スペクルム カノン

 お化け屋敷は例外として、他のアトラクションは最低でも30分は待った。アトラクションを楽しむ時間よりも、待ち時間の方が長くて華音は元より、桜花も疲れきった様子だった。
 だから、今は少し遅い昼食――――否、空が黄昏に染まりゆく時刻だから、早めの夕食を摂っている最中だった。
 華音の向かいの席で、桜花は彼と同じメニューを幸せそうに頬張っていた。

「やっぱりメガハンバーガーよね! ここのはタレが濃厚で、マヨネーズたっぷりで美味しい」

 口周りが汚れても、お構いなしだ。
 華音はそっと桜花の手元に新しいおしぼりを置いて、食べ終えたハンバーガーの包みを綺麗に畳んだ。

「桜花ってさ、ボリュームのあるものが好きなんだ?」

 華音が問うと、桜花はハンバーガーを下ろしてきょとんとし、舌で口周りを舐め取って答えた。

「この際、華音には言うけど、その通りなのよ。よく見抜いたわね」
「分かりやすすぎるよ。だけど、学校とかじゃ周りの女の子の好みに合わせてるみたいだけど、どうして?」
「……だって、変じゃない?」

 そうでなくとも変だと返したかったが、揺れる栗色の瞳を見て、華音はそれを飲み込んで別の言葉を選んだ。

「自分の好きな物を食べる事が変な事だとは思わないけど」
「……一応、わたし、女の子なのよ。華音は男の子だから、そう言うの食べてもおかしくないけれど、わたしだとおかしいの。異端なのよ。ほら、女の子って甘い物とか、あっさりした物とか食べてるイメージでしょ? あと少食。だからね、がっつり食べていると、大食いとか言われちゃうの……」
「……言われた事あるの?」
「……ない、けど。でも……」
「それならいいんじゃない? オレはそう言う事でおかしいとは思わない。オレは好きな物を好きなだけ、美味しそうに食べる娘の方が好きだな」

 華音の表情や声色はいつになく優しく、先程のメロンクリームソーダの様に甘くて爽やかで、桜花はドキッとした。
 桜花は目の前の漆黒の瞳が見られなくなり、ややずらした。そこに丁度居たのは、一組みのカップルで、仲睦ましい様子にまた心臓が揺れ動いた。
 桜花は胸に手を当て、普段とは違う自分の格好を改めて見た。
 そういえば、華音は1度も今日の桜花の格好について触れていない。
 せっかく時間をかけてオシャレしてきたのに、少しだけ桜花は寂しい思いがした。

「か、華音は……」
「ん?」

 華音は残りのドリンクを飲み干し、桜花を見た。
 桜花は顔を上げ、漆黒の瞳をしっかり捕らえた。
 目が合った瞬間、華音の方もドキッとした。

「華音は……その、今、好きな娘が居る……の?」

 言い切ってから桜花は後悔し、赤面して俯いた。
 フワッと吹いた風に、華音は舞い上がる黒髪を押さえながら、遠くを眺めて小さく微笑んだ。

「居ないけど、きっとそうなるだろうなって……気になる娘は居るよ。いや、もしかしたらもう……」

 桜花には、華音が一層遠くに感じた。

「そうなんだ……」と、自分で答えさせておいて、興味のない返事が無意識に口から出た。

 胸がズキンと痛む。怪我をした訳でもないのに。こんな感情は初めてで、戸惑いを外へ追い出す様に、桜花は残りのハンバーガーを口一杯に詰め込んだ。
 その後、桜花が窒息しかけ、慌てて華音が背中を叩いて水を差し出したのだった。


 日が完全に暮れてしまう前に帰ろうかと提案した華音だが、観覧車から夜景が見たいと言う桜花の強い要望で、結局まだ遊園地に留まった。
 少し子供の数は減ったが、まだまだ沢山の人が往来し、にゃにゃっぴー以外のマスコットが度々現れては色んな来訪者に連れ去られていった。
 煉瓦の道を2人並んでゆったりと歩く。さすがに、1つのアトラクションで30分待ち、はたまた3時間待ちなどをしていたら、全てのエリアは回る事が出来ない。
 仕方なく諦め、すぐに楽しめそうなところを探す。

「あ! あれとか、すぐ乗れそうよ」

 桜花は笑顔を弾けさせたが、華音は苦笑いを浮かべた。

「あれ、濡れるやつだよ?」
「上等よ! わたしは華音にやられたから、もう耐性がついているの」
「オレが故意にやったんじゃないからね?」
「それに、華音だって噴水に落ちたから平気な筈……」
「それも事故だし! もう日が沈むし、この時季でも冷えるよ」
「冷えたら、わたしがドロシーの力を借りて火を起こすから安心しなさい」
「そんな事で、王女の力を使わないであげて!」
「さあ、もう時間よ! 急がなきゃ!」

 桜花は階段を我先にと駆け上り、三日月型のボートを出航させようとしている係員に待ったの声を掛けた。
 既に他の乗客で座席が埋まっており、唯一空いている2席――――桜花は最前列の奥、華音は中央列の手前――――にそれぞれ座った。
 乗客を乗せたボートはゆっくりと、船着場から離れていった。
 華音と桜花も何度か渡った橋の下を潜り、まだ長蛇の列を成しているアトラクションの傍を通り過ぎ、ボートから流れる楽しげな音楽が悠久の時を告げた。
 アトラクションの入場口に書かれていた『注:濡れます』の警告が嘘の様に、今のところ何もなく優雅だ。そう、今のところは。
 突然と、音楽が切羽詰ったかの様なテンポのものに変わり、ボートが小さく揺れて、同乗していた係員の男性が態とらしい演技を始めた。

「く、来るぞ!? この川の主が!!」

 また、ボートが揺れ、少し水飛沫が乗客にかかった。小学生ぐらいの子は悲鳴を上げ、隣の母親に抱きついた。
 他の者にも、やや緊張が走る。桜花と華音は“他の者”から溢れており、桜花は幼子みたいにはしゃぎ、華音は頬杖をついてぼんやりと成り行きを眺めていた。
 更に、ボートが大きく揺れると、バシャーンと激しい水飛沫と共に、巨大ナマズが出現した。勿論、作り物であるが、つぶらな瞳に細いひげ、ヌメっとした身体の質感まで、ディティールにこだわりがあって、非常にリアルだった。スペクルムにいそうな風貌だ。
 登場でかなりの水飛沫が船上に落ちたのにも関わらず、巨大ナマズが暴れる事でまた大量の水飛沫が降り注いだ。
 係員も、乗客も、髪から水を滴らせていた。幸い、華音の乗っている方には、あまり水飛沫はかからなかった。
 桜花はびしょ濡れになりながらも、アトラクションを存分に楽しんだ――――のだが。
 ボートを降りた彼女の服は、白であった為に、完全に中が透けてしまっていた。
 夕焼け色に染まったワンピースは、以前の猫耳パーカーよりも艶かしい。
 華音の視線は、自然と桜花から逸れていた。
 華音の所作に気付いた桜花は、自分の服が透けている事にも気が付いた。

「いつの間にこんな……」

 困惑した声を上げるも、華音の前で平然と着替えを始めた桜花だ。透けている事に関しては何も気にしないだろう……と、華音は視界に少し入っている桜花に対してそう思っていた。
 しかし、実際違ったのだ。

「や、やだ……。し、下着が見えちゃうじゃない……」

 瞳を潤ませて、その場に蹲ってしまった。
 華音は喫驚し、桜花の大半の女性と同じ反応に戸惑いを隠せなかった。

「だ、大丈夫。見てないから……。だけど、桜花。一糸纏わぬ状態じゃないなら問題ないんじゃ……」
「そんな訳ないじゃない!」
「え……桜花が言ったのに?」

 衝撃の連続で、華音に休む暇はない。
 桜花はそのまま動こうとせず、顔も上げなかった。身体が小刻みに震えている。それは羞恥心故なのか、寒さ故なのか、その両方なのか……華音には断定する事が出来なかったが、震える少女をこのままにはしておけなかったので、七分袖の水色パーカーを脱いでその細い肩に掛けた。
 薄手だが、震える体を包んでくれる感触に、桜花は驚いて顔を上げた。

「オレは殆ど濡れなかったから、それを着てて。少しはマシだろうから」

 夕焼けの中、Tシャツ姿になった華音が微笑んだ。Tシャツと言っても、パーカーと同じぐらいの袖の長さで、あまり大胆に肌の露出がなかった。
 桜花は立ち上がり、パーカーでキュッと体を包んだ。

「ありがとう……」

 恥ずかしさで真っ赤に染まっただろう顔は上げられなかったが、頬の色が夕焼けに溶け込んで、身体の熱との境目を曖昧にしていた為に殆ど無意味だった。

「とりあえず、何処か屋内に入って温かい物でも飲もうか。あと、タオルも借りよう」
「う、うん」

 華音が歩き出し、桜花は半歩後ろをついていった。
 最初は桜花が先導していたのに、今は立場が逆転していた。けれど、案外お互いに、不快にはならなかった。寧ろ、落ち着いた。

「華音は……暑くても肌をあまり出さないのね。今日はそれなりに、昼間は暑かったと思うのだけれど」
「うん。夏でも半袖は着ないな。制服は指定だから、着るけど。昔、全身の痣や傷を隠す為に、極力露出を控えていたからね。多分、それが今でも染み付いているんだと思う」
「そうだったの……。ごめんね、華音」
「謝らなくてもいいよ。気にしてないし。それに、ほら」

 言いながら、華音は袖を捲って白い腕を見せた。

「もう何処にも痣や傷はないから」

 本当に、綺麗な腕だった。
 それを見た瞬間、桜花は泣きたくなった。

「そっか……それなら、気にする事はないわね。……良かった」
「それに、母さんの事はちゃんと許せる日が来ると思うから、もう平気なんだ」

 歪なカボチャのコロッケは、あの日の幸せを思い出させてくれた。華音はもう1度それを思い出して、カボチャの甘さと一緒に噛み締めると、フッと桜花に穏やかな顔を向けた。

「さあ、早く行こう? 観覧車、乗るんだろ? 時間なくなるよ」
「あ。そうだったわね。行きましょう」

 桜花も穏やかな顔で返し、2人はその位置を保ったまま近くに見えて来た建物に入っていった。



 ゆっくり回る観覧車を足場にし、ぼんやりと黄昏の空に浮かぶ満月を背景にして小さな魔女は口を三日月型に歪めた。
 金髪ツインテールが夜風に揺れ、リボンとフリルがあしらわれた白のケープが風を孕む。線の細い肩には、魔女と同じルビー色の瞳をもった白兎がちょこんと乗っていた。
 月の魔女アルナは瞳に遊園地全体を映し、歪んだ口から幼い声を零した。

「さあ、アルナの可愛い魔物ちゃんたち! 狩りの時間だぞっ」

 手を天へ向けると、空中にブラックホールの様な歪みが幾つも生じ、そこから一体ずつ魔物が飛び出した。
 赤い双眸を(たぎ)らせ、魔物は本能のままに生命力を求めて地上へ散っていった。
 手下達を見送りながら、アルナはゴンドラをぴょんぴょん兎の様に飛び越えていく。

「さぁて、アルナは魔法使い狩りといこうかなっ! あははっ楽しみ~」
 肌寒さに目が覚めた。
 ぼんやりと視界に映るのは、仄暗い室内。全身を預けているものは感触からいって、ベッド。然程、質は良くないが、冷たい床の上で寝ていた頃よりも幾分かマシだった。
 少年の意識が徐々に覚醒していく。

