桜花に勉強を教え始めてすぐ、華音は頭を抱えた。
「桜花。キミは……今まで何を勉強していたんだ?」
華音が採点したテキストは、見事にバツが9割。正解であるたった1割でさえも、根本的に問題を理解しておらず、まぐれにも等しい解答だった。更に華音を悩ませたのは、桜花自身が何を理解していないかを理解していない事だ。これでは教えようにも教えられない。
以前クラスメイトに勉強を教えてと頼まれた時は、こんな苦労はしなかった。桜花の頭のレベルは、華音の理解の範疇の外側にあった。
それでも、華音が困った様子を見せると、桜花も不安そうな表情になるので簡単に突っ撥ねる事は出来なかった。教えると言った以上、きちんと相手を満足させるのが礼儀だ。教科書を開き、桜花が間違えた所を1つ1つ丁寧に説明する。
桜花は聞いた事を一生懸命ノートにまとめていった。
復習をしっかりした上で、先と同じ問題を一から十まで解いてもらう。
「今度はばっちりよ!」
桜花が誇らしげに解答を華音に見せ、華音は一通り目を通して絶句した。
「さっきと全く変わってない……!」
「え? 嘘……」
先の解答と見比べ、桜花も絶句した。
華音は頭を抱え、自分の教え方が間違っていなかったかどうか、脳内で再確認する……が、何処にもそれらしきものは見当たらない。この説明で大抵の人は理解してくれたし、先生もきっと同じ指導をする。
桜花を一瞥し、数学の教科書を閉じて日本史の教科書を広げた。
「数学は苦手な人は苦手だから……。日本史にしよう。これなら、意味は理解出来なくても、丸暗記で何とかなるから」
「ええ! 頑張ってみる」
日本史の勉強に切り替えて数分、桜花相手にやはり考えが甘かった事を華音は気付いて頭痛を覚えた。
日本史でこれなら、世界史も大して変わらない。その他、現代文、古文、化学、生物もあまり喜ばしい成績ではなかったのだが、英語だけはそれらに比べてまだマシだったので、何とかなるかもしれないと希望を抱き、基礎から丁寧に教える事にする。
華音は桜花の隣に移動し、彼女が書いた英文を赤ペンで直して何処がおかしいのか説明をした。
「なるほど。そうなのね」
他の教科に比べ、桜花の反応が良い。問題を次々と解いていき、教科書もどんどん進んでいく。だが、赤ペンの直しがなくなる事はなく、それもいつも同じ所だった。
華音は赤ペンを置いて、教科書を前のページに戻す。
「もう一度ここから説明するよ」
「う、うん」
桜花は華音の一言一句を聞き逃すまいと、必死に耳を傾けて度々相槌を打ち、時にはノートに書き残したりもした。
何度も繰り返し、同じ問題を解くのだが……華音の丁寧な解説は、全くの無意味だった。勿論、華音が悪い訳ではない。桜花に学習能力がないのだ。
華音は、時間を巻戻して、同じ事を繰り返しているかの様な錯覚さえ覚えた。魔法使いが実在しているのなら、そうだとしてもおかしくはない。
けれど、残念ながら1人の少女の時間を巻き戻す程魔法使い達は暇ではない。
こうなったら、意地でも時間を進めるしかない。華音は心の中で気合を入れ、赤ペンで間違いを指し示した。
「ここ、違う。書き直し。散々教えたからどうしてか分かるよね?」
「え? あれ? そうだったかしら……」
桜花は小首をかしげながら、ほぼ球体に近い消しゴムを手に取る。と、指先で弾いてしまい、テーブルの上を物凄い勢いで転がった。
「待ちなさいっ」
手を伸ばしたが届かず、華音の近くに落下。
華音が拾おうと身体を捻る。
「はい、桜花――――!?」
「ひゃあっ」
桜花は消しゴムを無理に拾おうとして、身体のバランスを崩した。そのまま、華音に倒れ込む。
華音は桜花を受け止めきれず、揃って絨毯の上に倒れた。
「う……痛い」
「ご、ごめんなさい! またやっちゃった……」
桜花は華音の身体から豊満な胸をどけ、覆い被さった姿勢のまま謝った。
華音は、柔らかな感触と吐息が少し遠退いて安心したが、視線を正面にやれば、間近に桜花の顔とパーカーの隙間から覗く下着が見えて目のやり場に困った。
頬を赤く染め、桜花から視線を外して消しゴムを突き出す。
「はい。もうどいてくれるかな」
「あ、ありがとう! ごめんね。すぐにどくわ」
桜花は消しゴムを受け取り、元の位置に座り直した。
その後、華音もゆっくり起き上がった。
勉強の再開だ。
しかし、今の出来事で2人の集中力は切れてしまった。
桜花はスッと立ち上がる。
「コーヒー淹れてくるわ!」
「コーヒー? あ。オレ、お茶でいいよ」
苦手だから、と言おうとすると、桜花がくわっと歯を立てた。
「わたしのコーヒーが飲めないと言うの!?」
「わたしの……? あー……いや、そう言う訳じゃないんだけど」
「じゃあ、待ってて。わたしの淹れるコーヒーは格別なんだから」
桜花は華音に有無を言わせず、部屋を出て行った。
華音は主の居なくなった部屋に1人取り残され、やる事もないのでズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
『桜花ちゃんとのデート、楽しんでるぅ~?』
刃から、SNSのメッセージが届いていた。
今日も一緒に下校する予定だった刃に、勉強を教えると言う事だけを省いて桜花と帰る事を伝えたのだが、その為に迷惑な勘違いをしてくれた。
華音は苛立ちを抑え、文字を打ち込んで仕上げにダンスをする兎のスタンプを送った。スタンプに特に意味はない。
既読はすぐについて、返事も返ってきた。動く尺取虫のスタンプだ。これにも、恐らく意味はない。
意味のないスタンプ合戦の後、華音は飽きてスマートフォンを手放した。向こうも同じだったのか、既読を残したまま返信は来なくなった。
華音はもう一度スマートフォンの画面をタップし、時間を確認した。
「桜花……遅いな」
コーヒーを淹れるだけにしては長すぎる。
先程の事を思い出し、もしかして転んで頭でもぶつけているのではないかと心配になった。
華音はそっと扉を開け、廊下へ出た。
ゴリゴリゴリゴリ……。
何かを削る、規則的な音が響いていた。
音を辿っていくと、リビングへ辿り着き、更に歩を進めると、リビングに併設されたキッチンスペースまで来た。
壁から、向こうを覗き見る。
「え。豆から!?」
華音が思わず声を出すと、手を動かしながら桜花が振り向いた。
「当たり前じゃない」
コーヒーミルで、コーヒー豆を粉砕していた。芳しいコーヒー特有の香りが漂う。
華音の家ではコーヒーは飲まないので、いつも雷の家で雷が飲むのを見ているだけだった。その時決まって、既に粉状に加工された物にお湯を注ぐ、インスタントだったので、家庭で飲むコーヒーと言うのはそう言うものだと思っていた。
「もう少しで出来るから、部屋で待っていて」
「分かった。気を付けてね……色々と」
華音は桜花の無事を祈り、部屋に戻った。
コーヒーの香りと共に、桜花が部屋に入って来た。
桜花は、2人分のコーヒーと、角砂糖が山になった小皿をお盆からテーブルに下ろした。
テーブルは狭いので、それらと教科書類で一杯一杯だ。
一旦必要ない教科書類を下げ、桜花はコーヒーを華音に差し出した。
「ありがとう」
華音は早速、アツアツのコーヒーを口に運ぶ。
……苦い。
声にも表情にも出さず心の中でのみ本音を零すと、角砂糖を3つ程溶かした。
桜花もそのままでは飲まず、角砂糖を1つ投入してスプーンでかき混ぜていた。
コーヒータイムでホッと息をつくと、散っていた集中力が舞い戻って来て、2人は自然な流れで勉強を再開した。
「わたし、もう一度数学に挑戦してみたいわ」
「随分とやる気だね。じゃあ、最初に解いた問題から」
華音が英語の教科書と数学の教科書を入れ替え、桜花は華音に出題された問題を解答していく。
「はい。残念。全部不正解」
「えぇーっ。嫌がらせで言ってるんじゃないわよね……」
「そんな訳ないだろ。ほら」
華音はテキストの最終ページにある解答を見せ、桜花はそれでも納得いかないと言った顔だ。
「これ自体が間違っているんじゃ……」
「もしそうなら大問題だよ。大丈夫。オレが解いても、全く同じ答えになったから」
「何故そうなるのよ……。華音の頭ってどうなっているの」
「数学なんて、導き出される答えは1つしかないんだから、ある意味で一番楽な教科だと思うんだけどな。じゃあ、解説していくよ」
「ふむふむ。何だか、だんだん分かってきた気がする!」
桜花は意気揚々に、ノートをどんどん数式で埋めていった。
コーヒーを飲み終えた頃には、華音から穏やかさが消え、すっかり疲弊していた。
どう頑張っても、桜花が次の段階に進む事はなかった。
華音が当たり前に出来る事を、桜花は当たり前に出来ないのだ。
終わりの見えない現状に、さすがの華音も同じ事を繰り返す気力はもうなかった。
また、桜花自身からも意欲が喪われつつあった。
「頭が痛いわ……」
眉間を押さえ、桜花はゴロンとベッドに横になった。
華音は教科書を閉じて、桜花の方を見る。
「大丈夫か? 薬飲んだ方が……。と言うか、オレもう帰ろうか?」
「問題ないわ。これは脳みそを使い過ぎた事による頭痛……。少し休めば治るから、まだ帰らないで」
「そうなんだ。じゃあ、回復したら言ってよ」
と穏やかな顔で返しつつも、内心では「そんなに脳みそ使ってないだろ」と毒づいていた。
カチコチと壁掛け時計の音が響き、窓から橙の光が差し込む。
華音はスマートフォンを弄り、桜花は縫いぐるみを弄っていた。
「この子の名前は桜もっちり!」
桜花はベッドの上をゴロンと転がり、仰向けで桜色の猫の縫いぐるみを高く持ち上げた。
思わず華音はスマートフォンから目を離し、桜花の方を見た。
「桜もっちり?」
「そう! 華音に取ってもらった子の名前よ」
「へぇ。と言うか、桜花。もう大分回復してるね?」
「えっ……。ちょーっと、まだ頭の回転が鈍い気がするわ」
桜花は遠い目をし、ガバっと起き上がって縫いぐるみを枕元に置くと、ベッドを下りた。
「もう勉強する気ないなら帰るけど……」
「や、やる! やるから、もうちょっとだけ……」
