そして、君を想うときには。






幼いころの写真を散りばめたスクラップブック。クローゼットの棚上を漁っていたら、探し物とは別のそれが頭の上に降ってきた。

褪せた写真、黄ばんだ縁、古くなった本独特の匂い。

踏み台に腰掛けてアルバムを捲る。どのページにも、僕ともう一人。あどけなく笑う女の子が写っていた。僕が拗ねている日も泣いている日も、カメラに気付いていない日も、とびきりの笑顔を向けた日も、隣でいつも笑っていた。


「晃明、見つけたの?⠀絵の具セット」
「まだ。けどそれっぽい箱は見えてる」
「中見なきゃわからないんだから早くして……って、うわ、懐かしい。ちょっとそれ見せてよ」


開けっ放しのドアから顔を見せた姉が、僕の手元に目を留めて部屋に入ってくる。アルバムを差し出すと、壊れ物を包むように優しく受け止めて、姉は椅子を引いた。机にアルバムを広げ、一ページ、また一ページと丁寧に捲っていく。そんな姉を横目に、もう一度踏み台に乗り、今度こそ目的の箱に手を伸ばす。

蓋が閉じ切っていなかったようで、指先を引っ掛けた拍子にバラバラと絵の具のチューブが散らばる。パレットだけは胸を抱きとめて床に降り、ばらまいたチューブを集める。白と、青色の絵の具はほとんど残っていない。濃くなってしまったら、思う色にならなかったら、一先ず白を混ぜていたからだ。どんな絵にも空を紛れさせるほど、青が好きだったから、これも中身は残っていない。


「足りそう?」
「いや、白と青は買わないと足りない」
「そう。文具屋の方が近いけど、ホームセンターの方が安いよ」
「わかった」


絵の具セットなら昔使っていた物があるかもなんて言い出さなければ、もっといえば文化祭のポップ作りのグループにならなければ、こんなことしなくて済んだのに。面倒だなとは思いながら、一旦絵の具を箱に収める。

母の字で一本一本に名前が書かれていた。そのうちのひとつを手に取って、一瞬、瞬きを忘れた。早瀬晃明、ではなくて、阿久津柚葉と書かれた橙色の絵の具を持って止まっていると、怪訝そうに姉が手元を覗いた。


「それ、柚ちゃんの名前が書いてあるね。借りてたの?」
「一本しかないし、取り違えたんだろうな」
「アルバムも柚ちゃんと写っている写真ばかりだし、今日はそういう日なのかもね」
「なんだよ、そういう日って」
「絵の具、買いに行くならK病院の前を通るでしょ?⠀川沿いから行けば病室側見えるし、柚ちゃん、いるかもね」


312号室。川沿いを通る日にはいつも、その部屋の窓を見上げる。柚葉の姿を見かけることはほぼないけれど、姉の言う『そういう日』なら、もしかしたら。


「あー、なんか、お母さんの字を見てたら懐かしくなっちゃった」
「泣くなよ」
「泣かないよ。お母さん、私たちのこと大好きだったんだなあって嬉しくなっただけ。私も自分のアルバム見返そう」


ちゃんとしときなよって返されたアルバムは、クローゼットの棚には戻さずに机上に並べた。背表紙には『晃明へ』と書かれている。

アルバムなのに、手紙のような書き方をする。母は、このスクラップブックを作ったころには、もうほとんど身体が動かなかったらしい。

僕とともに、このアルバムの中で微笑む彼女──柚葉も、母のいた病院で、この数年を過ごしている。



柚葉は斜向かいの家に住んでいて、昔はよく一緒に遊んでいた。柚葉のピアノ教室の帰りと、僕のサッカークラブの帰りの時間が同じになることが週に二回あって、河川敷で夕日を眺めながら歩いたことを思い出す。

ピアノの音色は、柚葉の家の前を通れば開けた窓から聴こえていた。丁寧に、丁寧に音を奏でる。自分の家までの数メートルを、急がずに立ち止まって聴き入っていると、いつの間にか音が止んで窓から顔を見せた柚葉に呼び止められて、招かれた部屋で少しだけ、ピアノを弾いた。