「此処は……どこだ……」

 喉から出た声は、少し枯れているが、まだ成長途中の男の声だ。
 所々、人為的に付けられた赤い痣が目立つ白い身体も、成長しきっておらず、線が細い事もあって中性的である。
 尤も、それは外見だけであり、中身はもうとっくに成人していた。だが、本人も正しい年齢が分からない。
 少年はもう一度、琥珀色の瞳に辺りを映した。そして、全身が粟立った。

「まさか……此処は……」

 早く逃げ出さなければ。

 ベッドから降りようとし、片足が何かに引っ張られて顔から落ちてしまった。
 痛みに呻き、視線を足に向けると、頑丈な鎖が絡んでいた。
 その不安定な体勢から鎖に手を伸ばすが、エルフでも、人間でもない耳に、重たい靴音が聞こえて来て、つい中断してしまった。
 ギィッ……と扉が開き、外側から光が差し込んだ。
 少年が眩しさに目を細めていると、先程の靴音がすぐ傍で止まった。

「おお……大丈夫かい。ルイス」

 男の声が降って来て、身体を軽々と抱きかかえられ、ベッドの縁に座らされた。
 男も隣に座り、2人分の重みでベッドが少し沈んだ。
 少年は恐怖に支配されて、隣を見る事が出来ない。
 隣では、男が分厚いコートを脱ぎ、シャツのボタンを外しだしたが、どれも一糸纏わぬ少年に着せる為ではない。
 醜い上体を晒した男は、少年の水色の髪を愛おしそうに撫で、耳元に唇を近付けた。

「私の可愛いルイス。嗚呼、どれだけ年月が経とうと美しい……」

 ルイス。

 その名を少年は脳内で反芻し、すぐに否定した。
 もう何十年も呼ばれなくなったが、両親からもらった大事な名前がちゃんとある。忘れる筈がない。

「違う……違う! オレの名前は――――んっ」

 口が塞がれ、本当の名前は男の唾液と混じり、穢れ、喉の奥に消えていった。


 ***


「――――っ!」

 オズワルド・リデルはパッと目が覚めた。
 額には汗が滲み、水色の前髪が額に貼り付いている。呼吸は荒く、琥珀色の瞳には涙が溜まっていた。
 気怠げに上体を起こし、辺りを見渡した。
 上質なカーテンの向こうから差す陽光でほんのり明るい室内は、白を基調とする物が大半を占めている、広く洗練された空間だった。
 身体を預けている純白のベッドも、天蓋がついていて上質だ。
 ちゃんと、衣服も纏っている。
 全てを確認し終えると、オズワルドの呼吸は落ち着きを取り戻した。
 涙と汗を拭い、布団をギュッと握った。

 400年以上も前の事なのに、未だに時々夢に出て来る。もう存在する筈がないのに……あの場所も、あの男も……。

「うっ……」

 口内が掻き混ぜられる感覚が蘇り、激しい吐き気を覚えた。
 口元を押さえ、傍らの水差しからグラスに水を注ぐと一気に口内へ流し込んだ。

「ごほっ、ごほっ」

 噎せ返ってしまった……が、口内が清められた気がして気休め程度にはなった。
 咳が落ち着くと、オズワルドはベッドから降りてカーテンを開いた。
 眩しさに目を細めるが、とても心地の良い光だった。

 コンコン。

「リデル様」

 ノックの音が聞こえてすぐ、若い女性の声が聞こえた。
 オズワルドは、またノックの音がし始めた扉へ歩いていき、開いた。

「おはようございます。リデル様」

 小柄なおさげのメイドが、はにかんだ笑顔で立って居た。
 両手には、綺麗に折りたたまれた、鏡の破片が装飾された白いローブを乗せていた。

「こちら、お召し物です」

 言いながら、それをオズワルドへ差し出した。
 オズワルドがそっと受け取ると、メイドは彼の顔を覗き込んで眉を下げた。

「……顔色が優れませんね。具合が悪いのですか? すぐにお医者様を……」
「いや、大丈夫だ。……ありがとう」

 オズワルドが穏やかな顔をすると、メイドは姿勢を正して頬を紅潮させた。
 誰もを魅了する美しい外見のオズワルドであるが、人間がそう思うのは最初の数年だけ。10年、20年……と年月が経つにつれ、美しくありつづける彼に恐れを抱くようになる。
 最初に世話係になった者もそうだった。きっと、この無垢な少女も今のうちは初心(うぶ)な反応をしてくれるが、そのうち嫌悪に変わるのだろう。
 年齢を重ねる毎に老いるのが当たり前の人間の国ミッドガイアでは、不老のハーフエルフは異形なのだ。
 400年以上この国で生きてきたオズワルドにとって、人間の常識こそが当たり前になっていた為、今更いちいち反論する事はない。

「あっ! えっとぉ……それでですね、リデル様!」
「何だ」
「はいっ! あの、本日の朝食なんですけれど――――」

 わたわたしつつもメイドはメニューを一通り伝え、オズワルドが指定した時間に持ってくる事を約束すると、一礼して去っていった。
 オズワルドは扉を閉め、洗い立てのローブを抱えて併設された専用のバスルームへ足を運んだ。



 ――――あの人だけは何一つ変わらない。正直、こえーよ。

 ザーザーとバスタブを打ち付けるシャワーの音に紛れ、脳内で第2騎士団団長の声が響いた。
 人間の常識に反論する事はないが、未だに心が揺れる時がある。
 表面上は好意的でも、大概の人間は異形に対して悪魔の顔を隠していた。

 ()()()はそう言う点では真っ白だったな……。オレが不老だから、手元に置いていた。ある意味で純粋だったんだ……。

 よく泡立てたスポンジで、雪の様に白い肌を洗う。目に見える汚れよりも、過去に受けた屈辱を洗い落とす様に。
 濡れた髪の間から出た少し尖った耳は、外部の音を容易に拾った。
 いつもなら気にしないが、今回は不快な思いがした。

 またアイツか……。ちゃんとノックする様になったのは褒めてやるが、返事がないなら諦めて――――って、やっぱり勝手に扉を開けた。

 溜め息をつき、あくまで気付かない風を装ってシャワーで泡を流した。


「リデル様――? 何処ですか? あれ……シャワーの音が聞こえるっすねぇ」

 オズワルドの部屋の真ん中に、アイツ――――マルス・リザーディアは立って居た。本日は珍しく、重たい鎧は着ておらず、ラフな格好だった。唯、騎士の証として腰には長剣をぶら下げていた。
 マルスは天蓋付きベッドの脇を通り過ぎ、入って来た扉よりもシンプルな扉のノブに手を掛けた。

「おい。騎士のくせに宮廷魔術師の部屋……しかも、バスルームに入ってくるなんていい度胸だな?」

 ドスを利かせた声が湯気の間を裂き、その先のバスタブで優雅に足を伸ばす宮廷魔術師の姿があった。
 マルスは態とらしく笑い、全く反省していない様子でバスタブに近付いた。途端、シャワーの水を存分に浴びせられた。それでも、怯まない。

「入浴中にすみません。前に、お茶しようって約束したものですから。つい、来ちゃいました」
「すまないと思っているのなら、さっさと出て行け。次は魔術を使うぞ」

 オズワルドは琥珀色の瞳で、騎士を睨んだ。

「んーじゃあ、出ていくんで、テーブルで待ってますね……――――うわっと!」

 踵を返そうとした背中に、氷の刃が飛んできて、マルスは何とか避けた。余裕が半減した顔でオズワルドを振り返り、遠慮がちに手を振ると、足早に立ち去った。
 椅子を引く音が聞こえ、オズワルドは溜め息を吐いた。

 本当に、何なんだ……アイツは。


 シャワーを済ませたオズワルドはタオルで身体を包み、水気を拭き取る。
 まだ、扉の向こうには能天気騎士の気配があった。
 溜め息を吐き、タオルを放って着替えに手を伸ばすと違和感に気付いた。

「あれ? これはローブじゃない……?」

 色合いといい、手触りといい、明らかに自分が持ち込んだものではなかった。
 脳裏に、能天気騎士の笑顔が掠めた。

「まさか!」

 慌ててノブを回して、部屋に出た。

「マルス!」
「あ。リデル様」

 マルスは、窓際のテーブル席について暢気に手を振っていた。
 オズワルドのそれは確信へ変わり、怒りが込み上げてきた。

「私の服を何処へやった?」
「洗濯に出しました!」
「さっき洗ったばかりだぞ!」
「え! そうだったんですか!? これはこれは……申し訳ないっす。あーでも、そこに僕が用意した服があるので、それ着ちゃって下さい」

 終始、表情も仕草も態とらしかった。
 まだ怒りの治まらないオズワルドへ、マルスは更なる追い打ちをかけた。

「それとも、服が洗濯出来るまでそのままで? さすがにご自分の部屋でも一糸纏わぬ状態って、宮廷魔術師としてどうなんすかね」
「お前の性格がどうかと思うよ」

 オズワルドは怒る気にもなれず、大人しく着慣れない服に袖を通して、マルスのもとへ向かった。
「いやあ、そのかっこーも新鮮でいいっすね!」

 オズワルドの服装は、マルスと同じくラフだった。白いシャツに、サスペンダー付きのダボっとした紺色のズボン。これだけ見れば、唯の少年だ。
 しかし、表情には純粋さはなく、影が纏わりついていた。

「……大波に身体を磨り潰されるか、氷の剣に身体を貫かれるか、お前は一体どっちがお望みだ?」
「わわ……本当にすみませんって! 態とじゃないですっ」
「どうだか」

 オズワルドはマルスの向かいに腰掛けた。
 丸テーブルには、既にお茶とお菓子が用意されていた。お菓子はマルスが持ってきたという、一口サイズのラズベリーパイ。お茶はオズワルドの部屋にあった茶葉を使って淹れたと言うが……。
 オズワルドはティーポットから注がれたお茶を見、息を飲んだ。

「濃すぎないか」

 ティーカップを持ち上げ、眉根を寄せた。
 水色(すいしょく)だけで既に濃厚だ。
 マルスはティーポットを下ろし、得意げに八重歯を見せた。

「茶葉を沢山使った方が、より美味しいお茶が出来るのではないかと!」
「茶葉を沢山……」

 嫌な予感がし、席を立ってオズワルドは茶葉を確認しにいった。
 棚に並べていた茶葉の入った小瓶が1つ、空になっていた。

「おい、マルス。お前、今までお茶を淹れた事ないだろう」
「あーはい。僕、コーヒーの方が好きなんで……」

 オズワルドは席に戻り、ティーポットの蓋を開けた。

「このお湯の量に対して、この茶葉の量はおかしい」
「そうなんっすか?」

 マルスもティーポットの中を覗き込み、山盛りになっている茶葉に小首を傾げた。
 オズワルドは苛々しながら続けた。

「茶葉の種類にもよるが、ティーカップ2杯分で3g程度でいい」
「そんなに少なくて良かったんですね!?」
「それと、お湯を沸騰させすぎだ。お茶の香りや味わいが損なわれている」
「コーヒーはアツアツがいいんですけど、お茶は違うんすね!?」
「もう1つ……」

 蓋を静かに閉め、オズワルドはマルスの純粋無垢なサファイアブルーの瞳を捕らえた。

「この茶葉は、ついこの間メアリに調達して来てもらったばかりだ」

 メアリは給仕係りで、主に食料調達を行っている30代の女性だ。茶葉やお菓子を毎度、オズワルドの部屋まで届けてくれるのだ。

「んーっと……それはつまり?」

 鋭さを増した琥珀色の瞳に動じず、マルスは純粋な疑問を口にした。

「こんな無駄遣いしておいて、またすぐに調達を頼む事は出来ない」
「それもそうっすねー……あ! それなら!」

 まるで反省なしのマルスは名案とばかりに、手を叩いた。

「街に買いに行けばいいんですよ! リデル様直々に!」
「はあ!?」
「だから、行きましょうよ! 茶葉と言えば、城下街に売っているでしょう?」

 マルスは席を立ち、その気だ。

「お前、自分の言ってる事分かっているのか」
「ええ。勿論、僕に責任があるので、お供しますけどね!」
「寧ろ、お前1人で行くべきだろう」
「せっかくですし、リデル様も城の外へ出ましょうよ! いい機会じゃないですか」
「何処がだ。それに、私は……」