大人しく席に着くかと思いきや、桜花は華音の横を素通りしてドアノブに手を掛け、そのまま回して廊下へ出た。
「コーヒーとお菓子持ってくる! 糖分も必要よね」
ほんの少し開けたドアの隙間からそう告げ、また華音の前から消えていった。
華音は空の色と時計の針が示す時刻を見比べ、もう少ししたら帰ろうと心に決めた。
華音が決めた“もう少し”より早く戻って来た桜花は、アツアツのコーヒーの入った硝子のポットと市販のクッキーを並べた大皿をテーブルに置いた。
ただでさえ狭いのに、これではおやつがメインの様になってしまった。
桜花は構わず、華音にコーヒーとお菓子を勧めて、自分も向かい側に腰を下ろしてコーヒータイムを存分に楽しみ出した。
華音は仕方なく本日2度目となる苦手なコーヒーに口をつけ、冷めた瞳で桜花を見た。
「ねえ。もうやる気ないだろ」
「そ、そんな事はない筈よ!」
「教科書類が全て机の下じゃないか……」
「それは、邪魔だったから……」
「邪魔って言った……」
桜花がどんなに学習能力がなくとも、根気よく付き合ってきた華音だが、さすがにもう疲れきって、その上能天気な彼女の態度にイライラし始めていた。
「ほら! このクッキー美味しいよ? コンビニで買った新発売のクッキー!」
「……そうだね」
少しずつ、2人の温度に変化が起き、ずれ始める。
華音はスマートフォンをズボンのポケットに戻し、鞄を引き寄せた。
帰ろうとしている。
そう悟った桜花の顔に、焦りが垣間見えた。
「まだ帰らないで! お願い!」
「帰らないでって。オレはお茶会をしに来たんじゃない」
華音は気怠そうに手を止めた。
桜花の必死のお願いは続く。
「わ、わたし……キミも分かった通り、本当に頭が悪いの! 赤点採ったら、お父さんの期待を裏切っちゃう。お父さん、仕事で忙しいから……せめて、これぐらいはちゃんとしたいの。迷惑かけたくないのよ」
「それなら、尚更ちゃんとやろうよ」
華音の表情に穏やかさは戻らないが、気怠さは少しだけ和らいだ。桜花の必死な想いは、ちゃんと心に響いた。
勉強再開。
ところが、一歩進んだかと思えば、二歩下がると言う様な状態が続き、華音の手にも負えなくなった。
「ねえ、華音。ここはどう言う風に解けば良かったかしら」
「うん? そこ、もう20回ぐらいやったよね?」
会話も、先程から殆ど変化がない。
もう2人は、巻き戻しの術中に居た。
華音はチラッとスマートフォンの画面を見るが、術から抜け出したのは桜花の方だった。
「とりあえず、コーヒーを飲みましょう」
そう言って、硝子のポットに手を伸ばして持ち上げる。
「きゃっ」
桜花の悲鳴と共に、ポットがつるんと手から離れた。
その真ん前に居た華音は顔を上げ、瞠目し、咄嗟に身体をずらした。
ガコン。
テーブルにぶつかったポットが倒れ、コポコポと絨毯にコーヒーを注いだ。
絨毯が黒く染まっていき、芳醇な香りと湯気が漂う。
桜花は慌ててポットを起こし、瞠目したままの華音に近寄った。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫? かかってない?」
華音は応えず、ポットを通じて過去の映像を視ていた。
目の前に居るのは桜花ではない、今より若い母だ。
夕日の差し込む窓を背に、黒い影となった母が湯気を吹き出す薬缶を片手に振りかぶる。
「何で出来ないんだ!」
母の口の動きに合わせる様に、華音は立ち上がってそう叫んでいた。
背中の火傷痕が疼いて仕方がない。
痛い。恐い。
記憶の母ではなく、現実の桜花を見下ろす漆黒の瞳は、怒気が渦巻いていた。
今度は桜花が瞠目し、狼狽えた。
「えっと……あ、あの…………その……。本当にごめんなさい……」
「何度も教えてるのに、何で出来ない?」
「何でって言われても……。出来ないものは出来ないの……」
桜花は華音の目を見る事が出来ず、俯いた。
構わず華音は追い打ちをかける。
「キミ、本気でやる気ないだろ。唯やっているつもりになっているだけ。そんな自分に満足したいだけだろ」
ハッと桜花は顔を上げ、桜色の唇を震わせた。
「な、何よ……そんな言い方しなくたっていいじゃない。わたしだって必死なのよ! 皆が皆、キミみたいに完璧な訳じゃないわ! キミにわたしの気持ちは分からない!」
「オレは完璧じゃない!」
これまでの穏やかな印象の優等生が発したと思えない、声量だった。
桜花は再び瞠目し、硬直した。そのうちに、華音は帰り支度を整え、その場を逃げる様にして家を出て行った。
華音が居なくなり、静まった部屋で独り桜花は両膝を抱えた。
「酷い……酷いよ……。華音」
その声は涙を孕んでいた。
紺が混じり出した橙の空の下を、早足で歩く華音。背後に付き纏う母の呪縛から逃れる様に、早く……速く……。
母は何処までもついて来て、目も耳も支配する。
早く消えてしまえ。
耳を塞いでも、声は止まない。微かに滲む視界からも、影が消えない。
何軒か民家を通り過ぎる。
一切人と擦れ違う事がなく、世界に独り取り残されたかの様に静かだ。
夜の訪れを報せに来た風がひんやりと、頬を掠めて収束した熱が冷めていく。
そのうちに頭も冷え、母の幻は風に攫われていって、漸く冷静になれた。
華音は足を止め、横髪をくしゅっと握った。
オレ、桜花に何て事言ってしまったんだ……。これじゃあまるで……。
先の自分の姿と母の姿が重なった。
結局、どれだけ距離を置こうが、血の繋がりには抗えないのだ。
やはり、自分はあの人の息子なんだ。そう実感し、また視界が滲む。
苦しい。
けれど、きっと桜花の方がそう感じているに違いない。そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
「戻らないと!」
踵を返し、桜花のもとへ急いだ。
扉に取り付けられたインターフォンには目もくれず、家に駆け込んで、迷わずに猫のプレートの掛かった部屋の扉を開け放った。
「桜花!」
華音が必死に部屋を見回すと、彼女はベッドの片隅で両膝を抱えて顔を埋めていた。
時計の音がよく聞こえる室内で、洟を啜る音が響く。
そっと華音が近付いてみても、それは止む事はなく、桜花が顔を上げる事もない。
「……さっきは酷い事言ってごめん」
ハッキリ伝えようとした言葉も、申し訳なさから独り言の様になる。
悲嘆に飲まれた少女の姿が、脳裏で過去の自分とすり替わった。
母に「何で出来ないの!」と言われ、母の前では素直に従うフリをして、公園で独りひっそりと蹲って泣いていた嘗ての自分。
きっと、その時に母がそっと抱き締めてくれていたのなら、自分で心に包帯を巻かなくて済んだ。そんな応急処置しかしなかったから、傷が深くなって一生モノとなってしまった。
華音は過去の自分の姿を振り払い、しっかりと現実の桜花を見た。
鞄を放り、ベッドに膝を着いて両手を伸ばす。
「ごめんね。桜花」
小さくなったその身体を、優しく両腕で包み込んだ。
「華音……」
やっと上げた顔には、涙のあとが残っていたが、もう哀感の色は殆どなかった。
喫驚、安堵、そして最後に羞恥心が押し寄せ、桜花の頬は桜色に染まった。それを誤魔化す様に、態と眉を寄せて唇を尖らせた。
「何、勝手に部屋に入って来てるのよ……不法侵入よ」
「あ……。そうだった」
「よし。そのまま手首を掴んで押し倒してキスをし、服を……」
不意に、真後ろから声がし、華音は頬を紅潮させて振り返った。
「な、な、何言ってるんだよ! そんな事しないからな!」
その先には鏡台があり、鏡面にニヤついた顔のオズワルドが映っていた。
桜花は瞳を瞬かせた。
「突然どうしたの?」
視線を同じ方へ向けても、桜花の目には鏡が周りの風景を映しているだけにしか見えない。
「そっか……。アイツの、オズワルドの声も姿も、オレにしか認識出来ないんだっけ」
「オズワルドが居るんだ」
どんなに桜花が目を凝らしても、その姿は確認出来ず、少し残念に思った。
華音はベッドから下り、鏡台に不機嫌な顔で近付いた。
オズワルドはまだ笑顔だ。
「この先を期待していたのだがな。残念。しかし、若いって良いな」
「お前はじじいか!」
「まあ、人間の年齢に換算すると、そうなるだろうな。ハーフエルフの平均寿命は500歳で、私はもう400歳をとうに過ぎているから」
「もしかして、オレがジジくさいって言われるのってお前のせい……」
「いや、それは関係なくないか? それよりも――――」
コツコツと、窓を叩く音がし、華音と桜花が視線を向けると、サファイアブルーの瞳の烏が窓の外で羽ばたいていた。
桜花が窓を開けると、烏が入って来て華音の肩に止まり、ルビー色の瞳の黒猫がサッシを飛び越えてベッドの上を歩いて来た。
「丁度、魔物が現れたようだ」
「オウカちゃん。魔物を倒しますわよ」
オズワルドの言葉に次いで、ドロシーの声がし、桜花にはその声も鏡面に映った姿も認識出来た。
2人はそれぞれの魔法使いに応えた後、同時に鏡面に触れて彼らを憑依させた。
夕影の中を颯爽と駆ける獣の影は、その眼をメラメラと赤く滾らせて地上の彼方此方に視線を巡らせる。
丁度、木陰から1人夕影の下へ暢気に出て来た。
魔物の視線がそこに絞られたところで、後ろから同じく民家の屋根を伝って来た華音と桜花が到着した。
魔物は魔法使い達を一瞥すると、それが何ともないかの様に、着地点を見定める。
「アイシクルスピア!」
華音が放った氷の刃が飛び降りようとした魔物の前足を掠め、妨害。魔物の意識は、仕方なく魔法使い達へ向けられた。
魔物が鋭い牙と爪で襲いかかって来て、華音は杖で受け止める。その間に、桜花が詠唱を開始する。
火のマナが集まり出すが、一瞬のうちに分散して桜花の困惑した声が響いた。
「た、沢山来たわ!」
魔物を振り払い、振り返った華音の目に飛び込んで来たのは此方へ向かって来る魔物の軍団。その数、20。
姿形も様々で、最初の1体と同じ狼も居れば、鹿も居るし、巨大な蛇も居る。一面の黒の中で、炯々として射る双眸が夕影を受けて一層赤々と際立ち、恐怖を煽る。
