「お頭、まだいたんですか?」
 火消しの男は、土手に座っている新助を見て声をかけた。
 火が消えてしばらく川沿いにいた観衆もしだいに減っていき、今はもう誰もいなくなっていた。
「ああ……、ちょっとな……」
 新助は火消しの男を見ると、少しだけ微笑んだ。
「あいつはもう帰ったのか?」

(あいつ? ああ……あの子か)
「あ、はい。叡正さんが送ってくれるって言ってたんで、もう長屋に着いてる頃だと思いますよ」
 火消しの男は、子どもの顔を思い浮かべながら言った。
「叡正さんが言ってましたけど、あの子すごい活躍だったみたいですよ。動けない怪我人を守るために、火も消そうとしてたって」
「そりゃ、すげぇな! あいつ、俺より火消しに向いてるんじゃねぇか?」
 新助は楽しそうに笑っていたが、火消しの男は新助の顔を見て首を傾げた。
(お頭らしくない発言だな……)

 火消しの男は、少し心配になり新助の横に腰を下ろす。
「何を考えてたんですか?」
 火消しの男は新助を見た。
 新助は川を見つめながら、静かに口を開く。
「恭一がいたらって……考えてた……」
 新助の言葉に、火消しの男は目を見開いた。

「あいつがいたら、もっとうまく火が消せたんじゃねぇかって……。俺みたいに町の人間を危険な目に遭わすこともなく、もっと早くこの状況をどうにかできたんじゃねぇかって思って……」
 火消しの男は言葉を失った。
(これだけのことを成し遂げて、なんで自信を失くしてるんだ……この人は……)
 新助の言葉は、混乱したあの状況の中で観衆を落ち着かせただけでなく、逃げるだけだった人々の心を動かした。
(どれだけ自分がすごいことをしたのかわかってないのか……?)

 火消しの男は、暗い表情の新助の横顔を見ながらため息をついた。
「いいですか、お頭……。たとえ恭一郎さんがいたとしても、あの状況で今回より早く火を消すのなんて不可能です。恭一郎さんは確かにすごいですけど、今回は長屋を崩して消火するいつもの火事とはまったく違いました。今回の火事は大勢の人の手が必要な火事だったんです。むしろお頭がいたから消せた火事だったと俺は思います」
 新助は少しだけ火消しの男の顔を見ると、悲しげに笑った。
「どうだろうな……」
 新助はまた川に目を向けた。

(なんでこんなに暗いんだ、お頭は……)
 火消しの男は自分の顔が引きつるのを感じた。
「ちょ……本当にどうしちゃったんですか、お頭! 元気出してくださいよ! というか自信持ってくださいよ! これだけのことを成し遂げたのに!」
「成し遂げたって……、俺は何もしてねぇよ……。みんなが動いてくれたから火が消せただけだ」
 新助は火消しの男を見て苦笑する。

(何言ってんだ!? この人は!?)
 火消しの男は呆れて言葉が出なかった。
「今のお頭を恭一郎さんが見たら泣きますよ……。いや、あの人は泣かないか……気持ち悪いって引くか、殴るかしてると思いますよ……」

 火消しの男の言葉に、新助はぼんやりと視線を上げて空を見た。
「ああ……、そうだな。確かにさっき殴られた……」
「はぁ!?」
 火消しの男は目を丸くする。
(なんだ、うちのお頭は本当におかしくなったのか!?)
「し、しっかりしてくださいよ! そんなんじゃ、お頭を組頭に推した恭一郎さんが可哀そうですよ!」

「……恭一が、俺を?」
 新助は火消しの男の顔を見た。
「そうですよ! お頭か恭一郎さんかどちらかにって話しが出たときに、数で言えば恭一郎さんを推す声が多かったんです。それを、恭一郎さんが蹴ってお頭を組頭にしたんですから」

 新助は目を伏せて苦笑した。
「俺には向いてねぇのにな……」
「はぁ!?」
 火消しの男は、思わず頭を抱えた。
「向いてると思ったから、お頭を推したんでしょうが! 恭一郎さんが謙遜とか気遣いで組頭を譲るわけないでしょう! 火を消すことにすべてをかけてるような人なんですから! それはお頭が一番よくわかってるはずでしょう!」
「ああ、それは確かに……」

「まぁ、恭一郎さんはあんまり自分の考えを話す方じゃなかったから、何を考えてたのか正確にはわかりませんけど、誰よりお頭のことを信頼してたのはみんな知ってます。それにあの恭一郎さんが向いてない人に組頭を任せるなんて間違いするはずないじゃないですか」
 新助の目がわずかに見開かれる。
「ああ、そうだな……。間違いにするわけにはいかねぇよな……」
 新助はそう言うと、顔を上げてしばらく空を見ていた。