 立ち上がったオズワルドの頭に、ちょこんと何かが乗った。紺色のキャスケット帽子だった。

「それ被っていれば大丈夫っすよ! 誰にも気付かれない事間違いなしです。さ、善は急げ!」
「善って、お前は悪だろう! 私は行かない……」

 マルスに手を引かれ、抵抗も虚しく、あっさりとオズワルドは部屋の外へ連れ出された。
 マルスは恐ろしい程の馬鹿力だった。



「あら? 第2騎士団副団長様は、今日は休暇をとったのでは?」

 廊下で、朝食のワゴンを引いているおさげのメイドが足を止めた。
 マルスはニンマリと笑った。

「そ! だから、今から城下街へ遊びに行くっす」
「城下街ですか。それはいいですね。ところで……」

 メイドはマルスの後ろへ視線を向け、それを受け取ったオズワルドは気不味そうに目を伏せた。

「悪いが、朝食は帰って来てから部屋に持って来てくれ」
「はい! って……」

 目を瞬かせるメイドの横を、マルスとオズワルドは通り過ぎていった。
 メイドは振り返る。

「今の……リデル様?」


 度々、使用人や騎士に擦れ違ったが、誰もオズワルドに気付く者は居なかった。前を行くマルスは彼らに挨拶をしつつ、何処か含んだ笑みでオズワルドを振り返った。そんなマルスと目が合う度、オズワルドはこれでもかと表情を歪めさせた。
 居館(パラス)を出、緑に囲まれた煉瓦造りの道を抜け、城門の前まで辿り着いた。
 2人の騎士が重厚な鎧を身に纏い、厳つい表情で立って居た。

「団長!」

 そのうちの1人に、マルスは意気揚々に駆け寄った。
 団長は「マルスか」と、表情を緩め最初は興味がなかったが、彼の影に隠れたラフな格好の少年の姿が目に付くと、忽ち表情を強ばらせた。

「お、おい! その少年は誰だ!? 何故城内に居る?」
「少年ですって~」とマルスはオズワルドにだけ聞こえる声で言うと、ピリピリとした空気を背中に受けながら、笑顔を顔に貼り付けた。
「城内に迷い込んじゃったみたいっす。今から城下街に送り届けて来ます」
「そうか……って、そんな訳あるか! ずっと見張りをしている俺達の目を掻い潜って、そんな一般人が侵入出来るものか! 怪しいから牢に……」

 事態が思ったより大きくなり始め、オズワルドは名乗り出ようと思ったが、それはそれで宮廷魔術師である己のプライドが許さなかった。かと言って、このままだと不審者扱いで牢にぶち込まれると言う屈辱を受ける事になってしまう。
 数秒の間葛藤していると、首に見た目よりもがっちりとした腕が絡みついた。

「もう僕達、友達なんで大丈夫っすよ。ねーオズくん」
「誰が友達だ! 馴れ馴れしくするな」

 オズワルドが腕を振り解くと、目の前の団長ともう1人の騎士がぽかんと口を開けていた。

「え。今の声、リデル様……? オズくん……オズ……オズワルド!?」

 団長の叫びにも近い声に、オズワルドの背中に冷たい汗が伝った。帽子で隠れた顔も血の気を失っていく。
 リデル様何を、と言いかけた団長の横をマルスはオズワルドを引き連れて颯爽と通り過ぎた。

「オズくんと休暇楽しんで来るっす!」
「お、おい! 待て、マルス!!」

 団長の困惑した声を無視し、マルスは宮廷魔術師の手を掴んだまま橋を一気に駆けていった。

「……と言うか、リデル様ってあんな方だったかな。もう少し話しにくい雰囲気があった気がするが……」

 団長は首を傾けた。
 馬車に揺られて数分で、城下街ヴィダルシュに辿り着いた。
 中央広場の噴水前で降り立ったマルスは大きな伸びをし、隣でオズワルドは大きな溜め息を吐いた。

「どうしたっすか? オズくん」
「……結局、お前のペースに乗せられて此処まで来てしまったと思うと何だか頭痛がしてきてな。って、何だ。その呼び方は」
「さすがに街中で、本名呼びはマズイっしょ? 騒ぎになるよ。だから、オズくんも年相応に見えるように気を付けてね?」
「…………覚えていろ」

 マルスの言い分は最もである為、オズワルドは反論したい思いを震える拳に一時封じ込める事にした。
 目的の物を購入し、さっさと城へ戻ればいい。
 オズワルドは頭を冷まし、辺りを見渡した。
 広場を囲うように並ぶ建物は、その殆どが純白の外壁に茜色の屋根で構成されて窓辺から色取り取りの花が咲き乱れていた。
 民家もあれば、薬屋、雑貨屋、武器屋が軒を連ねていたり、道端に露店を出している商人が居たりして、沢山の人々で賑わっていた。
 その為、城の兵士が彼方此方で警戒の目を光らせていた。
 兵士は城に在住する騎士とは違い、各村や街に駐在してそこを警備している。
 此処に居るのは人間ばかりではなく、エルフや人の姿に化けている竜族、髭をたっぷり蓄えたドワーフ、虹色の翅を生やした妖精が、商売をしていたり、観光を楽しんでいた。
 他種族同士の恋愛は禁止されてはいるが、どの国も友好関係にあるので、交流は盛んなのだ。但し、人間とエルフは表面上そうであって、未だに互いへ憎しみを抱いている者も少なくない。
 オズワルドは、通り過ぎるエルフ達の確かな視線を受け流し、ブルーヴェイル産の黄色い果実を片手によく通る声で客を呼び寄せる竜族商人を眺めた。
 エルフにはオズワルドが純血でない事ぐらい、一目見ただけで分かる。それ故、彼に向けた視線は明らかな嫌悪だった。

「竜族は相変わらずだな……」

 嫌悪感から気を逸らす様に、オズワルドが呟くと、マルスがニマッと八重歯を見せた。まるで、身内が褒められた時の様に胸を張ってみせた。

「陽気っしょ? 種族関係なく、ああなんだよねぇ。オズくんにも、普通に接してくれるよ」
「……まあ、種族の頂点に立つ者の余裕かな」
「それもあるけど、単純にそう言う性格なんっすよ。自分以外に興味津々って言うか、ある意味無垢って言うか……」
「お前みたいだな」

 何の気もなしにオズワルドが返すと、マルスの顔から笑みが消えた。
 オズワルドは不審に感じたが、それは一瞬だけで、すぐにマルスの顔に朗らかな笑みが舞い戻って来た。

「さて、茶葉を買いに行こう! 確か、あっちだよね」
「そっちじゃない」

 オズワルドは、マルスの向いた方とは真逆の方へ歩いて行った。
 マルスは慌てて追い掛ける。

「オズくん、知ってるの!?」
「昔、街を歩いた事があるからな。……だいぶ、その頃と街並みは変わったが」
「そうなんだ。人間は寿命が短い分、モノの移り変わりが早いっすからね。10年もすれば、すぐに変化する。それが100年であれば、もう面影も残らないぐらいに」
「400年前とは別世界の様だ」

 オズワルドが皮肉めいた口調で零すと、マルスは苦笑した。

「違いないっす」
「……お前は実際に見ていないだろう」
「そりゃ、勿論! 僕、産まれて37年しか経ってないっすからね」
「お前、37歳なのか……。若いな。20代かと思ったぞ」
「若く見えるんすよ。オズくんだって、10代にしか見えないけどね?」
「それは私が混血だから。……本当に、変わったな。この国は」

 オズワルドは、建物が(ひし)めき合って狭くなった青空を眩しそうに見上げた。


 先頭を歩いていたオズワルドは、背後に足音と気配が途切れた事に気が付いて足を止めた。少し来た道を戻ると、ちょっとした人集り(その大半が若い女性)が出来ていた。
 気になって人の合間から向こうをみると、へらへら笑う休暇中の騎士の姿があった。

 マルス……!

 オズワルドはこれを機に、1人で行動しようと思った。が、マルスが何かしでかすのではないかと不安になり、せめて遠目から様子を見る事にした。
 化粧の濃い女性は香水の匂いをばらまきながら、上目遣いでマルスの腕を絡め取る。

「マルスちゃ~ん。せっかくの休暇なんだから、お姉さんとイイコトしましょう?」

 すると、透かさず隣の清楚な女性が厚化粧女を押し退けた。

「そんな年増より、私と劇を観に行きましょうよ」
「年増って、何よ!」
「言葉通りです!」

 2人の女性が互いに火花を散らし、その間に他の女性が隙あらばとマルスに迫った。

「んー。気持ちは嬉しいんだけどねぇ。僕、今連れが居るんだよね」

 マルスは爽やかな笑みを浮かべ、女性達の好意を手馴れた様子で流した。
 チラリと、マルスの視線がオズワルドに向き、更に女性達の鋭い視線も加わって、オズワルドはギクリとした。

「なんだ。男の子か~」

 オズワルドの姿を認めた途端、忽ち女性達から敵意が消えていった。
 それどころか、何故かまたざわつき出した。

「帽子で顔がよく見えないけど、何か格好良くない?」
「すごい可愛い~」

 また、オズワルドの心臓が跳ねた。
 ここへ留まる事を決めた数分前の自分が憎い。この状況はオズワルドにとって、とても不愉快であった。
 反対に愉快な笑みを浮かべたままマルスがオズワルドのもとへやって来て、その後を女性がついて行こうとした。

「駄目っすよ~。あの子、人見知りだから大勢で詰めかけたら恐がっちゃう。それに、僕には好きなヒトがいるんで」

 振り返ったマルスの笑みは、女性達の心臓(ハート)を1本の矢の如く貫いた。
 女性達が大人しく引き、オズワルドは安堵の表情でマルスを迎えた。

「やあ、お待たせっす」

 だが、笑みと言う名の矢はオズワルドの心臓(ハート)には刺さらなかった。一瞬で表情が安堵から軽蔑に変わった。

「……お前、女癖も悪かったんだな」
「やだなぁ。僕から話し掛けたんじゃないっすよ? ほら、僕、お城の騎士でカッコよくて強いからモテるのは自然なんだよ」

 自分で言うなよ、とオズワルドは心の中で突っ込んだ。

「それに、言ったじゃない。好きなヒトが居るって」

 マルスは笑みを消して、真摯なサファイアブルーの瞳にオズワルドを映した。
 オズワルドは首を傾げた。

「それは本当だったのか。ほぼ毎日限られたところにいる騎士に、恋愛する暇があったとは……」
「……オズくんは居ないの? ドロシー王女とか」
「…………あの娘はそう言うのではない」
「そう、なんすね」