魔物達は重力を無視し、宙を自由に渡り歩いている。
大蛇が二枚舌をちらつかせ、真っ先に少女へ蠕動する。
桜花の姿がその大口に隠され、華音は血の気が引いた。すぐに救出に向かおうとするのだが、足元に転がった魔物がそれを許さない。
華音は反応が一歩遅れ、今度は反対に魔物によって転がされた。
仰向けになった華音に、容赦なく魔物は牙を剥く。
かぶりつかれる刹那、華音は素早く起き上がって杖を振るう。
頑丈なそれが魔物の口内を打ち、牙を何本が砕いた。
目の前の敵が一時戦闘不能になったのを認めると、華音は丸々と肥えた大蛇に向き直る。
桜花の姿が見えない。代わりに、他の魔物達が向かって来るのが見えた。
「桜花! っもう……こいつらの相手してる場合じゃないのに!」
華音は焦燥感を露にし、乱暴に杖を振り回す。
大蛇が急に呻きだし、黒い身体が変形し始める。華音が何体かを仕留めた時には、それは風船の如く破裂し、華音の見覚えのある姿がそこに凛として立って居た。
身体を構成していた黒い物体が、雨となって桜花に降り注ぐ。
全身を黒く染めても美しい姿は、戦場に乱れ咲く一輪の花の如し。
桜花の周囲には火のマナの残骸が残っていた。
桜花は身体についた魔物だったものを振り落とし、華音の横に並んだ。
「さすがだね……。ちょっと心配しちゃった」
華音が手を動かしながら横目を向けると、桜花も手を動かして苦笑した。
「一瞬視界が真っ暗になって焦っちゃったけど、ドロシーと煉獄が一緒だったから何とかなったわ」
ほぼ全ての魔物が屋根の上、或いは地上へ横たわった。
先の大蛇は、魔物と呼称するに相応しく、身体が彼方此方に飛び散っても個々で蠢いていた。
華音と桜花は背中合わせで、詠唱を始める。
「アシッドスプリング!」
華音の透き通った声と共に、対象の足元から透明な水が湧き出る。
「イラプション!」
桜花の凛とした声と共に、対象の足元から紅蓮の岩漿が湧き出る。
そして、水と岩漿はそれぞれ、水は毒で、岩漿は熱で、魔物を溶かしていく。
ほんの数秒で黒く醜い景色は清められ、辺り一面に生命力と言う名の光が舞い上がって星の海となった。
美しさに見とれるも、まだ終わりではなかった。
『一匹、上手く躱したぞ』
華音の脳内でオズワルドが言い、琥珀色の瞳に一瞬獣の影が映り込んだ。
「これで終わりかと思ったのに」
魔物は屋根から飛び降り、地上を走る。その先には、最初に倒した魔物の獲物だった青年が居た。
青年は危機が迫っている事など知る由もなく、平和な一時を謳歌する様に天へ向かって大きく伸びをしている。
さて、出掛けるか……とバイクに跨った所で、平和は割かれた。
青年はあっさりと平和を手放し、バイクから崩れ落ちて意識を奪われた。
側には雄鹿の形をした魔物が、何処か勝ち誇った様にどっしりと立って居た。
真上からその姿を捕らえた華音は白いローブをひらりと舞い躍らせ、地上へ着地。その勢いのまま、魔物へ向かう。
視界一杯に杖が入った瞬間、魔物は身軽に後ろへ飛び退き、魔法使いに背を向けて走っていった。
華音はすぐに追いかける。
魔物は民家の間の狭い通路を、大きな角を引っ掛ける事なく悠々と進んでいって、どんどん華音との距離を引き離す。
太陽が本日最後の光を力の限り放つのを見届けながら、華音もマナを存分に集めて前方へ放つ。
パキパキとコンクリートが凍り付き、冷気の波が魔物の無防備な背中に手を目一杯伸ばす。
しかし、既の所で躱されてしまう。
目の前の氷の道は虚しくも、マナへと還って飛散し、幻想的な光の道へと変わった。
華音は幻想的な光を浴びながら、魔物の背中をひたすらに追う。
生命力、日没、魔法使いの帰宅時間――――それらのタイムリミットが一斉に襲いかかり、一層焦りを感じる。
なかなか魔物に追いつけない。
華音が焦燥感に支配されている最中、前方、上空より少女の悲鳴が聞こえた。
急いで駆け付けると、桜花が地上にペタンと座って居た。しかも、最後の魔物をクッションにして。
「屋根から足を滑らせたんだけど、何かがクッションとなってくれたおかげで助かったわ……」
額を拭う桜花の顔は青白い。
「それ、魔物だよ……」
華音は苦笑して近付き、杖を構える。
桜花は瞠目し、慌てて尻を持ち上げて気絶した魔物を見下ろした。
「そんな! えっ!? な、何か……わたしってカッコ悪い…………」
「いつも通りだと思うけど」
「ちょっと! それは酷いんじゃないかしら」
「……だけど、助かった。止めを刺すから、そこから離れて」
言って、華音はマナを集め始め、桜花はそれに従う――――が、途中で転んだ。
華音は驚きつつも、もう既に魔術は発動していて、大波が魔物を飲み込んで暴れ、激しい水飛沫が桜花に容赦なく降りかかった。
魔物は生命力を吐き出して消滅し、水浸しになった地面には桜花だけが残された。
全身ずぶ濡れになってしまった哀れな魔法使いに、もう1人の魔法使いは表情を引き攣らせて手を差し伸べた。
「何でそんなタイミングで転ぶかな」
「だ、だって……! うぅ……冷たいよ」
桜花は華音の手を取って立ち上がり、ぴったり貼り付く衣服に不快感を覚えた。
メリハリのあるボディラインがより強調され、華音は耐え切れずに視線を逸らした。
脳内ではオズワルドの茶化す声が聞こえる……かと思いきや、真面目な声が聞こえた。
『すぐ近くに魔女が居る!』
「ま、魔女!?」
「えっ? 魔女?」
桜花は華音の声に反応し、辺りを頻りに見渡す。
「あ! あそこに……」
魔女を発見したのは、華音が先だった。
見上げた屋根の上、斜陽を静かに見つめる和装の魔女の姿があった。三角形の連なる模様の振袖が、風に揺さぶられる。
『あれは土星の魔女クランだ』
オズワルドがそっと告げる。
華音もオズワルドも月の魔女アルナ以外と出くわすとは思っていなかった為、正直に驚いている。
幸い、土星の魔女は2人の魔法使いには気が付いていない。
此処で撃退したいところであるが、オズワルドとドロシーはもう此処に留まる事は出来ず、仕方なく還っていった。
土星の魔女も、ほぼ同時に姿を消した。
太陽も勤務を終え、月とバトンタッチ。闇が空全体を覆い隠した。
華音も帰ろうとして、桜花を振り返るや否や頭を抱えた。
憑依が解けても、全身びしょ濡れである事は変わりはない。
ボディラインを強調する様にぴったりと肌に貼り付いた猫耳パーカーに、ウェーブした赤茶色の髪から滴る水が艶かしい。
この状態の少女を1人帰らす訳にもいかないし、何より鞄を赤松家に置いて来てしまった。きちんと自宅まで送り届ける他はない。
「帰ろうか」
顔が熱くなるのを誤魔化す様に、態と笑みを作った。
桜花は小さく返事をし、華音の後に続く。が、足首に痛みを感じて立ち止まる。
気付いて華音が踵を返した。
「桜花? もしかして、さっき転んだ時に足くじいた?」
「そうみたい……」
桜花は恥ずかしさのあまり、目を伏せた。
華音は一瞬困惑の色を浮かべたが、すぐに桜花に近付いて背中を差し出した。
今度は、桜花が困惑した。
「え? 大丈夫よ……わたし、歩けるから」
「いいから。家まで運ぶよ」
華音に押し切られ、桜花は渋々華音の背中に全身を委ねた。
華音って、意外と力あるんだ……。じゃなくて、恥ずかしい。申し訳ない。わたし、重くないかしら。……華音の背中、あったかいなぁ。
桜花は華音の背中に、顔を埋めた。
街灯が照らし始めた街を、華音が桜花を背負って歩いていく。道中、好奇の視線が槍の様に突き刺さる事もあったが、2人はなるべく気にしない。と言うより、華音は1人悶々としていて、桜花は彼の背中に顔を埋めたままだったので、気付いていなかった。
擦れ違う人の姿もまばらになり、明かりの灯った民家の立ち並ぶ景色となった。
時折、夜風に乗って各々の夕飯の匂いが漂って来た。
外を出歩いているのは、華音と桜花だけだ。
華音は夜空で煌き始めた星を眺めながら、徐に口を開いた。
「さっきオレが怒ったのは、桜花が勉強が出来ない事に対してじゃないんだ」
「……違うの?」
桜花は顔を上げ、首を傾けて華音の顔を覗き見ようとした。
「嫌な過去を思い出したから……。オレ、熱湯と薬缶が恐いんだよね。おかしいだろ」
華音は無理な笑みを作ってみせたが、当然桜花からではその表情は覗えない。けれど、声色で何となく分かった。
「そうだったのね。別におかしくはないけれど……」
これ以上、桜花は言葉を続ける事が出来なかった。続けてしまったら、きっと華音を拷問するみたいになってしまうから。
知りたい事はある。しかし、知られたくない事も、知らなくてもいい事もある。だから、お互いにもうこの話題に触れる事はなかった。
桜花の住むアパートに到着した。
玄関を華音が開け、桜花を玄関で下ろした。
それから、華音は本人に許可を取り、急いで桜花の部屋から自分の鞄を回収。靴を履き、まだびしょ濡れのまま床に座っている桜花を振り返った。
「そのままじゃ風邪引くから、ちゃんと風呂に入りなよ」
前を向く――――と同時に扉が開かれ、黒い短髪に栗色の瞳の、スーツ姿の中年男性が入って来た。肩に担いだ鞄を下げ、瞳を数回瞬かせた後、ニィと歯を見せて笑った。
扉がパタンと閉まる。
「おかえり、お父さん」
「え。お父さん!?」
平然としている桜花を思わず振り返る華音だが、肌にしっかり貼り付いたままのパーカーと水の滴る赤茶色の長髪を見て固まった。
俺の大事な娘に何をしたんだ! と激怒されてもおかしくない状況。
案の定、桜花の父は歯を見せたまま華音の肩を思いっきり掴んだ。
「ご、ごめんなさい……えっと、これは……」
「お前さんが桜花の彼氏か! いやぁ……ありゃ、嘘だと思ったんだが、本当に居たとはなぁ。しかも、イケメンだし、頭良さそうじゃねーか」
「あ、はい。え? あの?」
予期していた展開と異なり、華音は唖然とした。
華音の言葉を待たず、桜花の父は容赦なく続けた。
「うちの娘は恋愛経験ないから、色々教えてあげてくれ。あーそれと、もう遅いだろうが、うちは壁薄いから周囲に丸聞こえだからな」