「お頭、そろそろ帰りましょう。夜が明けちゃいますよ」
 火消しの男は、新助にそう言うと立ち上がった。
「そうだな……」
 新助もゆっくりと立ち上がる。
「帰るか……」
 二人は、誰もいなくなった静かな川辺を歩いた。
 東の空からは、もう暖かな日差しが差し込み始めていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「遅いよ!! どこほっつき歩いてたの!?」
 長屋に帰ってきた新助は、戸口で子どもに怒鳴られてたじろいだ。
「いや、悪ぃ悪ぃ……。ちょっと川辺でのんびりしてたら朝になっちまって……」
「どれだけボーッとしてたらこんな時間になるんだよ! ずっと待ってたのに!!」
(すげぇ、怒ってる……)
 新助は苦笑した。
「そ、そんなことより、おまえすごかったんだってな! 怪我人を守ったんだって?」
 新助の言葉に、子どもは頬を赤らめ照れたように視線をそらした。
「ま、守ってたなんてカッコいいことじゃないよ。自分が後悔したくなかっただけ!」
 新助は目を丸くする。
「後悔って、なんかおまえ大人だな……」
「馬鹿にしてんの?」
 子どもがジトッとした目で新助を見る。
「いやいや、馬鹿になんてしてねぇよ!」
 新助が慌てて首を振る。
「まぁ、大人で当然! 僕には目標があるからね」
 子どもは腰に手を当てて、胸を張った。

「目標?」
 新助はしゃがみ込んで、子どもの顔を見た。
「そう! 僕の目標はね、龍なんだ!」
「は……??」
 新助は言葉を失う。
(りゅう……? 龍だよな……?)

「ふふ、驚かないでよ? 実はね、火事のとき僕を助けてくれたのは龍なんだ!」
 子どもの言葉に、新助は目を見開く。
 火事の現場で子どもを助けたのは恭一郎だったが、そのときに亡くなったこともあり、子どもには恭一郎の存在は話していなかった。
「おまえ……火事のときのこと覚えてるのか……?」
「うん、ちょっとだけね! それでね、そのときに僕を助けてくれたのが実は龍だったんだよ」
 子どもはもう一度言った。
「龍……?」
「そう! 傷だらけのね」
「傷だらけ……?」
 新助は、最後に見た恭一郎の背中を思い出した。
 鞭で打たれたのか、背中の龍の刺青の上には生々しい傷跡が残っていた。

「目を開けたときにね、目の前に龍がいたんだ! いっぱい傷があってすごく痛そうだったんだけど、僕が手を伸ばしたら言ったんだよ! 『もう大丈夫だ』って! 僕より絶対痛くて苦しかったはずなのに、その声が力強くて優しくて……。本当にカッコよかったんだ!」
 新助は目を見開いた。
「僕の憧れ。だから、助けてもらった僕もあんなふうにカッコいい存在に……」
 子どもの言葉はそこで不自然に途切れた。

 子どもが手を伸ばして新助の頬に触れる。
「……おじさん、どうして泣いてるの?」

 新助の頬を涙がつたっていた。
「は……? 泣いてねぇよ……。これはあれだ、鼻水だ」
 新助は手で涙を拭うと笑ったが、涙は後から後から溢れ出した。
「明け方はまだ冷えるからな、風邪でもひいたかな」
 新助は上を向いて笑った。
「おじさん……?」
「泣くのは最後だって、俺もあのとき誓ったからな……」
 新助は上を向いたまま、小さな声で呟いた。

「ああ、龍の話だったな……。ホント、カッコいいな……。俺も……そんな存在になりてぇよ……」
 新助の言葉に、子どもは微笑んだ。
「おじさんは、もう十分カッコいいよ」
「でも、龍ほどじゃねぇんだろ?」
「そりゃあ、龍と比べたらまだまだだよ」
 新助は笑った。
「じゃあ、頑張らなねぇとな」
 新助は涙を拭った。

 新助の脳裏に、あの日最期に見た恭一郎の姿が浮かぶ。
『おまえが俺たちの夢を叶えてくれ』

(ああ、そうだったな……)

『俺はいつか、江戸を火事が起こっても不安にならない町にするんだ』
 源次郎のいなくなった長屋で、そう言った恭一郎の横顔が鮮やかに蘇る。

(ああ、俺がいつか必ず……!)
「だから、俺がそっちに行く日まで、文句言わずに黙って見てろよ……、恭一」

 新助はそう小さく呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
 長屋には眩しいほどの朝日が差し込んでいた。