、あの死んだ男に利用されただけだということがわかったからな……」
咲耶は叡正の顔を見て言った。
「まぁ、あれだけのことをしたんだ……。極刑ではないにしろ重い罰は下るだろうが……」
「そうか……」
叡正は目を伏せる。
大文字屋の店の裏手で男の死体が発見されてから、さまざまなことが明らかになった。
死んでいた男が大文字屋の息子に近づき花火を売ったこと、息子の罪を利用して大文字屋を脅したこと、そのすべてが明らかになると大文字屋への同情的な意見も多く聞こえるようになった。
大文字屋の息子が起こした火事についても、男によって仕組まれていた可能性が高くなり、罪には問われないことになった。
「それにしても、あれだけの規模の火事で、死人が出なかったのは奇跡だな……」
咲耶はそう言うと、少しだけ微笑んだ。
「そうだな……」
(や組の火消しとあの子のおかげだな……)
叡正は子どもの顔を思い浮かべながら微笑んだ。
「あ、そういえば! 恭一郎さんの汚名も晴れてよかったな!」
大文字屋の息子が自首した時点で、恭一郎の汚名は晴れていたが、子どもを庇って火盗で何も話さなかったことが話題となると、今になって恭一郎の死を惜しむ声が多く上がっていた。
「ああ、そうだな」
咲耶は目を閉じて微笑んだ。
(すべては解決した……。ただ……)
叡正は咲耶を見つめる。
(咲耶と信は何をどこまで知っていたんだ……?)
叡正を火消しとともに両国橋に向かわせたのは信だった。
信がひとりで何か考えて動いていたとは、叡正には思えなかった。
(咲耶は一体……?)
聞きたいことは多かったが、踏み込んではいけないような気もしていた。
咲耶は叡正の視線を感じたのか、叡正を見ると少し困ったように微笑んだ。
(話せないってことなんだろうな……)
叡正は咲耶の表情を見て、ゆっくりと息を吐く。
そのとき、バタバタと廊下を走る音が聞こえ、勢いよく襖が開かれた。
叡正は目を丸くして振り返る。
息を乱して走ってきたのは緑だった。
「どうした? 緑」
咲耶が緑に向かって首を傾げる。
「た、大変です……! や、や組の組頭が来ました!!」
「ああ、そうなのか。私を呼んでいるのか?」
咲耶はなんでもないような口調で聞いた。
「よ、呼んでます! ……で、でも、行かない方がいいですよ!」
緑は泣きそうな顔で咲耶を見ていた。
叡正は緑の様子を見て首を傾げる。
(なんでそんなに取り乱してるんだ……?)
「まぁ、大丈夫だろ。ちょっと行ってくる」
咲耶は立ち上がって襖に向かうと、緑の頭をなでて部屋を出ていった。
緑が心配そうに、咲耶の後ろ姿を見つめている。
「なぁ、どうしてそんなに心配してるんだ?」
叡正は緑に向かって聞いた。
「知らないんですか!? 花魁はこのあいだ、あの組頭を殴ってるんですよ!」
「は!?」
叡正は目を丸くする。
(殴った?? どうして??)
「きっと報復しに来たんですよ……! 叡正様、何してるんですか!? 間夫として花魁を守ってください! ほら、さっさと立って!!」
緑は叡正の腕を掴むと、強引に立たせて引きずっていく。
「え!? そんなわけないと思うが……」
叡正が引っ張られて階段を下りていくと、玉屋の入口で咲耶と新助が向かい合っているのが見えた。
階段を下りると、叡正は緑に突き飛ばされて咲耶の横に並ぶ。
新助が叡正に気づいて視線を向ける。
「おまえ、今日はここにいたのか」
新助が目を丸くする。
「ああ……、ちょっと咲耶太夫に話しがあって……」
叡正は苦笑した。
新助は少し不思議そうな顔をしたが、すぐ咲耶に視線を戻した。
「今日はおまえに礼を言いに来たんだ」
新助は咲耶に向かって頭を下げた。
「感謝している。あのとき動かなかったら、俺はきっと後悔してた」
新助は頭を下げたまま、なかなか顔を上げなかった。
しばらく新助を見つめていた咲耶は、ゆっくりと新助に近づくと首を傾けて新助の顔をのぞき込んだ。
顔の近さに驚いたのか、新助が目を丸くして頭を上げる。
咲耶は楽しそうに笑った。
「ちょっとはマシな顔になったみたいだな」
新助は目を見開いた後、静かに微笑んだ。
「ああ、ありがとな……」
二人の様子を見て、叡正は胸をなでおろす。
(俺がここにいる必要はなさそうだな……)
叡正はさりげなく後ろに下がろうとしたとき、新助が口を開いた。
「もし俺が、江戸で一番の火消しになったら……」
新助は真っすぐに咲耶を見た。
「そのときは、俺の嫁になってくれねぇか?」
一瞬、時が止まったように玉屋の中が静かになった。
その後、密かに話しを聞いていた遊女たちから黄色い悲鳴が上がる。
叡正も目を丸くして、咲耶を見た。
斜め後ろからでは咲耶の表情はわからなかったが、微笑んでるようにも見える。
(とりあえず、俺は下がって……)
叡正がそう思い、静かに下がろうとしたとき、咲耶が口を開いた。
「それは難しいな」
咲耶はそう言うと、叡正の腕をとって引き寄せた。
(…………え?)