「? 何の事ですか?」
「お前さんが本気なら、娘を嫁にやってもいいが……在学中は妊娠させないでくれよ?」
恋愛に疎い華音も、さすがに最後の言葉で己の置かれた状況を理解した。桜花の父から逸らした顔は、真っ赤だった。
羞恥のあまり反論出来ない華音の代わりに、桜花が頬を同じく赤く染めて声を荒げた。
「その言い方セクハラよ!」
「いやぁ、でも言っておかないとと思ってな。最近の若者は、学生でも割と多いって聞くし」
「ストレートすぎるのよ! と言うか、華音は違うからね!」
「名前呼びってところが怪しい気がするがな。普通、異性1人を自宅に呼ばんだろう」
「もう! わたしが違うって言ってるのに、どうして疑うのよ。こうなったら、お風呂入って今日の事はお湯に流すわ!」
桜花はバスルームへ、スタスタ歩いて行ってしまった。
残されたのは華音と桜花の父。初対面同士の、形容し難い空気が流れる。
華音の方が気不味くなり、助けを求める様にドアノブに手を掛けた。
「お、お邪魔しました!」
その声色にも表情にも、いつもの優等生の面影は殆どなかった。
木曜日の夕方、漸く華音は桜花から解放された。
結局、桜花の父と鉢合わせて以来何だか桜花と関わるのが気不味かったのだが、桜花は全てお湯に流し、翌日から平然と華音をまた自宅へ招いて勉強会を開催した。
この一件で、華音は自身が意外にも押しに弱いのだと気付いたのだった。
この際、切りがよく金曜日まででも構わなかったのだが、桜花の方から「あとは自分で頑張る」と言い切った為、それに従った。
だから、本日の予定はない。
ホームルームの時間が終わり、チャイムが鳴り終わると、華音は帰り支度をして席を立った。
昨日まではこの時点で、桜花を伴って教室を後にしていたが、今日は帰り支度をまだしている桜花の横を素通り。
それを見て、雷が華音のもとへ歩み寄って来た。
「鏡崎。今日は……いいのか?」
雷は桜花を一瞥し、華音の表情を窺った。
「ああ。もう大丈夫。何かオレに用でもあるのか?」
「何か悪いな。実はさ……数学で分かんねーとこがあってさぁ」
「そうか。じゃあ、教えるよ」
「サンキュ。マジ助かる。俺の知り合い馬鹿ばっかだから、頭良いお前が居てくれて良かった」
「それで、場所はどうする?」
華音は教室を見回し、雷に視線を戻して首を傾けた。
雷は腕を組み、天井を仰ぎ見て唸る。
「そうだなー……学校でもいいけど、あんましお前と一緒に居ると、お前の評判悪くなりそうだし……」
「評判?」
「俺、こんなナリだしな」
耳に付けたピアスに、着崩した制服、喧嘩で鍛えられた拳……全てが華音とは真反対だ。心根優しい雷は、その事で親友に迷惑がかかるのではないかと危惧しているのだ。
勿論、華音の方はそんな事気にもしていないのだが、雷が許せなかった。
雷は、まだ視線をそのままに真剣に考える。
「かと言って、うちは散らかってるし、人を呼べる状態じゃない。それに、妹と弟が居て勉強に集中出来やしない……」
「……それなら、オレの家に来るか?」
少し間を置いて華音が言うと、2方向から「え!?」と声が上がった。
1人は雷、もう1人は華音の後ろから、鞄を肩に担いでやって来た刃だった。
「鏡崎の家って良いのか? 何か悪いような……」
雷は恐れ多いと言った様子だ。
対して、刃は無遠慮な笑みを浮かべ、華音の首に腕を回した。
「華音ちゃんの家、俺も行きた~い!」
華音は鬱陶しそうにその腕を払い、背後は無視して続けた。
「別に、家政婦が1人居るだけだから。無駄に部屋あって広いし」
これだけ聞けば、唯の裕福自慢の様だが、華音の事をよく知っている親友達からすれば、心からうんざりしているのだと分かるので羨望も憎悪も抱かなかった。寧ろ、同情が沸いた。
刃は無視された事など介意せず、また華音の首に腕を回した。
「そんじゃ、これから華音ちゃんの家行って、パーっとやろうぜ!」
「お前は何がしたいんだよ」
漸く華音が振り返り、刃の表情がみるみるうちに主人に構ってもらえた飼い犬の様に生き生きと輝いた。
「パーティーさ! 西野達も呼んでさぁ」
「待て待て。俺は勉強をしに行くんだぞ」
すっかりその気の刃に制止をかけたのは、雷。
華音も頷き、再び刃を無視する事を決めると腕を振り払って歩き出した。一歩遅れて雷も歩き出した。
教室を出て行く2人を、慌てて刃が追いかける。
「ちょっとぉ! パーティーはしないから、俺も混ぜてよ! 何かハブられるの寂しー」
鍋の中で、新鮮なトマトのしっかり溶け込んだスープがぐつぐつ音を立てている。それに合わせ、おたまでスープを掻き混ぜながら水戸が鼻歌を歌う。
更に、夕食作りの演奏会に電話の音が加わると、水戸は火を止めて急ぎ足で廊下へ出た。
広い玄関の片隅で、固定電話が甲高い音を立て、ボタンの上の液晶画面を忙しなく光らせていた。
水戸は受話器を取り、耳にそっと当てる。
「はい。鏡崎で……」
受話器越しに聞こえて来た声に、表情が引き締まる。
「今からですか。……はい。分かりました。華音くんにも伝えておきますね」
通話が切れると、水戸は息を吐いて受話器を置いた。
たった数秒の、一方的な短い伝言だったが、数時間説教をされたかの様な疲労を感じた。まだ、表情は強ばっていた。
鏡崎家の家族関係が壊れてしまっている事は、他人である水戸もとっくに気付いている。華音は表面上は聞き分けの良い息子にしか見えないが、母親に対する強い拒絶の様なモノがあった。
母親が華音に直接連絡を取らないのは、そう言った感情を感じ取っているからなのかもしれない。
水戸はまだ開かれる事のない玄関扉を見、複雑な面持ちでパステルイエローのエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。
華音と刃、2人で通っているいつもの帰り道を、今日は雷を伴って歩く。途中、いつも刃と別れを告げる場所に差し掛かったが、通り過ぎても変わらず刃は華音の隣を歩いていた。
華音は、横目で刃を見た。
「来てもいいけど、勉強の邪魔はするなよ。と言うか、オレの家、何もないから退屈だと思うけど……」
「邪魔しない、しない。1度ぐらいは行ってみたいじゃん。親友の家にさ」
「そんなもんなのか」
華音には、刃の心境が理解出来なかった。
3人は小学校中学年の頃からの付き合いとなるが、これまで1度も華音が自宅に2人を招いた事はなかった。それどころか、逢うのは決まって近所の公園のみで、小学校も中学校も別だった。
中学生になってからは逢う事はなくなり、高校の入学式で漸く再会を果たしたのである。その時は互いに成長し、雰囲気も変わっていてすぐには気付けなかったが、名前を知って言葉を交わすと、当然の様に昔の関係に戻ったのだった。
唯、華音は昔から自分の事を話さない為、刃と雷は今でも彼の家庭の事は全く分からない。正直、これから鏡崎家へ向かう事に不安はあった。
父親が他界している事は、親友でなくとも知っている。当時の鏡崎家具の社長が病死したニュースは、世間を騒がせたのだから。
華音に兄弟はおらず、同居している血縁者は現社長の母親のみ。その母親も滅多に家に帰らず、代わりに家政婦を1人住み込みで雇っている。
そんな聞いただけでも寂しい家に、部外者が踏み込んでいいのだろうか。と、同時に、刃と雷には親友の為に何か出来る事が見つかるかもしれないと言う、微かな希望が胸に宿っていた。
不安と重たい空気を振り払う様に、親友達はいつもの調子で他愛ない話で盛り上がり、時折冗談を言って華音を笑わせた。
擦れ違った近所の奥さんに、華音が優等生の顔で挨拶を交わす。
そうしているうちに、目の前には純白の高い塀と重厚な門が見えて来た。
そこに囲われているのは、まさに西洋の風景。一面の芝生に、綺麗に並んだ庭木、煉瓦の道……その先にどっしりと構える洋館。立派な扉を潜り抜ければ、貴婦人らがティーカップ片手に楽しく談笑でもしていそうな雰囲気があった。
閉じられた門の左隣には広い車庫、右隣には表札がある。
想像以上の豪奢さに、刃と雷の口はあんぐりと開いていた。
思わず、お決まりの様に「此処がお前の家か?」と訊きたい衝動に駆られるも、そんな事は表札を見ればすぐに分かる事。それに、開いたままの口が上手く言葉を紡ぐ事は出来なかった。
華音は言葉を失った親友よりも、車庫の方が気になっていた。
普段シャッターが下ろされている筈なのに、今日は全開だ。そして、見慣れた水戸の軽自動車の横に、艶やかな黒いボディの高級車が停っていた。
まさか……と思うと、門とドアがほぼ同時に開いた。
慌てた様子で門から出て来たのは、朝見た時と変わらないパステルイエローのエプロンを着用した家政婦の水戸。
高いヒールの音を響かせて運転席から出て来たのは、大分前に見た時と変わらないきっちりとしたスーツを着用した鏡崎家具の社長である――――
「母さん……」
華音が呟くと、親友の視線は水戸から華音へ、そして、華音の母親へと移った。
2人もテレビで1度は見た事のある女性。40歳を過ぎていても、若々しくて美しい彼女は気品だけでなく、社長としての威厳も兼ね備えている。
後ろでしっかり結っている黒の長髪に、大きな黒の瞳、雪の様に白くて血色の良い肌。化粧は薄いが、逆に、自然に近いその姿が妙に色っぽくて美しかった。
わざわざ口にせずとも、華音がこの人から産まれたのだと、その外見だけで分かる。
雷は華音の母と目が合い、慌てて逸らした。刃も少し気不味そうに視線を逸らし、2人の視線は再び華音へと戻った。
睫毛の長さが際立つ横顔が、僅かに強ばっていた。
「す、すみません。華音くん、一応連絡は入れたのですが……」
傍に来た水戸が眉を下げ、華音はズボンのポケットからスマートフォンを取り出しかけてやめた。母が目の前に来たからだ。
華音はサッと、綺麗過ぎる笑みを顔に貼り付けた。
「母さん。今日は仕事、早く終わったんだね」