 自然と会話が終了し、オズワルドが歩き出して、その後をマルスが追い掛けた。



 茶葉の店は、建物が作り出した複雑に入り組んだ小路の先にあるのだが……。
 またも、マルスの寄り道でなかなか辿り着けずにいた。

「オズくん、見て見て! これ面白いよ!」

 マルスは露店の前で足を止め、オズワルドに手を振っていた。
 オズワルドは仕方なく、彼のもとへ歩いて行った。

「何が面白いんだ」
「ほらほら!」

 マルスは露店に並ぶ商品を掴み、オズワルドの眼前に近付けた。

「マンドラゴラじゃないか。別に面白くも、珍しくもない」

 もさもさの葉っぱの下に伸びる極太の根っこに剽軽な顔がついている、スペクルムではごく一般的な薬の材料である魔獣だ。
 普段は葉っぱだけを地上へ出して地中に埋まっており、引っこ抜いた途端に耳を劈く悲鳴を上げて逃走する。悲鳴以外に攻撃方法はなく、それさえ防げば恐くないのだ。
 ちなみに、魔獣と魔物は名称の響きは似ているが、全く異なる存在だ。前者は生物が突然変異して凶暴化したもので、スペクルム中の至る所に棲息し、時々人間や他の種族を襲う。後者は魔女達が自らの魔力を用いて作り出した意思のない生命体で、ブラックホールの魔女がその能力を分け与えたのではないかと考えられている。
 マルスと、商人の妖精の男が同時に「ちっちっちっ」と指を振った。
 商人が商売魂を燃やして、商品を指差して舌を振るう。

「このマンドラゴラは色合いが珍しくてね! ほら、この足先が真っ白だろ? まるで、靴下を履いているかの様じゃないか。薬として磨り潰すのもよし、観賞用に窓際に置いておくのもよしさ」
「うんうん。僕だったら、暫く窓際に置いて、時が来たら愛情を持って磨り潰すね」
「お。騎士様、なかなかの歪んだ愛情だね!」
「愛なんてのは、綺麗な形をしていないもんっすよ」
「さっすが~!」

 騎士と妖精が意気投合して盛り上がり始め、所在なさげにオズワルドはその場から少し離れた。
 背の高い植木の陰にベンチがあり、そこへ爪先を向けた。
 その時、髪と帽子で完全に隠れたハーフエルフの耳に小さな足音と子供のはしゃぐ声、それを追っているであろう若い女性の声が流れ込んで来た。

「ルイス!」

 え……。

 その名に、オズワルドの身体は一瞬で凍り付いた。
 脳裏を400年前のあの男が埋め尽くす。

 ――――ドン。

 動かない両足に何かがぶつかり、脳内からあの男は出て行った。
 オズワルドは自由になった顔を下へ向けた。

「あ。おい、無事か」

 そこには、3歳ぐらいの男の子が尻餅をついていた。

「ああ、ルイス!」

 母親が漸く追いついて、男の子に近付いて立ち上がらせた。そして、オズワルドへ深く頭を下げた。

「うちの子がすみません!」
「気にしていない」
「ほら、ルイスも。このお兄さんに謝って」

 母親が眉を吊り上げ、息子の頭を掴んだ。
 男の子は素直に「ごめんなさい」と謝った後、不思議そうにオズワルドの顔を覗き込んだ。そして、指を差した。

「おにいちゃん、おうさまとおなじ! めのいろがおなじ!」
「え? あ……ああ」

 オズワルドは男の子の純粋な視線が気不味くなり、帽子を目深に被って軽く親子に会釈をしてベンチへ向かった。

「琥珀色って、珍しいっすもんね」

 ベンチへ腰を掛けると、不意に声が掛かった。
 目の前に立つ人物が誰なのか分かっていたオズワルドは、あえて顔を上げなかった。

「あのマンドラゴラを買ったのか?」
「いや。何だかんだ言って、あの妖精兄さん気に入っていたみたいだったし。僕も、魔獣を愛でる趣味はないんで。オズくんが喜ぶと思ったのになぁ」
「私は子供ではない」
「そうだったっすね。でも、妖精兄さんもけっこー年いってるみたいだったけど、子供みたいに楽しそうだったよ。オズくんも、もっと楽しめばいいのに」
「楽しんでなどいられない。今にも、世界が滅ぶかもしれないのに」
「何も……貴方1人で背負う事じゃないと思いますけど。……さて! そろそろ行きますか!」

 マルスがうんっと伸びをし、軽快に歩き出した。
 オズワルドは立ち上がって、彼を追い抜いた。

「さっさと目的を済ませて帰るぞ」
「はーい」
 茶葉を無事に購入し終え、2人は小路を戻っていった。
 茶葉が沢山詰め込まれた紙袋を持つのは、当然マルスだ。それは本来の身分差によって成り立ち、互いに文句もなく自然であった。
 大勢のヒトが往来する大通りに出ようとした――――その時だ。

「リデル様!」

 後ろからマルスが叫んだ。
 前方から飛び出した大きな影が、オズワルドをすっぽりと覆い隠した。
 咄嗟に避ける事が叶わなかったオズワルドは、あっさりと相手の餌食となってしまった。
 マルスは血相を変え、急いで長剣の柄を握りながら駆け出した。

「このっ! リデル様から離れろ!」

 背中を硬いタイルに打ち付けて呻くオズワルドの双眸に、黒い長毛が映り込んだ。更に、黒い鼻と黒い目が見えた。

「え……犬?」
「わう!」

 オズワルドが正解を口にすると、犬は彼に覆い被さったままご褒美と言わんばかりに、ペロペロと彼の白い頬を舐め始めた。

「あははっ! 何だ、お前っ。オレは食べ物を持っていないぞ」

 あまりのくすぐったさに耐え切れず、オズワルドは身体を捩って笑い始めた。

「えーっと……?」

 拍子抜けする展開に、マルスは駆け出していた足をそのままに呆然と立ち尽くした。鞘から殆ど刀身が見えていた。
 オズワルドは上体を起こし、じゃれつく犬の頭を撫でた。
 こんなにもオズワルドに懐いている犬だが、人当たりの良いマルスには一瞥もくれなかった。
 マルスは長剣を鞘に戻して、暫くオズワルドの少年らしい一面を眺めた後、手を叩いた。

「エルフは動物に好かれる特性を持っているから、その血が混じっているオズくんにも反応を示したのか。それにしても、オズくんって自分の事“オレ”って言うんだ?」

 マルスのからかう様な言葉に、オズワルドは横を向いた。頬は笑っていた為か、ほんのりとまだ赤みを帯びていた。

「……何だっていいだろう。それより、この犬は」
「おお! ジオ、こんなところに居たか!」

 快活な男性の声に、オズワルドの言葉は遮られた。
 黒い大型犬は男性のもとへ尻尾を振ってのしのし歩いていき、その隙にオズワルドは服についた砂埃を払って立ち上がった。
 犬がオズワルドの方へ振り返った事で、男性はオズワルドとその後ろに立つマルスの存在に気が付いた。

「こんにちは。あ……もしかして、ジオが何かしてしまったかい?」
「いや……」

 オズワルドが言いかけると、また犬が飛びつこうとし、慌てて男性が止めた。
 愛犬が人様に迷惑をかけてしまった事は明白。男性は眉を下げ、頭を掻いた。

「本当にすまなかった。まさか、ジオが俺以外に懐くなんて。不思議だねぇ、キミ」
「不思議と言うか……」

 オズワルドが言葉を詰まらせている後ろで、マルスは含み笑いをしていた。それを背中で感じ取ったオズワルドは心の中で舌打ちし、怪訝な顔に変わりつつある男性に外見年齢通りの笑みを向けた。

「オレ、動物が好きなんです」
「そうか、そうか。犬は特に感情に敏感だと言うし、そうなんだな!」

 男性も笑顔になった。

「しかし、迷惑をかけてしまった事には変わりない……。そうだ。うちでお茶していかないかい? カフェ&バーをやっているんだ」
「迷惑だなんて……」

 オズワルドはチラリとマルスに視線を飛ばした。思った通り、マルスの口角は上がりそこから笑い声が漏れない様に必死だった。
 オズワルドは憤怒を抑え、視線に次いで言葉を飛ばした。

「おじさんがこう言ってるけど、どうする?」
「どっ、ふふふ! どうするって、いいんじゃない? せっかくだし。ははははは!」

 口を開いた事で、ついに笑い声が解放されてマルスが盛大に笑い出した。
 男性は、マルスを不審な目で見て首を傾げた。

「彼はどうしたんだ?」
「気にしないで下さい。頭おかしいんで」

 オズワルドは凍り付いた視線をマルスに送り、男性とその愛犬と共に、男性が営む店に向かった。


 大通りから少し離れたところに、その店はあった。今日は休業という事で、扉は固く閉ざされて“CLOSE”のプレートがかけられていた。
 男性は愛犬と二人の客を引き連れ、裏口から店に入った。
 店内は、床やテーブルや椅子……殆どの物が木製で温もりを感じさせる空間だった。一見すると、唯のくつろぎの空間の様だが、カウンター後ろには酒瓶が行儀よく並んでいて、日が落ちた後には賑わう事が予感させられる。
 オズワルドとマルスは、陽のよく当たる窓際のテーブル席に向かい合わせで座った。
 マルスは長剣を外してテーブルの隅に置いた。
 男性の愛犬がオズワルドの足元を陣取り、男性は「悪いねぇ」と苦笑しながら、指を3本立てた。

「赤ワイン、コーヒー、ナチュラルブルースープ……今出せるのはこれだけなんだが、どれがいい?」
「僕、赤ワインがいいっす」と、間髪入れずにマルスが答えた。
「じゃあ、オレも」
「了解! 赤ワイン1つに、ナチュラルブルースープ1つね!」

 そんな注文はした覚えはない。
 オズワルドは去って行こうとした男性を呼び止めた。

「いや、オレも赤ワインがいいんですけど……」
「駄目だよ、駄目駄目。だって、キミ未成年でしょ? 未成年にお酒を提供しちゃいけない事になってるんだよ。ごめんよ」

 瞬間、マルスが吹き出した。それを横目に見た後、オズワルドは窓ガラスに映る己のあどけなさの残る顔を見て落胆した。
 外見だけでは否定出来る要素がまるでなく、黙って男性を見送るしかなかった。
 男性がカウンターの向こうへ消えていき、2人きりになった席で、マルスが声を少し潜めて言った。

「あの人もオズくんの方が年上だって、夢にも思わないだろうね」
「お前……何か楽しんでいないか?」

 オズワルドは呆れた顔で、頬杖をついた。

「楽しんでるっす! 普段見られない光景で、新鮮すぎて面白いよーもう」
「私は不愉快なんだが。……マルス。何故、お前は私に絡んでくるんだ。普通は忌避するものだろう」
「いつからそれが普通になっちゃったんですか。僕は貴方に興味がある、もっと言えば好きなんです。それじゃあ、理由になりませんか?」
「私に興味を持つ者は良い意味でも悪い意味でも多々居るが、好きと言うのはよく分からないな。私はお前に好かれる覚えはない」

 琥珀色の瞳は、全てを悟ったかの様に冷めていた。
 マルスはサファイアブルーの猫目を細めた。

「リデル様ってさ……普段は偉そうにしているけど、本当は他人の事ばかり考えて行動しているでしょ。一番傷付いている筈なのに、絶対に誰も傷付けようとはしない。真っ直ぐで揺るぎない信念があって、優しくて……そう言うところが良いなって憧れるんです」

 オズワルドは何も言わず、横を向いた。マルスの純粋さが面映かった。

「だけど、最近は魔女の事もあって、何処か張り詰めている気がして。ドロシー王女も心配しているんですよ? 前までは一日に10回お茶していたのに、最近は全然だ――――と嘆いておられました」
「今まで、一日10回もお茶をした事はないが。どれだけ気楽な者だと思われているんだ、私は」

 オズワルドは前方へ視線を戻し、真面目な顔で否定した。

「まあ、お茶の回数はともかく、頑張り過ぎてるリデル様が心配って事です。だから、今日みたいに、たまには息抜きも必要ですよ」

 マルスが八重歯を見せて笑い、オズワルドも諦めた様に小さく笑った。

「……そうだな」

 足音が近付いて来て、犬は耳をピクピク動かし、オズワルドとマルスは横へ視線を向けた。
 男性が盆に赤の液体のグラスと緑の液体のグラスを載せて、上機嫌で戻って来た。

「へい、お待ちどーさん。赤ワインとナチュラルブルースープね」

 赤の方はマルスの前へ、緑の方はオズワルドの前へ置かれた。
 マルスは慣れた様子でグラスに口を付け、オズワルドはグラスを持ち上げて怪訝そうな顔で睨んだ。
 男性の視界に、テーブルに置かれた長剣が入った。