簡単な曲ならまだ指先が覚えていると思う。調子に乗った右手と、追いつけない左手。ちぐはぐな僕の音を、柚葉は嬉しそうに聴いていた。


上着を羽織り、スマホと財布だけを持って家を出る。自転車は使わない。姉に言われた通りにホームセンターへ向かった。白と青の絵の具を二本ずつ。絵の具を買うのなんて、もうこれっきりかもしれない。文具屋で買っても大差なかったかもしれない値段を確かめるべく寄り道をしようとして、止めた。青に浸されていた空が、夕日の色を含んで伸びていく。


軽いビニール袋を揺らしながら、河川敷への階段を上った。風を遮るものはなくて、足元から舞い上がる冷たい空気が服の隙間から肌を撫でていく。エオルス音がきこえた。身の竦むような音。でも遠くからきこえていた。

五分も歩けば、この辺りで一番大きな病院を横切る。等間隔に並べられた窓のどこかが柚葉の病室。立ち止まって、下から三段、右から十二番目の窓を見上げた。高くて、遠い。ここから名前を呼んでも、たぶん、届かない。

柚葉が窓辺に立って空を眺めて、ふと視線を下げたら僕を見つけた、なんて偶然は都合良く起きない。スマホを取り出して、夕日の写真を撮る。柚葉に写真だけを送りつけて、ポケットに仕舞う。最後にやり取りをした日付は夏だった。病室の窓から見えた花火の写真。返事はしていなかった。


しばらくすると、ポケットの中のスマホが震えた。姉や家族からの連絡と疑わず、相手の名前は見ずに電話を取る。まさか、聞こえるはずのない声を聞くことになるとは思わずに。


『こうめい』
「…………は?」
『え?⠀もしもし、晃明?』
「柚葉」
『うん。久しぶり』


空、綺麗だね。


耳に当てていたスマホの画面を急いで確認する。相手は姉ではなくて、柚葉だった。だって、電話なんて、急にかけてくると思わない。


「病室、電話できんの」


やっとの思いで絞り出した声は掠れていたけれど、きちんと電波に乗って柚葉に届いたようだった。向こうから、ほとんどタイムラグなく返答がある。


『電話、してもいい場所にいるから大丈夫だよ』
「外?」
『まさか。病棟のデイルーム』
「僕のこと、見える?」


数秒の間があって、見えるよ。紺のジャケット着てる。と柚葉が言うから、視線を落として自分の格好を見る。紺のジャケット、着てるよ。いるんだな、そこに。どこにそのデイルームがあるのか知らないけれど、僕を見つけてくれた。



「今日、良いのか、具合」
『どうしてそんなにカタコト?⠀緊張してる?』
「いいから」
『昨日よりは良くて、一昨日よりは良くない、かな』
「……昨日も一昨日も様子わかんねえよ」


柚葉がどんな毎日を過ごしていて、病状はどうだとか、治療の内容だとか、何も知らない。今日何をしていたのか、僕の送った写真に何を思って、どうして電話をかけてきたのか、全然わからない。

時折、深く息をする音がきこえた。ため息、ではないだろう。疲れを滲ませていることが通話越しにもわかる。あまり長々と話すのは悪いだろうなと思うのに、電話を切るきっかけが見つからない。


「絵の具を見つけたんだ」
『何色?』


唐突に切り出したのに、何の話?とかではなくて何色?と問えるところが柚葉らしい。突拍子もないことをしたり言うのはお互いの専売特許のようなもので、その返しにも慣れている。柚葉の方が随分上手だが。


「橙色。絵の具セット、今度使うんだけど。あ、学校の、文化祭の準備で。それで昔のやつを探していて。橙色の絵の具に柚葉の名前が書いてた」
『六年生のとき、席となりだったもんね。わたしの絵の具セットに入ってるかも、返さなきゃ』
「返さなくていいって。今回使ったら多分全部捨てるし」
『借りたもの、自分で返せるなら返したいんだ。あ、そうだ、この間ね家から持ってきてもらう本を探すのに本棚の写真送ってもらったら、あかねちゃんから借りてた辞書を見つけて……』
「何言ってんだよ、柚葉」


遮るつもりはなかった。変わらない口調で何でもないことのように話すけれど、借りたものは返すという当たり前のことの裏側に、別の意味が見て取れて、口を出さずにはいられなかった。