「ええ。久しぶりに、華音に逢いたくなってね。暫く見ないうちに、背伸びたわね。何だか、昔の音夜が還って来たみたい。本当、お父さんにそっくりね……」
母は瞳を揺らし、愛おしそうに手を伸ばす。
髪に母の手が触れても、華音の表情はそのままだ。
ごく自然な、久しぶりの親子の対面の様子だが、親友達の目には不自然に映った。
母は手を下ろして、今気付いた様に華音の隣に並んだ少年達を一瞥して首を傾けた。
「……その子達は鏡国高校の生徒よね。クラスメイト?」
「うん。そう。友達」
「高木です。初めまして」
「俺、刃! よろしく~華音のお母様」
雷が恭しく挨拶し、刃があえていつもの調子で緩く挨拶した。
2人の姿に、明らかに母の笑顔が引き攣った。
「そうなの。よろしくね。……華音、ちょっと」
母の表情の変化をしっかり見ていた華音は、何の躊躇もなく母に手招きされるまま、親友達から離れた。
華音を覆い隠す様に、刃と雷に背中を向けた母は眉を吊り上げて牙を剥いた。先とは別人の顔だが、華音にとっては記憶と一致する顔だった。
「本当に友達なの!? どう見ても、不良じゃない」
「友達だよ。1番仲が良いんだ」
華音は時折目を逸らしそうになりつつも、何とか笑顔を保ち続けていた。
「華音! 貴方、私が見ていなくてもちゃんと真面目にやっていると思ったら……。あんな不良と付き合うのはやめなさい! 貴方とあの子達は違うの。貴方にはちゃんとした……」
「……ちゃんとしたって何? オレとアイツらの何処が違うって言うんだ」
笑顔の仮面が罅割れ、ポロポロと零れ落ちていく。
その仮面の隙間から見え始めた素顔に、母の背筋がゾッと凍りつく。
華音の漆黒の瞳が、怒気を纏ってギラリと光った。
「2人はオレの大切な親友なんだよ。あんたよりも、オレの事を解ってくれてる。人を見掛けでしか判断出来ないあんたが、勝手にオレやアイツらを知った様に言うな!」
澄み渡った空に、怒りが響き渡った。
直接それをぶつけられた母は勿論の事、外野である水戸、雷、刃も気圧された。
夜風が通り過ぎるよりも先に空気が冷やされ、西へ向かう太陽も遠慮がちに光をチラリチラリと零すだけ。この場には、夜よりも深い闇が落ちていた。
これ以上は、此処に居ては駄目だ。そう悟った雷と刃は、そっと歩き出す。
「鏡崎、悪いけど俺達……」
と、言いかけた雷の横を早足で華音が通り過ぎた。
呆気にとられている親友を振り返り、華音は酷く澱んだ声で言う。
「何してるの。行くよ」
「行くって?」
「待ってよ、かがみん」
慌てて雷と刃が追いかけた時には、華音は再び歩みを始めていた。向かうのは鏡崎家ではなく、母の視界の外側。
3人が去って行くのを呆然と眺めていた華織のもとへ、恐る恐る水戸が歩み寄った。
「華織様……」
「……水戸。温かい紅茶を淹れてちょうだい」
華織が黒い長髪を靡かせ、カツカツ歩いて行く。堂々とした態度で振舞うも、その背中は悲しみを秘めた1人の母親そのものだった。
「は、はい!」
水戸は華音達を一瞥し、すぐに華織を追い越して門を開けて主を誘導した。
温かく香り高い紅茶は確かに、夜風に晒されて冷えた身体を温めてくれたが、広い雪原に放り出された心までは温めてはくれなかった。
座布団の上、長い足を綺麗に曲げて座る華織の口から溜め息が漏れた。
「会社は何とか護っているわ。だけど、何よりも大切なあの子の事はどうにも出来なくて……。確かに、貴方に似て優秀よ? 成績は今も学年トップなんだって。美術だけは、誰に似てしまったのかしら……からっきしみたいだけど」
彼女の話を、笑顔で黙って聞いているのは遺影の夫だ。
音夜は生前もこうして、華織や華音の話を穏やかな表情で真剣に聞いてくれていた。そして、時には優しく、時には厳しい真摯な意見をくれた。
けれど、現在、華織の目の前に居る彼はもう一方的に話を聞く事しか出来ない。それでも、夫がまだそこに居るみたいで華織は安心出来た。
いつも近況報告する華音も、華織と同じ気持ちだ。
音夜は家族にとって大切な夫であり、父であるのだ。
華織は目を瞑り、瞼の裏に幼き息子の姿を映し出す。
「分かってる。華音が心を閉ざしてしまったのは、全部私のせい。私が心も、身体も傷付けてしまったの。それなのに、私は今もこうして逃げ続けている。現実から目を背けているの。貴方はきっと呆れているでしょうね……。本当にごめんなさい……」
瞼の裏の息子の瞳から涙が溢れ、華織の頬にも涙が伝っていた。
華織を呼びに来た水戸は廊下から様子を見、壁に凭れてスマートフォンを胸に抱いた。まだ、お知らせランプは光らない。
華音が歩みを緩め、漸く刃と雷が横へ並ぶと、2人の耳に先とは真逆の弱々しく頼りない声が届いた。
「ごめん……。つい、感情的になった。オレの事はどう言われたって、どう思われたって構わないけど、2人の事を言われたら、言い返さずにはいられなくて」
華音の母があんなにも怒った理由は自分達のせいであると自覚していた2人は、何も返す事は出来なかった。
情けない事に、庇ってくれた華音への礼の言葉ですら、喉に突っかかって出ては来ない。
構わず、華音は話を続けた。
「もう1つ謝らなきゃいけない事が……。勢いで来ちゃったから、これからどうすればいいのか分からないんだよね」
苦笑し、後頭部を掻いた。
少し普段の様子に戻った親友を前に、刃と雷もいつもの調子に戻り始めた。
刃が笑みを浮かべ、華音の背中を思いっきり叩いた。
「頭いーのに、その抜け感がらしくていーわー」
「らしいって何だよ」
華音は仕返しに、刃の脾腹に肘を捩じ込んだ。
「ぐはっ。華音ちゃん、やっぱ凶暴で恐いわー」
そう言いつつも、刃は楽しそうだ。
雷は、まだ休憩中の街灯の先をチラリと見た。
「なら、コイツの家行けばいいんじゃねーか?」
「あぁ。刃の家か……。この道行ってすぐだな」
2人はすっかりその気で、爪先をそちらへ向ける。が、本人は納得がいっていなかった。
「ちょ! 俺、許可してないよね!? やだよ、やだやだ。いくら親友でも、男2人をあの1Kに入れたくない! 色気の欠片もない! 入れるのは彼女だけだと決めているんだ!」
2人は踵を返した。
「鏡崎を愛人とか抜かしてたくせに何なんだ?」
「やっぱ訂正! 華音ちゃんだけなら大歓迎。雷は帰れ」
「はぁ?」
「て、ワケでー。華音ちゃん、愛人らしく俺とエロい事しよー?」
「はぁ?」と、今度は華音が眉間に皺を寄せた。
刃にゴミを見る様な目を向けた後、華音と雷は歩き出した。
「わー! 今の、マジで冗談だから! 俺の家は扉を開けたら異世界でした、だから!」
毎度お決まりの如く、刃は2人の背中を追った。
扉を開けたら異世界でした。
まさにその通りだった。
刃の部屋は一階の角で、刃が開錠した扉の先は外の静けさが嘘の様にお祭り騒ぎだった。
音声がある訳ではないのだが、色んな物が玄関の先に転がっていて視覚的に騒がしいのだ。
一歩踏み入れただけで、華音と雷は立ち去りたくなった。華音の家は当然埃1つないし、妹と弟が大騒ぎしている雷の家だって此処まで酷くはない。
2人にとって、これは異世界と呼ぶに値する光景だった。
「これ……彼女呼んだら、即フラれるな」
雷は哀れみの目を刃に向け、華音も静かに頷いた。
「だから言ったじゃんか! てか、フラれるって決めつけんな。世話好きの娘だったら、しょーがないなぁ~って許してくれるんだよ! 入るのが嫌なら、カラオケ行こうぜ! うん、そうしよう!」
刃が扉から手を離し、クルッと後ろを向いた。2人からの返事はなかったが、それを肯定と受け取り、当然の様に歩き出す。2人が続くのも、当然だと思っていた。が、2人が刃の言葉に従う筈がなかった。
雷がドアノブを回し、ぶつぶつ文句を零しながらも玄関へ踏み入れ、華音も続いた。
刃は踵を返し、閉まっていく扉を押さえて親友達の背中を追って帰宅。
「結局上がるのかよ!」
不満を叫ぶ住人の事などお構いなしに、華音と雷は一足先に台所を抜けた先の部屋へ辿り着いた。
今太陽が滞在する位置とは正反対の硝子扉からは自然光は僅かにしか入らず、室内は仄暗い。それに加え、洗濯前なのか、洗濯後なのかすら分からない、畳まれずに放置された衣服があちこちに点在し、空いたダンボール箱がいくつも転がっていて、ゴミ屋敷の第一歩を堂々と踏み出した此処は空気もどんよりとしていた。
唯一整頓されているのは、壁際の本棚。漫画やライトノベル、アニメのDVD、ゲーム、美少女フィギュア……と、刃の大好きなものが綺麗に陳列されていた。フィギュアなど、埃1つ被っていないという徹底ぶり。それなのに、その周辺はガラクタの海が広がっていた。
部屋の真ん中に置かれたシンプルな四角いローテーブルとその周辺、美少女キャラクターがプリントされたクッションなどが置かれたベッドの上は何とか座れるが、あくまで刃が生活出来る程度だ。とても、男3人で居座るには窮屈過ぎるし、何より居心地が悪い。
鞄を適当な場所に下ろした華音と雷は、まず部屋の掃除から取り掛かろうと決意を固めた。
夕映えの空が地上を見下ろす頃になり、漸く親友の家で息をつく事が出来た華音と雷。
ふと、先程まではダンボールで見えなかった小動物用ゲージが床の上に置かれている事に気が付いた。
雷はそれを見るなり、呆れた顔で「ハムスター飼ってるのかよ……こんな汚い部屋で」と言った。言葉の端々にハムスターに対する同情が覗える。
刃は何故か誇らしげに頷き、ゲージに近付いた。
「イエロージャンガリアンのイエスって言うんだ」
「やけに宗教的な……」
雷は遠い目をし、ゲージを見た。まだ、睡眠中でその姿は暫く拝めそうもない。
「イエスはめっちゃ可愛いんだぞ。手乗りするし」
「……これがハムスター。ゲージ、意外と小さいんだな」
華音は興味津々に、その小動物の姿を探していた。
イエスは出入り口が丸く刳り貫かれた巣箱の中。辛うじて、揺れ動くふさふさの背中が見えるだけだ。
「かがみん、ハムスター見た事ねーの? てか、ペットとしては王道な気がするけど……。何か飼った事ねーの?」
今度は刃が興味津々に、華音の答えを待った。