「さっきまで気付かなかった。兄ちゃん、アンタ……」

 更に、柄に彫られた国章が目に付き、男性はゴクリと唾を飲み込んだ。
 マルスがヘラっと笑い、男性の言わんとしている事を先に言った。

「ハートフィールド王家に仕える騎士っす」
「騎士様でしたか! とんだご無礼を!」
「とは言え、今は休暇中の身でして。さっきみたいに気楽にしてもらえると嬉しいっす」
「あーはい!」

 2人が話している間に、オズワルドは意を決してグラスに口を付けた。途端、採れたての濃厚な草の匂いが鼻をつき、眉間に皺が寄った。

「うぐっ」

 苦痛な声に、2人の視線はオズワルドに集中した。
 オズワルドは口元を押さえ、青褪め、俯いていた。グラスを持つ手が微かに震えている。

「オ、オズくん? どうしたの?」

 少しも笑えない状況に、マルスからも笑みは消えていた。
 男性も、心配そうにオズワルドを見ていた。
 オズワルドは微かに顔を上げ、口を開いた。

「何だこれは。不味い……」
「もう一杯?」と、男性が笑みを含ませて問い掛けた。

 オズワルドはグラスから手を離し、全力で首を横へ振った。
 男性は豪快に笑い出した。

「はははは。最近、キミぐらいの若者の間で流行っているらしくてな。健康に良いらしいし、流行りに便乗してうちの店でも出してみたんだ。若者だからって、皆が好む訳じゃないんだな」
「オレは……ごほ、ごほ」
「おいおい、大丈夫かい」

 男性は笑みを消し、心底心配そうにオズワルドの顔を覗き込んだ。

「おや?」

 帽子の陰になっているが、瞳がハートフィールド国王陛下と同じ色をしていた。だが、男性が連想したのはその人物ではなかった。

「キミ……オズワルド・リデル様に似ているね」

 オズワルドとマルスの心臓が跳ねた。
 冷ややかな汗が2人の背中を伝っていく。

「そ、そんな訳ないでしょう」

 オズワルドが弱々しく否定すると、意外にも男性はあっさりと引き下がった。

「だよね。あのリデル様がナチュラルブルースープで噎せるなんて事ないもんな」

 どの、かは分からないが、男性が言う宮廷魔術師はナチュラルブルースープで噎せる目の前の少年である。
 オズワルドは不服ながらも、男性にバレなくて良かったと安堵した。

「そういや、さっきキミ達リデル様の話をしていなかったかい?」
「え? してたっけ……」

 マルスは言いかけ、ハッと気付いた。無意識のうちに、目の前の少年をいつもの様に呼んでしまっていた。
 しかし、男性はそこには触れずにどんどん話を展開させていった。

「俺、リデル様の大ファンなんだよね! ハートフィールド王家の宮廷魔術師。魔術も然ることながら、武術にも猛ていて。戦場で軽やかに舞うお姿は、まるで精霊の様。凛とした立ち振る舞いも麗しいし……」

 始め、男性の勢いに気圧され気味だったオズワルドだが、次第にその純粋さに胸焼けを覚え表情を凍りつかせた。

「何を言っている。ハーフエルフだぞ」

 声も10代の外見から発せられたとは思えない程、淡々としていた。
 しかし、男性は凍てつく空気さえも払拭する程の熱と輝きを持っていた。

「だからこそだよ! 俺の子供の頃からずっと変わらぬお姿で居て下さる……それって、何か嬉しいんだよ。変化する事も大事だけどさ、変化のない事もそれと同じぐらい大事だと思うんだ」

 ――――素敵じゃないですか。ずっと綺麗な姿で居られるなんて。寧ろ、誇れる事だと思いますけれど。

 ふと、男性の顔と声が白い花畑で微笑むドロシーと重なった。
 オズワルドは一瞬目を見張った後、肩の力が抜けた様に静かに息を吐いた。
 男性のキラキラとした瞳はとても眩しくて直視出来ないが、確かに凍てついた心さえもゆっくり溶かしてくれる様な気がした。
 マルスも穏やかな表情でオズワルドを見ながら、男性の楽しげな話に耳を傾けていた。

「子供の頃、リデル様が街に押し寄せた魔獣を魔術で一掃したのを見てから、ホント憧れで! 俺、魔術を習おうと必死だったんだが、そもそも魔力を持ってなくてな。でも、諦めきれずに、たまに魔術書に載っている呪文を口にしたりして。まあ、俺の妻はあまりリデル様をよく思わないみたいで、俺がリデル様を語ると機嫌を損ねちまうんだが」
「なかなかっすね」

 マルスが笑って相槌を打つ。
 いつの間にか、オズワルドの心の中の雪原に絶え間なく吹き荒れていた冷風は止み、暖かい風に包まれて麗らかな春の日差しに照らされていた。
 男性が出してくれたチーズをつまみ、ワインを飲み干したマルスは満足げにグラスを置いた。向かいでは、まだ半分しか中身を減らしていないグラスと格闘しているオズワルドが居た。
 時折、オズワルドは青臭さに噎せ返りそうになり、口直しにチーズを口に含んで落ち着き、またナチュラルブルースープに挑戦すると言う繰り返しをしていた。

「キミ、無理だったら残しても構わないよ? あとはコーヒーしか出せないけど、コーヒーでも飲むかい?」

 オズワルドは顔を顰めて緑の液体を胃に落とし、ゆっくり首を横へ振った。

「せっかく出してもらった物を無駄には出来ない。それに、オレはコーヒーが好きじゃない」
「オズくん、コーヒー嫌いなのかぁ」

 少し、マルスは残念そうだ。
 気晴らしに、また男性がリデル様トークをし始め、それが終わる頃に漸くオズワルドはグラスを空にした。
 まだ、口内が緑に侵されているので、最後のチーズを舌先に転がして相殺した。
 男性が空になったグラスを盆に載せ、カウンター裏へと片付けに行く。
 再び2人きりになった席。
 マルスがすぐに口を開かなかった為に静かで、さっきまで微かにしか聞こえなかった外の喧騒が自然と耳に入ってきた。
 オズワルドの耳と男性の愛犬の耳がその中から、更に遠くの音を拾った。

「……魔獣だ」

 オズワルドが静かに言うと、マルスは真剣に耳を澄ませてから、首を傾けた。

「何も聞こえないっすけど……」

「きゃああぁぁぁっ!!」
「うわああぁぁぁっ!!」

 外から男性や女性、子供の悲鳴が聞こえてきて、さすがに一般的な聴力のマルスとグラスを洗っている男性の耳にもハッキリと届いた。
 マルスは長剣を手に持ち、男性が洗い物をそのままにカウンターから出て来た。

「一体何が起こっているんだ」
「ホントに魔獣が現れやがった……。しかも、」

 マルスは奥歯をギリっと噛み、鋭い視線を窓の外へ向けた。
 穏やかな空気が一変し、必死に逃げ惑うヒト達で溢れかえる別世界へと成り代わっていた。
 オズワルドとマルスは目を合わせると、サッと席を立った。
 男性は驚く。

「ま、魔獣って。危ないぞ」

 それは騎士のマルスにではなく、男性の手前一般人であるオズワルドへ向けられた言葉だった。

「国民を護るのが騎士の務めっす!」

 代わりにマルスが快活に応え、外へ出たオズワルドの後を追っていった。


 必死に逃げ惑う妖精とドワーフ、商品を両腕に抱えて軽快に駆ける竜族、無関係だと全身で語る様に速やかに移動するエルフの合間を縫って、オズワルドとマルスは彼らとは逆方向へ走っていった。
 先には少数の人間がまだ取り残されており、一部は敢えてそうしている様だった。
 己の命よりも好奇心が勝り、馬鹿みたいに心躍らせる――――人間はリアルムでも、スペクルムでも、その本質は全く同じで愚かだ。
 マルスは野次馬どもを蔑んだ目で見た後、その向こうで必死に武器を振り回す兵士達へ駆け寄った。オズワルドも後へ続く。

「一体何が起こった?」
「リ、リザーディア副団長……! 突然、オルトロスが侵入して来て街の者を襲い始めました」

 兵士が視線を向けた先には、牛よりも一回り程大きい2つ頭のライオンが街を蹂躙していた。
 オルトロスが暴れ回ると、連動して尻尾の代わりに生えた毒々しい色合いの蛇が、鞭の如く周囲の物を無造作に叩き飛ばしていく。その流れ弾がマルス達の方へも飛んできて、手前に居た兵士が長剣で斬り落とした。両断された瓦礫が地面に落ち、砂埃を散らした。
 マルスは長剣を鞘から抜き、オルトロスの動きを目で追う。

「……戦況は?」
「は、はい。現在、オルトロス1体に兵士総出でかかっておりますが、相手に傷一つ付ける事が出来ていません……。そして、逃げ遅れた者が複数名、負傷者が1名。いずれも一般人です」

 他の兵士達は魔獣にかかりっきりで、崩壊した建物の陰で蹲っている小さな女の子に構っている暇はなかった。
 それなら、せめて野次馬がその役目を代行すればいいのに……と、マルスは心の中で悪態をつき、オルトロスに目を向けたまま後方へ声を張り上げた。

「オズくんはあの女の子を連れて、安全なところへ行って! あと、残りの逃げ遅れた人達の誘導もお願い!」
「何を言っている。私も……」

 オズワルドは戦意を露にしていたが、騎士がそれを尊重する事はなかった。
 マルスは後ろを振り向き、眉を下げて笑った。

「今日は“オズくん”でしょう。ここは僕らに任せて欲しいっす」
「…………分かった」

 オズワルドは渋々首肯し、マルスの脇を摺り抜けて女の子の救助へ向かった。
 足を骨折し、少しも歩く事が叶わないその小さな身体を背中に乗せ、周りで狼狽する人々を見回す。

「ここは危険だ。すぐに離れるぞ」

 喧騒の中でも凛と響き渡った声に人々は冷静さを取り戻し、安心感を覚えてオズワルドの後へと続いた。
 ぞろぞろと、一般人の姿が遠ざかっていき、マルスはふぅーっと息を吐いて長剣を構えた。
 マルスと会話をしていた兵士も応戦へ向かっており、目の前では魔獣に銀の鎧が群がっては散っていく。
 オルトロスは吹き飛ばした兵士を、鋭い爪の生え揃った前足で踏み付ける。
 兵士は苦痛の声を上げながら、みるみるうちにタイルにめり込んでいく。仲間達が救助へ向かうが、振るった長剣ごと逞しい体躯に弾かれてしまう。
 吹き飛ぶ兵士達と入れ替わりに、マルスが魔獣の懐へ飛び込む。
 まだ、強面は兵士達へと向いている。
 剣先が魔獣の喉笛を捉えるも、突き刺す寸前で左の顔がぐるんと騎士の方へと向く。
 危険を察知しマルスが飛び退くと、瞬間魔獣の大口から赤黒いブレスが吐き出された。数秒前マルスが足をつけていた地面が、一瞬で灰燼(かいじん)と化す。
 たとえ、1つの顔が別の方へ意識を向けていても、もう1つの顔に気付かれてしまう。2つ頭の視界と意識は360度に広がっているのだ。
 これでは、多勢で攻めても傷1つ付けられない。
 地面に転がって血を流す兵士、どんどん形を保てなくなっていく建造物……戦況は悲惨なものだ。
 マルスは歯噛みし、もう1度長剣を構え直すと駆け出して飛躍する。バッと、今度は右の顔全体が向く。
 眼下では力を振り絞って立ち上がった兵士が懸命に剣や槍を振るい、左の顔から放たれたブレスで一掃されていく。
 マルスの目の前にも、同じモノが迫っていた。