絵の具も、僕の姉に借りた辞書も、どうだっていいだろうに。中学校に上がったとき、姉が辞書をお下がりでくれると言ったけれど、名前が書いてある上に草臥れた辞書が嫌で断って新しいものを買ってもらった。そしたら、その姉の辞書は柚葉の手に渡っていた。あんたと違ってゆずちゃんはお下がりとか気にしないし文句も言わないのって棘のある言い方をされたことを覚えている。

そのまま捨てたって構いやしない。どうせ返ってきたところで、捨てるだけだ。でもたぶん、持ち主が僕ら姉弟だとか、物がどうだとか、そういうことではなかった。発すれば、耳に届くから。言いたいことは言えるのに、言葉以外で伝える術を持たない。今すぐ顔を突き合わせられたらいいのに、そうすることができない壁が僕たちを隔てている。


『ごめんね、晃明』
「謝るなよ、謝らなくていいから」
『うん、ごめん。もう切るね』
「柚葉、」


三階の部屋を端から端までじっと見遣る。反射でろくに見えやしないけれど、他の部屋よりも広い窓に目を凝らす。糸よりも細い繋がりは引き止める間もなく途絶えて、柚葉の姿も見つけられないまま、明かりの灯り出した街の向こうの橙の空に追いすがった。






あの日から何度か柚葉に写真を送った。言葉では何と言っていいかわからなくて、完成した文化祭のポスター。道端に寝そべる猫。柚葉に送ると言ったら嬉々として映り込んできた姉。朝早く目が覚めたとき寝ぼけて撮った朝日、のつもりが窓に反射した腫れぼったい顔面の自分。

柚葉は毎回律儀に返信を寄越した。僕はそれに写真で応えるから、会話にはならなくて、でもそれが不思議と日々のルーティンになり始めたころ。


「ゆずちゃん、帰ってきてるって」
「……は?」
「だから家に帰ってるって。最近連絡取り合ってるんでしょ?⠀何で知らないの」


友人達と駄弁って日が沈みきってから帰宅した僕を見つけ、風呂上がりらしき姉に呼び止められた。ゆずちゃんに会ってたの?って。何馬鹿言ってんだって嘲たら、至極真面目な顔付きで落とされた爆弾。

頭の中で何度考えても、事実が追いついて来ない。いやだって、柚葉はいつも通りだったし。新発売のお菓子の写真を送ったら、動物の形が入っていたらラッキーって端っこに書いてあるよ、出たら教えてねとだけ返信があった。帰ってくるだなんて、今日も昨日もその前も一言もなかった。


「ちょ、行ってくる!」
「待て待て待て、夕飯時なのに迷惑でしょうが」
「だって聞いてないしいつ戻るかもわからないだろ」
「せめて連絡してから行きな。家族で過ごすのも久しぶりなんだから邪魔しちゃ駄目だよ」


勢いで飛び出しそうになった僕の鞄の紐を引っ張って止める姉に諭され一度はその場に留まるけれど、でもやっぱり居ても立ってもいられなくて、連絡は連絡でも柚葉に電話をかけた。

電話も一緒だとか急にかけたら迷惑とぎゃあぎゃあうるさい姉の手をすり抜けて、玄関の外へ。壁に背中を預けてずりずりとへたり込む。コール音が続いて、家族と過ごす時間にスマホは持ち込んでいないんだろうなと気付き耳元から離したと同時に通話中に切り替わった。


『あ、良かった切れる前で。どうしたの?』
「帰ってきてるなら言えよ」
『ええ……ごめん、びっくりさせたくて言わなかった』
「そんなサプライズいらないから決まった時点で伝えてほしい」
『変わるかもしれなかったから言えなくて。ごめんね、今会えるの?』


一瞬、電話口に仄暗さがちらついた気がしたけれど、その後の発言に全て持っていかれた。今、会えるの?会えるが、会いに行くが。


「家に行っていい?」
『うん、大丈夫。あかねちゃんもいるなら一緒に……』
「一人で行く、すぐ行くから待ってて」


言い切って電話を切り、玄関ドアを開ける。廊下に突っ立ってアイスをかじる姉に、柚葉のところに行ってくるとだけ伝えてまたすぐに飛び出した。道を挟んで斜向かい。何歩で届くだろうか。先を急いて歩数を数える余裕なんてなかった。

柚葉の家のインターホンを押すと、鳴り終わる前に扉が開いた。


「晃明だ」
「ち」
「ち?」
「ちっさ、かったっけ。柚葉、そんなに」


出迎えた柚葉の姿が余りにも、以前の様と変わらなくて。少し背は伸びたし顔付きも多少、と思うが後者は髪型のせいかもしれない。胸まであったはずの髪は短く切り揃えられていた。