華音は少し上を見ながら、幼い頃の記憶を手繰り寄せる様にして口を開いた。
「唯一飼った事があるのはエミューぐらいかな」
「エミュー」
刃と雷は同時に言うなり、顔を見合わせた。
「エミューって、ダンジョンに出て来るやつ?」
「そんでもって仲間にして、背中に乗ってフィールド移動出来るやつだな?」
何故か声を潜める。
2人が想像しているのは、ロールプレイングゲームに登場する大型の鳥モンスター。
華音は2人の想像など知らず、懐かしそうに続けた。
「父さんが北海道へ出張に行って来た時に、お土産で雛を買って来てくれたんだ。名前は空。いつか大空を羽ばたける様にって想いを込めて、父さんが名付けたっけ……」
平然と語られたその話に、2人はまた突っ込まなければならなかった。
「メロン買って来いよ!」と、刃が最初の話に突っ込み、次に雷が「飛べない種類って分かってるよな!? 親父さん鬼畜!」と最後の話に突っ込みを入れた。
「そうだよなー……」
華音から返って来たのは、気の抜ける様なのんびりとした声。忽ち、刃と雷の熱が冷めてがっくりと頭を垂れた。
ハムスターは一旦視界の隅に置き、3人はローテーブルを囲って座った。
刃はテレビの方へ身体を向け、華音と雷は鞄から教科書を取り出した。
今まさにテレビのスイッチを押そうとしていた刃は、2人の行動に手を止めた。
「2人とも、何をする気だ?」
「勉強」
間髪入れずに華音が言い、雷も頷きながら教科書を机に広げた。途端、刃の顔が引き攣る。
「マジで? 本気でやっちゃう系? えー……せっかく明日休みなんだし、遊ぼうぜ? たまには息抜きも必要だって!」
「刃も、赤点採ったらマズイだろ。鏡崎はいいが、俺達マジでヤバイぞ。高2だしさ」
雷が真剣に言い返すと、渋々刃も教科書を取り出して開いた。
「何でだろうなぁ……。かがみんだって、特別に何かしてるワケじゃないのに、何でこうも俺らと違うんだ?」
「鏡崎は真面目に授業受けてんだろ、俺達と違って」
「まぁな。でも、やっぱ才能だよー」
「……いや、オレはどう頑張っても芸術性を手にする事が出来ないから」
華音が不服な表情で口を挟み、2人は「それなー」と笑いながら肯定した。
否定を望んだ訳ではないが、華音は複雑な心境だった。
室内に自然光が殆ど届かなくなり、刃が部屋の明かりを灯した事で男3人の勉強会が始まった。
雷の分からない箇所が明確だったので、華音も的確に指導する事が出来た。始めやる気のなかった刃も、華音が丁寧に教えれば、それに見合った結果を残す様になった。
短時間で、確実に2人は成長している。
華音は親友達と桜花を比べ、小さく息を吐いた。
「普通はこんなもんだよなー……」
「何の話だ?」
雷がシャーペンを置き、向かいの華音の顔を見た。
目が合うと、華音は苦笑して首を横に振った。
「こっちの話」
「だから、どっちだよ。最近、そのフレーズ多いな」
「そうか? それより、雷。そこ、間違ってる」
「え。マジか」
雷は、華音がシャーペンで指し示した己の解答を見、驚く。
華音の丁寧な解説が始まって雷が真剣に聞く中、早くも刃は戦線離脱していた。
刃は怠そうに伸びをし、壁掛け時計を見て何か思い出したかの様に、バッと立ち上がった。その勢いに、2人の視線が彼に集中した。
刃は視線をよこす親友達に、グッドサインをした。
「夕飯の時間だぜ!」
華音と雷が確認した壁掛け時計は、それが妥当な時間を示していた。刃の集中力のなさに呆れるも、栄養補給は大切。今は彼の言うように、その時間を設ける為に教科書を閉じた。
「すぐに用意出来るから、2人ともくつろいでいてくれ! 部屋を綺麗にしてくれた礼に、俺のとっておきを出すからよ!」
言って、刃は台所へと消えていった。
華音と雷は顔を見合わせ、首を傾げる。声に出さずとも、同じ事を思っていた。
刃って料理出来たのか?
刃の「すぐに」は本当にすぐだった。
ガラッと、引き戸が開かれ、左腕に封をしたカップ麺、右手に湯気を吹き出す薬缶を持った刃が再登場した。
雷はやっぱり……と呆れ、皺の寄る眉間に手を当てた。
「とっておきって、カップ麺かよ……。大体、鏡崎にそんなもん食わせようとするなよ」
刃はドシドシと絨毯を踏み鳴らし、テーブルにカップ麺を並べた。『まるで生麺』とキャッチフレーズの書かれたパッケージには、美味しそうなイメージ写真が載っていて、それだけで食欲をそそる。味は醤油、とんこつ、味噌の3種類。
刃は薬缶を持ったまま、頬を幼子みたいに膨らませた。
「そんなもんじゃねーし! これ、1個200円以上もする高級品だし! かがみんだって、別に毎日フレンチ食ってるワケじゃねーんだしさ。ほら、この前もメガハンバーガー食ってたし」
「まあ、学校でもどんぶりばっかだしなぁ。いや、でも、何か絵面的に想像出来ないんだが……」
「俺は逆に、フォークとナイフ持って白いテーブルで上品に食ってる姿の方が想像出来ないぜ」
「確かに。綺麗過ぎて恐いかも……」
と、親友達が華音の話題で盛り上がっているのだが、肝心の彼は思考をすっかり止めていた。
気が付いた雷が、華音の前で手を振った。
「って、鏡崎? おーい?」
「な、何で……」
華音の視線は雷を通り越し、脇に立って居る刃――――正しくは彼の持っている物に釘付けになっていた。
「え? かがみん、ホントに嫌だった? カップ麺」
刃が首を傾けると、華音は顔面蒼白で続けた。」
「そ、それ……持って……」
「それ? あぁ、これ? 薬缶の事? だって、うちポットないからさー。いつも薬缶でお湯を沸かしてんの。と言っても、ガス代も馬鹿になんねーけど」
「そう……なのか」
明らかに、華音の様子がおかしい。長い年月を共にして来た2人が、初めてみる姿だった。それはまるで、親の絶対的な力に抗えない子供の様。
雷は微かに震える華音の肩を掴み、刃の目を捕らえてその後ろを顎で示した。
「それ置いてこい。飯は違うもん用意するから」
「あ、ああ」
刃も察し、急いで台所へ薬缶を置きに行った。
夕飯はカップ麺ではなく、華音と雷がタッグを組んで作る事となった。
華音の恐れ戦く様子に、雷が機転を利かせたのが始まりで、正気を取り戻した華音が手を貸す事を申し出て、今の状況が出来上がった。
1人暮らしにピッタリな子供の背丈程の冷蔵庫には炭酸飲料しか入っておらず、食材は3人で近くのスーパーまで行って買い揃えた。支払いは、勿論割り勘だ。
料理の全く出来ない役立たずの家の主は隣の部屋に追い払い、普段使われている形跡が殆どない台所に立つのは客人である華音と雷の2人だ。
成績優秀、運動神経抜群の優等生は、当たり前の様に料理も出来る。但し、美術センスが唯一備わっていない為に、見栄えは悪い。それを普段、家の手伝いをしている雷が手際よくフォロー。
味も見た目もパーフェクトな料理の完成だ。
華音と雷は出来たばかりの料理を手に、刃のもとへ戻った。
香ばしくて食欲をそそる美味しそうな匂いが、テレビに夢中になっている刃の鼻をつく。
刃はテレビから目を離し、テーブルに置かれた料理を見て目を輝かせた。
白い皿の上には、絹の如くきめ細やかな薄く焼かれた卵がそこに固められた物を優しく包み込み、真紅のケチャップがその上で軽やかにステップしている。黄、赤に加え、ハーブの緑が添えられ、色鮮やかで美しい。シンプル故、それが顕著に表れる。そして、小さめのマグカップに入った、玉ねぎがじっくり溶け込んだ飴色スープが天井の明かりを反射させて揺らめいた。
華音と雷は「時間がなかったから」と前置きしたが、普段カップ麺ばかり食べている刃にとって、これは十分なご馳走だった。
早速、3人でいただきますをして食べ始める。
スプーンで卵のベールを割ると、中からケチャップライスが湯気を立てて顔を覗かせた。更に、ライスに紛れてやや大きめに切られた鶏肉、飴色玉ねぎがゴロゴロ入っていた。一度口へ含めば、ケチャップの甘酸っぱさと卵の優しい味わい、しっかりと味付けされた鶏肉と玉ねぎの香ばしさが調和され、舌先を至福で満たした。
刃はつい蕩けそうになる頬を押さえ、もう1度スプーンでオムライスをすくった。
「ナニコレ。めっちゃ美味いんだけど!? 何したらこんな味になんの」
「何って。普通の材料と作り方だよ。逆に、刃は普段何食べてるんだ」
華音が苦笑すると、隣で雷がスープを飲み干して首をゆるゆる横へ振った。
「いや。マジで美味いぞ、鏡崎。プロなのか? お前は。手際も良かったし。俺は盛り付け以外に出る幕なかったわ」
「え? そう? どうも」
「てか、かがみんの盛り付けがどんなだったのか気になる~」
刃がスプーンをそのままに、ズイっと顔を華音に近付けた。
困惑する華音に対し、雷は数分前の事を思い出してにやけていた。
「出来たケチャップライスを皿に豪快に叩きつけ、薄焼き卵をひらりと置いた。その光景はまるで、潰れて内容物をぶちまけるスライムの様だった……。そして、その上にケチャップを絞り出そうとし、止めに旗を立てようとしていたから、さすがに止めた」
「殺人……いや、殺スライム現場じゃねーか……」
刃は笑いを通り越し、一種の恐ろしさを感じた。
「そんで、俺がライスを整形し、卵で綺麗に包み込んでケチャップとハーブで飾り付けたワケ。味は良くても、あれじゃヤバイわ」
「まあ、ある意味SNS映えしそうな気ぃするけど」
「いいねが一杯つくかもな。撮っときゃ良かったかな」
親友達に揶揄された気がし、華音は1人不愉快な想いがした。唯一褒められた味を黙々と噛み締めた。
「見た目はともかく、料理出来んなら家政婦いらなくね? あの水戸さん? だっけ。少し見ただけだったけど、可愛かったなぁ」
刃は食事を再開しながらも、器用に声を出した。
華音は手を止め、表情を曇らせた。
「正直……大抵の事は自分で出来る。だけど、雇い主は母さんだから。それに、水戸さんの事は嫌いじゃない。必要ないなんて思わせない様に、オレは出来ないふりをしてる。まあ、きっとそれもバレてるだろうけど……。前の家政婦はそれが嫌で辞めたんだけどね。水戸さんはまだ居てくれるから」