「行動がワンパターン過ぎて面白みがないっすね」

 全く恐れを抱く事なく、剣を眼前で盾にして下降していく。
 左の強面から吐き出されたブレスの中、マルスは尚も下降を続けていた。

「リザーディア副団長――!」
「騎士様――!」

 周りからは、兵士や野次馬の悲鳴が木霊する。
 (はた)から見ると、完全に騎士がブレスに飲まれている。が、実際はそうではなかった。
 マルスの長剣はブレスを易易と受け流していた。
 そのままオルトロスの眼前へ狙い通り到達したマルスは、開けっ放しの大口へ剣先を突っ込んで喉を貫いた。
 ブシュッと血が迸り、左の顔の激痛に連動してオルトロスの全身が大きく揺らぐ。
 この隙を逃すまいと兵士達が群がり、マルスもまだマナが纏わりついてパチパチ音を立てる長剣を構える。
 数本の剣と槍が巨体へ突き刺さる。

「グガアアァァァッ!!」

 喉を潰された左の顔に代わり、右の顔が悲痛の叫びを天まで届かせる。

「これで止めっすよ!」

 マルスが八重歯を見せ、構えた長剣を容赦なく振り下ろした。
 オルトロスの体から2つの頭が斬り離され、ドンッと大きな音を立てて地面に落ちた。
 大量の血がその場に大きな血溜まりを作る。
 周りで歓声が上がり、兵士達もマルスも武器を下ろして安堵の笑みを浮かべた。
 ところが――――

「グガアアァァァッ!!」

 遠くから獣の咆哮が響き渡り、複数の大きな足音が近付いて来た。
 先程のオルトロスの天まで響かせた悲痛の叫びは、仲間を呼ぶ為のものだった。
 5体のオルトロスを前に、マルスは傷だらけの兵士達を見回し柄を強く握った。



「どうしたの? お兄ちゃん」

 足を止めたオズワルドの背中から、舌足らずな女の子の声がした。

「……いや。何でもない」

 オズワルドは静かに答えると、女の子を背中から下ろした。
 足を怪我していて上手く立てないその小さな身体を支えてあげ、視線を合わせた。

「此処なら安全だ。だが、皆が避難しているところまで行った方がいいだろう。――――この娘を頼んだ」

 最後の言葉は周りで息を切らしている大人達へ向けられ、彼らはオズワルドから女の子を受け取って頼もしい笑みを見せて大きく頷いた。
 彼らの様子に満足し、踵を返そうとするオズワルドのすぐ傍にいた女性が遠慮がちに彼の細い腕を掴んだ。

「ちょっと……あなた、まさかあそこに戻ろうって言うんじゃ?」

 オズワルドは何も言わず、するりと女性の拘束から抜け出して歩いて行った。
 女性は手を振り解かれた状態のまま、小さくなっていく背中を呆然と眺めた。
 先程までオズワルドに背負われていた女の子も、周りの者達も、皆一同に不安を抱いた。しかし、反面、何故か畏怖の様なモノも感じた。
 一見すると唯の少年だが、その言葉や態度は上に立つ者の威厳があり、不安を抱きつつも皆の足は自然と前へと踏み出した。


 オズワルドは歩く速度を上げ、最終的には走り出した。
 優れた聴力は魔獣の咆哮と、増援の足音をハッキリと捉えた。数秒前までは、マルス達の完全勝利で一件落着の流れだったのに、事態は急展開。
 現在、戦況は非常にまずかった。

 マルスは強いが、他の者達は殆ど戦えない! オルトロス5体の相手なんて不可能だ。ハートフィールド王家のお膝元で死人を出す訳にはいかない!

 オズワルドが片手を掲げると、上空から物凄い速度で大きな鳥が飛んで来た。
 ほんのり青みがかった茶色い羽毛の猛禽類――――(わし)だった。
 鷲はオズワルドの手首に止まり、小首を傾げた。

治癒術師(ヒーラー)を呼んできてくれ」

 主の命を受け、再び鷲は上空へ舞い上がって、来た時と同じ速度で羽ばたいていった。
 大きな羽がひらりと舞い落ちた。
 増援は間に合わないし、必要ない。自分が1人行けば十分だと、オズワルドは絶対なる自信を持っていた。
 誰も居なくなって静寂に包まれた街道を、宮廷魔術師は駆け抜ける。



 マルスは長剣を抜き、一番手前のオルトロスの真横へ回って剣を薙ぐ――――が、寸前でもう1体が飛び掛ってきて、宙返りして元の位置へ着地した。
 兵士達2、3人で1体を相手にするも、簡単にあしらわれてしまい、また何名かが地面に転がされて血を流した。
 オルトロスの2つ頭に加え、身体の一部である蛇が縦横無尽に暴れ回る。建造物が壊れていき、街そのものの被害も拡大していく。
 蛇のせいで、オルトロスの背後を捕るのは容易くない。
 マルスは次々と襲い来る魔獣達に剣を振るい、微かに巨体に傷を刻んでいく。

「切りがないっすね……!」

 前方を相手にしていると、後方からもう1体攻めて来て、その場で剣を一振り。前方の強面を切りつけ、後方へとその剣先を向ける。
 素早く伸びてきた前足を剣で払い、下から上へ向かって巨体を切り上げる。鮮血が迸り、マルスの頬にも付着した。
 マルスは手の甲で血を拭い取ると、視界の端で蠢いた影に向かって蹴りを入れる。右手に握る長剣は眼前の牙を砕く。
 1体のオルトロスは軽く吹き飛んで地面に転がり、もう1体のオルトロスは牙を失って天へ向かって嘆いた。
 残る3体が3方向から、マルスを包囲し、その陣をどんどん狭めていく。
 陣の外では、兵士達がほぼ全員敗北を示している。
 マルスは舌打ちし、向かって来るうちの1体の頭部へ飛び乗って剣を突き立てる。悲鳴を背後に受けながら、もう1体へ飛び乗り、同じ作業をする。そして、3体目も同様に片付ける。

 寸陰の間に視界が豁然(かつぜん)とするも、先の負傷させただけの2体が既に待ち構えていた。
 2つのブレスが同時に放たれ、途中で互いを取り込んで膨張。巨大な炎の波がマルスに迫る。
 すぐに後ろへ飛び退くが、頭部から血を流すオルトロスに不意打ちをくらってしまう。
 右肩に鋭い牙が食い込み、力任せに外すと血がドバっと流れた。
 右肩を押さえてよろけた所へ、更に戦闘復帰を果たした2体が容赦なく襲いかかる。
 マルスは激痛に耐えながら、剣を左手に持ち替えて振るう。
 こうしている間に、また5体のオルトロスに完全包囲されてしまった。
 肩で呼吸する騎士に、先程までの余裕はあまり感じられない。

 普段の騎士としての格好をしていたのなら、まだ軽傷で済んだ。宮廷魔術師の様に、見える範囲内の同次元の場所移動を一瞬で行う魔術も使えなければ、治癒術師の様に、相手の攻撃を防ぐ魔法の壁を張る事も出来ない。それ故、生身の戦士の装備は絶対だ。
 マルスは肩から伝った血で真っ赤に染まりゆく右手を眺め、手首を強く握って歯噛みする。

 普通に戦っても、僕には勝目はないか……。それなら、魔術を。

 辺りを確認するが、視界を埋め尽くすのは魔獣のみ。
 マルスは1つ頷くと、手元にマナを引き寄せる。
 マナは紫色の雷光を散らし、バチバチと音を立てる。

 あんまり目立ちたくないけど、仕方ない。

 ――――ビュッ。

「ぐがっ!?」

 は?

 視界の端で透明な何かが一瞬で横切った……かと思えば、魔獣がぐらりと倒れ込んで来た。
 マルスが避けると、次々と魔獣達は身体を穿たれて倒れた。
 マルスは目を瞬かせ、傍らで倒れる魔獣を見下ろした。

「まさか、これって」

 身体の風穴は水で濡れていた。
 視線を正面に向けると、少し離れたところに宮廷魔術師の姿があった。
 オズワルドは弓に、水で象った矢を番えていた。

「マルス。伏せろ」
「は、はい。……?」

 マルスがオズワルドの指示に従うと同時に、頭上すれすれで矢が後方へ飛んでいった。
 魔獣の悲鳴がし、見事に矢はしつこく立ち上がった魔獣を貫いた。
 膝を付いていた兵士達、瓦礫に隠れていた野次馬達は、急な助っ人に喫驚し、戦場を美しく掻き乱す姿に一瞬で目を奪われた。
 オズワルドは弓を空中へ放り、白梟の姿へ戻ったそれの羽ばたきを頭上に浴びながらマルスに言った。

「そこから離れろ」

 オズワルドの周囲のマナが大きく動く。
 マルスは全身でそれを察知し、粟立ち始めた二の腕を摩ると、オズワルドの方へ走った。
 マナが風の如く吹き荒れ、オズワルドの帽子が吹き飛ぶ。
 ふわりと靡く水色の髪に、マナの淡い青光を映す琥珀色の瞳。水の様にたおやかでありながらも、力強さを感じさせる美しいその姿は、この場にいる誰しもがよく知る宮廷魔術師オズワルド・リデルだった。
 皆、衝撃を受けて、いつも通り嫌悪する暇はなかった。

 オルトロス達は荒い呼吸を繰り返しながら、突っ伏したまま。
 清らかな空気が渦巻く――――と、1体のオルトロスが足を引き摺りながら起き上がって口をガバっと開く。
 すぐに気付いたマルスが長剣片手に、オズワルドの前へ駆け出す。が、それよりも早く大口からブレスが詠唱する宮廷魔術師へと放たれた。
 周囲の悲鳴が木霊する中、ゴォッと大きな音を立てて炎がオズワルドを丸呑みした。
 しかし、それはほんの一瞬。炎は強い力に弾かれ、紅蓮の花びらを舞い散らせた。
 オズワルドは花びらの中、平然と詠唱を続けていた。
 彼の周りだけ、涼しげで清らかな空気が漂って、醜い炎はまるで近付けないようだ。
 水の加護を受けしオズワルドに、炎など効かないのだ。
 渾身の攻撃に全く動じない相手を前にオルトロスは怖気づき、オズワルドは口角を引き上げて勝ち誇った笑みを作った。

「これで終わりだ。メイルストローム!」

 魔獣の中心に水属性のマナが収束し、水となり、渦を巻いてぐるぐる旋回し始める。
 次々とオルトロス達は巨大な渦潮に飲まれ、四肢を引き千切られ、身を磨り潰され、透明な水を真っ赤に染め上げる。
 激しい流水音に紛れ、魔獣の悲痛の叫びも捩れて天を劈く。
 魔術と魔獣が跡形もなく消え去ると、この場に居る者達の心に安堵が広がった。
 マルスは剣を鞘に収め、オズワルドへ駆け寄る。

「リデル様! すみません……僕1人でどうにか出来れば良かったんですけど、思ったよりも手こずってしまって。貴方の手を煩わせてしまいました……」
「ああ。それは別に気にしていない。……治癒術師(ヒーラー)を呼んでおいた。もうすぐ到着するだろう」

 もう脅威はないと言うのに、オズワルドは魔獣がまだそこに居るかの様に表情を固くし、緊張の糸をピンと張ったままだった。
 マルスは気付く。オズワルドにとって、魔獣はオルトロスだけではない。この場に居る全員が魔獣と同じ、脅威を齎す存在なのだ。
 実際、周りは最初こそ宮廷魔術師の登場に驚いていたが、平穏に包まれた今、冷静さを取り戻して彼を忌避するべき対象だと再認識し始めた。
 決して言葉には出さない負の感情が、空気をピリピリと震わせた。
 悲しい事に、オズワルド自身は何よりもそれに敏感だった。あとはマルスに任せる事にし、さっさと踵を返そうとした。