叡正は、咲耶と向かいように立たされた。
咲耶の顔が視界に入ったと思った瞬間、叡正の首に咲耶の両腕が絡む。
(え……!?)
咲耶の髪が揺れ、花のような香りした。
咲耶の体が密着し、咲耶の息が叡正の首筋にかかる。
「愛する男がいるからな」
咲耶はそう言うと、絡めた腕に力を込めて叡正を抱きしめた。
咲耶は叡正の肩越しに新助を見つめる。
叡正は火がついたように体が熱くなるのを感じた。
「……な!?」
叡正が思わず声を出しそうになると、咲耶がシッと耳元で呟く。
耳にかかった息に、叡正の体がゾクリと震える。
叡正は体を硬くして、ただ立ち尽くした。
咲耶と叡正を見て、新助が笑う。
「ああ、わかってるよ。要は、惚れさせればいいんだろう? 俺はいつか江戸一の男になる。そのときまた考えてくれ」
新助はそう言うと微笑んだ。
咲耶はわずかに目を見開いた後、そっと目を閉じた。
「ああ、わかった」
新助はその言葉を聞くと、満足したように身を翻したが何かを思い出したように立ち止まった。
「あ、そうだ」
新助は二人に背中を向けたまま言った。
「訂正するわ……。あいつさ……」
新助は少しだけ振り返って微笑む。
「女の趣味だけは悪くなかった」
新助はそれだけ言うと、玉屋を後にした。
新助が去ったのを確認すると、咲耶はそっと叡正から体を離した。
叡正は硬直したまま動かない。
「突然悪かったな。でも、これでおまえの噂も多少良くなるはずだ」
咲耶は微笑むと、叡正の背中を軽く叩いた。
「気をつけて帰れよ」
咲耶はそう言うと、叡正を残して二階に上がっていった。
ひとりになると叡正はその場にしゃがみ込んだ。
全身が沸騰したように熱く、鼓動がすぐ耳元で響いているようだった。
「嘘だろ……?」
叡正が絞り出すように呟く。
一部始終を見ていた緑はそっとため息をついた。
「花魁は、罪作りですね……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
咲耶が部屋に入ると、すぐに弥吉の声が響いた。
弥吉が襖を開けて、部屋に入る。
「今日の手紙はありますか?」
弥吉が咲耶に聞いた。
「ああ、鏡台のところにあるから持っていってもらえるか?」
「わかりました」
弥吉はそう言うと、鏡台の上にある手紙を懐にしまった。
「あ、そうだ。咲耶太夫、火消しが好きって言ってましたよね!」
弥吉が弾んだ声で言った。
咲耶は苦笑する。
「いや、私は別に……」
「この姿絵、すごい売れてるらしくて……よかったらもらってください」
弥吉はそう言うと、懐から折りたたまれた姿絵を取り出して咲耶に渡した。
「いや、私は……」
咲耶はそう口にしたが、笑顔の弥吉を見ていると断り切れず、姿絵を受け取るとそっと開いた。
咲耶は目を見開く。
「いい絵でしょう?」
弥吉は微笑む。
咲耶も姿絵を見ながら微笑んだ。
「ああ、悪くないな……」
姿絵には二人の男が描かれていた。
両国橋と思われる橋の上で、二人の男が火に立ち向かっていた。
二人の背中には同じように桜吹雪と勇ましい龍の刺青が入っており、それはまるで双頭の龍のようだった。
姿絵には、や組の文字とともにこう書かれていた。
『江戸の花』
「ああ、いい絵だ」
咲耶はそう言うと、姿絵の二人をなでてそっと微笑んだ。
「じゃあ大文字屋は、死刑は免れたんだな……」
咲耶から話しを聞き、叡正はホッと胸をなでおろした。
「ああ、あの死んだ男に利用されただけだということがわかったからな……」
咲耶は叡正の顔を見て言った。
「まぁ、あれだけのことをしたんだ……。極刑ではないにしろ重い罰は下るだろうが……」
「そうか……」
叡正は目を伏せる。
大文字屋の店の裏手で男の死体が発見されてから、さまざまなことが明らかになった。
死んでいた男が大文字屋の息子に近づき花火を売ったこと、息子の罪を利用して大文字屋を脅したこと、そのすべてが明らかになると大文字屋への同情的な意見も多く聞こえるようになった。
大文字屋の息子が起こした火事についても、男によって仕組まれていた可能性が高くなり、罪には問われないことになった。
「それにしても、あれだけの規模の火事で、死人が出なかったのは奇跡だな……」