それを聞いて、刃は己の軽い発言を申し訳なく思った。雷もまた、笑みを消した。
代わりに、華音が屈託ない笑みを浮かべ「食べ終わったら、勉強再開だよ」と言って、オムライスを頬張った。
雷は上等だと言わんばかりにニッと笑い、刃は苦い物がオムライスに紛れていたかの様に眉間にはっきりと皺を寄せた。
夕食を終えてから1時間程みっちり勉強をした後、雷は満足した様子で帰っていった。
刃は、部屋にまだ居座るもう1人の親友を横目に見た。
「かがみんは帰んなくていーの?」
華音はテーブルに出しっぱなしにしていた教科書類を鞄に収めながら、静かに首肯した。
「ちょっと帰りづらいと言うか……。泊めてくれると助かる」
「だよなー。まあ、いいけどさ。でも、心配するだろうから水戸ちゃんにでも連絡しておけよ」
「水戸ちゃん? うん。そのつもり」
テレビを見始めた刃の横で、華音はスマートフォンの液晶画面をタップして点灯させた。
すると、SNSに水戸からのメッセージが届いていた。唯、それが届けられた時刻は数時間前……丁度校門を出たぐらいだった。内容は、母が帰宅するとの事で、これをその時にきちんと確認していれば、きっと今の状況にはならなかっただろうと華音は深く悔いた。
けれど、過ぎてしまった事はたとえ魔法使いの力を借りたとしてもどうにもならない。それこそ、魔女達の野望である歴史改竄を行う他ないだろうが、そんな事は以ての外。胸に空虚感が広がっていくも、それを受け入れる程、容量に余裕はない。
華音は自分で選択した道を見据え、友達の家に一泊する旨を打ち込んだメッセージを水戸へ送った。
「シャワー借りていいか?」
スマートフォンをテーブルに置いて立ち上がった華音は、訊いておきながら既にそのつもりでネクタイを緩めていた。
丁度テレビ番組がコマーシャルに切り替わったタイミングだったので、刃の反応は早かった。
「いいぜ。何なら、俺が背中流そうか?」
「そ、それは間に合ってます……」
「何だよ、それ。つれねーな」
「そんな事より、着替えも借りたいんだけど。さすがに、ずっと制服着てるのも嫌だし」
「着替え? なら、とっておきのがあるんだ」
本日2度目の“とっておき”
刃は嬉々として、押入れの方へ歩いて行った。そうして、取り出して来たのは一着の服。それを見て華音は絶句した。
「オレ、着替え頼んだよな?」
「ああ。これを着るといいぜ」
刃が悪戯な笑みで押し付けるそれは、青いラインの入った丈の短い白のワンピースだった。装飾に宝石やリボンやフリルがふんだんに使われ、アニメの美少女が着ていそうなデザインだ。案の定、刃はファンだというアニメのキャラクターのコスチュームだと言った。
「数量限定って事でつい買っちゃったんだけど、俺が着るワケにもいかねーし。どうせなら、彼女に着てもらおうと思って取っておいたんだ!」
「相手がコスプレ好きだったら喜ぶかもしれないけど……。と言うか、何でそれをオレに?」
「似合いそうだから? かがみん細いから着れるよ! 丈はかなり際どい事になるだろうけどなっ」
「嬉しくない……。でも……」
何処か馴染みがあった。
色合いといい、何だかオズワルドの衣装と似ていた。きっと、女性版になったらこうなるのだろう。
しかしながら、オズワルドの衣装も自分が着るのは認めていない華音は、当然この衣装も全力で拒否した。
華音をからかえて満足した刃は、今度はちゃんとした男物の服を用意した。
周辺の建物の明かりが殆ど消え、闇に散りばめられた星達が寂しそうにちらつく時刻。テレビやゲームを散々楽しんだ刃と、それに付き合った華音にも睡魔が押し寄せて来た。
刃が、部屋の明かりを常夜灯へ切り替えた。
華音は飲みかけの麦茶を飲み干すと、当然の様にベッドへ向かった。
「これ……邪魔だな」
そう言って、等身大クッションを床に放った。途端、刃の悲鳴混じりの声が響いた。
「かがみん、何してくれんの!? この娘、ことりちゃん! 俺の嫁!」
「え……」
困惑した顔で、華音は刃が拾い上げたクッションを再確認した。
アッシュグレーの髪を左右2つに結った、セーラー服の可愛い女の子のアニメキャラクターだ。少し服がはだけ、頬をほんのり赤く染めている。
「彼女欲しがってるのに、それを嫁と言ってしまっていいのか……?」
「それとこれとは別! もう、分かってないなぁ」
「とにかく、寝るのに邪魔だから」
「邪魔って! 大体、そのベッドは俺が今から使うの! かがみんは絨毯の上で寝てよ」
「客に絨毯勧めるなよ」
華音はベッドに転がる。
「招かれざる客だかんな!? って、言ってる傍から寝るなぁ」
刃はクッションを置き、定員オーバーのベッドへ乱入した。
ベッドは2人分の重さで、ギシギシと頼りない音を立てた。
互いの肩がぶつかって狭い。
刃は眉を吊り上げ、華音の頬を抓った。
「ほら! 狭いんだから、早く絨毯行きな」
「嫌だ」
華音は、刃の頬を抓り返した。
向き合う顔は変形し、ふざけている様にしか見えない。
2人は吹き出した。頬を離し、笑い合う。
そうして、空気が穏やかになると、刃は真っ直ぐな瞳で華音の何処か寂しげな瞳を捕らえた。
「……何か辛い事あったら言えよ? 俺じゃ頼りになんねーかもだけど、親友だからさ」
「な、何だよ。急に」
華音は一瞬たじろいだが、刃の瞳の綺麗さに平静を取り戻した。瞳は合わせられなかった。
「急にって言うか、ずっと心配はしてたんだけどさ」
「……前に、雷にも同じ様な事言われた。そうだな……今は言えないけど、いつか言える時が来たら話すよ。オレの事」
「そっか。気長に待ってるぜ」
刃はニッと頼もしい笑みを浮かべると、天井を向いた。
華音も天井を向き、そっと目を閉じた。
言葉の途切れた静寂が、睡魔を自由にさせ、2人の意識を攫っていく。
時計が時を刻む音だけが頻りに響く中、静かな寝息が聞こえ始め、入れ違いにゲージの中からガサゴソと小さな物音がし始めた。
華音が意識を手放したのは、ほんの少しの間だけだった。すぐに、息苦しさに目が覚めた。見ると、首に刃の腕が絡みついていた。耳元で、刃の愉快そうな寝言が聞こえた。
「ようやく捕まえたぜ……レアドラゴン! そのウロコから武器をつくる……」
華音はじたばた動き回り、その手から逃れようと試みる……も、がっちりホールドされていて逃げる事が叶わなかった。
このまま絞殺されてしまうのではないかと半ば本気で焦り始めた華音の耳に、騒がしいノックの音が流れ込んで来た。こちらの状況など、お構いなしだ。
咳き込みながら顔を横へ向けると、青みがかった烏が外から硝子扉を突っついているのが閉じたカーテンの隙間から見えた。と、同時に聞き慣れた男の声が聞こえた。
「カノン、魔物が現れた。イチャついてるとこ悪いが……」
遠慮がちに言っている風を装い、その声色は愉快だった。
華音は力ずくで刃の腕を振り解き、棚の上に置かれた鏡の前に立った。そこには、華音ではなく、華音と同じ顔の魔法使いオズワルドが映っていた。
怒りを湛えた華音の顔を見て、益々オズワルドの口角が上がった。
「若さ故の過ちって事か」
「何言ってんだ。危うく、オレは絞殺されるとこだったんだぞ」
「物騒だな。まあ、それはとにかくだ。早く手を重ねろ」
オズワルドが手の平を向け、華音はそこに手の平を重ねようとしたが、手を下ろして後ろをそっと一瞥した。
「刃が起きたらどうしよう……」
ガサッ。
「うわっ!?」
突如聞こえた物音に、華音の心臓が飛び跳ねた。鏡面の魔法使いは、変わらぬ笑みを浮かべていた。
華音が恐る恐る視線を向けた先に、物音の正体が身を潜めていた。
そこにあるのはゲージ、そしてその中でおがくずを掻き分けて活発に動く小さな動物が1匹……。薄い黄色の身体に、額から背中にかけてスッと入った1本線、ひまわりの種を器用に掴む小さな手足、ぴくりと動く小さな耳、細いヒゲと一緒にヒクヒク動く小さな鼻、暗闇の中で一層際立つ漆黒の大きな瞳……イエロージャンガリアンハムスターのイエスだった。
「不思議な動物だな」
「スペクルムには居ないのか?」
「ああ。唯のネズミなら居るが。それよりも、カノン。早くしろ」
「あ、うん」
2人が手を重ね合わせると、青白い光が生まれ、周囲を包み込んだ。
眩い幻想的な光の中、華音はオズワルドと対面する。自信たっぷりな笑みでオズワルドが華音の両肩を掴むと、その身体は華音に重なる様に消えていった。
瞬間、華音の身体が一層強い光を放った。
光が完全に消え、視界が現実へ戻って来た時には華音の姿は、今さっき鏡面に居た魔法使いを写し取ったかの様に、出ている耳以外は全て同じになっていた。
白い手袋をはめた手には、いつの間にか窓の外に居た筈の使い魔が杖となって収まっていた。
オズワルドの魂を取り込んで、その姿を手に入れた華音は夜の世界へ一歩踏み出す。と、1つの視線がまだじっと向けられていた事に気付き、踵を返した。
「イエス……見てたんだ」
華音は苦笑いを浮かべ、ゲージに近付いた。
イエスは後ろ足で器用に立ち、別次元の住人の姿となった少年を大きな瞳で見つめていた。その黒々とした瞳に、何でも見通されている様な気がした。
「これあげるから。刃には内緒だ」
華音は近くに置いてあった小動物用のクッキーを1枚袋から取り出し、ゲージの隙間からイエスに手渡した。
イエスはクッキーを口に咥えると、満足した様に寝床へ戻っていった。
華音は息を吐き、改めて硝子扉に手を掛けた。そっとスライドさせ、夜の世界へと飛び出していった。
寝返りを打った拍子に、刃は誰も居なくなった空間に片手を叩きつけてうっすら意識を取り戻した。
「ん……あれ? 華音? んー……まあ、いっか…………」
すぐに睡魔が勝利し、刃は覚醒する事なく、深い深い夢の湖に落ちていった。
視界が狭くなり、白い用紙上の手書きの文字が浮き出て泳ぎだす。
頭部が重みでガクンと机上に向かって下がり、それを手に持ったシャーペンのお尻が受け止めた事でパッと意識が戻ってきた。
え? オレ、まさか寝そうになった?