「リ、リデル様! キミがまさか、リデル様だったなんて……!」

 オズワルドの目の前に、先のカフェ&バーの店主の男性が驚きと感動が混じった顔で躍り出た。脇には、愛犬とつい先程オズワルドが安全な所まで送り届けた少女が居た。
 愛犬も、少女も、オズワルドの姿を見るなり嬉しそうだ。

「さっきのお兄ちゃん! リデル様だったんだぁ」

 オズワルドは両手を男性に掴まれ、右側に少女、左側に犬がぴったりとくっついて来た為、身動きが取れなくなった。
 最早、曖昧に笑うしかない。

「先程はとんだご無礼を! 俺の娘まで助けてもらっちまって。本当に、何と申せば良いのやら」
「お前の娘だったか。私は当然の事をしたまでだ。大した事はしていない」
「さすがリデル様! はぁ~俺は幸せだ」

 男性はとろけんばかりのうっとりとした表情を浮かべた。

「……いい加減、手を離してくれないか」
「あ! す、すみません。つい」

 男性は手を離した。

「あの、少しお待ちいただけますか? すぐに戻ります」

 オズワルドの返答待たず、男性は走っていってしまった。
 オズワルドは所在なさげに取り残された少女を一瞥すると、少女も同じ気持ちだったのか、あどけない表情で小首を傾げた。
 そして、男性よりも先に城の治癒術師(ヒーラー)が到着した。
 背中に国章の刺繍の入った白いローブ姿の彼らは、宮廷魔術師と騎士に目礼し、手際よく怪我人の救護へ向かった。マルスと、オズワルドの隣の少女もその対象で、すぐに治癒術がかけられた。
 治癒術による眩い光が目の端にチラつく中、男性がワインを大事そうに抱えて戻って来た。

「お待たせしました!」

 男性はオズワルドの両手にワインを握らせ、ニッと気前の良い笑みを浮かべた。
 困惑して固まったオズワルドの肩を、マルスがポンっと叩いた。

「未成年じゃないですもんね! ……ほら、案外先入観のせいかもしれませんよ?」
「何がだ」

 マルスが見渡す先をオズワルドも見渡してみた。
 目の前の男性、怪我が治って嬉しそうな少女、犬、そして……一部の兵士や国民達が嫌悪ではなく、敬慕の視線を宮廷魔術師であるハーフエルフに向けていた。
 今まで、オズワルドは気付かなかった。己に向けられるものは全て嫌悪だと思っていたのに、実際に視野を広げてみると、違うモノも確かに存在した。
 先入観。
 まさに、その通りだったのかもしれない。
 初めて見た本当の景色に、オズワルドは堪らず目を伏せた。ついでに帽子があったら良かったと思った。
 やけに活動的な心臓が血を次々と身体の隅々まで巡らせていき、手も頬も温度を上昇させていく。
 これ以上この状態が続けば、心臓が弾けてしまいそうだ。オズワルドは身体の向きを変え、一歩踏み出す。
 その時である。
 脳内に電気がビリっと走ったかの様に、一瞬の間に映像と音声が送られて来た。それにより、体中の熱が潮が引く様にサーっと潔く下降していった。

 魔物が。カノン!

 現在、華音が必死に鏡の前でスペクルムの魔法使いの名を呼んでいた。リアルムで勤務中の使い魔から送られて来た情報だった。

「すまないが、私は至急城へ戻る!」

 オズワルドは何か言おうとしたマルスの両手にワインを持たせ、ざわつく人々の合間を足早に摺り抜けていった。
 魔物が出現する少し前。
 空は十分夜色(やしょく)に染まり、紺色の中で星屑がチカチカ煌めき出して彼らを従える様に銀色の満月が一層強い光を地上へ届けた。
 通路沿いの洋風な街灯やアトラクションにも眩い光が灯り、地上も天上に負けず劣らず美しい光の海へ変貌した。
 その中でも圧倒的存在感を放つ建造物を目指して、華音と桜花は煉瓦造りの街道をゆるゆると歩いた。途中行き交うのは同年代か、それ以上の年代の男女が比較的多くなった。小さな子供の姿は殆どなかった。

「ここでさえ、こんなに夜景が綺麗だもの。観覧車から見たら凄いだろうなぁ」

 桜花は純白のワンピースを翻し、踊る様に足取りを軽くした。まるで、地上へ舞い降りた天使の様な美しさと純粋さがあった。
 タオルを貸してほしいと頼んだ飲食店の女性店員が親切に、従業員用の乾燥機で桜花の服を手早く丁寧に乾かしてくれたのだ。もう華音のパーカーを着る意味はなくなり、元通り華音が現在パーカーを着ていた。

「都心の高層ビルよりも、きっと綺麗だと思うよ。海も見えるし」

 華音は穏やかな表情で、軽やかに舞う天使の半歩後ろをついていく。
 高台に、天高く聳え立つ観覧車は光を散らしながらくるくる規則的に回っていた。すぐ近くには、マスコットキャラクターのにゃにゃっぴーの巨大バルーンが鎮座していた。
 桜花の目は真っ先に、目的のものから逸れてにゃにゃっぴーの方を向いた。

「あんなところに大きなにゃにゃっぴーが居たんだ! 可愛いなぁ」
「可愛い? うーん……」

 華音は未だに同意出来なかった。
 唯、まだ着ぐるみよりはマシだと思った。顔のパーツが平面にプリントされている分、あの強烈な目力は半減していた。
 巨大にゃにゃっぴーの正体は、子供用のボールプールだった。腹の部分から中へ入れる様になっており、中は大量の柔らかいボールで埋め尽くされていた。近くまで来て確認するなり、桜花は少し悔しそうだった。いくらキャラクターが好きだからと言って、高校生が子供に混じってはしゃぐ事は憚られた。
 にゃにゃっぴーの脇には、観覧車へと続く階段が数段待ち構えていた。
 華音が先に階段を上り終え、にゃにゃっぴーとの別れを名残惜しそうにしながらも桜花も後に続いた。
 その時、華音の横を1人の男性が通り過ぎ、突如階段下へ向かってダイブした。その先には、片足を一段目に乗せた桜花が居た。

「桜花、危ない!」

 華音が動くより先に、男性は桜花に抱きつく様にして共に地面に転がった。
 華音は青褪め、階段を駆け下りた。
 男性の下敷きになってしまった桜花は頭を強く打ち付けて、小さく呻くだけで身動きが取れない状態だった。
 華音は桜花を助けようとして、ギョッとした。
 男性の頭部が桜花の豊満な胸の谷間に埋もれていたのだ。
 華音の顔が次第に青から赤へ色を変えた。

「な、なな何してるんだ! 桜花から離れろ!」

 男性の片腕を乱暴に掴み、起き上がらせようとしたが、男性の全身の筋肉は弛緩(しかん)していた。まるで、力尽きたマリオネットの如く自在に動かす事が出来なかった。
 男性には、既に意識はなかった。既視感を覚えるが、今は冷静に記憶を手繰り寄せている場合ではなく、華音は渾身の力で男性をどけると、その下で横たわる桜花を抱き起こした。

「桜花! 大丈夫か!?」

 軽く揺すると、栗色の瞳がうっすらと開いた。

「華音。油断をしたわ……。これはわたしの失態。心配する事はないわ」
「何だよ……それ」

 何処かおかしい普段通りの桜花の姿がそこにあって、華音は心底安心した。
 だが、騒々しい夜のパレードはこれが始まりだった。
 ほぼ無傷な状態で桜花が立ち上がると、途端に彼方此方から悲鳴が上がった。
 華音と桜花の近くまで走って来た人は、先程桜花に倒れ込んだ男性同様生気を失って倒れた。
 見渡すと、次々と無差別に人が倒れていく光景が見えた。
 そして、そこには必ず赤い双眸の黒い獣が居た。

「魔物!」

 華音が叫ぶのと同時に、頭上からゴルゴが、足元からは煉獄が現れ、それぞれの主人に近付いた。
 華音と桜花は頷き合うと、視界に入ったオシャレな外観の手洗い場に直行した。

「……って、何で桜花まで男子トイレに?」

 華音は隣の鏡面の前に立つ桜花に疑問の目を向けた。
 桜花は鏡面に映る別次元(スペクルム)の自分――――ドロシーと視線を合わせながら、淡々と答えた。

「男性用、女性用で、鏡の効力が変わる事はないわ」
「うん……? それはそうだね?」

 桜花の返しは斜め上過ぎて、華音の頭でもついていけなかった。

 桜花が鏡面に触れ、眩い桜色の光の中で王女と対面する。
 ドロシーはふわりと微笑むと、桜花を優しく抱き締めて溶け込む様に消えていく。途端、桜花の身体がパッと強い光を放ち、赤茶色の髪は毛先から上品な赤色へ変わって紫の花を連想させる髪飾りが付き、栗色の瞳はアメジスト色に、純白のワンピースは真っ赤なドレスが変形した様な服に、シルクの手袋をはめた手には使い魔が姿を変えたローズクオーツ水晶の杖が収まった。
 周りを取り囲んでいた桜色の光が散り、花びらの様に宙を舞い踊った。

 ドロシーの魂を取り込んだ桜花が戦場へ赴こうとすると、視界の端で未だ鏡面を睨んでいる華音の姿が見えた。

「どうしたの?」
「オズワルドが……オズワルドが居ないんだ」

 華音は自身を映す鏡に手の平を付き、眉を下げた。

「え!? 嘘でしょう?」
『いえ、本当の事ですわ……』

 答えたのは、ドロシーだった。勿論、声は桜花にしか聞こえない。
 ドロシーの言葉に再び驚いて声を失った桜花に、ドロシーは沈んだ声で続けた。

『少し前、オズワルドの部屋を訪ねたら彼の姿は何処にもなく、ティーセットがそのままになっていましたの。オズワルドの朝食をどうしようか悩んでいるメイドを捕まえて、行方を訊いてみたところ、彼は城下街に行ったとの事でした……。しかも、わたしではなくて、マルスと。きっと、2人で今頃ティータイムを楽しんでいるのでしょう……。先を越されましたわ!』

 後半は、熱が込もっていて、マルスに対する怒りと妬みが感じられた。
 桜花はドロシーを宥め、華音へ彼女の言葉を要訳して伝えた。

「オズワルドは、マルスと城下街でティータイムをしているそうよ」
「は、はぁ!?」

 華音は目を剥いた。

「ていうか、マルスって誰」
『城の騎士ですわ』
「城の騎士ですわ」

 ドロシーの言葉を、桜花がそのまま復唱した。
 マルスが城の騎士である事は分かったが、城下街でティータイムという暢気な行動は理解不能だった。それは、彼らとて息抜きは必要だろうが、今の様な状況を作ってしまっては単なるサボりも同然だ。
 華音は無意味に、鏡を叩いた。

「オズワルド! オズワルド・リデル! 早く帰って来てくれ!」

 何度か繰り返し、桜花が先に魔物撃退へ向かおうとした――――その時。
 鏡面に波紋が広がり、ぐにゃりと歪んだ(のち)、そこに映る高校生が魔法使いへと変わった。
 華音は手を下ろし、縋るようにオズワルドを見た。