咲耶はそう言うと、少しだけ微笑んだ。
「そうだな……」
(や組の火消しとあの子のおかげだな……)
叡正は子どもの顔を思い浮かべながら微笑んだ。
「あ、そういえば! 恭一郎さんの汚名も晴れてよかったな!」
大文字屋の息子が自首した時点で、恭一郎の汚名は晴れていたが、子どもを庇って火盗で何も話さなかったことが話題となると、今になって恭一郎の死を惜しむ声が多く上がっていた。
「ああ、そうだな」
咲耶は目を閉じて微笑んだ。
(すべては解決した……。ただ……)
叡正は咲耶を見つめる。
(咲耶と信は何をどこまで知っていたんだ……?)
叡正を火消しとともに両国橋に向かわせたのは信だった。
信がひとりで何か考えて動いていたとは、叡正には思えなかった。
(咲耶は一体……?)
聞きたいことは多かったが、踏み込んではいけないような気もしていた。
咲耶は叡正の視線を感じたのか、叡正を見ると少し困ったように微笑んだ。
(話せないってことなんだろうな……)
叡正は咲耶の表情を見て、ゆっくりと息を吐く。
そのとき、バタバタと廊下を走る音が聞こえ、勢いよく襖が開かれた。
叡正は目を丸くして振り返る。
息を乱して走ってきたのは緑だった。
「どうした? 緑」
咲耶が緑に向かって首を傾げる。
「た、大変です……! や、や組の組頭が来ました!!」
「ああ、そうなのか。私を呼んでいるのか?」
咲耶はなんでもないような口調で聞いた。
「よ、呼んでます! ……で、でも、行かない方がいいですよ!」
緑は泣きそうな顔で咲耶を見ていた。
叡正は緑の様子を見て首を傾げる。
(なんでそんなに取り乱してるんだ……?)
「まぁ、大丈夫だろ。ちょっと行ってくる」
咲耶は立ち上がって襖に向かうと、緑の頭をなでて部屋を出ていった。
緑が心配そうに、咲耶の後ろ姿を見つめている。
「なぁ、どうしてそんなに心配してるんだ?」
叡正は緑に向かって聞いた。
「知らないんですか!? 花魁はこのあいだ、あの組頭を殴ってるんですよ!」
「は!?」
叡正は目を丸くする。
(殴った?? どうして??)
「きっと報復しに来たんですよ……! 叡正様、何してるんですか!? 間夫として花魁を守ってください! ほら、さっさと立って!!」
緑は叡正の腕を掴むと、強引に立たせて引きずっていく。
「え!? そんなわけないと思うが……」
叡正が引っ張られて階段を下りていくと、玉屋の入口で咲耶と新助が向かい合っているのが見えた。
階段を下りると、叡正は緑に突き飛ばされて咲耶の横に並ぶ。
新助が叡正に気づいて視線を向ける。
「おまえ、今日はここにいたのか」
新助が目を丸くする。
「ああ……、ちょっと咲耶太夫に話しがあって……」
叡正は苦笑した。
新助は少し不思議そうな顔をしたが、すぐ咲耶に視線を戻した。
「今日はおまえに礼を言いに来たんだ」
新助は咲耶に向かって頭を下げた。
「感謝している。あのとき動かなかったら、俺はきっと後悔してた」
新助は頭を下げたまま、なかなか顔を上げなかった。
しばらく新助を見つめていた咲耶は、ゆっくりと新助に近づくと首を傾けて新助の顔をのぞき込んだ。
顔の近さに驚いたのか、新助が目を丸くして頭を上げる。
咲耶は楽しそうに笑った。
「ちょっとはマシな顔になったみたいだな」
新助は目を見開いた後、静かに微笑んだ。
「ああ、ありがとな……」
二人の様子を見て、叡正は胸をなでおろす。
(俺がここにいる必要はなさそうだな……)
叡正はさりげなく後ろに下がろうとしたとき、新助が口を開いた。
「もし俺が、江戸で一番の火消しになったら……」
新助は真っすぐに咲耶を見た。
「そのときは、俺の嫁になってくれねぇか?」
一瞬、時が止まったように玉屋の中が静かになった。
その後、密かに話しを聞いていた遊女たちから黄色い悲鳴が上がる。
叡正も目を丸くして、咲耶を見た。
斜め後ろからでは咲耶の表情はわからなかったが、微笑んでるようにも見える。
(とりあえず、俺は下がって……)
叡正がそう思い、静かに下がろうとしたとき、咲耶が口を開いた。
「それは難しいな」
咲耶はそう言うと、叡正の腕をとって引き寄せた。
(…………え?)