「すっごい失礼。だけど寒いから先に上がって。それからお説教」
「ああ、うん……いや、説教はいいや。お邪魔します」


付け合せは結構ですみたいなノリで断ると、何それと笑った。
そうだ、この笑顔。写真の顔と変わらない。鋭い雌雄眼が笑うと綻んで柔らかい目元とすぐに赤みを帯びる頬が可愛らしくて、好きだった。


「いつ戻るの、病院」
「明日」
「明日って。知らなかったら会えないままだったかもしれないだろ。何で言わなかったんだよ」
「だから帰れるかわからなかったんだって。夜連絡するつもりだったよ、明日の朝に顔だけでも見れないかって」
「柚葉はそれで良かったのかよ」


姉も何も知らなくて柚葉の帰省を知らないままで、たとえば本当に夜に連絡があって朝に顔だけを合わせたとして。それでさようなら、また今度となって、それで満足だったのかと、静かにじっと見つめて伝える。



「晃明がどう思うか、わからなくて。晃明の毎日の中にわたしはいないでしょう。最近よく連絡はくれるけど、その意図も、よくわからない。わたしは写真も、今会えたことも嬉しいよ。でも、もう随分、晃明の日常から外れているわたしが急に割り込むのは悪い気がして」


だから言えなかった、と顔を俯ける柚葉に、特大のため息が零れそうになるのを何とか飲み込んだ。文句はつらつらと出てくる。ただ、僕のことがよくわからない、という言い分が理解できないわけではなかった。

これまでろくに連絡をしていなかったのに、突然写真がほぼ毎日届くようになって、でも言葉でのやり取りは少ないままだなんて、きっと不安にさせていたのだろう。申し訳なさの半分を、それでも嬉しいと言ってくれた喜びに分けながら、緩みそうになる口元を引き締める。


「柚葉」


とん、と許可なく頭に手を置く。陽の下に立つと光を含んで瞬くように輝く髪を指先に絡めるように撫でると、僕を見上げて突き出した喉がこくりと上下した。頬が赤みを帯びるのは、笑ったときだけではない。わかりやすくて、愛らしい。こうめい、と呼ばれた名前をずっと耳に括り付けていられたらいいのに。そんなことは叶わないから、もう一度呼んでと不揃いな双眸を覗いた。


玄関に突っ立っていつまでも立ち話をする僕たちを、柚葉の母親が呼びに来た。外で会えば挨拶は交わすけれど、柚葉のことを尋ねたり聞かされることもなかったから、面と向かって話すのは緊張して、何をきかれて何と答えたのかすら覚えていない。


夕飯もご馳走になって、ソファで寛ぎながら話をしている途中、突然立ち上がったかと思うと、今夜僕を家に泊めてもいい?と何の躊躇もなく両親に伝えた柚葉の隣で呆気に取られ、数秒出遅れた後に自分からもお願いしますと頭を下げた。家族で過ごす時間に割って入れるような間柄でないことは承知している。たかが幼馴染み。それに男女。断られるだろうかと身構えていると、晃明くんならと落ち着いた声が降ってきた。

そんなつもりはなかったのに、というか夕飯だって。柚葉の家で食べると一言連絡は入れたけれど、その後の返事を見ていない。明日、学校もあるし、課題はなんだっけ。数学、わからなかったから復習しておこうと思っていたんだよな、とか。そんなことは、手放しで喜ぶ柚葉には適わなかった。ああいいや、嬉しそうだし、僕も本当は嬉しいし、と思考を放棄した頭で、お礼だけは伝えねばともう一度頭を下げた。


「あ、ありがとう、ございます」
「やった、晃明一度家に帰る?⠀あかねちゃんにも会えるかな?」
「帰る、し、茜も呼んで来るからそんなにはしゃぐな」


くるくると回り出しそうな柚葉の肩を掴む。細くて、小さい。触れた先から壊れてしまいそうなほど、弱い生き物だと感じさせられる。元々小柄だけれど、一層細くなった。

二階に上がった先の一室に足を踏み入れる。物が少ない柚葉の部屋は、綺麗に掃除されていた。小さな天窓には深い藍のウィンドウフィルムが貼られていて、金銀の星が散らばっている。