華音は微かに痛む額を摩りながら、教卓を見た。
そこから、行儀よく席に着く生徒達を厳しい目で絶えず監視していた寒川先生は幸いにも、その目を腕時計に向けていた。
華音は胸を撫で下ろし、教師に倣って黒板の上の壁掛け時計に視線を移した。
テスト終了まで、残り10分以上。人によっては“もう”かもしれないが、華音にとっては“まだ”だった。華音の机上の解答用紙は、全てきっちり文字で埋め尽くされていた。見直しは1回したから、もう十分だ。
テスト期間中だろうが、深夜だろうが、一切関係なく魔物は街を徘徊して罪もない人々を襲った。その度に、華音や桜花がスペクルムの魔法使いの力を借りて魔物を退治した。
華音の現在の疲労はその為で、桜花も同じかと思われたが、彼女の場合はテストと言う名の魔物を相手にし続けた事による疲労だった。今も頭を抱え、なかなか埋まらない解答用紙と睨めっこをしている。
華音は筆記用具を解答用紙の横に綺麗に並べ、両手を膝の上に置いて姿勢を正した。
寒川先生が教室全体に鋭い視線を走らせ、教室の彼方此方で、迫る時刻に焦燥感が湧き上がる。そんな切羽詰った空気を裂くように、チャイムが鳴り響いた。
ホームルームと清掃が終わり、放課後になると、教室内から緊張が炭酸の様にしゅわしゅわ抜けていった。ざわつき、皆、それぞれ友人達と今日のテストの話などで盛り上がった。
華音は近くで盛り上がるクラスメイトの輪に入らず、静かに帰り支度を整えていた。胸に広がるは、周りと同じ安堵。
テストはこれで最後。午後は授業がないので、漸くこの退屈な時間から解放される。
今から何をしようか……と暢気に考えている矢先、平穏をぶち壊す羽音が窓の外から聞こえた。
ゴルゴだ。と言う事は魔物……か。
華音は憂鬱な気持ちで、鞄を肩に掛けて席を立った。急ぎ足で教室を出る。途中、雷と刃に呼び止められたが、応える余裕はなかった。
校内を彼方此方逃げ回っていた魔物を、漸く屋上へ追い込む事に成功した。
狐を象った黒い影のそれは、赤い双眸をぎらつかせ鋭い牙を見せて魔法使いを威嚇。だが、華音は怯む事なく、堂々とした足取りで魔物との間合いを詰めていく。その間、マナを集めた。
『カノン、仕留めろ!』
脳内でオズワルドが叫び、華音は小さく頷いて杖を構えた。
ところが、魔術が繰り出される間際に魔物は背後の柵を飛び越え、空中に身を投げた。
「待て!」
すぐさま、その後を華音が追う。
同じ様に空中に身を投げ、その体勢から器用に魔術を発動させた。
「ヘイルテンペスト!」
無数の氷の粒が嵐の様に吹き荒れ、魔物を飲み込む。
氷の粒に身を裂かれた魔物は1人分の生命力を吐き出し、消えていった。
氷の嵐と魔物が視界から消えると、眼前に中庭の噴水が迫って来ていた。
華音は特に動揺せず、着地の体勢を取る。その時だ。
『悪いが、カノン。もう時間だ。私は還る』
「えっ」
脳内でオズワルドの声がし、華音は動揺した。
憑依が解け、髪色、瞳の色、服は元に戻ったのだが、華音の身体はまだ空中にあった。せっかく着地の体勢に入っていたのに、ほんの少しの動揺でそれも失敗に終わり、重力におとなしく従って噴水に落下した。
バシャンと水飛沫が上がり、閉まっていた中庭側の窓が転々と開いた。
「何だ!?」
「今、誰か噴水に落ちなかったか?」
まだ残っていた数人の生徒や教師のどよめきだ。
華音は噴水から身を起こし、慌てて走り去った。落ちた高さがそれほどでもなかった事が幸いし、少し足が痛む程度で済んだ。
咄嗟に逃げ込んだのは、1階の角にある多目的教室だ。午前中、他の学年が使用していた様でまだ戸締りがされていなかった。
華音は扉を後ろ手に閉めて、息を吐く。上下する肩には、ゴルゴが乗っていた。
「オズワルドの奴、あのタイミングで言わなくたっていいのに。全身びしょ濡れだ……」
髪からも、制服からも、水が絶え間なく滴っている。
華音は扉横に手を伸ばし、エアコンのスイッチを押した。この時季は既に冷房に設定されているが、態と暖房に設定変更した。
室内が暖まれば、少しは早く乾く。
青空を背景に、金色の太陽は一段と張り切っていて洗濯物もよく乾くものの、その下を堂々と歩ける程、華音は強靭な心を持ち合わせてはいなかった。
会う人に好奇な視線を浴びせられ、顔見知りには「どうしたの?」と容赦なく疑問を突きつけられるだろう。それは、華音としては苦行だった。
エアコンが効き始めるまでの間、さすがに服が肌に貼り付く不快感に耐え切れなかった華音は、ネクタイを外してカッターシャツを脱いだ。
カッターシャツを絞れば、足元に小ぶりの水溜りが出来た。
ゴルゴは、教卓の上でくつろいでいる。
華音も、手頃な席にネクタイとカッターシャツを置いて着こうとした……
ガラッ。
後ろの扉が開き、華音とゴルゴは静止した。
教師が戸締りに来たのかと身構えた。だが、聞こえて来たのは大人の声ではなく、アニメのキャラクターの様な可愛い声だった。
「華音?」
桜花が深刻な顔をし、そっと中へ入って来た。
その姿に、一層華音は血の気を失った。まだ、教師が来た方がマシだったかもしれない。
「桜花……。何でここに。帰ってなかったんだ」
「うん。忘れ物して戻って来たら、華音らしき人が此処に入っていくところを見たから……」
桜花が近付いて来て、華音は咄嗟にカッターシャツを引き寄せて僅かに横を向いた。上半身だけとは言え、こんなところで異性に素肌を見られたくなかった。
そこで漸く、桜花は華音が全身びしょ濡れである事に気が付いた。益々、桜花の表情に深刻さが増した。
「え? ずぶ濡れじゃない。一体何があったの? 大丈夫?」
「これじゃあ、まるでこの前の桜花みたいだね。まあ、オレの場合は魔術をくらった訳じゃなくて、中庭の噴水に落ちたんだけど」
華音は照れ笑いしながら、頬を掻いた。
その様子にホッとした桜花は、鞄から猫柄のタオルハンカチを取り出した。
「今これしかないけど、よかったら使って?」
「あ、うん。ありがとう」
華音は遠慮がちにそれを受け取り、水の滴る毛先にフワッと当てた。
ふと、桜花の視界に痛々しいものが映った。手を伸ばし、華奢な指先で華音の背中に触れた。
「……酷い火傷ね」
ピタリと華音の動きが止まった。
「もう治ってるみたいだけど、痛そう。一体何があっ」
「やめろ!」
その手を、華音はパッと叩いた。
行き場のなくなった手をぶら下げ、桜花が大きな栗色の瞳を何度も瞬かせた。
それまで顔面蒼白だった華音は、悔しそうに、或いは悲しそうに奥歯を噛み締め、カッターシャツをギュッと抱えた。
部屋は暖房で暖まってきたのに、2人の間に流れる空気は冷房がかかっているかの様に冷えていた。
桜花は触れてはいけないモノに触れてしまった自分の不注意さを恥じ、暫くの間、俯いて口を引き結んでいた。
華音はそこに存在する事実を隠す様に、まだ湿っているカッターシャツに袖を通した。身体よりも心がじめっとして不快だった。
1つ1つ丁寧にボタンを掛け、桜花を一瞥して口を開く。
「ごめん……桜花。最近桜花に当たってばかりだ」
そこには桜花に対する怒りは一欠片もなく、唯言葉通りの感情が表情となって表れていた。
桜花は顔を上げ、首を横へ振った。赤茶色のウェーブした長髪がそれに合わせ、サラサラと揺れた。
「謝るのはわたしの方。勝手に踏み込んでしまってごめんなさい。けれど、華音」
桜花はじっと華音を見た。それはまるで、あの夜のハムスターと同じ……何でも見通しているかの様な目だった。
華音はたじろぎ、視線を逸らした。
「他人には、絶対に踏み込んではいけない領域がある事は分かってる。わたしにだってある。それでも、ここ最近のキミを見ていると踏み込まずにはいられないのも事実なのよ。正直、心配になるの。ねえ、キミは熱湯と薬缶が恐いって話してくれたわよね。それは、今のそれと関係あるんじゃないかしら? ……言いたくないなら、言わなくてもいいから」
桜花の瞳は、まだ正直に華音に向けられていた。
華音は観念した様に視線を桜花へ向け、息を吐いた。震えだした手首を握って押さえる。
「雷と刃にも隠してたのに、まさか桜花に見られるなんて……。そうだよ。その通りだ。この火傷痕は、薬缶に入った熱湯をかけられて出来たものなんだ……」
「かけられた……?」
「…………母さんに」
酷く沈み、消え入りそうな声だったが、2人しか居ない室内ではちゃんと桜花の耳に届いた。
桜花は一瞬、耳に届いた言葉の意味がきちんと理解出来なかった。知っている筈の言葉なのに、未知の言葉に思えた。実際、意味などなく、言葉通りだった。
脳内で巡り巡った言葉は再び戻って来て、桜花の口から零れ落ちた。
「お母さんに…………。そんな……それって」
「虐待」
華音は淡々と言った。反面、表情は怯えていた。
「嘘……。だって、だって華音のお母さんって大きな会社の社長さんだよね?」
「うん。鏡崎家具の現社長。世間が知っているあの人は、気高く、仕事が出来る社員想いの、誰もが尊敬する女性。オレも社長としての母さんは尊敬しているんだ。けど、やっぱりオレにとっては1人の母親。オレの前ではちゃんと母親なんだよ。だから、オレは……オレだけは世間の知らない鏡崎社長を知っている。世間がそんな事ある筈ないって思っても、それは世間での話。家では全く違うって事もあるんだよ……」
「そう……かもしれないけど……。でも、会社が上手くいってるって事は幸せって事じゃないの?」
「今は、ね。今から8年ぐらい前、鏡崎家具の経営が一時傾いた事は知ってる?」
「んと……何となく……」
「……オレのこの火傷も、その時に負ったものなんだ」
華音が苦笑いを浮かべ、再び毛先から滴って来た雫をハンカチで拭った。
桜花はそれを目でぼんやり追いながら、出揃った真実に胸を痛めた。掛ける言葉が見当たらなかった。
華音は瞳を閉じた。
瞼の裏に身を潜めるのは、湯気の立つ薬缶を手にした母親の影。8年経っても変わらず、ふとした瞬間に現れては華音の前に立ち塞がる。その度に、華音の両手足は恐怖の鎖に雁字搦めにされ、身動き1つ取れなくなってしまう。
幻影が消えないうちに、華音は震える唇を開いた。
「幸せな日々が終わったのは、父さんが亡くなってすぐの事だった――――」