柚葉は斜向かいの家に住んでいて、昔はよく一緒に遊んでいた。柚葉のピアノ教室の帰りと、僕のサッカークラブの帰りの時間が同じになることが週に二回あって、河川敷で夕日を眺めながら歩いたことを思い出す。
ピアノの音色は、柚葉の家の前を通れば開けた窓から聴こえていた。丁寧に、丁寧に音を奏でる。自分の家までの数メートルを、急がずに立ち止まって聴き入っていると、いつの間にか音が止んで窓から顔を見せた柚葉に呼び止められて、招かれた部屋で少しだけ、ピアノを弾いた。
簡単な曲ならまだ指先が覚えていると思う。調子に乗った右手と、追いつけない左手。ちぐはぐな僕の音を、柚葉は嬉しそうに聴いていた。
上着を羽織り、スマホと財布だけを持って家を出る。自転車は使わない。姉に言われた通りにホームセンターへ向かった。白と青の絵の具を二本ずつ。絵の具を買うのなんて、もうこれっきりかもしれない。文具屋で買っても大差なかったかもしれない値段を確かめるべく寄り道をしようとして、止めた。青に浸されていた空が、夕日の色を含んで伸びていく。
軽いビニール袋を揺らしながら、河川敷への階段を上った。風を遮るものはなくて、足元から舞い上がる冷たい空気が服の隙間から肌を撫でていく。エオルス音がきこえた。身の竦むような音。でも遠くからきこえていた。
五分も歩けば、この辺りで一番大きな病院を横切る。等間隔に並べられた窓のどこかが柚葉の病室。立ち止まって、下から三段、右から十二番目の窓を見上げた。高くて、遠い。ここから名前を呼んでも、たぶん、届かない。
柚葉が窓辺に立って空を眺めて、ふと視線を下げたら僕を見つけた、なんて偶然は都合良く起きない。スマホを取り出して、夕日の写真を撮る。柚葉に写真だけを送りつけて、ポケットに仕舞う。最後にやり取りをした日付は夏だった。病室の窓から見えた花火の写真。返事はしていなかった。
しばらくすると、ポケットの中のスマホが震えた。姉や家族からの連絡と疑わず、相手の名前は見ずに電話を取る。まさか、聞こえるはずのない声を聞くことになるとは思わずに。
『こうめい』
「…………は?」
『え?⠀もしもし、晃明?』
「柚葉」
『うん。久しぶり』
空、綺麗だね。
耳に当てていたスマホの画面を急いで確認する。相手は姉ではなくて、柚葉だった。だって、電話なんて、急にかけてくると思わない。
「病室、電話できんの」
やっとの思いで絞り出した声は掠れていたけれど、きちんと電波に乗って柚葉に届いたようだった。向こうから、ほとんどタイムラグなく返答がある。
『電話、してもいい場所にいるから大丈夫だよ』
「外?」
『まさか。病棟のデイルーム』
「僕のこと、見える?」
数秒の間があって、見えるよ。紺のジャケット着てる。と柚葉が言うから、視線を落として自分の格好を見る。紺のジャケット、着てるよ。いるんだな、そこに。どこにそのデイルームがあるのか知らないけれど、僕を見つけてくれた。