叡正は、咲耶と向かいように立たされた。
咲耶の顔が視界に入ったと思った瞬間、叡正の首に咲耶の両腕が絡む。
(え……!?)
咲耶の髪が揺れ、花のような香りした。
咲耶の体が密着し、咲耶の息が叡正の首筋にかかる。
「愛する男がいるからな」
咲耶はそう言うと、絡めた腕に力を込めて叡正を抱きしめた。
咲耶は叡正の肩越しに新助を見つめる。
叡正は火がついたように体が熱くなるのを感じた。
「……な!?」
叡正が思わず声を出しそうになると、咲耶がシッと耳元で呟く。
耳にかかった息に、叡正の体がゾクリと震える。
叡正は体を硬くして、ただ立ち尽くした。
咲耶と叡正を見て、新助が笑う。
「ああ、わかってるよ。要は、惚れさせればいいんだろう? 俺はいつか江戸一の男になる。そのときまた考えてくれ」
新助はそう言うと微笑んだ。
咲耶はわずかに目を見開いた後、そっと目を閉じた。
「ああ、わかった」
新助はその言葉を聞くと、満足したように身を翻したが何かを思い出したように立ち止まった。
「あ、そうだ」
新助は二人に背中を向けたまま言った。
「訂正するわ……。あいつさ……」
新助は少しだけ振り返って微笑む。
「女の趣味だけは悪くなかった」
新助はそれだけ言うと、玉屋を後にした。
新助が去ったのを確認すると、咲耶はそっと叡正から体を離した。
叡正は硬直したまま動かない。
「突然悪かったな。でも、これでおまえの噂も多少良くなるはずだ」
咲耶は微笑むと、叡正の背中を軽く叩いた。
「気をつけて帰れよ」
咲耶はそう言うと、叡正を残して二階に上がっていった。
ひとりになると叡正はその場にしゃがみ込んだ。
全身が沸騰したように熱く、鼓動がすぐ耳元で響いているようだった。
「嘘だろ……?」
叡正が絞り出すように呟く。
一部始終を見ていた緑はそっとため息をついた。
「花魁は、罪作りですね……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
咲耶が部屋に入ると、すぐに弥吉の声が響いた。
弥吉が襖を開けて、部屋に入る。
「今日の手紙はありますか?」
弥吉が咲耶に聞いた。
「ああ、鏡台のところにあるから持っていってもらえるか?」
「わかりました」
弥吉はそう言うと、鏡台の上にある手紙を懐にしまった。
「あ、そうだ。咲耶太夫、火消しが好きって言ってましたよね!」
弥吉が弾んだ声で言った。
咲耶は苦笑する。
「いや、私は別に……」
「この姿絵、すごい売れてるらしくて……よかったらもらってください」
弥吉はそう言うと、懐から折りたたまれた姿絵を取り出して咲耶に渡した。
「いや、私は……」
咲耶はそう口にしたが、笑顔の弥吉を見ていると断り切れず、姿絵を受け取るとそっと開いた。
咲耶は目を見開く。
「いい絵でしょう?」
弥吉は微笑む。
咲耶も姿絵を見ながら微笑んだ。
「ああ、悪くないな……」
姿絵には二人の男が描かれていた。
両国橋と思われる橋の上で、二人の男が火に立ち向かっていた。
二人の背中には同じように桜吹雪と勇ましい龍の刺青が入っており、それはまるで双頭の龍のようだった。
姿絵には、や組の文字とともにこう書かれていた。
『江戸の花』
「ああ、いい絵だ」
咲耶はそう言うと、姿絵の二人をなでてそっと微笑んだ。