部屋の端には、ベルベッドの布がかけられた大きな何か。目隠しのように全面が布で覆われたそれは、幼い日、隣に並んだ弾いたアップライトピアノ。

窓の外を見た。もう日は落ちきっていて、ピアノの音が外に漏れても許される時間は過ぎている。でも確かこの部屋、防音だったよなと思い出す。


「何か弾いて、柚葉」
「え……」
「何でもいいから」
「何でもって、言われても」


困惑気な表情で、けれど絶対に嫌だという意思までは無いようだった。あれほど嫌がっていたのに、二度とピアノには触れないと言い放った唇を今はきゅっとかみ締めて、濃いワインレッドの布を取り払う。

白い指先が黒鍵を沈めて、躊躇いがちで繊細な音が部屋を満たした。たったの一音。そこで止まって、柚葉は深く息を吐いていた。

やがてしなやかに泳ぎ始めた指は音を繋いでいく。譜面は何もなくて、どこかで聴いたことがあるような、思い出の底で覚えのある曲だった。

時々半音どこかへ飛んでいった。でも、綺麗な音色だった。
今更、ピアノを弾いてみろと言われても、僕はきっと右手の数本がばたばたと鍵盤の上を跳ね回るだけだろう。それでも。


「柚葉の音なら、聞き分けられる」


遠くにいても、柚葉の音だとわかる、きっと。音に色が見えるような、そんな能力はないし、この耳が特別だなんて言わないけれど、柚葉の音なら決して間違えたくない。たとえこの自信が、明日には崩れ去るような脆さでいたとしても。


「そっか」
「嫌?」
「嫌とかじゃないけど……でも、わたしもう、昔みたいに弾けないよ」
「知ってる、でも今すごく楽しそうだった」


過去の感覚だけではないと思う。嬉しそうだった、楽しそうだった。僕にピアノを教えるその横で笑っていた昔の姿と変わらずに。

ぽた、と透明な雫が落ちていく。白鍵の隙間に消えたそれを見間違いかと疑うけれど、すぐに追いかける次の雫が今度は柚葉の手の甲に落ちた。


「できていたこと、たくさん、できなくなった」
「うん」
「余命宣告、さ、あるなら、するなら、本当にその通りになればいいのにって思ったの。新しい治療法だって何度試しても病気、なくならなくて。いのちのおわりが、先送りになっていくだけで。したいことももうほとんどないのに。自分のためじゃなくて、人のために……お母さんと、お父さんのために生きているみたいで。それが嫌なわけじゃないよ、しにたいわけでもないし、でも、時々全部、いやになって」


何度か相槌を入れていたけれど、途中で必要ないだろうなと気付いた。語りかけているというよりは独白のような。柚葉の本心に触れていると思うと、不用意に声をかけるべきではないような気がした。

河川敷の見える病室で、柚葉はいつもどんなことをしているのだろうと考えたことがある。穏やかに過ごせているだろうかと。きっとそんな日もあるだろう。痛みもなく、心の落ち着くときがたぶんあって、でもそれはずっとは続かない。痛いとか辛いとか、今だって一言も口にしないけれど、痩せた体躯や顔色を見ていれば、苦しいほどその痛みを感じる。それすら遠く及ばないのに。



「柚葉」
「うん?」
「あの、夏の花火のさ、写真送ってくれたとき、返事しなくてごめん」


つい先日の夕日を送ったとき、柚葉はすぐに電話をかけてくれた。躊躇うばかりで、花火?何で急に?柚葉だよな?どういう意味で?と頭の中がめちゃくちゃになって、結局何も言えなかった僕に。同じことをした僕に、一歩踏み出した行動を取ってくれた。些細なことかもしれない。でもそこにもし、とても大きな勇気があったのだとしたら。

僕はそれを見過ごしたくはなかった。


「綺麗だねって一言でも添えたら良かったかな?」
「そう、だな。それなら、返事しやすかったかも」
「じゃあ晃明も夕日に綺麗だねって一言つけてよ。電話、迷ったよ」
「迷ったわりには数分でかけてきてたけど」
「だって、晃明見つけたから。わたしもね、晃明ならどこにいても見つけられる気がする」
「何を根拠に」
「背、高いからさ。遠くにいても見えるよ。あと、わたしのことを見つけたら、晃明すぐに笑うから。わかるよ。晃明の笑ったかお、すきだよ」