「良かった。やっと来てくれた」
「すまなかった」

 オズワルドの呼吸は乱れ、白いローブは少し着崩れしていた。急いで来たのは明白だ。しかし、こんなに余裕のないオズワルドを見たのは初めてだった為、華音は驚いていた。

「珍しいな。お前がそんなに取り乱してるなんて」
「城下街に茶葉を買いに行っていた。その時に、魔獣が現れて……って、そんな話をしている場合じゃなかった」
「結局お茶には変わりないのか」
「どう言う意味だ」
「……何でもない。さあ、」
「早く手を重ねろ」
「それ、オレの台詞……」

 華音とオズワルドが鏡越しに手の平を合わせると、カッとそこから光が放たれ、青白い光が2人と使い魔を包み込んだ。
 同じだけど同じでない、よく似た2人が向き合う。
 オズワルドは自信たっぷりな表情で華音の肩をガッと掴むと、重なって1つになる様にして消えていった。瞬間、華音の身体が更に強い光を放ち、黒髪は毛先から水色に、瞳は漆黒色から琥珀色に、服はラフな格好から重量感のある魔術師の白いローブへと変わって、最後に白い手袋をはめた手に使い魔が姿を変えた青水晶の杖が収まった。
 景色が現実のものになると、スペクルムの魔法使いの姿をそっくりそのまま写し取った華音と桜花が並んでいた。
 2人は頷き合って、その場から立ち去ろうとした。

「え……」

 華音は一歩踏み出すと、瞠目して固まった。
 桜花も同じ様に、困惑の表情を浮かべて進行方向を見ていた。

「にゃにゃっぴー……? 何でこんなところに」

 そこには、あの目力がとにかく凄い遊園地のマスコットキャラクターの着ぐるみがぼんやりと佇んでいた。
 大きな双眸は2人の方を向いていた。

「……も、もしかして、今の見られた?」

 華音の不安に満ちた声を合図に、にゃにゃっぴーはくるりと身体の向きを変えて走っていった。
 やや遅れて、華音は着ぐるみを追い掛けた。

「待て!」
 短足のくせに、意外にもにゃにゃっぴーは速い。まるで、魔法使い達をおちょくっている様だ。
 1人で走っていた華音の数歩後ろに桜花も続く。
 2人がにゃにゃっぴーに追いついたのは、近くの川の前だった。
 水面が街灯を反射させてキラキラ揺れる。

「お前、一体何なんだ!」

 華音がにゃにゃっぴーを乱暴に掴むと、弾みでその重たそうな頭部がゴロンと落ちた。
 月明かりに照らされて、正体が明らかとなる。

「あなたこそ何なんですかぁ? 俺、唯のバイトっすよ?」

 それは、金髪の若い男性だった。
 華音は力なく手を下げ、桜花は数歩後ろで大好きなキャラクターの中身にショックを受けていた。
 背中に汗が伝い、華音はぞぞっと寒気を感じた。顔は青白い。

「ヤバイ……唯の一般人だった…………どうしよう」
『いや、カノン。水面をよく見ろ』

 思考が停止しそうな華音の脳内に、オズワルドの冷静な声が直接響いた。

「水面……?」

 あまり気乗りせず見ると、水面に映っている筈の男性の姿が何処にもなく、代わりに金髪ツインテールの少女が映っていた。
 華音はその姿を以前、見た事があった。

「つ、月の魔女!?」

 すると、男性がくつくつと笑い始め、俯いたかと思えば、顔を上げて口を三日月型に歪めた。黒色の双眸がルビー色に変わり、ぎらりと光った。

「鏡はそこにあるものを映す、真実だ。水面もまた同じ事。オズワルド、王女、やっと会えたねぇ!」

 声が段々と男のものから幼い少女のものへと変わっていき、その姿も徐々に歪んでいく。そして、一層強い光が男性を中心に辺り一面を包み込み、光が薄れた時にはそこに居た筈の男性は、水面に映っていた少女へと変わっていた。服装も、フリルとリボンたっぷりの白いケープに黒いブラウス、暖色系チェック模様のカボチャパンツ、リボンがあしらわれた茶色いブーツになっていた。細い肩には、赤い瞳の小さな白兎がちょこんと乗っていた。

「改めまして、月の魔女アルナとその相棒ほわまろです。以後お見知り置きを……って、もうお前達に以後はないんだけどなっ」

 アルナは恭しくお辞儀をすると、八重歯をニッと覗かせてあどけない笑みを作った。
 華音と桜花、2人の中にいるオズワルドとドロシーは気を引き締めた。
 魔法使い達に敵意を向けられているにも関わらず、アルナは全く動じず、遊び相手を前にしているかの様に楽しげだ。

「魂のみをこっちへ移動させているようだねぇ。それも、こっちの次元の自分自身に。そうする事で、アルナ達の邪魔をしてたって訳だ」

 華音と桜花はドキリとした。目の前の魔女には、全て見抜かれている。
 アルナは予想通りの2人の反応に、愉快そうにニヤニヤ笑った。

「それが分かれば、もうアルナ達の敵じゃないね! あーでも、安心するといいぞっ。アルナはこの事を他の皆には言ってないからな。言う必要がない、が正しいか。さっきも言ったけど、お前達はここでおしまい。アルナが倒すんだからなっ」

 杖を構え、華音は桜花をかばう様にして前に出た。
 少し距離を詰めたアルナは、相変わらずの笑顔だ。

「王女モドキを護るのはオズワルドの意思か、お前自身の意思か。……ふふっ。オズワルド、お前は王女をずいぶんと可愛がっているようだな? 王女だったら、もう1人居るのに、そいつだけを贔屓しているように見える。そういえば、第2王女だけ毛色が違ったなぁ。もしかして、娘か?」
「え? 娘って……」

 華音は瞠目し、後ろを振り返って桜花――――ドロシーを見た。
 桜花も、彼女の中に居るドロシーも、華音と同じ表情を浮かべていた。

『カノン。アイツの喉を潰せ』

 華音の脳内に、オズワルドの低く刺のある声が響いた。
 内側からチクチクと刺す様な威圧を感じ、華音は息苦しく思った。

「何怒ってるんだ」

 本当の事を言われたからなのか? とは間違っても訊けない。

『違う。……詠唱出来ない様にする為だ』

 オズワルドの殺気を同じく感じ取ったアルナは、一層愉快そうに弾むように前方へ駆けていく。

「オズワルドに絶望を与えるのも面白そうだ! まずは王女から始末に決定~! あれ? でも、こっちにいる魂は壊せるのかなぁ? あははっ! 試してみよーっと」

 オズワルドの感情に押し潰されそうになっている華音の脇を摺り抜け、小さな魔女は無邪気な笑みを湛えたまま桜花の懐へ飛び込む。
 そこで、右の拳に淡い光を纏わせて軽く飛躍し、桜花の頭上目掛けて振り下ろす。
 桜花がサッと後ろへ飛び退くと、桜花の居た場所にアルナの小さな拳が叩き落とされ、タイルにクレーターが出来た。

「な、何なのよ……あれ」

 桜花の震えた声に、ドロシーは何も応える事は出来ずに同じ様に動揺していた。
 アルナは苦笑しながら、拳をタイルの間から抜き反対の手でパッパッと砂埃を払った。

「ありゃー外しちゃったかぁ。アルナ、肉体系じゃないからなぁ~」

 また、拳に光を纏い出した月の魔女。
 先程よりも桜花に緊張が走り、自然と杖を握る手に力が入る。また、傍観する事となってしまった華音にも、確かな緊張と焦りが走った。

「お、おい。オズワルド。あれは何だよ。あんな小さな身体なのに、力ありすぎじゃないか」
『アルナの持つ月の魔力は、肉体や魔術を一時的に強化させる事が出来る。……やはり、エンテ同様にアイツも精霊と分離しているな』

 オズワルドは華音の中から、冷静に敵を分析する。
 以前戦った時より、魔力は半減。しかし、元が強大である為決して雑魚ではないのだが、攻撃系魔術を得意とするオズワルドとドロシーの前では圧倒的に不利である筈。それなのに、アルナの魔力は少しも揺らがない。
 オズワルドは思案する。

『しかし、此処まで肉体強化が可能なものなのか……』
「オレは元のアルナの強さを知らないけど……。うーん……」

 華音も首を捻り、何気なく見上げた先に満月が見えた事で、スッと記憶が呼び覚まされた。

「満月だ! 確か、月の魔力って月の満ち欠けに左右されるって言ってなかったか?」
『――――そうだ。その通りだ。満月は月の魔力が最大限に引き出される。だから、今夜私達の前に堂々と現れたのか』

 オズワルドは納得すると、アルナを分析の対象から排除の対象へと切り替えた。連動して、華音は表情を引き締めて杖をしっかり構えた。
 アルナが再び肉体強化させた拳で、桜花に襲いかかる。
 今度は避けずに杖で受け止める桜花……だが、重い。

「くっ……!」

 桜花は歯を食い縛り、目一杯アルナを押し返そうとする。間近に見える幼い顔は、桜花とは対照的で楽しそうだ。
 アルナの力が桜花を押し始める。
 メキメキと、杖が悲鳴を上げ始める。
 そこへ。

 ヒュン!

 真横から、月の魔女目掛けて氷の刃が次々と飛んで来た。
 アルナは体勢をそのままに、空いている方の手を突き出して月属性のマナで視認する事の出来ない壁を形成させる。
 氷の刃はそれに阻まれ、対象を貫く事をしないまま術者のもとへ戻って来た。
 華音は幾つか杖で弾き、残りは横へ飛び退いて躱した。
 何1つ役目を果たせなかった氷の刃は、静かに水属性のマナへと還っていった。
 華音の介入によって、少なからずアルナの心にも手元にも隙が出来、それを見逃さなかった桜花はアメジスト色の瞳を光らせ、杖を握る両腕に全身の力を込め、見事力比べに勝利した。
 軽く後方へ吹き飛んだアルナは宙返りする。その時に、沢山の色鮮やかな光を見た。ライトアップされたアトラクションだ。
 アルナはふわりと着地すると、無邪気な笑みを浮かべ2人の魔法使いに背を向けて光に誘われる様にして軽やかに駆けていった。
 2つに結われた金の髪が後方へ流れて動物の尻尾の様に揺らぎ、白いケープが風を孕んでパラソルの様に綺麗に広がる。

「アルナ、こんなヘンテコなとこ初めて! スペクルムにはないもんねっ」

 声色も、身体同様軽やかで楽しげだ。
 華音と桜花はすぐに、無邪気な背中を追い掛けた。

「さっきまでドロシーの魂を壊す……とか言っていたのに、急にどうしたのかしら」

 桜花が大きな瞳をパチパチさせると、一歩前を走る華音は微苦笑した。

「好奇心旺盛で、飽きっぽい……まるで子供みたいだな」

 アルナは無人のボート――――少し前、華音と桜花が乗ったアトラクション――――に乗り込んだ。
 ボートはすいすい、水上を滑っていく。
 2人が追いついた時には、ボートは船着場から離れた所で揺れていた。

「きゃあぁぁっ!!」

 若い女性の悲鳴が反響し、2人の意識と視線は魔女から逸れてその声の主を探した。
 結局被害者の姿は視界に入らなかったが、代わりに禍々しい獣の影が幾つか横切った。

「そうそう。こーしてる間にも、ちゃぁんとアルナの可愛い魔物ちゃん達はお仕事してるからな」

 遠ざかっていくボートからアルナが愉快そうに笑い、華音は杖をギュッと握り、桜花は赤いポニーテールを翻す。

「桜花?」

 華音が一歩踏み出した桜花の背中に声を掛けると、彼女は振り返って頼もしい笑みを浮かべた。

「わたしが倒して来るわ! 華音はアルナをよろしくね」
「ああ。だけど、無茶しないでよ?」
「大丈夫よ! わたしに任せなさい!」

 桜花が駆けていくと、すぐに華音は魔女を乗せて今も尚遠ざかっていくボートを川沿いに追い掛けていった。