泣いたせいで可哀想なくらいに赤く染まった頬。照れたように笑って、俯いて、それからまた顔を上げて、晃明のことすきだよって真っ直ぐに放たれた。

腰かけていた椅子を離れると、後ろでがたっと音がして、倒れてぶつかる音も聞こえたけれど、何かが割れたわけではなさそうだから振り向かなかった。

背もたれのない椅子に座る柚葉が転げないように、慎重に肩を抱き寄せた。どれ程の力の加減をすれば、痛みを与えずにぬくもりだけを最大限に分け与えられるだろうか。

不用心に僕の肩口に擦り寄る柚葉はきっと僕の心の内なんて知りもしないのだろう。力いっぱいに掻き抱きたいを衝動を押し込めているのに。


「つ、」
「つ?」
「つきあ、う?」
「わたしのこと好きなの?」
「そりゃあ、好き、だろ。かわいいし、ピアノ上手だし」
「可愛いのとピアノ上手なのだけ?」


そんなわけないだろもっとたくさんある。数え切れないほど。
ひとつずつ、整列させて丁寧に伝えたいのに、言葉ひとつ喉の奥につかえて出てこない。言葉ひとつ、声ひとつ、想いひとつ、何ひとつとして、履き違えたくない。心ごと、渡すことができたのなら。


たとえば、例え話ばかりになってしまうけれど。

君を縁取る色さえも愛してみたかった。
好きな色なら青、好きな季節なら冬、好きな音ならソのシャープ、ラのフラット。そんな風に大切な物や思い出の傍らに君がいてほしかった。
いつか、君の手を取って歩くとき、その歩みの速度にさえも、僕は君を愛しく思うのだろう。


そういう、想いだった。小っ恥ずかしくて、とてもじゃないけれど口にできない。何言ってんだって笑われたら、顔を上げることができなくなる。

ふと頭の、心の片隅を過ぎる、柚葉に残された時間のこと。あと何度、過ぎ行く季節を見送るだろう。季節の境のほんの隙間に足を取られてしまいそうな危うさを抱えていきる柚葉には、あと、どれほどの。


唇を噛んだ。泣かないように。奥歯が軋む音が柚葉の耳に聞こえないように。思い出を作りたいわけではないから。今を、抱きしめたいだけだ。時間が経つのだけを待っていたら、明日には手の届かない場所に行ってしまう。


「付き合わないよ。恋人らしいこと、たぶん何もできない」


いつまでも続く沈黙を破ったのは柚葉だった。付き合わないと言われたのに、振られたわけではないことはよくわかっていたから、ふっと吐息を投げて笑った。

そうだな、言われてみれば、柚葉のことはとても大切に思っているし、とても、とても好きだけれど付き合いたいと思ったことはなかった。ただ、笑ってほしかったんだと思う。

写真ではなくて、思い出でもなくて、笑った顔が見たかった。

今、腕の中にいて、はにかんで。こうめい、と柔らかな声音が耳元をくるくる回ってじんと痺れるような愛しさを連れてきて。

たぶん、今、この瞬間があれば、良かった。


「そういえば、柚葉に渡したいものがあるんだ」
「なに?⠀誕生日ならまだずっと先だよ」
「ずっと先というか、なんならこの前だろ。誕生日おめでとう。それとは別にさ、貸したいものがあって」
「今日借りて明日返せるなら受け取ろうかな」
「できれば長く、借りていてほしい」


返しに来てほしい、いつか、ずっと、遠い日に。
でもそれは叶わないかもしれないから。
どちらも譲らずに喧嘩になりそうなとき、柚葉が寂しくないようにと口をついて出た一言が思いのほか刺さったようで、こくりと小さく頷いた。


その晩は、細切れに目が覚めた。腕の中で眠る柚葉を何度も確かめて、たまらずに頬や額に唇を寄せると、何度目かで目を覚ました。

朝日が窓の向こうに見えた気がして、しばらくは背中を向けて避けていたけれど、そのうちに柚葉が一緒に見たいと言うから、街が目を覚ますまで細い体躯を腕に抱いて、朝の空を見つめていた。






何度か、季節を見送った。学年は上がって今度こそ最後の絵の具の出番。出来上がったポスターの写真を撮って柚葉に送る。返信はなかったけれど、送った写真とメッセージを確認した形跡はある。

その足跡さえも無くなったのは、初雪が降った日。比較的あたたかい地方で、雪なんて滅多に降らない。ちらつく雪がコートに張り付いて、接写で撮ると結晶の形が綺麗に写った。

秋口には、そろそろ厳しいんだって、と珍しく弱音を零していた柚葉は、年が変わる少し前のとても寒い日に、遠くへ行ってしまった。もしかしたら、とても近くに、来てくれたのかもしれない。風のない日のことだった。


卒業を間近に控えて、暇といえば暇、忙しいといえば忙しい時期。新生活に必要な物、今日ならいくつか買ってあげると姉がいうからほいほいついて行った結果、役目はほとんど荷物持ち。姉が家に入っていった後も坂道をぜえぜえ言いながら歩いていると、柚葉の家から彼女の母親が出てきたところだった。手には白い袋を持っていて、ちょうど良かったと引き止められる。


「今家に行こうと思っていたの。晃明くん、春からK大に行くんだって?⠀おめでとう。体に気をつけて。こっちに帰ってきたときは顔出してね。そう、これ、柚葉に頼まれていて。受験期が終わってから渡してって釘刺されていたから遅くなっちゃって。大事なものだったんじゃない?」
「あ……」


労いの言葉にお礼を、とか。もちろん顔を出すつもりでいたとか、すぐにでも伝えたいのに言えなかった。白い袋から透けて見えたそれは、いつか渡したアルバムだった。


「中身は見ていないのだけど、そのアルバム、美代子さんの作った物でしょう?⠀スクラップブック、だっけ。病室で、柚葉が大切に持っていたの、ありがとうね」
「こんなことしか、できなくて」
「そんな風に言わないで。晃明くんにお返事打ってって何度か頼まれて……もちろん、内容はあまり見ないようにしてたからね。そのときの柚葉、とても嬉しそうにしていたから。晃明くんがいてくれて良かったと思っているのよ」


ここしばらくは鳴りを潜めていた感情の波がぐっと引くのを感じて、寄せ返しを堪えられる気がしなかったから、腰まで深く頭を下げて柚葉の母親の前から立ち去った。

姉の荷物を乱暴に廊下に投げ置き、自室へと駆け込む。割れ物が入っているとか叫ぶ声が聞こえたけれど、耳を塞いだ。体を縮めて、白い袋からアルバムを取り出す。もっと長く、借りていても良かったのに。でも最後の最後まで、僕のことを気にしてくれていたのだと思うと、胸の奥は冷たいばかりではなく、あたたかくて。


ページを捲っていく。柚葉の母親が言っていたように、僕の母は手先が器用でこういう制作がとても好きだった。写真が好きだったということもある。闘病生活が長かったから、目の前にあるものを大切にしながらも、いつも何かを残そうとしていた。いくつかあるアルバムのうち、この一冊は途中で終わっていたはずだ。あるページを見開きにしたとき、その瞬間に、瞳から滑り落ちた涙が透明フィルムの上に落ちた。フィルムが無ければ、文字を滲ませていただろう。

会えない間に、お互いが送り合った写真が不器用ながら丁寧に貼られていた。切り口がズレていたり、文字の震えは、満足に動かない指先で書いたものだからだろうか。知らない写真もあった。病室とは違う場所のようで、ピアノが置いてある日差しの良い広い部屋。最後に会った日よりも細くなった指先で鍵盤を撫でる柚葉の姿。

柚葉は以降のページに時々写っていた。自分で自分を撮ることは頼んでもしなかったから、人に撮ってもらったのだろう。きっと、僕の手に戻ることを考えてのことだと思った。


最後のページには、いつかの花火の写真。
僕が、返事をしなかった、あの日の。


『この写真を晃明に送ることは、すごく勇気が必要でした。』
『でもこの日が、晃明が夕日の写真を送ってくれて、電話をかけた日に繋がっていると思うと、その勇気を誇らしく思います。』
『晃明がわたしを好きなことは、もう十分過ぎるほど伝わって、この一年間はとても、とても、幸せでした。』

『わたしが晃明を想うときには、花が降ればいいのにと、ふと思いました。もしくは、一等星が綺麗に見える夜になる、だとか。』

『ただ、それだけです。』

『ありがとう。』




【そして、君を想うときには。】

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